長澤さんの家は、十階建てマンションの五階の角部屋だった。

「とりあえず座って」

 リビングに案内されるなりそう言われ、俺は必死で頭を働かせた。

 これは、どこに座るべきなんだ?

 なにを求められているんだ?

 ここで選択肢を間違えれば、一巻の終わりである。

 ……え? ソファに座ればいいだけだって?

 普通ならそう思うだろう。

 でも、この女の前では常識も礼儀作法も通用しない。

 だって、俺の身体で実験しようとしてるんだよ? さっきは冷静じゃなかったからその言葉の異常さをスルーしてしまったが、被検体と一緒に気持ちよくなろうっていう発想は完全なるマッドサイエンティストだ。もしくはドSの女王様。人の弱みを握ったのをいいことに、俺を調教しようとしているのかもしれない。

 そんな女の前でソファにでも座ろうものなら、どうなるかわかるよね?

「ただのマウスがソファに座っていいと思ってるの?」

 と顰蹙を買って実験がひどくなるか、

「そんなところに座るなんていい御身分だこと、調教しがいがあるわぁ」

 とドS心に拍車をかけて調教がひどくなるか、のどちらかだ。

 うん、絶対にソファにだけは座ってはいけない。

 ただ、だとするとどうするのが正解か……。

「はい。了解いたしました」

 数秒の間にいろいろと考えた挙句、俺は敷かれてある絨毯の上ではなく、あえてフローリングの床の上に正座した。背筋を限界までまっすぐに伸ばした、茶道の家元も息を呑むほどの美しい正座である。

 謙虚すぎる姿を見せることで、少しでも温情を引き出そうと考えたのだが……。

「…………え?」

 そんな俺を見て、無情にも首を傾げる長澤さん。

「なんで、そんなところに座ってるの?」

 赤ちゃんが見せるような純粋なきょとん顔が逆に怖いです。

 そんなところって、床の上に正座する程度じゃダメだったんだ。

 もしかして、裸になって無抵抗を示した上で正座しなきゃいけなかった?

 それとも、実験しやすいように机の上であおむけにならなきゃいけなかった?

 絶対そうだ!

 座る、をそのままの意味で受け取ってはいけなかったんだ!

「それに言葉遣いも変だし」

 え、言葉遣いも変……しまった! 了解じゃなくて承知が正しい敬語だった! 焦りすぎて凡ミスを犯してしまった!

「な、なにとぞ、なにとぞお許しを……」

 血の気の引いた真っ青な額を床にこすりつけて、地下帝国で働くクズギャンブラー顔負けの土下座を披露すると。

「いや、だからなんで?」

 まただ! 土下座程度じゃ許して……あっ! 服を脱ぎ忘れたからだ! 全裸土下座必須だった!

「普通にソファに座って待っててよ」

 ……あ、あれぇ?

 そ、それで、本当にいいの?

「いいのですか女王様。マウスにそのような人権を与えてくださるのですか」

「女王様? マウス? なに言ってるの?」

「いや、だってさっき実験するって、一緒に気持ちよくなるってことはドSの女王様で俺を調教したいのかなって」

「なにそれ、私をなんだと思ってるの?」

「ドS女王様かマッドサイエンティスト」

「なにその究極の二択。超クソゲーの中で職業選択してるんじゃないんだから」

 白い歯を見せて笑う長澤さん。

 いや、あなたが誤解させるようなこと言うからでしょ。

「ってか神谷くんひどすぎない? 私は普通の女の子なんだけ………」

 長澤さんの言葉が止まり、表情が少し曇った。

 誤魔化すような咳払いもしていて――やっぱり女王様かマッドサイエンティストなんだ!

 ここは超クソゲーよりクソな世界なんだ!

「とにかくソファに座って待ってて。麦茶でいい?」

「……はい」

 とりあえずうなずいたが、警戒を怠ってはいけない。

 ソファに可能な限り浅く腰かけて謙虚さを示すと、「神谷くんって意外とおもしろっ」とまた笑われた。

「ま……ドS程度で済むなら、その方が全然ましだけどね」

 はい二回目の呟き来ましたー。これもう確定じゃん。どっかの国のルーレットじゃん。しかも、ドSより上ってことは……ああ、もう終わった。言葉にするのも憚られるようなことをされるんだ。ここから生きて帰れないんだ!

「はい。どうぞ」

 命がいくつあっても足りないよ、と自らの運命を嘆いていると、ローテーブルに麦茶の入ったグラスが置かれる――本当にただの麦茶か?

「ありがとう」

「どういたしまして」

 ぎこちない笑みを浮かべている長澤さんが隣に座る。彼女はゆったりと視線をさまよわせてから、部屋の隅にある観葉植物を眺めはじめた。

 いや、飲めるわけないでしょ!

 毒が入ってるかもしれないんだから!

 でも、なにかを飲んで誤魔化したいくらいの、重苦しい沈黙状態でもあるんだよ今は!

「そ、そういえば、ご両親は?」

 なんとか言葉を絞り出す。

 これ以上無言でいたら、無意識のうちにただの麦茶(仮)に手が伸びてしまいそうだ。ってかなんかアーモンド臭が漂ってない? 気のせい?

「ああ、お母さん、今日は仕事で遅くなるの。五月はいつも忙しいんだよね」

「お父さんも遅いの?」

「私のせいで離婚してるんだ」

「ごめんなさい! 謝罪の意味も込めて麦茶飲みます!」

 最短距離で地雷を踏んでしまった詫びとして、麦茶(仮)を一気に飲み干す。彼女から強制される前に自ら罰を受け入れることで、それ以上の拷問は防いだ形だ。

 そんな俺を見て、長澤さんはまた笑った。

「いや、麦茶を飲んで謝罪って、意味わかんないから」

「だってこれ、毒かなにかが入ってる麦茶で」

「そんなわけないでしょ。旦那嫌いの妻じゃないんだから。普通の麦茶だよ」

 そう言われればたしかに……なんともない。むしろおいしい。緊張と恐怖でゴビ砂漠になっていた喉が歓喜している。

「ってか別に気にする必要ないよ。離婚なんて今どき普通だし」

 そうやってフォローしてくれたが、無関心を突き詰めたような声だったため、かえって申しわけなくなった。長澤さんの視線が、テレビ台に置かれた写真立てに向かう。そこには小学校低学年くらいの長澤さんと、長澤さんのお母さんだけが写っている写真が飾られていた。

「ほんとにさ、普通って眩しすぎだよ」

 おもむろに立ち上がった長澤さんが、開きっぱなしだったカーテンを閉めに向かう。シャッと小気味よい音が鳴り、リビングが一気に薄暗くなる。

 密室感と圧迫感がぐっと増した。

「じゃあさっそく、はじめよっか」

「え? 人体実験を?」

「……それ以上言うならほんとにメスとか持ってくるよ」

「ってことは持ってはいるんですね」

「言葉のあやだって。持ってるわけないじゃん」

「でも、じゃあいったいなにを」

「さっき言ったじゃん。気持ちいいことを教え合おうって」

「だから、具体的になにを」

「私、こういうのはじめてだから緊張してるんだよね」

 長澤さんはブレザーを脱いでその辺に放り投げる。ほどいた赤いリボンも床に放り、第一ボタンを外そうとしたところで。

「あ、こういうときって脱がされる感じかな?」

 ようやく俺は、長澤さんがやろうとしていることを察した。

 実験って、そういうことか。

 女の子が服を脱いでいるのに、身体はどこもかしこも冷たいままだ。

「……そんなの」

 ああ、自虐を言わないとやってられない。

 メスで身体を切り刻まれた方がましじゃないか。

「普通じゃない俺に聞かれても」

「神谷くんが決めてよ。どうせ好きにされる予定だったし、女の子の身体を好きにしてみたら普通に興奮できるかもよ」

 長澤さんが目を閉じる。すべてを受け入れます的な言葉とは裏腹に、第一ボタンをつまんでいる指は小刻みに震えている。

「好きにって言われても」

 怯えている女を襲うような趣味はないんだよなぁ……なんて、長澤さんとできないそれっぽい理由を考えてみる。

 ま、そもそも俺はどうやったって女を襲えないんだけど。

「長澤さんってさ、本当に望んでるの?」

「……え?」

「だって、明らかに怖がってるじゃん」

 まるで長澤さんだけが拒絶しているみたいな、俺が長澤さんに気を遣ったみたいな言い方をした。

 この状況で、俺はまだ隠したいと思っている。

 俺の醜さが見つかってほしくないと願っている。

「さっきから長澤さん、言動が矛盾してるよ」

「そんなわけっ!」

 長澤さんが目を見開いた拍子に涙がこぼれ落ちた。

 詰め寄られ、ソファに押し倒される。

 涙が顔の上に落ちてきた。

「あるわけない! だって私は普通にならなきゃいけないからっ!」

「やっぱり」

 俺は長澤さんに関するひとつの仮説を組み立てていた。

 女に組み敷かれているのに冷静な分析をつづけられる自分は、やっぱり根っからの不良品だ。

「長澤さんも俺と同じ、特殊性癖の持ち主なんだね?」

 ストレートに指摘すると、長澤さんは目じりにしわを寄せた表情のまま固まった。

「え、あ……」

 床に転がり落ちた長澤さんは「あ、あ」と頭をかきむしりながら、足だけを使って後退していく。膝を立てているからスカートの中のピンクが丸見えだ。壁に背中が当たると、すべてを諦めたかのようにうなだれた。

「どうして、わかったの」

「そりゃわかるだろ。ここまでされて気づかない方がおかしい」

「隠し通さなきゃ、誰にもバレちゃダメだったのに」

 抵抗をやめ、強姦されることを受け入れたような表情を浮かべる長澤さんの前まで歩を進める。

 スカートの中のピンク色は、どこからどう見てもただの布にしか見えない。

「俺がバラさないんだからバレてないのと同じだよ。俺だって、長澤さんと同じで普通じゃない側なんだから」

「え……本当に?」

 長澤さんの目が見開かれ、顔に肌色が戻っていく。

「もちろん。だから安心して」

 普通の人間を演じるために手に入れた、誰にも不快感を与えない微笑みを顔に貼りつけてから手を伸ばすと。

「ありがとう。神谷くん」

 長澤さんは涙を拭ってから俺の手を取った。

「その笑顔ができるようになるまでのつらさを、私も知ってるよ」

「やっぱり見抜かれるか」

 長澤さんも神さまの失敗作なんだと確信できたから、俺は彼女の身体を勢い良く引っ張り上げた。