電気もつけずにリビングのソファに座って、私は神谷くんとのメッセージのやり取りを眺めていた。
スマホ画面の発光が目に突き刺さる。
眩しいというより痛い。
暗闇の中、私の手の中だけが場違いに輝いていた。
「変わらなきゃ」
スマホの電源をオフにすると、部屋の中は真っ暗になった。眼球が感じていた痛みが下へ下へと落ちていき、ちょうど子宮のあたりにたまっていく。多くの女子にとって大切な子宮は、私にとってはただの石ころだ。
「変わらなきゃ」
そのとき、リビングの扉が開いて電気がついた。
お母さんが帰ってきたのだ。
「どうしたの。電気もつけずに」
「眠かったから、それで」
適当な理由を作って返事をする。
眠かったから真っ暗にしていた。
安直すぎる。
世の中もこれくらい安直だったらどれだけ生きやすいだろう。
「眠かったって」
ため息交じりの声が本当にウザい。仕事帰りに買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込んでいるのが、見なくてもわかった。
「最近ずっと調子悪そうよね。どうしたの?」
「調子? そんなことないけど」
「嘘はやめなさい。ずっと顔色悪かったでしょう」
それに、と言ってからお母さんが冷蔵庫の扉をばたんと閉める。
「この前ずる休みしてたでしょう。学校」
「え」
思わずスマホを落としそうになった。
「お母さん、全部知ってるのよ。なにかあったんでしょう」
心配そうな表情を浮かべているお母さんが歩み寄ってくるが、私には絶望が迫っているように見えた。
「あなたは理由がないとそんなことしないもの。ずる休みなんかする子じゃないもの」
そう決めつけられた瞬間、身体の中でなにかがぷつんと音を立てて切れた。
「お母さんは」
自慢げな態度にムカついた。
押しつけがましい優しさが苦しかった。
私のことなんてすべてお見通しですっていう傲慢さが許せなかった。
「お母さんは、私のことわかってくれないじゃん」
心が決壊する。
スマホをソファにたたきつけ、お母さんを睨みつけた。
「本当は私の心配なんかしてないんだ!」
「そんなわけないじゃない。あなたが悲しんでいるのが一番つらいのよ」
「嘘だ!」
「お母さんがなんでも受け止めてあげるから、悩みがあるんでしょ? 悩みは人に話すだけでも楽になるのよ。言語化すると悩みの本質が見えてくるのよ」
ちょっと心理学をかじった人なら、いやかじらなくたって知っていることを自慢げに言ってくるお母さん。
私がそんなこと知らないと思ったのかよ。
性癖を矯正しようと奮闘していた私が、人間の心理を調べまくってないわけないだろうが!
「姫子。お母さんのことを信じて」
私の方が泣きたいのに、お母さんの方が先に涙を流しやがった。動けなくなっている私を抱きしめてくるけど、受け入れるとはそういうことではない。
「お母さんにも姫子の悩みを背負わせて。一緒に立ち向かいましょう」
「本当に、受け入れてくれるんだよね」
蚊の鳴くような声で告げた。
なんだろう、この気持ちは。
この人を信じているわけではないのは明らかだ。
私の身体から離脱したもう一人の私が、私を抱きしめているお母さんを空中から眺めている。
「本当の本当に、一緒に立ち向かってくれるんだよね」
「もちろんよ。私は姫子のお母さんなんだから」
お母さんが頭をなでてくる。娘が悩みを打ち明けてくれることを嬉しく思っているのだろうか。一種の興奮状態なのだろうか。
は? うぬぼれんなよ。
私はあんたじゃなくて、「お母さんに話してみ」って言った神谷くんのことを、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ信じてみようかなって思っただけだし。安らげるはずの家の中で、アホな母親の理想につき合わなければいけない現実に、ほとほと嫌気が差しただけだし。
つまりは……やけくそ?
それにものすごく近いけど、なんか違う気がする。
すべてがどうでもよくなったのかもしれない。
醜さが声として喉を通過していくのを、私の理性はもう止められない。
「私もね、お父さんと同じだよ」
淡々と言い終えると、お母さんの身体が硬直する。本来柔らかい部分である胸もお腹も、コンクリートの壁に変わってしまったかのように硬くなる。
ほらね、受け止めなかったじゃん。
そんなことを思いながらも、私は最後まで言い切る。
「魚が好きなの」
「どうしてあんたも!」
髪の毛を力任せに掴まれる。
さっきまでの理想的な母親はどこへやら。
受け止めるって自分が言ったくせに、全然約束を守ってくれない。
「ほら、やっぱり受け止めないじゃん」
「当たり前でしょう! おかしいことなんだから!」
正気になりなさい! と力いっぱいビンタされる。
顔をどんどん真っ赤にしていくお母さんを見ていると、心の底から笑えてきた。
「手のひら返し早すぎ。お母さん、さっきの言葉覚えてる?」
煽ろうという自覚はなかったのに、ついつい人差し指で自分の頭を指さしながら言ってしまった。
「なにその態度は。どうしてそうなるのよ!」
髪の毛を握る力が強くなる。ヒステリック状態のお母さんに玄関まで引っ張られて、家の外に放り出された。
「私は認めない。あなたは姫子じゃない。偽物はここから出ていって」
「偽物、認めないって、そういう風に産んだお母さんが悪いんでしょ」
私は尻餅をついたまま口元だけで嗤う。
「私が悪い? ありえない。父親の異常な遺伝子が……そうよ、あいつの影響なのね」
「お父さんは悪くないじゃん! あんたが全部悪いんだ! お父さんはっ、お父さんは信じたかったんだよ!」
「人より魚が好きなんて、そんなの人間じゃないの!」
「お父さんは優しい人だったよ」
「狂ってるのがどうしてわからないの!」
「狂っててなにが悪いんだよ!」
「黙りなさい!」
お母さんに睨まれたので睨み返す。
それからどれくらい経っただろうか。
不意に、お母さんの瞳に不気味な輝きが宿った。
「ああ、そういうことね」
「そういうことって?」
「あなた、彼氏がいるじゃない」
また手首を掴まれ、家の中に連れ戻される。
「魚が好きなんて言ってお母さんをからかってるのね、試してるのね」
理解の外に旅立ってしまったお母さんは、私を私の部屋に押し込んだ。
「早く気づくべきだったわ。彼氏がいるのに魚が好きなんて、そんなわけないものね」
「だから神谷くんは」
「彼氏を早くここに呼びなさい!」
「なんで」
「いいから呼びなさい! 私をからかった罰よ。魚が好きなんて二度と言わないで!」
お母さんが扉を勢いよく閉める。
「彼氏が来るまで出してやらないから。反省しなさい」
「反省、って」
いったいなにに対して反省すればいいんだよ。
ここまで狂ってしまうほど、お母さんにとってあのことはトラウマだったのか。
――本当の本当に、一緒に立ち向かってくれるんだよね。
――もちろんよ。私は姫子のお母さんなんだから。
ぽつりぽつりと涙があふれてくる。
「なんだよ。全然違うじゃん」
お母さんの言ってることも。
私の思ってることも。
「受け入れるって、言ったくせに」
本当は私、お母さんに受け入れてほしかったんだ。
「都合よく記憶捻じ曲げんなよ」
お母さんのことを信じてみたいって思っていたんだ。
「ちょっと、彼氏は呼んだの?」
「今メッセージ送った!」
怒鳴るように言ってから、神谷くんに『今からすぐ家に来て』と送る。
滲む視界を受け入れたくはないけど、涙を拭う気力はない。
スマホ画面の発光が目に突き刺さる。
眩しいというより痛い。
暗闇の中、私の手の中だけが場違いに輝いていた。
「変わらなきゃ」
スマホの電源をオフにすると、部屋の中は真っ暗になった。眼球が感じていた痛みが下へ下へと落ちていき、ちょうど子宮のあたりにたまっていく。多くの女子にとって大切な子宮は、私にとってはただの石ころだ。
「変わらなきゃ」
そのとき、リビングの扉が開いて電気がついた。
お母さんが帰ってきたのだ。
「どうしたの。電気もつけずに」
「眠かったから、それで」
適当な理由を作って返事をする。
眠かったから真っ暗にしていた。
安直すぎる。
世の中もこれくらい安直だったらどれだけ生きやすいだろう。
「眠かったって」
ため息交じりの声が本当にウザい。仕事帰りに買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込んでいるのが、見なくてもわかった。
「最近ずっと調子悪そうよね。どうしたの?」
「調子? そんなことないけど」
「嘘はやめなさい。ずっと顔色悪かったでしょう」
それに、と言ってからお母さんが冷蔵庫の扉をばたんと閉める。
「この前ずる休みしてたでしょう。学校」
「え」
思わずスマホを落としそうになった。
「お母さん、全部知ってるのよ。なにかあったんでしょう」
心配そうな表情を浮かべているお母さんが歩み寄ってくるが、私には絶望が迫っているように見えた。
「あなたは理由がないとそんなことしないもの。ずる休みなんかする子じゃないもの」
そう決めつけられた瞬間、身体の中でなにかがぷつんと音を立てて切れた。
「お母さんは」
自慢げな態度にムカついた。
押しつけがましい優しさが苦しかった。
私のことなんてすべてお見通しですっていう傲慢さが許せなかった。
「お母さんは、私のことわかってくれないじゃん」
心が決壊する。
スマホをソファにたたきつけ、お母さんを睨みつけた。
「本当は私の心配なんかしてないんだ!」
「そんなわけないじゃない。あなたが悲しんでいるのが一番つらいのよ」
「嘘だ!」
「お母さんがなんでも受け止めてあげるから、悩みがあるんでしょ? 悩みは人に話すだけでも楽になるのよ。言語化すると悩みの本質が見えてくるのよ」
ちょっと心理学をかじった人なら、いやかじらなくたって知っていることを自慢げに言ってくるお母さん。
私がそんなこと知らないと思ったのかよ。
性癖を矯正しようと奮闘していた私が、人間の心理を調べまくってないわけないだろうが!
「姫子。お母さんのことを信じて」
私の方が泣きたいのに、お母さんの方が先に涙を流しやがった。動けなくなっている私を抱きしめてくるけど、受け入れるとはそういうことではない。
「お母さんにも姫子の悩みを背負わせて。一緒に立ち向かいましょう」
「本当に、受け入れてくれるんだよね」
蚊の鳴くような声で告げた。
なんだろう、この気持ちは。
この人を信じているわけではないのは明らかだ。
私の身体から離脱したもう一人の私が、私を抱きしめているお母さんを空中から眺めている。
「本当の本当に、一緒に立ち向かってくれるんだよね」
「もちろんよ。私は姫子のお母さんなんだから」
お母さんが頭をなでてくる。娘が悩みを打ち明けてくれることを嬉しく思っているのだろうか。一種の興奮状態なのだろうか。
は? うぬぼれんなよ。
私はあんたじゃなくて、「お母さんに話してみ」って言った神谷くんのことを、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ信じてみようかなって思っただけだし。安らげるはずの家の中で、アホな母親の理想につき合わなければいけない現実に、ほとほと嫌気が差しただけだし。
つまりは……やけくそ?
それにものすごく近いけど、なんか違う気がする。
すべてがどうでもよくなったのかもしれない。
醜さが声として喉を通過していくのを、私の理性はもう止められない。
「私もね、お父さんと同じだよ」
淡々と言い終えると、お母さんの身体が硬直する。本来柔らかい部分である胸もお腹も、コンクリートの壁に変わってしまったかのように硬くなる。
ほらね、受け止めなかったじゃん。
そんなことを思いながらも、私は最後まで言い切る。
「魚が好きなの」
「どうしてあんたも!」
髪の毛を力任せに掴まれる。
さっきまでの理想的な母親はどこへやら。
受け止めるって自分が言ったくせに、全然約束を守ってくれない。
「ほら、やっぱり受け止めないじゃん」
「当たり前でしょう! おかしいことなんだから!」
正気になりなさい! と力いっぱいビンタされる。
顔をどんどん真っ赤にしていくお母さんを見ていると、心の底から笑えてきた。
「手のひら返し早すぎ。お母さん、さっきの言葉覚えてる?」
煽ろうという自覚はなかったのに、ついつい人差し指で自分の頭を指さしながら言ってしまった。
「なにその態度は。どうしてそうなるのよ!」
髪の毛を握る力が強くなる。ヒステリック状態のお母さんに玄関まで引っ張られて、家の外に放り出された。
「私は認めない。あなたは姫子じゃない。偽物はここから出ていって」
「偽物、認めないって、そういう風に産んだお母さんが悪いんでしょ」
私は尻餅をついたまま口元だけで嗤う。
「私が悪い? ありえない。父親の異常な遺伝子が……そうよ、あいつの影響なのね」
「お父さんは悪くないじゃん! あんたが全部悪いんだ! お父さんはっ、お父さんは信じたかったんだよ!」
「人より魚が好きなんて、そんなの人間じゃないの!」
「お父さんは優しい人だったよ」
「狂ってるのがどうしてわからないの!」
「狂っててなにが悪いんだよ!」
「黙りなさい!」
お母さんに睨まれたので睨み返す。
それからどれくらい経っただろうか。
不意に、お母さんの瞳に不気味な輝きが宿った。
「ああ、そういうことね」
「そういうことって?」
「あなた、彼氏がいるじゃない」
また手首を掴まれ、家の中に連れ戻される。
「魚が好きなんて言ってお母さんをからかってるのね、試してるのね」
理解の外に旅立ってしまったお母さんは、私を私の部屋に押し込んだ。
「早く気づくべきだったわ。彼氏がいるのに魚が好きなんて、そんなわけないものね」
「だから神谷くんは」
「彼氏を早くここに呼びなさい!」
「なんで」
「いいから呼びなさい! 私をからかった罰よ。魚が好きなんて二度と言わないで!」
お母さんが扉を勢いよく閉める。
「彼氏が来るまで出してやらないから。反省しなさい」
「反省、って」
いったいなにに対して反省すればいいんだよ。
ここまで狂ってしまうほど、お母さんにとってあのことはトラウマだったのか。
――本当の本当に、一緒に立ち向かってくれるんだよね。
――もちろんよ。私は姫子のお母さんなんだから。
ぽつりぽつりと涙があふれてくる。
「なんだよ。全然違うじゃん」
お母さんの言ってることも。
私の思ってることも。
「受け入れるって、言ったくせに」
本当は私、お母さんに受け入れてほしかったんだ。
「都合よく記憶捻じ曲げんなよ」
お母さんのことを信じてみたいって思っていたんだ。
「ちょっと、彼氏は呼んだの?」
「今メッセージ送った!」
怒鳴るように言ってから、神谷くんに『今からすぐ家に来て』と送る。
滲む視界を受け入れたくはないけど、涙を拭う気力はない。