翌日登校すると、クラスメイトたちに前日の欠席を心配された。

 正常な人間として生を受けたクラスメイトどもは、俺と長澤さんが絶対に勝てない異常性と全身全霊をかけて戦ったことを知らない。耐えがたい敗北を受け入れたことを知らない。「風邪大丈夫?」「熱何度くらいあったの?」と呑気に聞いてきやがるから本当にムカついたが、「大丈夫だよ」「八度五分、微熱だった」と、当たり障りのない受け答えができる自分は、やっぱり硬い殻を身にまとった甲殻類だ。

「神谷くん」

 ただ、武元さんだけは違った。

 一緒に下校していると、彼女は急に立ち止まり。

「今日ずっと顔色悪いけど、まだ風邪なの?」

「え?」

 住宅街の中にある小さな公園の前だった。

「顔色、そうかな?」

「いきなりごめん。顔色が悪いっていうかね、しゃべってて元気ないなぁって思って」

 少しだけ怯えたように発言する武元さん。

 そんなに怖い顔をしているだろうか。

「そんなことはないよ」

「嘘、ですよね」

 武元さんの目が鋭くなる。

「絶対になにか隠してます」

「どうしたの? なんかちょっと怖いよ」

「私、今日は踏み込むって決めたんです」

 武元さんの濁りのない瞳に、惨めな男が映り込んでいた。

「私は神谷くんの彼女です。神谷くんの不安とか悩みとか全部知りたくて、力になりたくて。せっかく彼女になったのに全然近づけてないって思います。近づけば近づこうとするほど遠くて、私の遠慮が原因だなって思ったから」

 ああ、どうしてこんなにも俺を思ってくれるのだろう。

 好いてくれるのだろう。

 優しすぎる。

 どうでもいい子ではなくて本当にいい子だ。

 こんな素敵な子が、なんで俺みたいな異常者を好きになっちゃうんだ。

 理解したいという優しさは、絶対に理解されない異常を持つ俺にとって毒でしかない。

「武元さん、俺はね」

 本当は三か月くらいつき合って、頃合いを見て別れるつもりだった。

 だけど、これ以上彼女を振り回すわけにはいかない。

 彼女を本当に大切にしてくれる相手がいるはずだから。

 彼女にそんな相手が見つからない世界なんか俺と一緒に壊れてしまえばいいと思えるくらい、俺がこの手で裂いてやりたいと思うくらい、彼女は魅力にあふれているから。

「もう別れたいって思ってたんだ」

 早く俺から解放してあげる。

 これがせめてもの贖罪だ。

「……えっ」

 武元さんの大きな瞳が揺れ動き、頬を涙がつたっていく。

「別れるって、まだ一か月も」

「ごめん」

 日差しは暑く、身体は冷たい。

 冷徹な不良品の俺なんか、このまま世界の正義である太陽に溶かされてしまえばいいんだ。

「俺はこれ以上武元さんとつき合ってはいけない。つき合わせられない」

 奥歯を噛みしめながら、それでも淡々と伝えていく。

 武元さんが俺の手を取ろうとしてきたので「触られたくない」と振り払った。

「そういうの、もういいんだ」

「私の……」

 武元さんは振り払われた手を胸に押し当てて。

「どこが悪かったですか?」

 俺の産まれ方が悪かっただけだ。

「武元さんはなにも悪くないから。俺のすべてが悪いだけだから。ごめん」

「理由になってないです」

「ごめん」

「そんなに信用ないですか。どんなことで悩んでいたってバカにしたりは」

「そういうことじゃないから」

「じゃあどういうことですか」

「ごめ」

 言い終わる前に乾いた音が響き渡った。

「神谷くんは人を遠ざけて、怖がってるだけです!」

 頬が痛い。

 泣いている武元さんから睨まれている。

 ビンタ、されたのだ。

「これでも神谷くんの壁を、壊すことはできませんか?」

 痛む頬を抑えることはできなかった。

 武元さんの方が絶対に痛いから。

「私は本気なのにっ、神谷くんは全然本気になってくれませんでした!」

 武元さんがわざと俺にぶつかるようにしてすれ違い、走り去っていく。

 その背中を目で追いつづけ、見えなくなったあとでようやく頬に手を添えた。

「俺だって本気になりたいよ」

 朦朧とした意識の中で公園の中に入り、汚れが目立つ木製のベンチに座った。

「本気で立ち向かったんだよ」

 異常な心を叩き潰したくて、胸を何度も殴りつづける。

 甲殻類なんかやめたいのに、どれだけ強く殴っても硬い殻は砕けない。

「敵わなかったんだよ」

 こんな俺はもうダメだ。

「叶わなかったんだよ」

 このまま舌を噛み切って死んでやろうか。

 なんて思いながら顔を上げると、世界はもう夜の闇に包まれていた。

 公園の入り口にある街頭に羽虫が群がっている。

「なんでっ、俺ばっかり」

 いったいどれだけの時間こうして絶望していたのだろう。

 本当に、もういいや。

 俺みたいな異常者、この世界で生きていたってなんの意味もない。

「好きでこうなったわけじゃないのに」

 頭を抱えながら、よだれを垂らしながら、せき込みながら。

「誰か、俺の心を」

 胸をかきむしりながら、泣きながら。

「取り替えてください」

「宗くん!」

 俺の名前を呼ぶ声がした。

 はっとして顔を上げる。

「え、かあ、さん?」

 走ってくる母さんに焦点が合う。

「な、んで、ここにっ」

「いいから」

 母さんはにっこりと笑って、俺を包み込むように抱きしめてきた。

「母さん?」

 なんでここにいるんだ。

「もう店の、時間がっ」

「あの人たちはあの人たちで勝手に飲んでるわよ」

 なんだその店は。ふざけてんのか。食い逃げされたらどうすんだ。

「でも、なんで俺が、この場所」

「常連のしげっちが見かけたらしくて、店まで走ってきたの」

 なんだその客は。いい歳こいたおじさんが俺なんかのために走んなよ。しげっちなんてあだ名を許すなよ。

「ごめんね宗くん。母さん、放任主義すぎたのかもしれない。昨日だって学校休んでたの、まあいっかって思っちゃって」

 母さんにずる休みのことバレてたのか。

 母さんの身体は本当に暖かくて、その暖かさが冷え切った身体に染みわたっていく。

 走ってここまで来たあとだから体温が高いだけ、ただそれだけのはずなのに。

「大丈夫、大丈夫だからね」

 暗く冷たい湖に沈みかけている俺を、母さんが引き上げようとしてくれる。

「なにも言わなくていいから。母さんは絶対に宗くんの味方だから」

 なにも言わなくていい。

 その言葉が、無条件の肯定が本当に嬉しかったから、この人を最後の希望にしようと思った。心に巣食う闇を吐き出して、それでもこの人が俺に温もりを与えつづけてくれるなら俺はきっと生きていける。

 もしこの人が動揺して手を離したら、もう死ぬしかない。

 限界だから。

 俺は強い人間ではなかった。

 誰にも言えない秘密を抱えながら生きるなんて、異常な性癖と一緒に孤独の中を突き進みつづけるなんて、もう耐えられない。

「母さん、俺、産まれたときからおかしいんだ」

 これまで思ってきたことを白状していく。

 世界への恨みとか、悔しさとか、悲しみとか全部全部。

「俺は、俺の異常が暴走して人を殺してしまうのが怖いんだ。否定できないのが怖いんだ」

 俺がどんなことを口走っても母さんの抱きしめる力は変わらなくて、背中をなでてくれる手の温もりは変わらなくて。

「異常者として世間に認知されたくない。開き直ったら本当の異常者になる。だから俺はずっと独りで生きようって思ってきたんだ」

 どれだけしゃべりつづけていたか自分でもわからない。

 何度も暴言を吐いたかもしれない。

 それでも母さんは、ずっと俺の言葉を受け止めつづけてくれた。

「宗くんは、そうやって悩んできたのね」

 母さんが背中をぽんぽんしてくれる。

「でも、宗くんは異常なんかじゃないわ。私と総一郎(そういちろう)さんの大切な宝物よ」

 優しくて、柔らかくて、本当に暖かい。

 だけどこれまでの生き方が悪かったのか、胸の内側にため込んでいた鬱屈した気持ちが反発心を生んでしまう。

「宝物なんかじゃない。なんでこんな風に産まれたんだ。俺はどうやったって異常なんだ」

「宗くんは裂くのが好き、だったわよね。そんなの普通の人と一緒じゃない」

「は?」

 母さんが変なことを言い出した。

 息子を慰めようとしていることは認めるが、それは絶対に違う。

 ――人を裂いてみたいって、おかしいですよこの人。

「一緒じゃない!」

 ――人間以外を好きになるとかおかしくね? そいつ人間じゃないじゃん。

「だって普通は異性に、女に」

「普通はそうかもね。でもそれがなに? 人の好きなものを否定する人間なんてクソみたいな生き方しかしてないんだから」

「俺が好きに生きたら、いつか人を、あいつみたいに暴走して」

 ――殺人容疑で逮捕されたのは、『住所不定無職』の金濱隆俊容疑者です。

「それも普通よ」

 母さんの声はどこまでも暖かい。

 俺の中の反発心を強引にねじ伏せる、力強さも併せ持っている。

「普通に異性が好きな人だって、性癖を暴走させる、いわば痴漢とか強姦をすれば捕まるじゃない。それとなにが違うの?」

 母さんの愛が痛いほど伝わってきて、俺の中を這いずり回っていた呪いの声が朧げになっていく。

 ――人を裂いてみたいって、おかし

「誰だってね、自分の性欲が暴走しないように理性という殻で囲い込んでいる。だから宗くんはなにも間違ってない。むしろ自分の性欲に怯えている人の方が、どんな人よりも正しいとお母さんは思う」

 ――人間以外を好

「でも俺は裂くなんだ。チーズが裂けるのを見てすごく興奮して、そんなの普通に気持ち悪いよ」

「好きなものへの愛を爆発させているときってね、人はみんな気持ち悪いわ。考えても見てよ。宗くんが言う普通の人はエロ本を見たり、同級生やアイドルの裸を妄想しながらオナニーしてるのよ。その姿を想像してみなさい。普通に滑稽でしょ」

 ――殺人容

「でも俺は、普通の人が歩くような人生は送れないから。普通じゃない俺は結婚も、孫の顔も見せられないから」

「結婚とか孫の顔とかどうでもいいわよ。宗くんは宗くんの幸せを歩めばいい。宗くんが選ぼうとする幸せを私たちが邪魔するのなら、そのときは容赦なく切り捨てなさい。大切にしたいと思える親を大切にすればいいの」

 ――

 もう反論の言葉が思いつかなかった。

 どんな反論をしても、母さんは俺のことを受け入れてくれる。

 認めてくれる。

 体温が高いのも抱きしめる力が強すぎるのもアルコールのせいなんかじゃなくて、俺を愛してるからだった。

「宗くんはね、生きてるだけで宝物なのよ」

 俺は。

 ずっと。

 誰かに。

 外側に貼りつけてきた肩書きを評価してほしいんじゃなくて。

 俺自身をひとりの人間として認めてほしかった。

 俺そのものを普通だと、生きていていいんだと認めてほしかった。

「宗くんはね、大丈夫だから。いつまでも母さんの誇りよ」

 母さんは俺のすべてを受け入れてくれた。

 この母親は昼間から酒を飲んで競馬に興じるようなどうしようもない人間だけど、この人のもとに産まれてきて本当によかったと思う。いや、昼間から酒を飲んで競馬をしているからなんだっていうんだ。

 俺がその生き方を理解できなくたって、本人が納得してるならそれでいいじゃないか。

「母さん、俺さ」

 涙はまだ流れているけれど、この涙はこれまでの涙とは違う。

 母さんの子供で本当によかったと思えたから出てきた、嬉し涙だ。

「今度、競馬場にいってみたいかも」

「任せなさい。競馬場はいいわよー。迫力が全然違うし、それにね」

 母さんが早口でいろいろと言っているが、たしかに好きを語る姿は本当にキモいな。

 俺は、魚のどんなところに興奮するかを嬉々として語る長澤さんの姿を思い出していた。