俺たちはどれくらい泣いていたのだろう。ふと、ここで無理心中したら高校生カップルの謎の死として報道されるんじゃないかと思い至る。ありかもしれない。全国民にカップルと認識される、つまり普通の性癖を持った人間として認識される。それは普通の人間として死んだも同然だから、俺たちが憧れた普通の人間になったも同然で――。

「神谷くん。もうこの関係やめよう」

 長澤さんから告げられる。

 絶対に拒否するなという強制力が、その声にはあった。

「だって、きっと私たちは無理なんだよ」

 聞こえてきた嘲笑が、俺の中の異常さと混ざり合う。長澤さんの抱えている悔しさが手に取るようにわかってしまう。

「私たちは、私たちで生きていくこと、無理なんだよ」

 否定も肯定もできない。

「いつまでも隠れてなきゃいけない。ずっと世界の異物なんだ」

 密閉された部屋の中に虚しさが降り積もっていく。

 無理なんだよ。

 世界の異物なんだ。

 長澤さんの言葉を聞いて湧き上がってきた思いは、正常になれない悔しさではなかった。

 安堵だ。

 異常に立ち向かっていた長澤さんが諦めたことに、安堵している自分がいる。

 俺は、俺たちが正常な性癖を手に入れるのは無理だと、はじめからわかっていたのかもしれない。それでも長澤さんにつき合っていたのは、異常を忌み嫌う彼女が諦める瞬間を間近で目撃したかったから。

 だって、普通であることに取り憑かれ、普通になろうと躍起になっている彼女が諦めれば俺も完璧に諦められるから。

 覚悟を決められるから。

 異常な性癖の暴走を防ぐため、ご立派な肩書きを身体に装着して生きていく手法が正しいんだと、それしかないんだと、普通になんか決してなれないんだと、俺の内側に向けて証明したかった。

「たしかに、俺たちは世界の異物だ」

 笑える。目からは何リットル目かもわからない涙があふれてきやがる。

 今回長澤さんに興奮しなかったから、背徳感は俺の中で興奮する要素になりえなかった。背徳感を興奮の肥料にする二股クソ俳優とは違うとわかったのに、このまま当初の予定通りご立派な肩書きを獲得しつづければいいとわかったのに、むしろそれが証明されてしまったことで、心の中の黒色が濃度を増した気がする。

「長澤さん、ごめん」

 普通になりたい。

 彼女の切実な願いを、俺の安堵のために利用したことが急に許せなくなった。

「やっぱり俺たちは本当を生きられない。独りぼっちと戦いながら、誰にも見つからずに生きていくしかないんだよ」

「そうだとしても、どうして神谷くんが謝るの?」

 長澤さんがもぞもぞと身体を動かして俺の方を向く。

 静かに泣く俺をじっと見ている。

「謝らないといけない気がしたんだよ」

 その視線を嫌って寝返りを打つ。

 隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえてきた気がして、はらわたが煮えくり返った。

「だったら私も、ごめんなさい」

 長澤さんが俺の背中に額を押し当てる。

「長澤さんだって、なんで謝るんだよ」

 声に怒りが交じってしまった。

 長澤さんに苛立ちをぶつけたって意味ないのに、むしろこれまでさんざん利用してきたのだから、苛立ちをぶつけられる側でないといけないのに。

「だって私が言い出さなければ、こんな惨めな思いを、時間をすごさずに」

「それは正常になろうと、俺たちが頑張ってたことを言いたいのか?」

「頑張ってたっていうか、もがいてたっていうか」

「そんなのは、全然違う」

 上半身を起こして長澤さんから離れる。

「見て見ぬふりしてたことを実感しただけだ。異常者でしかないんだって、いつかどこかで覚悟を決めなきゃいけなかったんだから、しょうがない。長澤さんの頑張りが、正常になろうとする長澤さんの努力が無駄だとか、悪いこととか、惨めだったとか、そういう風に思うのは絶対に違う」

「そうじゃないの」

 長澤さんも身体を起こし、俺の隣に座る。

「私は神谷くんの正常になりたいって思いをずっと利用してた。だから神谷くんの裸を、男らしさを見ようとしなかったし、私の身体を利用して男側が先に興奮する作戦しか作ってこなかった」

 身体にもたれかかられ、肩に頭が乗っかる。

「私、心のどこかで無理だろうなってわかってた。背徳感ってなんだよ。私たちが二股をするのには正当性があるなんて、どう考えても屁理屈じゃん。正常になれない神谷くんを見て安心していたかったの」

 それは俺もだと言いたかったが、長澤さんの言葉がつづくから言葉を挟むタイミングを失った。

「今日だって正常になろうねって言いながら、特殊性癖持ちの神谷くんは絶対に暴走しないって、セックスできないって確信してた。神谷くんとならこんな状況になっても怖くなかった」

 長澤さんはハンマーで釘を打ち込むみたいに、俺の肩の上で頭を何度もバウンドさせる。

 彼女の頭は肩にぶつかっているのではなく、俺を覆う固い殻にぶつかっていた。

「近藤が優しい人だったから、ふりをつづけるのがつらくて計画を早めたの」

 急いでいたのはそれが理由か。

「近藤がおっぱいのことしか考えてない男ならよかった。看病を名目に家に上がって、性欲を押しつけてくるだけの最低な男ならよかった。あいつはバカみたいに本気で心配しやがる。そんな人をこれ以上裏切れない。いいやつだってわかっても、正常な人間が持つ興奮を向けられるのが本当に気持ち悪いんだよ」

 気がつけば、長澤さんはあおむけに倒れていた。

「学校で武元さんと話している神谷くんがとても楽しそうで、武元さんとそういうことをして正常な性癖を取り戻すんじゃないかって、怖くて仕方なかったの」

 長澤さんは独りぼっちになりたくなかったんだ。

 俺が正常になれないという確信があると言っておきながら、正常になるかもしれないと不安に駆られるなんて、明らかに矛盾している。

「俺と武元さんが楽しそうに見えてたなんて」

 でも、人の気持ちなんて矛盾してて当然だ。

 俺と彼女の心は悲しい意味でつながっていた。

「冗談だろ。ありえないよ」

 俺たちはどれだけ頑張っても異常でありつづける。

 その事実は、俺たちのこれまでにもこれからにもまとわりついて離れない絶望なのだ。

「私には本気でそう見えてたよ。きっと心がぐちゃぐちゃで、冷静じゃなかっただけなんだろうけど」

 絶望を受け入れた長澤さんの真顔を、このラブホテルの閉塞感を、俺は一生忘れないだろう。