とまあこんな感じで、俺は二股野郎になった。

 長澤さんの彼氏役は俺のイツメンである近藤で、昼休みに食堂で一緒にいるところを目撃した。

 よりにもよって近藤かよ、と眉間にしわが寄る。武元さんに対しての申しわけなさだって拭いきれないのに、俺は近藤まで裏切らないといけないのか。

 ああ、武元さんを本当に好きになれたら、どれだけ楽な人生を謳歌できるのだろう。

 だけど武元さんの手の柔らかさも、甘い匂いも、純粋な笑顔も、異常という分厚い壁に覆われた俺の心に少しも届かない。ちらりと隣を見ると、一緒に下校している武元さんは頬を真っ赤にして照れていた。握っている手はとても熱く、長澤さんの冷たい手とは雲泥の差だった。

「なんか、神谷くんの手って冷たいね」

 交差点で立ち止まったとき、武元さんがそんなことを言ってきやがった。みぞおちを殴られたような衝撃を受け、鈍痛が全身に広がっていく。足に力を入れていないと膝から崩れ落ちてしまいそうで、靴の中で足の指を思い切り握りしめた。

「そうかな。自分ではわかんないけど」

「あ、悪い意味じゃなくてね。手が冷たい人は心が温かいってよく言うでしょ? 神谷くんは誰に対しても分け隔てなく接してるし、優しさの塊みたいな人だって話は本当だったんだなぁって思って」

 嬉しそうに俺の手をぎゅっとした武元さん。あどけなさの残るその笑顔はとても素敵だ。本当に、世の中の不条理を恨みたくなる。

 どうして武元さんは、俺みたいな異常者を好きになってしまうのか。申しわけなさと、歯がゆさと、どうにもならない痛みが両肩にのしかかっている。今すぐなにもかもを裂いてしまいたい。チーズも、武元さんとつながっている手も、普通を押しつけてくるこの世界も。

「ありがとう。そうやって言ってくれる武元さんだって優しいんだね」

 俺も手をぎゅっと握り返しながら答える。

 なんの打算もなく本当に思ったことを彼氏に伝えられる。

 そんな武元さんの方が、俺なんかよりずっと優しい。

「武元さんは手も心も温かいんだね」

「あっ、あり、がとう」

 恥ずかしそうに前髪を整えはじめる武元さんの胸を見て、小柄なのに意外と大きいんだなぁと思う。そう思っただけだったから、不意に泣きたくなって正面を向いた。

 信号はまだ赤のままだ。

「俺のはただの冷え性だと思うよ」

 末端だけでなく、心の中まで冷え切っているタイプのやつ。

 だから、もし俺が正常な性癖を取り戻せたら、そのときは武元さんの好意に誠心誠意応えてあげたい。





 母さんと常連客たちの呑気なやり取りが床下から聞こえてくる。特になんとも思わずに勉強していると、長澤さんの彼氏役、近藤から電話がかかってきた。

「すまん、悪いな急に」

 学校では常にふざけている近藤の深刻そうな声に違和感を覚える。

「暇だったからいいけど、なに?」

「ちょっと相談があってさ。神谷にしか頼めないんだ」

 相談、と言われて笹川さんの顔が脳裏に浮かぶ。

 内容によっては……いや、そんな義理ないか。

「おい、いつもの近藤はどうした? 深刻すぎだって」

 少しだけふざけると、近藤は「ははは、そう、だよな」とから笑いして黙り込んだ。

 これ以上、冗談は言えない空気だ。

 俺が唾を飲み込むのと近藤が話しはじめるのは同時だった。

「俺さ、長澤さんとつき合いはじめたじゃん」

「知ってる。ってか今日もからかわれてたじゃん」

 体育の授業前、男子更衣室で着替えているとき。

「なんで長澤さんなんだよ。あんな地味女、全然しゃべんないからなに考えてるかわかんないじゃん」

 そうクラスメイトから言われているのを聞いたのだ。

「そこがミステリアスでそそるんだろ」

「ミステリアスっていうか、ただの根暗?」

「物静かって言えよ。いいだろ別に、誰を好きになったってさ」

 俺はこれ以上聞いていられなくて更衣室を後にしたが、この後も、近藤はバカにされる長澤さんをかばいつづけていたのだろう。

「それでさ、つき合えたのはすげぇ嬉しいんだけど、なんか俺といても楽しそうじゃないんだよね。笑ってくれないっていうか」

「気のせいだろ。彼女なんだし」

 平静を装って言葉を返す。

 近藤の言っていることは、きっと本当だ。

 そして俺は、なぜ長澤さんが楽しそうじゃないかも知っている。

「気のせい……だと思いたいんだけどさ」

 早く電話を切っておけばよかったと唇を噛む。

 俺は長澤さんの二股相手なのだ。

 近藤の声を聞くたびに、心に傷が増えていく。

「なんつーか、俺って結構クラスメイトに笑ってもらってるじゃん」

 笑わせるじゃなくて、笑ってもらってる。

 そう言えるところが近藤の優しいところだ。近藤の最低なところを探して二股を肯定した方が楽になれるのに、どうして俺は近藤の優しいところを探して、無駄に自分を傷つけているのだろう。

 それが贖罪になるとでも思っているのか。

「でも一度も長澤さんは笑ってくれなくてさ、逆にそれで気になって、気がついたら好きになってて、告白オッケーしてもらえてマジで嬉しくて、一生大事にしようって思って」

 高校生の恋愛ごときで一生を持ち出すなんて浮かれすぎだろ。

 とは口が裂けても言えない。

「だけどどうしていいかわかんなくて、俺といて楽しくないのかなって考えてて、やっぱこういうのは経験豊富な神谷に聞くのが一番かなって」

「経験豊富じゃねぇよ」

「でも彼女いるじゃん」

 違うと言いそうになった。

「そうだけど、だからって経験豊富っていうわけじゃ」

「俺ははじめての彼女だから、緊張して、彼氏がふざけるのも違うのかなとか考えちゃって、二人きりのときはどうしていいかわかんなくて」

「おいおい、お笑い芸人志望がそんなことでへこたれてどうするよ」

 適当に話を逸らして、近藤の相談を有耶無耶にできないか試してみたが。

「いや、クラスでバカやってるだけの俺なんかプロを目指すとか、プロの芸人に失礼だから」

 いつもは笑いで返してくれるくせに、なんで今日はずっと真剣なんだよ。

 いつもみたいにふざけないのは、それだけ近藤が長澤さんのことを真剣に考えている証だ。

「すまん。茶化して悪かった」

「いや、俺こそうまく返せなくて、なんか深刻モードに入っちゃって」

「いいか、近藤」

 話を逸らせない以上、ここはいったん近藤の悩みに答えるのが正解だ。

 こんな電話、早く終わらせないと俺の心が持たない。

「長澤さんはみんなを笑わせようとする近藤を好きになったんだろ。だったら変に格好つけないでいいじゃん。ありのままを見せればいいんだよ。そしたら長澤さんも笑ってくれるって」

 ありのままを見せられない俺が言っても説得力なんかないけど。

 もうこれ以上聞き返さないでくれ、なんかそれっぽいこと言ったから都合よく深読みしてくれと、とにかく願った。

「ありのまま、か」

 電話の向こうで近藤がうなずいたのがわかった。

「そうだよな。それが俺だし、俺にはそれしかないもんな」

「それでいいんだって。じゃ、またいつでも相談に乗るから。がんばれよ」

「夜遅いのに、ほんとありがとな」

 近藤との電話がようやく終わる。

 俺はスマホをベッドに投げつけ、胸のあたりをかきむしった。





 自己嫌悪モードだった俺を現実に引き戻したのは、ベッドの上に転がっていたスマホの通知音だった。

 武元さんからのメッセージだ。

 一応彼女なんだしすぐに返信――しようとスマホを手に取ったタイミングで長澤さんからもメッセージが届いた。

 先に長澤さんとのトークルームを開く。

『明日、二人で学校をサボりましょう。それでラブホにでもいきましょう』

 ラブホって、橋川みたいなこと言うなよ。

 互いの偽恋人と、最低でもあと二週間はつき合ってからの方がいい。相手に情が湧いて裏切ることへの背徳感が高まるはずだと言っていたのに。

『二週間はつき合って、って言ってなかった?』

 もう最低の二股野郎になっているのに、近藤を、武元さんを裏切ることに抵抗している俺がいる。長澤さんに言われたから仕方なかったと思いたい自分の傲慢さが嫌になる。

 長澤さんと一緒に暗闇へ足を踏み出すと、自分の意思で決めたはずなのに。

『別に、さっき明日でもいいやって思い直しただけ』

『なんで?』

『それは秘密にしといた方が背徳感高まるから。絶対に』

『わかったけどさ、なんでわざわざ学校サボるんだよ』

 メッセージを送信し終わると同時に、階下から常連さんの「あんな優秀な子がいて羨ましいよ」という声と、母さんのまんざらでもなさそうな笑い声が聞こえてきた。

 俺に対する称賛の声を耳にするたび、俺はどうしようもなく泣きたくなる。

『私たちの彼氏彼女役が授業を受けているときに、高校生お断りのラブホでそういうことをやってみる。背徳感を得るためには、これ以上ない状況じゃない?』

「……でも、なぁ」

 近藤と武元さんの笑顔が脳裏をよぎった。いざ二人を裏切ると思うと吐き気がする。やっぱりやめようという考えも頭をよぎったが、長澤さんの手の冷たさを思い出すことで抵抗感を削ぎ落す。

 そもそもこれは二人のためなんだ。

 だって俺たちが正常な性癖を手に入れたら、晴れて俺たちは恋人役と本当の恋人になれるのだから。

 近藤の相談にも、武元さんの好意にも応えることができる。

 本質を突き詰めれば、これは二人に対する裏切りではない。

 むしろ二人と真摯に向き合うための、真に誠意のこもった行動なのだ。

「変わらなきゃいけないんだ」

 長澤さんに了承した旨を伝えるべく『わかった』と打とうとしたが、わかったの『わか』まで打ったところでその指が止まった。

 俺はまだ、武元さんから届いたメッセージに返信していない。

「正常な、人間……ども」

 先に届いたのは武元さんからのメッセージなのに、あとから届いた長澤さんのメッセージに返信をし、武元さんのメッセージを無視したまま長澤さんとのやり取りをつづけていた。

 長澤さんの返信を待っている時間だってあったのに。

「俺は……」

 もし俺が正常な性癖を手に入れたら、彼女として選ぶのは武元さんではなく長澤さんではないか。

「どうしたって裏切るんだ」

 胸に鋭い痛みが走る。

 結局、俺は武元さんを利用するだけ利用したあとで捨てるのだ。

 いや、そもそもこんなこと考えなくていい。

 正常な人間どもが、先に俺たちを気持ち悪いとバカにしたんだ!

 あのクソ担任だって騒ぐ子供たちを止めなかった!

 これは正当な報復なんだ!

 近藤が、武元さんが、俺たち異常者をバカにするようなクソ人間かを考えようとするな!

「これでいいんだ。これで」

 痛む胸を気にする必要はない。

 長澤さんに『わかった』と返信したあとで、ようやく武元さんとのトーク画面を開く。『今なにしてるの?』と書いてあった。

「最低なことしてんだよ」

 呟いた言葉をそのまま送ってしまおうかと思ったが、さっき胸の痛みは無視すると決めた。

『今までずっと勉強してたよ。ごめん、気づくの遅れて』

 武元さんに嘘のメッセージを送ると、スマホの画面に涙が落ちてきた。