「俺、気がついたら武元さんが好きになっててさ。情けない話なんだけど、俺とつき合ってくれませんか?」
俺は今、食堂裏に呼び出したとある女の子に告白している。
以前、真っすぐな告白をしてきた二つ結びの女の子、武元瞳さんだ。
彼女の告白が長澤さんと出会うきっかけになったのだから、そういう意味では彼女に感謝をしている。
「断ってからずっと心に引っかかってて、目で追うようになって、好きかもしれないって思って。ダメかな?」
「そんなことない。嬉しい。ありがとう」
武元さんは頬を真っ赤にして、とろけるような笑顔を浮かべて、大粒の涙を流してくれた。
こうして俺は一度フッた女の子、武元さんとつき合うことになった。
なんでこんなことになってるの? という疑問は最もだと思うので、こうなった経緯をこれから説明していきたいと思う。
自分でも自分を軽蔑しているけれど、きちんとした理由があるから、俺の行為は絶対に正当化されるべき愚行だ。
生徒会室での一件から今日で一週間。
あれ以来長澤さんと会話していないし、メッセージのやり取りもしていない。
絶望に打ちのめされた俺は現実から目を逸らすためにチーズを裂きまくったが、長澤さんはどうやってこの一週間を乗り切ったのか。
ぴちぴち跳ねる魚のどこがいいのか俺にはわからないが、長澤さんも俺と同じように自分の異常な性癖に溺れていたのではないかと思う。
『また生徒会室に集まれない? 今後のこと話しておきたい』
この停滞した状況を変えたのは長澤さんだった。
俺だってこのままではいけないと思っていたので、すぐに了承する。
けれど一度失敗しているからか、今回もどうせ無駄だろうなという感情を消し去れなかった。
迎えた放課後。
職員室で鍵を借りて生徒会室に向かうと。
「神谷くん。ちょうどよかった」
長澤さんではなく、笹川さんが扉の前で待ち構えていた。
「笹川さん。どうしたの?」
「昨日はありがとうって、改めて伝えときたくてさ」
「昨日? ……ああ、そういや」
校長やら教頭やらに集まってもらって、性別関係なく各個人が好きな制服を選べるようにしたいと話したんだった。
校長も教頭も、他に集まった先生たちも嫌な顔ひとつせず、今はその方がいいよなぁと賛成してくれた。
「来年度には間に合うよう検討するとも言ってたし、よかったな。希望が通ってさ」
「うん。そうなんだけどさ」
笹川さんはなぜか唇を尖らせる。
「でも、あの場に私もいたのに、なんなら言いはじめたのは私で、神谷くんも『笹川さんからの提案で』って言ってくれたのに、なんか神谷くんだけの手柄みたいになってたじゃん」
「手柄?」
脳が、その三文字を理解するのを一瞬だけ躊躇した。
「たしかに、神谷くんのおかげ的なことは言われたけどさ」
私たちも変えた方がいいんじゃないかとは思っていたんだけど、神谷くんに言われてやっと決心がついたよ。きっかけをありがとう。
そう言って手を伸ばしてきた校長と握手をしたが……改革は成功したんだから、手柄とかどうでもよくないか?
「でしょ? やっぱり女ってこういうとき損だよ。凝り固まった考えの年寄連中は男しか評価しないんだから」
いや、性別は絶対関係ないよね?
手柄がほしいなら、なんで周囲からの評価も人望も高い俺に頼んだ?
俺が称賛を独占するに決まってんじゃん。
なにを言ったかではなく誰が言ったかの方が大事だって高校生ならもう知ってるはずだし、都合のいいときだけ『女はいつも虐げられる』理論を持ち出すな。
「神谷くんと一緒になにかやるのは楽しいし好きなんだけどさ、私もちょっとは褒められてもよくない? なんか納得いかないっていうか、今度は私一人でやってみようかなぁ」
そういやこいつ、俺のこと好きなんだっけ?
「あー、どっかに悩んでる人いないかなぁ。神谷くんと協力できたのは嬉しいけど、やっぱり一人でやってこそ正当に評価されるっていうか、そういう自立した人同士だからこそお互いに高め合えるっていうか」
なるほど、これが笹川さんの言っていた、あなたの好みのタイプがここにいますよアピか。
「あっ、そうだ。トイレ問題! 最近話題になってるよね? この学校でも取り上げたら」
「笹川さん」
いいこと思いついた! って目を輝かせた笹川さんの言葉を意図的に遮る。
「笹川さんはさ、誰かに頼まれたの? トイレも、制服も、現状を変えてほしいって」
人から褒められたい、一目置かれたいって気持ちが完全に悪いとは思わない。
好きな人を振り向かせたいから好きな人のタイプを目指すのだって、やり方として間違いではない。
だけど、笹川さんは完全におかしい。
「いや、別に頼まれたわけじゃないけど、時代に合わせてルールもアップデートしていかないと。これから入学してくる後輩のために私たちが動かなきゃ。みんなが生きやすくて、みんなが本当の自分を自由に出せる、真の多様性を目指さなきゃ」
鼻の穴を膨らませながら壮大な理想論を語る笹川さんを見て、嫌悪の鳥肌が立つ。
みんな、みんな、みんなって。
そのみんなに俺や長澤さんは入っていますか?
話題になっていることだけ、自分が想像できる世界だけが世の中のすべてじゃねぇんだよ。
「そうかもしれないね」
身体は苛立っているのに心は凪いでいる。
笹川さんの意見に賛成したわけではなく、彼女と話し合うのを諦めた。
「笹川さんはすごいね」
自分が当事者じゃないのに、私がみんなを代表して主張してあげていると言える傲慢さだけは本当にすごいと思う。
「時代の流れを的確に考えてて、見習うところばっかりだ」
「そんな褒めないでよ。みんなが考えようとしてないだけだし、神谷くんから褒められちゃったら私がすごい人みたいじゃん」
まんざらでもない表情を浮かべて、謙遜になっていない謙遜をする笹川さん。
「ってか神谷くんの周りで困ってそうな人いない? 神谷くんってそういう相談とかよくされそうじゃん。私も人助けしたいから協力させてよ」
前のめりになる笹川さんの圧に負けないよう、足を踏ん張らせて直立不動を保つ。
内臓も骨も血管も、身体の内側にあるものはすべて彼女から逃げるように背中側へ傾いている。
「今はいないかな」
一瞬だけ、長澤さんの顔が脳裏をよぎった。
絶対に言うもんかと思う。
俺たちの問題を、笹川さんの承認欲求の餌にされたくない。
「そっか。じゃ、なんか相談されたら教えてねー」
笹川さんは『口の軽い人間になって信用を失ってねー』と同義の言葉を残して去っていった。
「お前なんかに言うはずないだろ」
笹川さんの背中を早々に見切って生徒会室に入り、何度も舌打ちする。
すぐに長澤さんがやってきた。
「また笹川さんだったじゃん。今度はどうしたの?」
「見てたんだ」
「一瞬だけね。話してたから、とりあえず見つからないようにその辺歩いてた」
「お気遣いありがとうございます」
長澤さんはすでに閉められているカーテンをもう一度しっかりと閉めにいく。この前と同じだ。
「で、今度はどんな鞭で責めら」
「昨日のお礼だよ。女子にもスラックスをってやつ、先生たちに提案したから、そのお礼」
いじられるのを察知して言葉を被せると、長澤さんは不満げに唇を尖らせた。
「ああ、なぜかあいつが一人でやらなかったやつね」
長澤さんは右手の爪を興味なさげに眺めている。
笹川さんの爪と違って不自然に光ることのない、普通の爪。
「長澤さんって、笹川さんのこと苦手なの?」
言葉に、俺をいじるときとは異なる毒が含まれていたので、嫌いという言葉を少し柔らかくして聞いてみる。
「苦手っていうか」
長澤さんは不敵に笑い、冗談っぽくつづける。
「ああいう女は絶対将来男に依存しまくって、旦那のステータスが自分のステータスだと誤認して威張るタワマンマウント女になりそうっていうか、旦那の金で買ったでっかい帽子とサングラスかけて毛のない謎の犬を散歩してるオーガニック溺愛女になりそうじゃん」
長澤さんのこういう斜めな思考、嫌いじゃない。
「偏見がひどすぎない? でも絶対その女の旦那はコンサルやってて、真っ白なジーンズと金のネックレスとクラッチバッグで六本木を闊歩してるだろ!」
「それか、社長で金持ってることだけが取り柄の、小太りのおじさんだよね」
「絶対そいつの妻は金目当てなのに、好きになった人の歳がたまたま離れてただけだって言い張ってるだろ! 狙いにいかないと小太り社長となんて出会えるわけないのに!」
「神谷くんって意外と辛辣だよね」
「長澤さんがこのノリはじめたんだろ。俺はそれにつき合ってるだけだから」
「ノリ? なに言ってるの? 私は真実を言ったまで。私って嘘つけない女だから。なんでも正直に言っちゃうから」
「それも遠回しに誰かをディスってるよね。なんかいい風に聞こえるけど、ただ悪口大好きで気が遣えないだけだよね?」
「女子はみんなこんなだよ? 悪口が嫌いな女子はいないから」
「世の男性のみなさーん。これでも女子が好きだって言えますかー? 裂けるチーズや魚の方がましだと思いませんかー?」
俺たちの正当性を主張したタイミングで長澤さんと顔を見合わせてから、腹を抱えて笑う。
ああ、本当に楽しい。
世界に理解されない性癖を抱えている点だけでなく、世の中を見る角度も似ていることがわかった。
「でも、実際に笹川さんは一人じゃなにもできないタイプだよ……いや、一人でやったら面倒事ばっかり引き起こすタイプかも。私は頑張ったのにって被害者面して周りに尻拭いを押しつける、よりたちの悪いタイプかも」
「それは……なんかわかる」
「私はさ、絶対に独りで生きていくことが確定してるから、最終的に男に依存すればいいって思ってそうな女が本当に嫌い」
独りで生きていく。
その言葉を長澤さんが発した瞬間、わずかに心が痛んだ。
が、心が痛んだ理由がわからない。
「…………でもね」
俺が自問自答している間に、長澤さんが歩み寄ってきていた。
俺の目の前で立ち止まり、みぞおちのあたりを人差し指でつんと突いてきた。
「神谷くんが社長になって稼いでくれるなら、喜んで依存するよ。神谷くんといるときは演じなくていいから楽だし」
いきなり上目遣いで見られると……なにもなかった。意外と目が大きいんだなぁという感想は抱いたが、『ドキッ』とか『萌えっ』とか、そういうピンク色の感情に包まれることはない。
「まあ、最低でも一千万は普通に稼ぐ予定だけど」
最低でもそれくらいは稼げるようにならないと、年収が自分の異常を抑え込む鎧にはなりえない。
「あ、でも小太りのおじさんになるのはやめてね。クラッチバックまでは黙認してあげるから」
「そこは好きになった人の歳がたまたま離れてただけって言ってくれよ」
「私を夫の職業でマウント取ったり子供にハイブランドを着せて満足したりする女と一緒にしないで」
「偏見のオンパレードだな。さっきからずっといろんな人を敵に回してるぞ」
深く考えずにそうツッコむと、長澤さんの表情が曇った。
「私たちの味方なんて、最初から私たちしかいないじゃん」
「……それもそうか」
せっかく楽しい空気が復活しかけていたのに、一瞬で重苦しくなってしまった。
……でも、あれ?
さっき長澤さんが『独りで生きていく』と言ったときに感じた心の痛みが消えていた。痛みを感じたときと同じで、痛みが消えた理由もよくわからない。別の苦しさで上書きされたからだろうか。
「そういや、今後について、なんか話があるんだろ?」
考えても考えてもわからない気持ち悪さを紛らわすため、俺から話を展開させる。
「ごめん、そうだったね。前回の反省を踏まえてさ、いろいろと作戦を考えてみたんだよ」
「言っちゃ悪いけど、前回どうにもならなかったんだから、同じこと繰り返しても意味ないと思うけど」
「身も蓋もないこと言わないでよ」
「……ごめん」
「謝らなくていいから。今回は秘策があるの」
そう言うわりに、長澤さんは得意げといった感じではなく、なぜか物憂げな表情を浮かべている。スマホを取り出して、何度か操作した後で画面を見せつけてきた。
「このニュースにヒントを得たの」
画面には、若手有名俳優の二股交際記事が表示されていた。二股相手のひとりは若手の人気女性俳優で、もうひとりは読者モデル。連日ワイドショーのネタにされてSNS上でも大炎上している。
「これが、秘策?」
「この俳優は若いのに実力派で知られていて、日本の俳優業界の至宝とまで言われていた。つまり普通にすごしていれば富も名声も思うがまま。将来安泰、楽勝人生だった。彼女だって二人とも美人でスタイルも同じくらい、どっち選んだって大して変わらない」
長時間操作されなかったため、スマホの画面が暗転する。
眉間にしわを寄せた俺の顔が黒の中に浮かび上がった。
「にもかかわらずこいつは二股をかけた。芸能人なんだから、自分が記者に狙われる存在だって理解してるのに」
「前例が何人もいて、そいつらがどうなったかも知ってるはずだしな」
「そう。それでもこいつは二股をつづけた」
長澤さんはスマホをポケットにしまうと、ゆっくり目を細めていく。
「バレたら仕事も名声も信頼も全部失うのに、莫大な違約金も発生するのに、こいつは二股をやめられなかった。輝かしくて、安定していて、成功者として生きられる人生よりも、二股をすることで得られる性的興奮を優先したんだよ」
棘そのものみたいな言葉が長澤さんの口から吐き出されていく。
長澤さんの闇の深さを改めて思い知った。
「要するに、このクソ俳優の中では背徳感が勝ったのよ。二股がバレてすべてを失う可能性がある中で、それでもいけないことをしているって事実は極上の興奮をもたらしてくれる。強烈なのよ。だったら私たちも利用すべきだと思わない?」
すぐに返事はできなかった。
口の中が苦くて痛い。
俺は成功者として生きられる素晴らしさを鎧にする予定だったが、それは大きな間違いなのかもしれない。
このクソ二股俳優のように、誰もが羨む肩書きを背徳感に変え、その背徳感を性的興奮につなげてしまうかもしれない。
「でも、具体的にどうするんだよ」
俺の中の醜い葛藤を長澤さんにぶつけるわけにもいかず、平然を装って聞き返す。
「簡単よ」
長澤さんは弾むような声で言ったが、目はちっとも笑っていなかった。
「私は彼氏、神谷くんは彼女を作ってからエッチなことをするの。刺激としてはかなりのものだと思わない?」
長澤さんは最低なことを言っている。
けれど、それがどんなことであっても可能性があるなら縋りたい。
俺たち異常者は、正常にならなければいつまでも孤独だ。
世間から気持ち悪がられる秘密を抱えながら、正常な人間なふりをして表面上だけの人づき合いをつづけなければいけない。
「でもこんな方法、二股って、ちょっと気が進まないんだけど」
長澤さんの提案を承諾しかけていたが、俺の中のわずかな良心がその言葉を引きずり出してくれた。
「は? なに言ってるの」
だが、長澤さんの冷たく尖った声が、俺の良心を一撃で粉砕する。
「神谷くんは異常者側でしょ」
反論は許さないという圧力が鋭い目から発せられている。
「因果応報なんだから罪悪感なんか抱く必要はない。正常な人間どもは私たちの異常な性癖を受け入れないどころか、よってたかってバカにしてキモいって迫害している。つまり先に仕掛けたのは正常な人間どもなんだから、私たちには彼らに報復していい正義があるの」
都合よく解釈された言葉を聞きながら、俺は小学校二年生の給食の時間を思い出していた。
――人間以外を好きになるとかおかしくね? そいつ人間じゃないじゃん。
その発言が飛び出した場では先生も笑っていた。
子供にとって一番の正義の味方である担任の先生も、注意するどころか一緒になって笑いやがったのだ。
「私たちが正常な人間相手に二股したっていいのよ。広義的な意味での正当防衛ね。先に仕掛けた方が悪くて、私たちはやり返しただけ」
「……でもさ」
長澤さんの言葉に被せたものの、その後がつづかなかった。
やられたからやり返してもいいという考えは、やっぱりちょっと違う気がする。
だけど長澤さんの意見を全否定するのは気が引けるというか、全部が全部間違ってはいないというか。
「あのさ、神谷くん」
少しだけ充血している長澤さんの目は、俺の迷う心を見透かしている気がした。
「私とあいつら、どっちを選ぶの?」
「……わかった。やろう」
そう言われたら受け入れるしかない。
だって、俺が長澤さんを選ばなかったら長澤さんは孤独になってしまう。俺の気持ちどうこうではなく、長澤さんを暗闇の中で独りぼっちにはさせられない。
それに、よくよく考えるとこの実験はメリットしかない。
もしこれで俺が長澤さんに興奮できれば、晴れて普通の性癖を獲得できる。
反対にこの実験が失敗すれば、俺が背徳感を性的興奮につなげないことが証明される。つまり誰もが羨む肩書きを鎧にして、異常を抑え込みながら生きつづけられるのだ。
「でもさ、俺たちに彼氏彼女なんてすぐ作れる……の、か」
気持ちが沈んだのは、彼女候補が具体的に思い浮かんだから。
「俺、もう候補がいたわ」
「それって笹川さん?」
「は?」
いきなり変なこと言うなよ。
「だって笹川さん、神谷くんのこと好きっぽいし、簡単にオッケーしそうじゃん」
「違うよ。嫌いなやつと、ふりでもつき合うわけないじゃん」
笹川さんを彼女役に選ぶと思われていたことがショックだった。笹川さんなんて候補にも挙がらなかった。
「ってかそっちは候補いるの?」
「もちろん。昨日告白されてる。返事は保留してあって、だからこの作戦を思いついた」
「誰から?」
「それは……」
「まさか小太りのおじさん?」
「死んでも嫌だ。そいつが金持ちでも、私が普通になれても絶対嫌だ」
長澤さんはムキになって言い返した後、すぐに自分の大きな胸を見下ろしながら、苦々しげに呟いた。
「でも、これがあるだけで恋人なんか簡単に作れるのよね。たぶん私、よく見たら結構可愛いし」
「自分で言うか、それ」
「クールビューティーと言っても過言じゃないかも」
「だから自分で言うなって」
「事実じゃん。ほんと皮肉よね。容姿に恵まれなくて恋愛を謳歌できない人がいるってのに」
「つまり普通になれば、俺たちは遊び放題じゃん」
「そうね。それを楽しみに今回は頑張りましょう」
長澤さんとがっちりと握手を交わす。
彼女は笑顔を浮かべているのだが全然嬉しそうに見えない。
氷像と対峙しているのではないかと思うくらい、長澤さんの手は冷たかった。
俺は今、食堂裏に呼び出したとある女の子に告白している。
以前、真っすぐな告白をしてきた二つ結びの女の子、武元瞳さんだ。
彼女の告白が長澤さんと出会うきっかけになったのだから、そういう意味では彼女に感謝をしている。
「断ってからずっと心に引っかかってて、目で追うようになって、好きかもしれないって思って。ダメかな?」
「そんなことない。嬉しい。ありがとう」
武元さんは頬を真っ赤にして、とろけるような笑顔を浮かべて、大粒の涙を流してくれた。
こうして俺は一度フッた女の子、武元さんとつき合うことになった。
なんでこんなことになってるの? という疑問は最もだと思うので、こうなった経緯をこれから説明していきたいと思う。
自分でも自分を軽蔑しているけれど、きちんとした理由があるから、俺の行為は絶対に正当化されるべき愚行だ。
生徒会室での一件から今日で一週間。
あれ以来長澤さんと会話していないし、メッセージのやり取りもしていない。
絶望に打ちのめされた俺は現実から目を逸らすためにチーズを裂きまくったが、長澤さんはどうやってこの一週間を乗り切ったのか。
ぴちぴち跳ねる魚のどこがいいのか俺にはわからないが、長澤さんも俺と同じように自分の異常な性癖に溺れていたのではないかと思う。
『また生徒会室に集まれない? 今後のこと話しておきたい』
この停滞した状況を変えたのは長澤さんだった。
俺だってこのままではいけないと思っていたので、すぐに了承する。
けれど一度失敗しているからか、今回もどうせ無駄だろうなという感情を消し去れなかった。
迎えた放課後。
職員室で鍵を借りて生徒会室に向かうと。
「神谷くん。ちょうどよかった」
長澤さんではなく、笹川さんが扉の前で待ち構えていた。
「笹川さん。どうしたの?」
「昨日はありがとうって、改めて伝えときたくてさ」
「昨日? ……ああ、そういや」
校長やら教頭やらに集まってもらって、性別関係なく各個人が好きな制服を選べるようにしたいと話したんだった。
校長も教頭も、他に集まった先生たちも嫌な顔ひとつせず、今はその方がいいよなぁと賛成してくれた。
「来年度には間に合うよう検討するとも言ってたし、よかったな。希望が通ってさ」
「うん。そうなんだけどさ」
笹川さんはなぜか唇を尖らせる。
「でも、あの場に私もいたのに、なんなら言いはじめたのは私で、神谷くんも『笹川さんからの提案で』って言ってくれたのに、なんか神谷くんだけの手柄みたいになってたじゃん」
「手柄?」
脳が、その三文字を理解するのを一瞬だけ躊躇した。
「たしかに、神谷くんのおかげ的なことは言われたけどさ」
私たちも変えた方がいいんじゃないかとは思っていたんだけど、神谷くんに言われてやっと決心がついたよ。きっかけをありがとう。
そう言って手を伸ばしてきた校長と握手をしたが……改革は成功したんだから、手柄とかどうでもよくないか?
「でしょ? やっぱり女ってこういうとき損だよ。凝り固まった考えの年寄連中は男しか評価しないんだから」
いや、性別は絶対関係ないよね?
手柄がほしいなら、なんで周囲からの評価も人望も高い俺に頼んだ?
俺が称賛を独占するに決まってんじゃん。
なにを言ったかではなく誰が言ったかの方が大事だって高校生ならもう知ってるはずだし、都合のいいときだけ『女はいつも虐げられる』理論を持ち出すな。
「神谷くんと一緒になにかやるのは楽しいし好きなんだけどさ、私もちょっとは褒められてもよくない? なんか納得いかないっていうか、今度は私一人でやってみようかなぁ」
そういやこいつ、俺のこと好きなんだっけ?
「あー、どっかに悩んでる人いないかなぁ。神谷くんと協力できたのは嬉しいけど、やっぱり一人でやってこそ正当に評価されるっていうか、そういう自立した人同士だからこそお互いに高め合えるっていうか」
なるほど、これが笹川さんの言っていた、あなたの好みのタイプがここにいますよアピか。
「あっ、そうだ。トイレ問題! 最近話題になってるよね? この学校でも取り上げたら」
「笹川さん」
いいこと思いついた! って目を輝かせた笹川さんの言葉を意図的に遮る。
「笹川さんはさ、誰かに頼まれたの? トイレも、制服も、現状を変えてほしいって」
人から褒められたい、一目置かれたいって気持ちが完全に悪いとは思わない。
好きな人を振り向かせたいから好きな人のタイプを目指すのだって、やり方として間違いではない。
だけど、笹川さんは完全におかしい。
「いや、別に頼まれたわけじゃないけど、時代に合わせてルールもアップデートしていかないと。これから入学してくる後輩のために私たちが動かなきゃ。みんなが生きやすくて、みんなが本当の自分を自由に出せる、真の多様性を目指さなきゃ」
鼻の穴を膨らませながら壮大な理想論を語る笹川さんを見て、嫌悪の鳥肌が立つ。
みんな、みんな、みんなって。
そのみんなに俺や長澤さんは入っていますか?
話題になっていることだけ、自分が想像できる世界だけが世の中のすべてじゃねぇんだよ。
「そうかもしれないね」
身体は苛立っているのに心は凪いでいる。
笹川さんの意見に賛成したわけではなく、彼女と話し合うのを諦めた。
「笹川さんはすごいね」
自分が当事者じゃないのに、私がみんなを代表して主張してあげていると言える傲慢さだけは本当にすごいと思う。
「時代の流れを的確に考えてて、見習うところばっかりだ」
「そんな褒めないでよ。みんなが考えようとしてないだけだし、神谷くんから褒められちゃったら私がすごい人みたいじゃん」
まんざらでもない表情を浮かべて、謙遜になっていない謙遜をする笹川さん。
「ってか神谷くんの周りで困ってそうな人いない? 神谷くんってそういう相談とかよくされそうじゃん。私も人助けしたいから協力させてよ」
前のめりになる笹川さんの圧に負けないよう、足を踏ん張らせて直立不動を保つ。
内臓も骨も血管も、身体の内側にあるものはすべて彼女から逃げるように背中側へ傾いている。
「今はいないかな」
一瞬だけ、長澤さんの顔が脳裏をよぎった。
絶対に言うもんかと思う。
俺たちの問題を、笹川さんの承認欲求の餌にされたくない。
「そっか。じゃ、なんか相談されたら教えてねー」
笹川さんは『口の軽い人間になって信用を失ってねー』と同義の言葉を残して去っていった。
「お前なんかに言うはずないだろ」
笹川さんの背中を早々に見切って生徒会室に入り、何度も舌打ちする。
すぐに長澤さんがやってきた。
「また笹川さんだったじゃん。今度はどうしたの?」
「見てたんだ」
「一瞬だけね。話してたから、とりあえず見つからないようにその辺歩いてた」
「お気遣いありがとうございます」
長澤さんはすでに閉められているカーテンをもう一度しっかりと閉めにいく。この前と同じだ。
「で、今度はどんな鞭で責めら」
「昨日のお礼だよ。女子にもスラックスをってやつ、先生たちに提案したから、そのお礼」
いじられるのを察知して言葉を被せると、長澤さんは不満げに唇を尖らせた。
「ああ、なぜかあいつが一人でやらなかったやつね」
長澤さんは右手の爪を興味なさげに眺めている。
笹川さんの爪と違って不自然に光ることのない、普通の爪。
「長澤さんって、笹川さんのこと苦手なの?」
言葉に、俺をいじるときとは異なる毒が含まれていたので、嫌いという言葉を少し柔らかくして聞いてみる。
「苦手っていうか」
長澤さんは不敵に笑い、冗談っぽくつづける。
「ああいう女は絶対将来男に依存しまくって、旦那のステータスが自分のステータスだと誤認して威張るタワマンマウント女になりそうっていうか、旦那の金で買ったでっかい帽子とサングラスかけて毛のない謎の犬を散歩してるオーガニック溺愛女になりそうじゃん」
長澤さんのこういう斜めな思考、嫌いじゃない。
「偏見がひどすぎない? でも絶対その女の旦那はコンサルやってて、真っ白なジーンズと金のネックレスとクラッチバッグで六本木を闊歩してるだろ!」
「それか、社長で金持ってることだけが取り柄の、小太りのおじさんだよね」
「絶対そいつの妻は金目当てなのに、好きになった人の歳がたまたま離れてただけだって言い張ってるだろ! 狙いにいかないと小太り社長となんて出会えるわけないのに!」
「神谷くんって意外と辛辣だよね」
「長澤さんがこのノリはじめたんだろ。俺はそれにつき合ってるだけだから」
「ノリ? なに言ってるの? 私は真実を言ったまで。私って嘘つけない女だから。なんでも正直に言っちゃうから」
「それも遠回しに誰かをディスってるよね。なんかいい風に聞こえるけど、ただ悪口大好きで気が遣えないだけだよね?」
「女子はみんなこんなだよ? 悪口が嫌いな女子はいないから」
「世の男性のみなさーん。これでも女子が好きだって言えますかー? 裂けるチーズや魚の方がましだと思いませんかー?」
俺たちの正当性を主張したタイミングで長澤さんと顔を見合わせてから、腹を抱えて笑う。
ああ、本当に楽しい。
世界に理解されない性癖を抱えている点だけでなく、世の中を見る角度も似ていることがわかった。
「でも、実際に笹川さんは一人じゃなにもできないタイプだよ……いや、一人でやったら面倒事ばっかり引き起こすタイプかも。私は頑張ったのにって被害者面して周りに尻拭いを押しつける、よりたちの悪いタイプかも」
「それは……なんかわかる」
「私はさ、絶対に独りで生きていくことが確定してるから、最終的に男に依存すればいいって思ってそうな女が本当に嫌い」
独りで生きていく。
その言葉を長澤さんが発した瞬間、わずかに心が痛んだ。
が、心が痛んだ理由がわからない。
「…………でもね」
俺が自問自答している間に、長澤さんが歩み寄ってきていた。
俺の目の前で立ち止まり、みぞおちのあたりを人差し指でつんと突いてきた。
「神谷くんが社長になって稼いでくれるなら、喜んで依存するよ。神谷くんといるときは演じなくていいから楽だし」
いきなり上目遣いで見られると……なにもなかった。意外と目が大きいんだなぁという感想は抱いたが、『ドキッ』とか『萌えっ』とか、そういうピンク色の感情に包まれることはない。
「まあ、最低でも一千万は普通に稼ぐ予定だけど」
最低でもそれくらいは稼げるようにならないと、年収が自分の異常を抑え込む鎧にはなりえない。
「あ、でも小太りのおじさんになるのはやめてね。クラッチバックまでは黙認してあげるから」
「そこは好きになった人の歳がたまたま離れてただけって言ってくれよ」
「私を夫の職業でマウント取ったり子供にハイブランドを着せて満足したりする女と一緒にしないで」
「偏見のオンパレードだな。さっきからずっといろんな人を敵に回してるぞ」
深く考えずにそうツッコむと、長澤さんの表情が曇った。
「私たちの味方なんて、最初から私たちしかいないじゃん」
「……それもそうか」
せっかく楽しい空気が復活しかけていたのに、一瞬で重苦しくなってしまった。
……でも、あれ?
さっき長澤さんが『独りで生きていく』と言ったときに感じた心の痛みが消えていた。痛みを感じたときと同じで、痛みが消えた理由もよくわからない。別の苦しさで上書きされたからだろうか。
「そういや、今後について、なんか話があるんだろ?」
考えても考えてもわからない気持ち悪さを紛らわすため、俺から話を展開させる。
「ごめん、そうだったね。前回の反省を踏まえてさ、いろいろと作戦を考えてみたんだよ」
「言っちゃ悪いけど、前回どうにもならなかったんだから、同じこと繰り返しても意味ないと思うけど」
「身も蓋もないこと言わないでよ」
「……ごめん」
「謝らなくていいから。今回は秘策があるの」
そう言うわりに、長澤さんは得意げといった感じではなく、なぜか物憂げな表情を浮かべている。スマホを取り出して、何度か操作した後で画面を見せつけてきた。
「このニュースにヒントを得たの」
画面には、若手有名俳優の二股交際記事が表示されていた。二股相手のひとりは若手の人気女性俳優で、もうひとりは読者モデル。連日ワイドショーのネタにされてSNS上でも大炎上している。
「これが、秘策?」
「この俳優は若いのに実力派で知られていて、日本の俳優業界の至宝とまで言われていた。つまり普通にすごしていれば富も名声も思うがまま。将来安泰、楽勝人生だった。彼女だって二人とも美人でスタイルも同じくらい、どっち選んだって大して変わらない」
長時間操作されなかったため、スマホの画面が暗転する。
眉間にしわを寄せた俺の顔が黒の中に浮かび上がった。
「にもかかわらずこいつは二股をかけた。芸能人なんだから、自分が記者に狙われる存在だって理解してるのに」
「前例が何人もいて、そいつらがどうなったかも知ってるはずだしな」
「そう。それでもこいつは二股をつづけた」
長澤さんはスマホをポケットにしまうと、ゆっくり目を細めていく。
「バレたら仕事も名声も信頼も全部失うのに、莫大な違約金も発生するのに、こいつは二股をやめられなかった。輝かしくて、安定していて、成功者として生きられる人生よりも、二股をすることで得られる性的興奮を優先したんだよ」
棘そのものみたいな言葉が長澤さんの口から吐き出されていく。
長澤さんの闇の深さを改めて思い知った。
「要するに、このクソ俳優の中では背徳感が勝ったのよ。二股がバレてすべてを失う可能性がある中で、それでもいけないことをしているって事実は極上の興奮をもたらしてくれる。強烈なのよ。だったら私たちも利用すべきだと思わない?」
すぐに返事はできなかった。
口の中が苦くて痛い。
俺は成功者として生きられる素晴らしさを鎧にする予定だったが、それは大きな間違いなのかもしれない。
このクソ二股俳優のように、誰もが羨む肩書きを背徳感に変え、その背徳感を性的興奮につなげてしまうかもしれない。
「でも、具体的にどうするんだよ」
俺の中の醜い葛藤を長澤さんにぶつけるわけにもいかず、平然を装って聞き返す。
「簡単よ」
長澤さんは弾むような声で言ったが、目はちっとも笑っていなかった。
「私は彼氏、神谷くんは彼女を作ってからエッチなことをするの。刺激としてはかなりのものだと思わない?」
長澤さんは最低なことを言っている。
けれど、それがどんなことであっても可能性があるなら縋りたい。
俺たち異常者は、正常にならなければいつまでも孤独だ。
世間から気持ち悪がられる秘密を抱えながら、正常な人間なふりをして表面上だけの人づき合いをつづけなければいけない。
「でもこんな方法、二股って、ちょっと気が進まないんだけど」
長澤さんの提案を承諾しかけていたが、俺の中のわずかな良心がその言葉を引きずり出してくれた。
「は? なに言ってるの」
だが、長澤さんの冷たく尖った声が、俺の良心を一撃で粉砕する。
「神谷くんは異常者側でしょ」
反論は許さないという圧力が鋭い目から発せられている。
「因果応報なんだから罪悪感なんか抱く必要はない。正常な人間どもは私たちの異常な性癖を受け入れないどころか、よってたかってバカにしてキモいって迫害している。つまり先に仕掛けたのは正常な人間どもなんだから、私たちには彼らに報復していい正義があるの」
都合よく解釈された言葉を聞きながら、俺は小学校二年生の給食の時間を思い出していた。
――人間以外を好きになるとかおかしくね? そいつ人間じゃないじゃん。
その発言が飛び出した場では先生も笑っていた。
子供にとって一番の正義の味方である担任の先生も、注意するどころか一緒になって笑いやがったのだ。
「私たちが正常な人間相手に二股したっていいのよ。広義的な意味での正当防衛ね。先に仕掛けた方が悪くて、私たちはやり返しただけ」
「……でもさ」
長澤さんの言葉に被せたものの、その後がつづかなかった。
やられたからやり返してもいいという考えは、やっぱりちょっと違う気がする。
だけど長澤さんの意見を全否定するのは気が引けるというか、全部が全部間違ってはいないというか。
「あのさ、神谷くん」
少しだけ充血している長澤さんの目は、俺の迷う心を見透かしている気がした。
「私とあいつら、どっちを選ぶの?」
「……わかった。やろう」
そう言われたら受け入れるしかない。
だって、俺が長澤さんを選ばなかったら長澤さんは孤独になってしまう。俺の気持ちどうこうではなく、長澤さんを暗闇の中で独りぼっちにはさせられない。
それに、よくよく考えるとこの実験はメリットしかない。
もしこれで俺が長澤さんに興奮できれば、晴れて普通の性癖を獲得できる。
反対にこの実験が失敗すれば、俺が背徳感を性的興奮につなげないことが証明される。つまり誰もが羨む肩書きを鎧にして、異常を抑え込みながら生きつづけられるのだ。
「でもさ、俺たちに彼氏彼女なんてすぐ作れる……の、か」
気持ちが沈んだのは、彼女候補が具体的に思い浮かんだから。
「俺、もう候補がいたわ」
「それって笹川さん?」
「は?」
いきなり変なこと言うなよ。
「だって笹川さん、神谷くんのこと好きっぽいし、簡単にオッケーしそうじゃん」
「違うよ。嫌いなやつと、ふりでもつき合うわけないじゃん」
笹川さんを彼女役に選ぶと思われていたことがショックだった。笹川さんなんて候補にも挙がらなかった。
「ってかそっちは候補いるの?」
「もちろん。昨日告白されてる。返事は保留してあって、だからこの作戦を思いついた」
「誰から?」
「それは……」
「まさか小太りのおじさん?」
「死んでも嫌だ。そいつが金持ちでも、私が普通になれても絶対嫌だ」
長澤さんはムキになって言い返した後、すぐに自分の大きな胸を見下ろしながら、苦々しげに呟いた。
「でも、これがあるだけで恋人なんか簡単に作れるのよね。たぶん私、よく見たら結構可愛いし」
「自分で言うか、それ」
「クールビューティーと言っても過言じゃないかも」
「だから自分で言うなって」
「事実じゃん。ほんと皮肉よね。容姿に恵まれなくて恋愛を謳歌できない人がいるってのに」
「つまり普通になれば、俺たちは遊び放題じゃん」
「そうね。それを楽しみに今回は頑張りましょう」
長澤さんとがっちりと握手を交わす。
彼女は笑顔を浮かべているのだが全然嬉しそうに見えない。
氷像と対峙しているのではないかと思うくらい、長澤さんの手は冷たかった。