放課後部室へ行くと響が一番のりだった。
 三年生は受験があると言って春から来なくなっていたし、一年は全員が素人レベルなこともあり、自宅で練習しているのか、あまり部室に顔を出さない。
 学祭に出演すると言っても、出し物のメインは、演劇部の舞台と全国大会常連の吹奏楽部の演奏で、軽音部は前座的な役割でしかない。期待している人などろくにいないため、出演バンドが響たちだけでも構わないだろうけど、それはそれで目立つから嫌だと思わなくもないし、どうするのだろう?と少しばかりの焦りはあった。

「あれ? 響だけ? 南波は?」
「珍しいー」
 北田と弓野が現れた。
「ほら、『魔術師』の楽譜」
 北田からA4用紙の束を渡される。
「無理だわこんなの」
 弓野がベースをドスンと机の上に置き、中身を取り出しながら続ける。
「昨日家で弾いてみたけど、絶対に無理!」
「じゃあミセスにしよ! アルグレの次に好きだろ? 『ライラック』にしようぜ。響がいればなんとかなるっしょ」
 北田の言葉を聞いて、響は『ライラック』のイントロリフを弾いてみせた。アルグレ回避のチャンスは逃せない。
「ほら」北田が大袈裟な手振りで響を指し示す。
「自信ねー。ヒゲダンは?」弓野が声をあげる。
「いいけど、お前弾けんの?」
「ミセスより弾けると思う」
「香里奈たち『ダンスホール』踊るって言ってたし、ミセス繋がりの方がよくない?」北田がスマホを操作しながら答える。
「言ってたな。確か『踊』も」
「昨日見たけどめちゃくちゃかっこよかった」
「まじ? 俺は帰って練習してたのに、カラオケ行くっつって香里奈たちんとこ行ってたのかよ!」
「だって、呼ばれたから」
「誘えよ」
 北田のスマホから通知音。
「あ、今日もこれからやるって」スマホをスクロールしながら言う。
「まじ? どこで?」
「第二体育館」
「行くべ」弓野は立ち上がり、ベースをケースに戻し始める。
「お前も来んの? 練習は?」
「家でやっとくから。それにミセスにするんならまた楽譜探さなきゃじゃん」
 ケースを肩にかけ、弓野は北田の背中を押してドアに向かい、そのまま喋りながら部室を後にした。
 と思ったら弓野が再び顔を出して「あ、ということで今日の練習はパスな」そう言って去っていった。

 来てすぐに帰るなんて、これではバンド練習どころではない。とは言え北田たちの行動を理解できないこともない。男子高校生たるもの、女子に呼び出されては何よりも優先すべきことなのだろう。
 しかし響にとっては別世界の話だ。男子に対してすら消極的なのに、女子になんて話しかけることすら不可能で、恋愛なんて興味の外にある。そんなふうに高校生活を満喫するよりも、ギターに打ち込んでいるこの生活の方が楽しいし充実している。クラスメイトたちと上辺だけの付き合いでも構わないし、疎外感も感じない。
 それは恭平の存在があるからだった。
 あれだけの技術があるんだから、遊ぶ暇すらないだろうし、親しい友人すらいない恭平に彼女なんているはずがないと、勝手ながらに仲間意識を持っていた。

 ギターを取り出してアンプに繋ぎ、なとりの『絶対零度』を弾き始める。
 一人だからと油断して鼻歌で歌いながら弾いていたら、ドアの開く音がしたので慌てて演奏を止めた。

「なんで止めるんだ?」
 恭平だった。
 鼻歌でも歌ってしまっていたせいだったが、そんなことを言えるはずがない。どう返答しようか迷っていると、恭平は部室の隅で埃を被っていたキーボードのところへ向かった。
「なとりか」
 スイッチをいれ、いきなり『Overdose』を演奏し始めた。
 ──めちゃくちゃかっこいい。
 歌のメロディ部分と伴奏部分を同時に弾いている。シンプルだが派手さもあり、キーボード一つでここまで魅せられるのかと感心した。
 弾き終わり、自然と拍手をしてしまうほどだった。
 恭平は振り向こうとして途中で止め、再びキーボードへ向き直り、今度は同じくなとりの『フライデーナイト』を弾き始めた。これまた驚くほど良かった。
 ドラムだけでなくキーボードも弾けるとは。それも相当な年数を弾いてこなければ出来ないレベルだ。

 ほれぼれと聴き入っていた響は、演奏が終わってすぐに、恭平の側へ歩み寄った。
「何年弾いてるんだ?」
「……13年」
「まじ?」
 響は思わず声を上げた。ということは3、4歳から? 湊よりも小さい頃からだ。ピアノにドラム……同じ音楽バカだと思って感じていた仲間意識が揺らいだ。仲間どころか先輩じゃないか。

「なとりは好きか?」
「えっ? 好きだよ」
「……河瀬が一番好きなミュージシャンは?」
 誰だろう? 以前ならアルグレと答えていたが、今は口が裂けても言いたくない。
 迷っていたら、恭平が先に答えた。
「俺はなとりが好きだ」
 意外だった。
 普段演奏しているジャンルとはまるで違う。ハード寄りのロックが好きなのだと思っていた。
「じゃあ学祭で……」
「北田に歌って欲しくない」
 言い終えないうちに恭平がかぶせてきて、響は吹き出した。
 北田に歌って欲しくないなんて、相当好きなんだと思ったら可笑しくなったのだ。
「……誰もが歌っていい曲と、本人以外に誰にも歌って欲しくない曲がある」
「ああ……」
 それには同感だ。『歌ってみた』で次々にカバーがアップされ、プロでも他のミュージシャンの曲を歌ったり演奏したりしているが、いくらプロでも本人以外は残念だという曲は少なからずある。
 なとりはまさに完成形という声だから、他の誰にも歌って欲しくないというのはわかる。Adoも天才歌手だと思うが、それでも『Overdose』はなとりだけの曲という感じがする。

 恭平はまたアルミケースを出してきて、マイクやスタンド、オーディオインターフェイスなどを用意し始めた。
 遅れて響もそれを手伝い、そのあと五回ほどレコーディングした。

 翌日、そのまた翌日と同じように、恭平のレコーディングの手伝いをしていくうちに、セッションをしていただけの頃よりも会話が増えてきた。
 薄々気がついてはいたものの、好きなアーティストやジャンルが丸かぶりだったことを改めて知り、あの曲がいいとか、あのリフは最高だとか、よくあんなメロを思いつくよな、などと盛り上がり、親しく話せるようになっていった。

 帰り支度を済ませて帰宅しようとしていたあるとき、恭平が戸締まりをして、鍵を庇の上に置いたタイミングで、思いついて声をかけた。
「あのさ、せっかく同じクラスで同じバンド仲間なんだし……恭平って呼んでもいい?」
「は?」
 気恥ずかしい提案だが、今まで出会ってきた誰よりも気が合うように感じられて、初めて自分から親しくなりたいと思った相手だったから、思いきって言ってみることにした。
「俺のこと、河瀬じゃなくて響って呼んでほしいから……」
 なにより、兄のアーティスト名である『Kawase』と同じ名前で呼ばれることに抵抗があった。名字なので仕方がないが、呼ばれる機会が増えてきたから、クラスメイトと同様になるべく名前で呼んでほしいという思いがあったのだ。
「わかった」
「ホント? じゃあ、響って呼べよ。恭平って呼ぶから」
「ああ」
 胸を撫で下ろした。照れくさい提案をしても、茶化すことも断ることもなく、いつもと同じ態度でいてくれた。恭平は、こんなふうにこちらの気持ちを汲んでくれるところがある。
「恭平と話す機会なんて、今までいくらでもあったのにもったいないことしてたなあ」
「話すのは苦手だ」
「だよね。俺もだよ。つーか音楽の細かい話題まで話せるやつがいなかったからなんだけど。兄貴が家を出たせいで、かなり鬱憤が溜まってるんだよね。この間キタ兄が出した新譜聴いた? あのアレンジぶっ飛んだよな──」
 話し出すと止まらないほど、恭平との会話は楽しい。相変わらず寡黙ではあるものの、意外と気さくだし、冗談も通じる。それにさすが音楽歴13年というか、そんな視点があったのかと驚くようなことを的確に突いたりもして勉強にもなる。
 恭平も孤独を好んでいるタイプだからか、引っ込み思案なところを理解してくれるのではという思いもあり、これまで自ら他人と深く関わろうとしていなかった響も、恭平に対してだけは心を開き始めていた。