週が明けて登校すると、恭平は何事もなかったかのように接してきた。だから響も同じようにして、恭平の前では平静を装った。
 目の前で泣いてしまったから、恭平はそれを慰めようとしただけだ。それが少しばかり行き過ぎてしまったのだろう。恭平も自分と同様に、人を避けているところがあるから、他人との距離感がうまく掴めなかったのだと考えて、自分を納得させた。

 しかし、自分の中で湧き上がった感情のほうは、そのようにして静めることはできなかった。
 絶望から一転、最推しのアーティストに歌を認めてもらえて、これまで聞いたことのないほどの言葉で褒めちぎられて、もう死んでもいいというくらいに嬉しかった。
 それなのに、恭平に抱きしめられ触れられたとき、今まで感じたことのない感情が襲った。触れたいという欲求が、これまでとは比較できないほど強くなった。惚れ込んだアーティストに対して抱く執着が、到達したことのないレベルにまで高まった。
 ただ演奏できるようになるだけでは足りない。声が好きだと言われても、共にバンドを組むことになってもまだ足りない。もっと欲しい。自分だけを見て欲しい。自分だけを必要として欲しい。Kyoを──恭平を自分のものにしたい。そう考え始めるようになってしまった。

 一人でいるときはKyoの曲ばかりを聞いて、楽器を手にすればそればかり。少し前の日常と変わらないようでいて、大きく変化したことは、曲ではなく恭平のことばかりを考えていることだった。
 土日なんて来なければいいと思い、毎日顔を見たい、席が離れているため席替えをして欲しい、一日中部活だったらいいのにと願う。

 ファンの抱く感情としては、行き過ぎていることは自覚していた。それでも、驚くほど熱中しているせいだと結論づけることしかできなかった。
 おかしいとは思いながらも、行動に出さないように耐えることしかできない。あとはどうしようもないのだと割り切るしかなかった。

 ニコ動騒動が起きてからというもの、恭平とは相も変わらずすれ違いの日々だった。
 歌を投稿したせいで、Kawaseの弟だとバレたときと同じくらい、ひっきりなしに声をかけられるようになり、恭平に話しかける隙がない。
 恭平のほうも、香里奈の曲制作があるため毎日忙しそうで、そればかりか部活にもほとんど顔を出さない。
 バンドを組むはずなのに、レコーディングはどうなるのかと不満を覚えた。
 しかし、むしろこれは絶好の機会なのかもしれないとも思いつく。
 クラスでも部活でも一緒だから常に考えてしまうだけで、少し離れていれば以前通りに戻るはずだ。
 そう考えて、本格的に活動を始める前に、この気持ちを落ち着かせることにしようと心に決めた。

 それに、もう一つ気にかかることがある。
 学祭にバンドで出演する予定なのに、夏休みが終わっても一度もまともに合わせていない。北田と弓野はダンスの練習にかかりきりで、まったくと言っていいほど部室に現れないのだ。プログラムを制作するために、バンド出演の旨は既に実行委員会に届け出ているため、今さらキャンセルすることもできないし、ビビリな響でも、そのことに関しては叱咤しなければならないと感じていた。 

 その日響は意を決して、昼休みに北田たちのクラスへ向かった。しかしタッチの差で教室を後にしたようだった。行き先はわかっている。第二体育館だ。
 バンド練習よりもダンスを優先していること自体が面白くなかったため、なるべくならその現場に行きたくなかった。恭平が香里奈に協力をしているからなおさらだ。
 とは言え放課後にずらしたとしても結局は同じだ。そう考えて肩を落としつつも、響は第二体育館へと足を向けた。

 着いたとき、もう食事を終えたのか、北田と弓野は体育館の隅で柔軟体操をしていた。
「頑張ってんね」
「響じゃん、珍しい」
「なに? 俺らの勇姿を見に来た?」
「そう。あのさ……」
 いざとなると怖気づいてしまって、言葉に詰まる。
「あ、そういや学祭さ、南波と新しいバンド組むんだろ?」
 北田が当然のことのように言うと、弓野も同じように続いた。
「まじ楽しみ。だってあのニコ動の曲やるんだろ?」
「なんの話?」
「え? 南波が言ってたけど……」
「集合!」という声が体育館の中央から聞こえた。3組の女子が手を挙げている。
「やべ、行かなきゃ」
「じゃな、響。どっちみち俺らは無理だったから枠を空けることにならなくて助かった」
「そそ。楽しみだし。お互い頑張ろうぜ」
 北田と弓野はそう言って片手をあげ、集合しているところへ向かって走っていった。

 中央に集まった八人ほどの体操着の男女は、音楽を流してダンスを始めた。曲はMrs.GREEN APPLEの『ダンスホール』だ。
 シンプルな振り付けだが、ひとつひとつの動作が全員揃っていて、思っていた以上にかっこいい。
 部活でもろくに練習をしない北田と弓野のことだから、ダンスも同じように適当なんだろうと舐めてかかっていたが、間違いだった。熱心さがまるで違う。

 終わって二回目が始まっても、響は去りもせずに見続けていた。
「珍しいね」
 いつの間に隣に来ていたのか、ダンスを見るのに夢中で気がつかなかった。
「葉山さんはやらないんですか?」
「やるよ。私と勇斗だけパートが違うから。彼らはバックダンサーで、私たちとは振りが違うの」
「なるほど」
「ふふ」
 笑い声がしたため隣を向くと、ニヤニヤとした笑みでこちらを見ていたので、眉根をひそめる。
「なに?」
「河瀬くんも恭平と新しいバンドやるんでしょ?」
「え……たぶん」
「なにそれ? あ、もしかして全然会えてない?」
 質問の意図が不明確で、返答に詰まった。まるで会えなくて寂しい想いをしているかのような物言いだ。言葉を探していた響を待たずに、香里奈は続けた。
「もう完成したから、今日から一緒にいれるんじゃないかな?」
「完成したんだ」
「そう。昨日完成版をもらったから、今日の放課後から本格的に振りに入るんだ」
「学祭もあるのに大変だね」
「これも踊るから」
「あ、そっか。じゃあますます大変だ」
 苦手意識を持っていた香里奈と普通に話せている。一時期は顔も見たくないとまで思っていた相手だったのに。
「もう河瀬くんの独占だよ」
 再び返答に詰まって首を傾げる。
「恭平と頑張って。じゃあね」

 香里奈がダンスのメンバーたちのところへ向かったので、ふと時計を見ると、昼休みの残り時間が迫っていることに気がついた。まだ弁当を食べていないことを思い出し、教室に戻ることにした。

 涼しい気候で天候も良いためか、教室に残っている生徒はわずかだった。
 窓際の席で恭平が机に突っ伏している姿を見て、響は弁当を持って恭平の前の席に座った。
 椅子の向きとは反対に座り、突っ伏しているすぐ横で弁当を開けて食べ始めた。

 恭平は髪の毛の量が多い。くせっ毛で、ところどころくるんと丸まっている。
 恭平の方が10センチ以上は背が高いため、つむじを覗く体験は初めてで、注意深く観察してしまう。
 眺めていると髪の毛を触りたくなってくる。突っ伏している頭の横に見えている手も。
 恭平の手は大きい。響の手がすっぽり隠れるのではないかと思うほどだ。大きいのにすべすべとして見えて、手にも触れたくなる。

「じろじろ見るな」
 驚いて、箸を取り落としそうになった。
「起きてたの?」
「人が寝てる横で弁当食うな」
 起き上がって伸びをする。同時に大きな口を開けて欠伸をした。眠そうな目に涙が浮かんでいてキラキラと輝いて見える。
「いいじゃん」
「匂いで起こされる身になれよ」
「え! 臭かった?」
「逆だ逆」
「じゃあいいじゃん」
「そういや俺も食ってなかったわ」
 恭平はカバンから惣菜パンを二つ取り出した。
「恭平っていつもパンだよな?」
「親父だけだからな」
「料理しないの?」
「休みの日くらい。あとは俺がする」
「え! 恭平って料理できるの?」
「できるっつーか、必要に迫られてやるだけだ。だから弁当なんて勘弁。時間がないってのにそんなことしてらんねー」また大きな欠伸をした。
「食いかけだけど……食う?」
「要らん」
「残すから」
 恭平を観察し始めたときから箸が止まっていた。胸が詰まって食事どころじゃなかったからだ。だから食べかけとは言いつつも、ほとんど手を付けていない。
「全然食ってねーじゃん」
「うん。だから食べてよ。母さん悲しむじゃん」
 響は立ち上がる。
「どうした?」
 聞こえないふりをして、何も言わずにふらふらと席を離れた。

 久しぶりに恭平の側に寄って間近で話したからか、動悸が酷いことになっていた。病気かと思うくらいに心臓がバクバクとして、熱でもあるように身体が熱く、涼しい気候なのに全身が汗だくだった。
 これ以上側にいたら悪化してしまうと考えて席を立ったのだが、実は今にも触れてしまいそうだった。
 あの大きな手に、くせっ毛の髪に、耳にある小さなほくろを撫でて、ほっそりとした顎に指を滑らせて、薄く形のいい唇に触れてしまいそうだった。

 恭平の前の席に座ったまではよかった。遠くから眺めている分には、以前通りに戻れていると思えていた。
 しかし、だめだった。
 側へ近づいた途端に、抑えようと努めていた全てが吹き飛んだ。恭平に対する執着心と独占欲以外、頭になかった。

 響はポケットからイヤホンを取り出して耳に入れ、外界を全てシャットアウトした。
 午後は保健室に行っていたことにしよう、そう考えてサボることに決めた。