部室に入り椅子に座らされ、ミネラルウォーターを差し出されたので、それを飲んだらで少し落ち着いてきた。
「響の歌を投稿させてもらえないか?」
 思わず口に含んでいた水を吹き出した。
「なんだって?」
「レコーディングさせて欲しい」
「なんで?」
「お前の声を世界中に聞かせたい」
 いきなり何を言い出したのだと頭がフリーズした。香里奈ではなく自分を選んでくれて、必要とされて舞い上がっていた響だが、恭平からの意表を突く言葉を聞いて頭が真っ白になった。
 頭の中で反芻し、その意味を理解し始めると、次第に冷静になってきた。
「まだバンドを組んですらいないのに何言ってんだ?」
「バンドを組むのもダメか?」
「いや、組むのはいいよ。嬉しいけど、だからっていきなりレコーディングは無理」
「せっかくチャンネルがあるんだから、組むなら投稿したい」
「でもまともに歌を聞いてないだろ? まずはそれからだ」
「何時間も聞いた。最高だった」
「ドア越しだろ? それにあんなの、本気じゃない」
 実は本気だったけど、目の前にいるという緊張感はなかったから、まだ八分目というところだろう。
「十分だ」
「レコーディングをするかどうかは、Kyoとして目の前で聞いて納得してからにして欲しい。精一杯練習するから」
 きょとんとした恭平は、次第に口の端が上がって、笑みを抑えきれないといったふうに片手で口元を押さえた。
「それは、レコーディングしてくれるってことか?」
 めちゃくちゃに嬉しそうな様子を見て、こんな顔をするんだと驚く。
「いや、だからまずは聞いてみて──」
「聞かなくてもいい。十分だ。えっと、どうしよう。レコーディングするなら……いや、ちょっと待て、心の準備が必要だから……」
「心の準備ってなんだよ? エレアコ借りるよ」
 壁際にもたれかかったままの恭平のエレアコを取りに行き、戻ってきてチューニングを確認する。
「何をしている?」
 恭平の声が震えている。
「何がいい?」
「えっ」
 これまた見たことがないほどに狼狽え始めた。
「『ツキカゲ』でいい?」
「はあっ? だめだ!」
 恭平はいきなり立ち上がり、両手を振る。
「だめ? じゃあ『ディスコミュニケーション』?」
「やめろ」
 青ざめたような顔で近づいてきて、ギターのネックを掴まれた。これでは演奏できない。
「じゃあ、何がいいんだ?」
「今はだめだ」
「なんでだよ」
「俺は出ていく」
 そう言ってドアの方へ向かい始めた。
「は?」
 しかしドアの手前で足を止めて、こちらに振り返る。
「……出ていくが、歌を聞きたくないからじゃない」
 言葉を探しているように俯いた恭平は、心を決めたのか顔をあげた。
「書いた曲を響に歌ってもらえるのは念願だった。全て響のために書いた曲だったから」
 響は飛び上がりそうになった。
 惚れ込んだアーティストにそんなことを言われては、嬉しくて舞い上がるどころではない。
 そこまで惚れ込んでいてくれたのかと驚き、感激した。
「ありがとう」
 それならばとギターを構えたら、慌てた様子で近づいてきた恭平に、再びネックを掴まれた。
「だけど、今は聞けない。ちょっと待ってほしい」
 一貫性のない言葉が意味不明すぎる。響は戸惑い、いったいどういうことなんだと恭平に戸惑いの目を向けた。
 そのときようやく気がついた。
 部室の照明ではよく見えていなかった恭平の顔が、ほんのり赤くなっていることを。こめかみからは汗が流れ、視線はあちこちに彷徨わせている。
「また別の機会にしてほしい。今は……あ! 用事が……ちょっと用事があって……。わるい」
 そう言い残して部室を駆け出ていった。
 響の止める声も聞かず、躊躇う様子もなくドアから出ていった。

 歌って欲しいと言いながら、今は聞けないという。
 レコーディングをさせて欲しいと言いながら、逃げるように去った。
 用事があると言うのも、その場で思いついた嘘のように聞こえた。