「じゃあ、今年の学祭はアルグレの『魔術師』で決まりだな」
 放課後になり、部室のドアノブに手をかけたときだった。やはりそうきたかとギクリとし、ドアを隙間ほど開けた状態で硬直した。
 『魔術師』とは深夜アニメ『世界から色が消えた』の主題歌で、アルグレの最新曲だ。
 秋にある学祭で演奏する曲をそろそろ決めなければならない。どうやらその話をしているようだ。弟が兄の曲を、しかも兄のパートを演奏するとなると、比較されるどころではないため、できることなら回避したい案だった。

「まじ? むずくない?」
 ボーカルの北田(きただ)の提案に答えたのは、ベースの弓野(ゆみの)だ。小中と一緒の幼馴染だそうで、二人とも茶髪にピアスとチャラけているが、陽気で根は優しい。
「せっかくメンバーに弟がいるんだから、やらない手はない!」
 北田たちのクラスにも噂が届いてしまったのか。
「あ! 噂をすれば」
 ドア側に向いていた弓野からは丸見えだったようで、立ち聞きはすぐに終了した。
「よお」いかにも今来ましたという素振りで入室する。
「あ、響! 今、学祭の曲考えてて『魔術師』にしようかって」北田が振り向く。
「兄貴なんだって? 教えろよー! ビビったわ」
 響がギターケースを机の上に置いたところに、弓野が声をかけてきた。
「わざわざ言う必要なくない?」
「照れんなよ」
 弓野がふざけて髪をわしゃわしゃと撫でてきたので振り払う。
「別に照れてない」
「いいなー、俺なら自慢して回るわ」
「俺も」
「響はギターバカだもんな」
「俺たちのような俗物とは違うみたいな?」
「そうそう。てか、だからあんなにギター上手いんだな」

 ──これも何度となく言われてうんざりしている言葉だ。
 湊の方が少し早く始めたものの、練習量では負けていないつもりなのに、ギターを演奏すると「弟だから上手いんだ」と、いつもそう言われてしまう。
 兄が有名なギタリストだろうが弟の腕に関係はないし、実力は努力の賜物だというのに。

 響は話題を変えつつも、アルグレを回避しようと試みる。
「『魔術師』ってむずくない?」
 北田が振り返る。
「俺、カラオケで何度も練習してるし既に完璧」
 弓野がスマホを操作して『魔術師』を流す。
「いや、でもテンポ速すぎね?」
「学祭まで三ヶ月あるだろ? 夏休み中にやり込めばできるっしょ」
「そうかな? まあ、ボーカルがそう言うなら」
「せっかく弟がメンバーにいるんだから、期待されるよきっと」
「確かに」
 弓野と北田に視線を向けられ、響は返答に詰まってドラムに話を振ることにした。
南波(なんば)は?」
「……俺はなんでもいい」
「南波に意見なんてねーよ。叩けりゃ満足するやつだ」北田が割って入る。
 アルグレ回避のために、技術的な面をさらに叩くことにする。
「でも、もっと簡単な方がよくない? さすがに無理だと思うけど」
「簡単? また古い曲やんの?」
 嫌そうな北田の返答に、弓野も続く。
「去年みたいな知らねー親世代のバンドの曲なんて盛り上がらねーよ。やっぱ最新の曲じゃなきゃ」
 まだパンチが弱い。それならば、と反論の手を変える。
「じゃあヒゲダンとか……」
「ああ、ヒゲダン好き」
「無理無理! むず過ぎ!」
 北田は乗ってくれたが、弓野には効かなかったようだ。他に何か手は、と考えていると──

「北田いる?」
 突然、ドア(ぐち)から女子が顔を出した。
「あ、香里奈(かりな)!」北田が跳ねたように立ち上がる。
「ここにKawaseの弟がいるって──」
「ああ、こいつこいつ」
 北田が響の横に来て腕を掴み、反対側の手で指し示した。
「まじ?」
「ホント?」
「全然似てない」
 香里奈の後ろには何人か女子がいるようだ。
「マジだって!」
 北田が女子たちの方へ行くと、弓野も続いた。
 葉山(はやま)香里奈だ。探るような目を向けられて、慌てて逸らす。
「名前は?」
「河瀬響」なぜか北田が答える。
「河瀬だって!」
「じゃあマジなんだ」
 女子たちが小声で騒ぎ立てている横をすり抜け、香里奈が部室に入ってきた。
「河瀨くん、名前の漢字は?」
 響よりもわずかに背が高いらしい香里奈に、顎をあげ見下ろすようにして問われて、怯んでしまう。
「……音響の『響』って書いて『ひびき』だけど」
「きょう……ひびき……」
 香里奈は考え込むように呟いて、なぜか笑みを浮かべた。
 何か続きを言いかけようとしたのか、口を開いたとき、香里奈の制服のポケットからスマホの通知音が鳴った。
 意識を逸らされた香里奈はスマホを取り出し、
勇斗(ゆうと)が呼んでる。行こ」
 女子たちに向かってそう言うと、踵を返して部室を出ていった。
「あ、待って!」慌てたように女子たちがついていく。
「香里奈!」北田も言いながら後を追い、
「あ、じゃあ『魔術師』で決まりな。楽譜探しておくから」と言って弓野も続いた。

 賑やかしい声が少しづつ遠のいていく。
 反対に軽音部の部室は静まり返った。

「不服そうだな」
 愉快そうな声が聞こえて、響は振り返る。
 ドラムの南波恭平(きょうへい)だ。ドラムスローンに腰を下ろして、スティックをくるくると指で器用に回している。
「不服って、何が?」
「嫌なんだろ? アルグレ演るの」
 響はドキリとした。兄弟であることを指摘されたくない、その想いを見透かされているのだろうか?
 動揺が表に出ないように素知らぬ顔で返す。
「嫌っつーか、むずいじゃん」
「まあ、このバンドじゃな」
「北田が歌い切れるとは思えない」
「それにベースもだ。リズム刻むくらいがせいぜいなのに、リフなんて弓野には荷が重い」
 響はホッとした。どうやら不服な顔をした理由はバンドのレベルが低いからだと解釈してくれたようだ。

 ギターを手にしてアンプのスイッチを入れる。
 恭平がドラムを叩き始めたので、足元にあるエフェクターのつまみを操作して、ギターを鳴らした。
「何を演る?」
 問われたので、リフで答えた。
「ああ、いいな」
 恭平も響の演奏に合わせてリズムを刻み、Official髭男dismの『Pretender』をギターとドラムだけで演奏し始めた。

 一人で黙々とギターを弾いている孤独から逃げたくなった響は、自宅から離れているという理由だけでなく、軽音部があるからもあって、この八代高校を選んだ。
 入部してバンドを組むことができて、孤独からは解放されたが、素人に毛も生えていないレベルの部員ばかりで、学年で一組でも組めればいい程度の人数しかいないため、選り好みもできず、バンドはお粗末とも言えるクオリティだった。
 ボーカルはカラオケでも耳をふさぐほどだし、ベースはただ鳴らしているだけでリズムもあったものじゃない。それでも響ともう一人、抜きん出てレベルの高いドラムがいるおかげで、バンドとしての醍醐味を味わうことはできた。
 だから活動が自由過ぎてろくにメンバーが集まらず、ほとんど恭平と二人きりでも、セッションするだけでもと、毎日部室に顔を出している。

「そのアレンジだったらギター一本でもいけるな。さすが河瀬」
「これになると思って」
 北田がヒゲダンにハマっていると耳にしていたので、学祭では『Pretender』を演奏することになるだろうと、密かにアレンジを考えつつ練習していた。
「……俺もだ。ミセスも好きだって言っていたから『ライラック』あたりかもしれないとも思ったが、弓野じゃ無理だな」
 確かにミセスはベースラインが特徴的だし、ヒゲダンよりも難しい。

 恭平がドラムを鳴らし始めた。これは──ONE OK ROCKの『完全感覚Dreamer』だ。
 お気に入りの曲だったため、慌てて入った。

 恭平は上手い。どのジャンルでもお手の物だ。こうやって適当に弾き始めたときも、いつそんな練習をしていたのかと驚くほど、どんな曲でも演奏してしまう。
 一年のときから同じクラスで部活も一緒。最も長い時間を過ごしている相手だと言えるのに、親しい友になるどころか、会話すらろくにしたことがなく、連絡事項を伝え合うか、今のように雑談をする程度の関係だ。
 しかしそれは、恭平自体が他人というものに対して興味がないからのようだった。いつも周りをシャットアウトするように、スマホを片手にイヤホンで耳を塞ぎ、話しかけられてもニコリともせず、他人と関わりたくないというオーラを常に放っている。
 成績は常に上位で、ドラマーがゆえか逞しい体つきをしているし、癖のある厚めの前髪をかき上げればイケメンなのだから、モテてもおかしくないと思うのだが、背の高さを隠すように身体を丸め、いつも俯いていて陰気な印象を与えているからか、騒がれるどころか避けられている。
 しかし部活に関してだけは熱心で、誰よりも最初に来て最後まで帰らない。音楽への情熱は響に負けず劣らずなので、その面では密かに親近感を覚えていた。

 それが現在の恭平に対する印象の全てだった。これまでは。今日それに多少の変化があった。

 朝から響がKawaseの弟だという話で持ち切りなのに、恭平は一言も口にしていない。
 これだけ噂になっているのだから気にはなっているだろうに、どうでもいいことだとしても、そう思ってくれるヤツが身近にいると思うと気が楽になるし、敢えて言わないようにしてくれているのだとしたら、そんなきめ細やかな心遣いができるのかと認識を改めざるを得ない。

 どちらにせよ、恭平に対して、これまでとは違った印象を感じたことは間違いなかった。