【第参話】
御作祭を三日後に控え、いよいよ大詰めの作業に入った玉露様は文机にかじりつくようにして書類の山と向き合っていた。
その隣で私は玉露様が確認した書類に次々と判子を押し、黙々と封筒に綴じていく。進捗は順調だし、以前のような書類の山脈が形成されることもないし、現場の準備は八雲さんと黒瀬さんが手伝ってくれている。
だが今日も今日とて妖怪達は無理難題を捻り出し、ハチャメチャな企画を押しつけ、玉露様を困らせ続けていた。おかげで未だに祭りの準備が終わる気配がまるで見えていない。……あと三日なのに。
「はぁ」
おもむろにため息を吐き出した玉露様を見上げると、文机に頬杖をついて虚ろな目つきで宙を眺めていた。万年筆を握りしめているが一向に動くことはない。まさに、心ここに非ず。やる気はあるが気力が追いついていない様子だった。
「あ、あの、玉露様……?」
私の呼びかけに数瞬して気づき、玉露様は長いまつげを震わせた。
「ごめん、ごめん! ぼーっとしちゃってたよ。あはは」
口を大きく開けて笑う玉露様だったが、空元気にしか見えなかった。
「さーて、と! ここが踏ん張り時だねっ」
私が心配していることに気づいた玉露様はわざとらしく咳払いをして、白銀の髪を紐で括り直した。
「玉露様……少し、休憩をされた方が」
「大丈夫だよ。うん、大丈夫」
どこからどう見ても大丈夫ではなかった。が、玉露様は文机を這いずるような姿勢で書類を速読し、万年筆をすらすらと走らせた。決して弱音を吐くことなく、妖怪達の無茶苦茶な企画を頭ごなしに突っぱねることなく、真摯に向き合い続けた。
玉露様は生真面目すぎる。……まぁ、そういうところが素敵なんだけども。
目の前の仕事をこなしつつ玉露様をチラチラと見守っていると、表情が見る見るうちにだらしなく呆けていった。手からこぼれ落ちた万年筆が畳に落ちたことも気づかず、ぽけーっと固まっている。
「……玉露様」
流石にもう見ていられなくなり、私は開口した。
「気分転換をしませんか? お祭りが差し迫っているとはいえ、焦りすぎも禁物ですし。時には休むことも王様の大事なお仕事ですよ」
呆けた表情で私を見つめたまま、玉露様は弱々しく頷いた。
「……うん。確かに、そうだね」
玉露様は観念したように頷き、万年筆を拾って文机の上に転がした。そして、気の抜けた表情であくびをすると共に全身がまばゆい光に包まれ、次の瞬間には白猫の姿となった玉露様は座布団の上に横たわっていた。
「今日はまったり休んで体力を回復して、仕事の続きは明日の昼間にやろっか。その方がずっとか効率的だもんね」
「はい! ご一緒させていただきます!」
「ありがとう、牡丹ちゃん」
玉露様が身体をぐぐーっと伸ばすと可愛らしい肉球が露わとなり、私は無性に胸が高鳴ってしまった。以前、玉露様の肉球を一度だけ触ったことがあるが、この世のものとは思えないぷにぷにの柔らかさだった。
首だけを器用に曲げて玉露様は障子窓を見て、外がまだ明るいことを確認して「にゃー」と嬉しそうに鳴き声を上げた。
「ねぇ、牡丹ちゃん。気分転換に帝都に行かない?」
薄い桃色の肉球に見蕩れてしまっていた私は慌てて理性を取り戻し、素早く首を動かし頷いた。
「い、いいですねっ! では早速、準備を――」
「いや、行くのは真夜中にしよう」
私の言葉を途中で遮って玉露様は喉をゴロゴロと鳴らした。
「よ、真夜中ですか?」
「うん。折角だし、仮眠をとって元気になってから行く方が愉しいかな、と思ってね。それに、真夜中の帝都は昼間とは異なる魅力が溢れているんだ」
夜中の帝都……。宵闇に浮かび上がる双雲十三階の怪しさを思い浮かべ、私は生温かい唾をごくりと呑み込んだ。
★ ★ ★
「そーっと、ね」
真夜中の廊下を抜き足差し足で進みながら、玉露様は潜めた声を上げた。小さな提灯が照らす玉露様の姿は今日も麗しく、闇に馴染んだインバネスコートと白銀の美貌が絶妙な調和を編み出していた。
玉露様は腰に携えた漆黒の太刀をちょんちょんと触り、「もし悪い奴が出てきたら僕が叩っ切るから安心して」と穏やかな声色で物騒なことを仰った。
真夜中とはいえ帝都へのおでかけ、ということで私はお気に入りの青海波の小紋に身を包んでいた。帯も勿論、合わせて用意してもらった淡い紅色……牡丹色だ。
あの後、玉露様も私も自室でぐっすりと仮眠をとったおかげで心身共に絶好調。気分転換には最高の状態だ。
ちなみに、切符は事前に買ってある。流石に室内で黄金の鳥居を出現させるわけにはいかないので、広々とした庭に向かっているというわけだ。
「牡丹ちゃん、止まって」
不意に玉露様は足を止め、廊下の端っこに提灯を向けた。ぼんやりと照らされたのは、一匹の小さな蜘蛛。その身体には不可思議な紋様が浮かび上がっており、ただの蜘蛛ではなさそうだった。
「この蜘蛛は八雲さんの眷属の一匹さ。八雲さんは屋敷を護るために無数の蜘蛛を放っているんだ」
人間のおばあさんそっくりな姿しか見ていないので忘れかけていたが、そういえば八雲さんも妖怪だったことを思い出した。確か、オニグモと人の間に生まれた女郎蜘蛛だったはずだ。
成程。女郎蜘蛛だから蜘蛛を眷属として操っているのか、と私は納得した。
「屋敷を見張ってくれているのはありがたいけど……それはそれとして、僕達が真夜中に抜けだそうとしているのが見つかったら怒られるかもしれないからね」
悪戯っ子のように微笑んだ玉露様は懐から扇子を取り出し、蜘蛛に向けてそっと扇いだ。すると、そよ風を浴びた蜘蛛は一目散に踵を返して去っていった。おそらく妖術で何とかしたんだろう。
「念には念を入れて、もう一つ結界も貼っておこうかな」
そう仰って玉露様は扇子をひらりひらりと舞わせて、何やらぶつぶつと唱えた。
「これでよし、と」
妖術のことはちんぷんかんぷんの私には何が「よし」なのかはわからないが、玉露様が仰るのなら「よし」なのだろう。単純な性格なもので、心なしか周囲が清らかな空気に包まれた気がする。
「わ」
廊下を抜けて庭に出ると、爽やかな夜風が吹き込んだ。夜空にはやたらに立体的な雲が無秩序に漂い、天を穿つ大穴のように満月が不気味に輝いている。
そんな真夜中の庭の中央に真っ黒な影がうずくまっていることに気がつき、玉露様と私は一歩後退った。それは、しなやかな四つ足で起き上がり、鋭い眼光で玉露様を睨みつけた。
「わん」
低い鳴き声を上げたそれは、黒い犬だった。しかし、ただの犬ではない。近づく者を軒並み噛み殺してしまいそうな力強さと、凍てつく空気をほとばしらせる神々しさを併せ持っていた。
犬神。
直感的に、それが犬神であると私は理解した。いや、理解させられた。
「あちゃー、見つかっちゃった」
犬神を一瞥し、玉露様は面倒臭そうに肩をすくめた。
「結界を貼ってたのによくわかったね」
玉露様に声をかけられた犬神は笑うように雄叫びを上げた。刹那。その姿は周囲の闇に同化するように影に呑み込まれていき、やがて、影を斬り裂いて一人の青年が堂々とした足取りで現れた。
玉露様のインバネスコートと似た意匠が施された軍服に身を包み、白銀のサーベルを腰元で煌めかせる鋭利な美貌。
黒瀬さんだ。
「オレは百鬼夜行の王を護る番犬だからな」
「それはそれはご苦労様なことで」
茶化した態度で玉露様は笑った。対する黒瀬さんは訝しそうな目つきで睨んでいた。
「タマ、こんな真夜中にどこへ行く」
「気分転換に帝都におでかけだよ、クロ」
「夫婦そろってか」
私の顔をギロリと見つめて黒瀬さんは口をへの字に曲げた。
「夜は危険だ」
「大丈夫、大丈夫。この前も怨霊をパパッと退治したし」
扇子を太刀に見立てて軽く振り回し、玉露様は胸を張った。しかし、玉露様の態度に背反するように黒瀬さんの表情は刺々しくなり、怒りさえも滲んでいるように見受けられた。
「忘れたとは言わせんぞ。以前、お前が夜に――」
「大丈夫だって!」
黒瀬さんの発言を大声で掻き消し、玉露様はインバネスコートを盛大に翻した。
「クロ。心配してくれてありがとう。……でも、大丈夫だよ。だって、僕はぬらりひょんを倒して百鬼夜行の王の座を奪った最強の妖怪なんだから。ね!」
玉露様の言い分に黒瀬さんは反論したそうな表情で歯を食いしばっていたが、何を言っても暖簾に腕押しだと悟った様子でため息を吐き出した。
「夜も遅いし、クロは寝てて」
「……ああ」
不機嫌な表情のまま去って行った黒瀬さんを見送り、玉露様はどことなく寂しそうな表情で切符を宙にかざした。
★ ★ ★
黄金の鳥居をくぐって一番最初に視界に映ったのは、やはり双雲十三階だった。
隠世の月とは異なり、半分に欠けた月が双雲十三階の頭上で妖しく輝いている。夜空の暗黒と月明かりに挟まれた双雲十三階は茫漠とした雰囲気の幽霊のようで、妖艶な美しさを誇示していた。
隠世は満月だったのに帝都は半月。黄金の鳥居で簡単に行き来できるおかげで失念しがちだが、隠世と帝都は異なる世界を隔てていることを改めて思い知った。
「わぁ」
夜の帳が下ろされて静まりかえった帝都に私の漏らした声がふんわりと響き渡った。
昼間の華やかな喧騒が嘘みたいに真夜中の帝都には人通りがなく、ずんぐりとした静寂が支配していた。隠世の幻想的な夜とはまた異なり、帝都の夜は日常と地続きだからこその非日常感に溢れていた。
綺麗に舗装された歩道には人っ子一人見当たらず、道路には自動車が一台も走っていない。世界が滅びて帝都に人間がいなくなったかのような不可思議な感覚を抱き、ぞわぞわとした不安とドキドキする好奇心が沸き立った。
「んー! 道路のど真ん中を歩くのは気持ちが良いねぇ」
日中は自動車が行き交っている道路を堂々と歩き、玉露様は清々しい表情で扇子を扇いだ。その後を私も続き、真夜中の背徳感をこっそりと愉しんだ。
★ ★ ★
静まりかえった大帝商店街の豆腐屋の向かいの丁字路を曲がり、奇妙な劇場の前を通り過ぎて道なりに進み、狭い階段を下り、今度は広々とした階段を登り、トタン屋根で覆われたトンネルのような通路を抜けると、赤々とした光を放つ歓楽街が広がっていた。
大帝商店街から隠し通路を通って行く帝都の裏の顔。
「ここは、深淵横町」
昼間の華やかさとは別次元の活気に溢れた町並みを見渡し、私は声を出すことも忘れて呆けてしまった。洋風と和風どころか、帝都と隠世が混じり合い、どこにも属さない異国情緒が匂い立つ。まるで、闇鍋を引っくり返したかのような世界だ。
所狭しと犇めく店舗はどれもこれも歪な形で、絵の具をぶちまけた上に墨絵を塗りたくったかの如く不可思議極まりない光景だった。
伝統的な古書堂があるかと思えば、その隣では不気味な仮面の露天商が謎の骨を売っていて、更に向かいの薬屋には『人魚の肉あります』と書かれた胡散臭い看板がデカデカと掲げられている。
雑然とした混沌。
ぐちゃぐちゃだけれど何故か心地よく、むしろ、最適化されているような気さえしてしまう。
派手な装飾のランプがけばけばしい灯りで辺りを照らし、奇妙奇天烈な町並みを彩っている。大帝商店街の半分くらいの狭い通りは赤ら顔の人でごった返し――いや、人間だけでなく、多種多様の妖怪もごった返していた。
人間のおじさんと河童のおじさんが肩を組んで居酒屋に入ったり、おでんの屋台を営む雪女を立派なお髭の紳士が必死に口説いていたり、と妖怪も人間も無礼講のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。
「すごいでしょ」
したり顔で玉露様は扇子を優雅に扇いだ。
「深淵横町は三百年前からある人間と妖怪の憩いの場なんだ。ここでは種族も職業も身分も何も関係ない、世界で一番自由な場所さ」
道の傍らで春画の交換会を開いている集団を興味深そうに覗き込みながら、玉露様は朗らかに笑った。
「革命以前はもっと公な場所だったみたいだけどね。妖怪達が人間社会から姿を暗ましてからは知る人ぞ知る場所になったんだ」
ひらり、とインバネスコートを翻して玉露様は立ち止まった。そして、真っ赤な提灯小僧が跳びはねて客引きをしている居酒屋に視線を向けた。
「良さそうな店だね。ここらで軽くごはんにしよっか」
★ ★ ★
居酒屋の中は凄まじい熱気と共にお酒の匂いが充満していた。大小様々な提灯が店内を鮮やかに照らし、あちこちから愉しそうな宴の声が聞こえてくる。どうやら人間よりも妖怪が好む店らしく、客層は妖怪ばかりだった。
カウンター席ではビール瓶片手に河童が笑い、赤ら顔の天狗が手を叩いて音頭を取り、お多福の仮面を被った店主が大きな杯でお酒を飲み干している。更に、座敷では真っ赤な顔の鬼達が管を巻き、蛇女がちまちまと焼酎を飲みながらタバコをくゆらせていた。
「いらっしゃ~い」
お多福の仮面の店主は気分良さそうに出迎えてくれた。が、玉露様の存在に気づくと見るからに萎縮し、「こ、これはこれは、化猫御前様……」と興が冷めたような声色で手を揉んだ。
「あいつ、何しに来たんだ。不気味な野郎だぜ」
「あの笑顔を見ていると折角の酒が不味くなっちまうよ」
「胡散臭いのが来たし、今日はもうお開きかねぇ」
さっきまでの盛り上がりが嘘のように場の空気は白け、冷ややかな視線と明確な嫌悪感が玉露様にぶつけられた。それでも玉露様は表情を崩すことなく、いつものように微笑んでいる。……それが余計に妖怪達の反感を買い、無尽蔵に罵詈雑言が積み重なっていった。
「あはは。ごめんね、牡丹ちゃん。違う店に行こっか」
飄々と笑いながら玉露様は踵を返そうとしたが、私は首を横に振って否定した。
「……牡丹ちゃん?」
玉露様が心配そうに顔を伺ってくれたが、私は唇を噛み締めているせいで言葉を返すことができなかった。そうしないと、勢い任せに声を荒げてしまいそうだったから。玉露様に迷惑をかけないように、醜態を見せないように、懸命に自分を制御しようと試みた。
歯が震えて、唇が切れて、血が滴り落ちていく。
妖怪達は玉露様を嫌悪していたが、私に対しては憐れむような眼差しを向けていた。恐らく、嫌われ者の妻となったことを不憫に思っているのだろう。玉露様と過ごす結婚生活がどれほど幸せか何も知らないくせに、勝手に可哀想だと決めつけるなんて……!
胸の奥で何かが爆ぜる音が聞こえた。
瞬間、私は怒りに身を任せて開口していた。
「玉露様は良いお方ですッ!」
怒声が居酒屋の喧騒を貫き、妖怪達の無数の目が一斉に私を見つめた。酒気に当てられているせいか、気が強くなった私はまったく臆することなく妖怪達を見つめ返した。
「可哀想に、化猫御前に言わされているんだろうな」
「いや、洗脳されているんじゃねぇか? あいつ、凄まじい妖術使いだって噂だからな」
またしても勝手なことを言われ、私はわなわなと震え上がった。もし、私が鬼だったなら力尽くで居酒屋を破壊していて暴れ回っていただろう。しかし、私はただの人間の小娘。暴力ではなく、言葉でしか怒りをぶつけられないのは幸いだった。
「玉露様は皆さんが思っているような悪人ではありません!」
口元を伝う血を拭い取り、私は声を張り上げた。けれど、誰も聞く耳を向けてはくれなかった。不機嫌な表情で酒を煽り、ぶつくさと文句を垂れるだけ。折角の酒場を台無しにしやがって、という怨嗟の感情さえ渦巻いていた。
「玉露様は――」
「ちょ、ちょっと牡丹ちゃん!」
慌てふためく玉露様に言葉を遮られ、思わず私は「玉露様は黙っていてくださいっ!」と怒りをぶつけてしまった。
「ごめん……」
しゅんと落ち込む玉露様に申し訳なく思いつつ、私は衝動を抑えることができずに力強く一歩踏み出した。と、そこにカウンター席から身を乗り出した赤ら顔の天狗が立ち塞がった。
「嬢ちゃん、ここはどこだい」
「え……? い、居酒屋ですけど」
私の答えに天狗は猛々しく鼻を鳴らした。
「ここは深淵横町! 世界で一番自由な場所だ! 王様だろうが、嫁さんだろうが、一切合切関係ねぇ! いざこざも喧嘩も何でもござれの裸一貫無礼講よ!」
怒濤の勢いで言い放った天狗は近くにあった手頃なテーブルを私の前に突き出し、お酒臭い口をニタニタと歪めた。
「というわけで、勝負しようぜ? 嬢ちゃん、あんたが勝てばいくらでも話を聞かせてもらおう」
天狗は悠然とした態度でお多福の仮面の店主に目配せをして、小さな硝子瓶を持ってこさせた。
「それはダメだよ!」
私の危険を察してくれたのか玉露様は前のめりになって飛び出した。が、私と天狗は同時に睨みつけられてしまい、おずおずと引き下がった。
「こいつは深淵横町名物、電気レモン」
私の前に差し出された小さな硝子瓶のラベルには、バチバチと弾ける頭蓋骨の絵が描かれていた。中にはレモネードとは比べ物にならない真っ黄色な液体がたっぷりと入っている。
「安心しな、酒じゃない。毒も入ってねぇ。ただし……地獄のように酸っぱいぜ」
ドスの効いた声で言った天狗を一瞥し、私は口内に溢れた唾液を呑み込んでゴクリと喉を鳴らした。
「電気レモンを飲み干せたら、お嬢ちゃんの話をいくらでも聞いてやる。だが、飲み干せなかったら、その胡散臭い笑顔が深淵横町に入るのを禁止させてもらう」
「……世界で一番自由な場所なのに出禁にするなんて酷いですね」
「自由だからこそ秩序が必要なのさ」
そう言って天狗は自慢げに胸を張ると、座敷から鬼達の野太い野次が飛んだ。カウンターでお酒を飲んでいた河童や蛇女もいつの間にか私達の周りを取り囲み、邪悪な笑みを浮かべていた。
飛んで火に入る夏の虫、とでも思っているのだろう。
「わかりました……!」
妖怪達の気迫に負けないように私は力強く頷き、電気レモンを手に取った。ひんやりと冷たい手触りが余計に恐怖心を煽り、緊迫感が心に滲んでいく。
「牡丹ちゃん、電気レモンは本当に酸っぱくて危険だよ! 昔、面白半分で飲んだクロが丸一日のたうち回っていたんだから」
いつもムスッとしている黒瀬さんがのたうち回る姿を想像し、気の毒だと思いつつも無性におかしく思ってしまった。おかげで恐怖と緊張が徐々にほぐれていき、心に余裕が生まれた。
「ありがとうございます、玉露様」
静かに感謝の言葉を告げ、私は頬を緩めて玉露様を見つめた。
「私はこの勝負に勝ち、玉露様の汚名を悉く返上してみせますッ!」
啖呵を切った私に対し、玉露様は諦めた表情でがっくりと項垂れた。そして、「わかったよ」と弱々しく呟き、勝負を私に委ねてくれた。
「では」
たかが小娘、と見下している天狗の赤っ鼻を睨みつけ、私は電気レモンを握りしめた。
私の敗北を確信しているのだろう河童はヘラヘラとした態度で焼酎を啜り、蛇女を口説きながら観戦していた。蛇女も満更ではない様子でお酌を注ぎ、私の顔を嗜虐的な眼差しで見つめている。座敷の鬼達はやんややんやと騒ぎ、お多福の仮面の店主は気まずそうにカウンターの向こうに引っ込んでいた。
そして、玉露様が見守る中、私は電気レモンを口元に運んだ。
「いただきます」
下手に躊躇しても無駄にのたうち回るだけだ、と私は意を決して電気レモンを口に含んだ。――瞬間、鋭い酸味が鼻孔を貫いた。洋食屋のレモネードの爽やかな酸っぱさとはまるで異なる、常軌を逸した酸味だ。
むせそうになるのを必死に堪えて、何とか電気レモンを喉へと流し込む。舌がピリピリと痺れ、喉の奥が痙攣する。刺々しい酸っぱさはその名の通り電気がほとばしっているような感覚だ。毒物ではなくても、文字通りの刺激物。飲料というよりも暴力の具現化だ。
それでも私は怯むこと無く、ごにゅる、ごにゅる、と聞いたことのない喉の音を鳴らして電気レモンを無理矢理に流し込んでいく。
息を吸う度に鼻がもげそうなほどに痛い。
体内の水分を全て放出する勢いで涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
きっと、顔は見るも無惨にくしゃくしゃに歪んでいるだろうけれど、今更そんなことを気にしている余裕はなかった。
ぷつん。
何かが事切れる音が聞こえたと同時に全ての音が聞こえなくなった。視界も真っ白になり、まるで玉露様に包まれているような気がして嬉しくなった。ただ、味覚だけは生きていて、凄まじい酸味が暴れ狂っていた。
脳裏に何かが過った。
それは、座敷牢の向こうで怒鳴るお父様だった。続け様に、いやらしく笑う薫子ちゃん。更に、食事と一緒に内緒で新聞を持って来てくれるお手伝いさん。……と、走馬灯のように朧気な記憶が脳内を駆け抜けていく。
優しいお母様と過ごした幼い日々。帝都にお出かけした思い出。美味しい洋食。ズタボロの子猫。……お母様の死。薄暗い屋敷。怒り喚くお父様。暴力を振るう薫子ちゃん。座敷牢。風化していく感情。座敷牢。心を鎖していく。座敷牢。座敷牢。座敷牢。座敷牢。座敷牢。
そして、白銀の美貌。
ぐちゃぐちゃの過去に光が差し込み、玉露様との幸せな結婚生活が脳内を埋め尽くした。一緒に夜食を食べて、遊戯に耽って、こっそり屋敷を抜け出して、仕事を手伝って、帝都にお出かけして、青海波の小紋を買っていただいて……と、無限に等しい多幸感が過去を覆い尽くす。
やがて、記憶は直近に差し掛かり、居酒屋にいた妖怪達の罵詈雑言が蘇った。勝手に私の境遇を卑下して、可哀想だと決めつけ、憐れみの眼差しを向ける。そんな妖怪達に対して沸々と怒りの感情が煮え滾り、口内の酸味を焼き尽くしていった。
ぷつん。
堪忍袋の緒が切れる音が聞こえたと同時に、五感が研ぎ澄まされていく。
「おおおおッ!」
妖怪達の歓声が上がり、玉露様の美貌が震えている姿が見え、私は最後の気合いを振り絞って電気レモンを一滴残らず飲み干した。
「……ふぅ」
酸っぱい吐息を漏らし、私は空っぽになった硝子瓶を机の上に置いた。
一瞬の静寂の後、店内を震撼させるほどの大きな拍手喝采が巻き起こった。鬼達は座敷を飛び出して私を取り囲み、蛇女も河童もお多福の仮面の店主も驚愕と感動にまみれた笑顔で手を叩いていた。
「ぼ、牡丹ちゃん……すごい! すごいよっ!」
大はしゃぎで私の手を取った玉露様の目尻には涙が滲んでいた。きっと滅茶苦茶に心配させてしまったのだろう、と私は突っ走ってしまった自分の頑固さを反省した。
「こいつは参った。まさか、本当に飲み干しちまうとは……」
天狗は天を仰ぎ、清々しい表情で敗北を認めた。
「……で、ではっ」
口内がガビガビになって痙攣し続けているせいでまともに喋ることができず、私は言葉を詰まらせた。お多福の仮面の店主が持って来てくれたミルクのまろやかな甘味で口内を潤し、深呼吸を繰り返した後に再び開口した。
「で、では! 約束を守ってもらいますよっ」
「ああ、もちろんだ! 百鬼夜行の王様について。夜通し聞かせてくれぃ!」
天狗が力強く頭を下げると、それに合わせて居酒屋の妖怪達も一斉に頭を下げた。
「牡丹ちゃん……」
不安そうな眼差しを向ける玉露様に無言で頷き、私は大きく息を吸い込み、勢いに任せて言葉を吐き出した。
「まず! 皆さんは玉露様のことを散々に胡散臭いと言いますが……確かに! 私もそう思いますッ!」
固唾を呑んで私を見つめていた妖怪達は突然の発言に目を丸くして固まった。玉露様は「ぼ、牡丹ちゃん……?」と戸惑っているが、気づかないフリをして私は怒濤の勢いで続きの言葉を発した。
「だって、私も結婚した当日は疑心暗鬼に陥りましたから。浮世離れした美貌、真っ白な風貌、いつも笑って飄々! どこからどう見ても胡散臭いです! ですが、悪いお方ではありません。ただ、胡散臭いだけの良いお方なのですっ!」
鬼気迫る私の言葉に天狗は腹を抱えて笑い出した。やがて、笑いが波及して店内は大爆笑に包まれていった。……玉露様を除いて。
「良いお方、っていうのは具体的にどういうことなんだい」
天狗の問いかけに私は待ってましたと言わんばかりに頷いた。
「たとえば、お仕事関連です! 皆さんが毎日押しつける無理難題を玉露様は目を背けることなく、真っ向から取り組んでいるんです! あんなイジワルな言いがかり、適当に棄却すればいいのにも関わらず……! 毎日、毎日、うんうん唸りながら!」
妖怪達は互いに顔を見合わせ、気まずそうな表情で「確かに」と頷いた。
「どんだけ酷い書類でも毎日しっかり確認して、返事をくれるもんな……」
「いちゃもんにも関わらず、オレ達の思いを汲み取った上で改善点を出してくれるし」
「ウチのしょうもない色恋沙汰にも親身に相談にのってくれていたのよねぇ。……あの時はあざとい感じが胡散臭いと思ったけれど、確かに、胡散臭いだけで良いお方なのかも」
ぽつり、ぽつり、と玉露様を認める声と反省の声が聞こえてきて、私は心の中で小躍りした。電気レモンを飲み干して認められた後だからか、妖怪達が酔っ払っているからか、私の言葉が浸透しやすくなっているようだ。
このまま一気に畳みかけるべし!
「実は玉露様は夜食を食べるのが大好きなんです! 八雲さんに見つからないようにこっそりと! しかも、お気に入りの夜食はかつおぶしをまぶしたねこめしです! 台所で座り込んでねこめしを一心不乱にむしゃむしゃする玉露様は最高に可愛いんですから!」
妖怪達の表情に和やかな笑みが浮かび、「贅沢三昧だと思ったたが、ねこめし好きなのか」「可愛いわねぇ」「ワシも好き」と玉露様のねこめし談義で盛り上がっていった。ここまできたら後一押し! と、私は精一杯に両手を広げて妖怪達の注目を集めた。
「この素敵な青海波の小紋! 玉露様が買ってくださったのですが……私が着たのを見た瞬間に凄まじい早口で感想を連ねる玉露様ときたら! も~本当に可愛いんですよっ!」
しかし、これに対する反応はまちまちで、「可愛い」と同意してくれる妖怪もいれば、「のろけじゃねぇか」と憤慨する妖怪もいた。調子に乗りすぎたことを反省し、私は慌てて咳払いをして、改めて言葉を繋げた。
「玉露様は仕事を頑張ったり、夜食を愉しんだり、のろけたり、と色々な一面があります。なのにも関わらず、皆さんの前では胡散臭い笑顔しか見せません。それは、何故か? ……答えは単純明快!」
一拍の間を置いてから、開口!
「玉露様はカッコ付けたがりの恥ずかしがり屋さんだからですっ!」
私の言葉が轟いた瞬間、居酒屋がはち切れんばかりの大笑いと歓声が沸き上がった。
もはや、嵐。
よもや、宴。
「百鬼夜行の王がカッコ付けたがりの恥ずかしがり屋ときたか! こいつは傑作だ!」
妖怪達はゲラゲラと笑いながらお酒を注ぎ、杯を掲げ、盛大に飲み明かした。
鬼達は嬉々とした表情で野次を飛ばし、蛇女は頬を染めてからかい、河童は下品な唄を歌い、お多福の仮面の店主は大忙しで料理を運び、天狗は朗らかな顔で「もっと聞かせてくれぃ」と私に話をせがんだ。
そして、酔っ払いの騒乱に揉みくちゃにされた玉露様は羞恥で顔を真っ赤にして、何処となくスッキリした表情ではにかんでいた。
★ ★ ★
「申し訳ございません……ッ!」
居酒屋を出たと同時に、私は地面に頭を擦りつけて玉露様に土下座した。小石がじゃりじゃりと額を削り、夜風が染みこんで鋭い痛みが走ってもなお、幾度も幾度も額を擦り続けた。
妖怪達の酒気に当てられ、怒りの感情に駆られた勢いで滅茶苦茶なことをやってしまった。玉露様の抑止も聞かずに勝手な勝負をして、あまつさえ! 敬愛する玉露様を「胡散臭い」とのたまい、「カッコ付けたがりの恥ずかしがり屋さん」と笑いものにするなんて!
いや、酔いや勢いのせいにして責任転嫁をすること自体、言語道断!
百鬼夜行の王の妻としてあるまじき、不敬の数々!
「ちょ、ちょっと牡丹ちゃん!」
頭上で玉露様の慌てた声が聞こえてくるが、私は額をひたすらに摩擦し続けた。いくら謝罪をしたところで、私の罪は決して許されることはない。ならば、どうすればいいか。考えに考えた挙げ句、辿り着いた答えを言い放つ共に私は顔を上げた。
「是非に、打首獄門の刑に処してくださいまし!」
「牡丹ちゃん、落ち着いて!」
見上げると玉露様は今にも泣き出しそうな困った顔で私を見つめてくれていた。ああ、折角の美貌がお労しや。居酒屋で酔っ払い達に絡まれていたせいか、髪はくしゃくしゃに乱れ、着物がはだけて胸元が露わになっているのが実に如何ともしがたい……!
うっとりと玉露様を眺め尽くしてしまっていたことに気づき、私は自らの頬を力いっぱい叩いて活を入れた。
「うどん喰わんか?」
唐突に気の抜けた提案を突きつけたのは、どこからともなく現れた謎の老人だった。作務衣姿の小柄な体躯に、やたらめったら長いつるつるの頭。人の良さそうな笑みを浮かべているが、どう考えても只者ではない。
「じ、じーさん!」
ひっくり返りそうな勢いで驚きながらも、玉露様は素早い挙動で漆黒の太刀に手をかけた。そして、鯉口を切ろうとした寸前、謎の老人は両手を挙げて戦う意思がないことを明確にした。
「御前。今更、お前さんと戦うつもりはないぞ。ほれ、殺気を納めんか」
謎の老人の諭すような言葉に玉露様は静かに頷き、漆黒の太刀からゆっくりと手を離した。
「し、失礼……!」
平謝りする玉露様を一瞥した後、謎の老人は穏やかな眼差しを私に向けた。
「やぁやぁ、牡丹ちゃん。はじめまして、ワシはぬらりひょん。ご覧の通り、しがないジジイ妖怪じゃ」
ひょうきんな態度で会釈をした謎の老人――ぬらりひょんさんを見上げて、私はおずおずと居住まいを正して挨拶を返した。
「えっと、はい、よろしく……です。あ! ぬ、ぬらりひょん? もしかして、百鬼夜行の王の先代の……?」
「おお、知ってくれておったか。そうじゃ、此奴に決闘で負けた先代の王じゃよ」
ぬらりひょんさんはちょび髭を撫でて、あっけらかんと言った。一見しただけでは気の良い好々爺といった風体だが、言葉の節々に独特の余裕が滲み、底知れ無い達人のような雰囲気を漂わせている。
「なぁ、御前よ。お前さんが往来で痴話喧嘩をするようになるとは、ええ嫁さんに出会えたのぉ」
「ええ、まったくです」
玉露様が即答したことに私は嬉しさと恥ずかしさと申し訳なさとがごちゃ混ぜになった。
「ところで、お前さん方」
軽く咳払いをして、ぬらりひょんさんはにんまりと顔を歪めた。
「わしの店でうどん喰わんか?」
★ ★ ★
ぬらりひょんさんに連れられて訪れたのは深淵横町の端の端、高架下の寂れた屋台だった。暖簾には仰々しい筆字で「人気絶頂! 美味饂飩!」と書かれているが、辺りには人っ子一人いない。隠れた名店と言えば聞こえは良いが、流石にここまでひっそりしていると隠れすぎている気もする。
「客が全然来なくての~、暇をしておったんじゃ。ほれ、遠慮することはないぞ」
そう言ってぬらりひょんさんは私には温かい天ぷらうどんを、隣に座る玉露様には冷やし天ぷらうどんを差し出した。玉露様が猫舌であることも考慮した上での気遣い……流石は先代の王だ、と私は感服した。
「では、いただきます」
つるつると美味しそうにうどんを啜る玉露様を眺めていると、きゅ~っとおなかから情けない音が鳴ってしまった。そういえば、今日は夜食を食べ損ねていたんだった。
「い、いただきますっ」
空腹を抑えきれなくなり、私はうどんを勢いよく啜った。
一気にかつお出汁の風味が口内に広がり、もっちりとした柔らかい麺と絶妙に絡み合う。続け様に天ぷらを囓ると、たっぷりと出汁が染みこんでもろもろになった衣と、身が引き締まったむっちむちの海老がうどんの美味しさを更なる次元へと導いてくれる。
色んな意味で疲弊した胃袋に優しく染み渡り、私は安心感に包まれてホッと一息吐き出した。
「美味しい……!」
玉露様と私はそっくりそのまま同じ感想を口に出し、うどんの美味しさに舌鼓を打った。
「美味そうに喰ってもらえて何よりじゃわ」
満足げに何度も頷き、ぬらりひょんさんは朗らかに微笑んだ。
「御前よ、こうして趣味のうどん屋を愉しめるのも、お前さんが王座を奪ってくれたおかげじゃ。……おっと、負け惜しみではないぞ? 千年も王をやっていると流石に疲れてきての、お前さんが受け継いでくれて丁度良かったわい」
そう言ってぬらりひょんさんは玉露様が傍らに立てかけている漆黒の太刀に視線を向け、眉間に深い皺を刻んだ。
「王は大変じゃろう?」
玉露様は何も答えず、つるつるとうどんを啜り続けた。そんな玉露様の食事風景をぬらりひょんさんはしばらく眺めた後、小さく息を吐き出した。
「……おっと、タバコが切れてしまった。ちょっくら買ってくるから、お前さん方はのんびりしといてくれ」
「それでしたら僕が買いに――」
「よいよい。御前、今宵は夫婦水入らずで愉しまんかい。ほっほっほっほっほっ!」
和やかな笑い声を小気味よく響かせ、ぬらりひょんさんは立ち去っていった。
「……相変わらずお節介なじーさんだなぁ」
肩をすくめて玉露様は苦笑していたが、どことなく嬉しそうだった。
うどんをぺろりと平らげた後、優雅に扇子を扇いでいる玉露様に真っ直ぐ向き合い、私は改めて頭を下げた。
「玉露様、先程は本当に申し訳ございませんでした!」
「え? ああ、居酒屋のこと? あははは、全然大丈夫だよ」
罪悪感に押し潰されそうになりなが恐る恐る玉露様を見上げると、全てを包み込んでくれるような爽やかな笑顔が輝いていた。宵闇の中で屋台の提灯に照らされているおかげか、いつにも増して幻想的で人知を超えた神々しさを纏っていた。
「むしろ、色々と愉しかったよ。牡丹ちゃんの頑なに真っ直ぐなところも沢山見られたし。……あ、でも、打首獄門を望むのはやめてね」
「で、ですが……」
食い下がる私を穏やかな眼差しで見据えて、玉露様は扇子をパチン! と閉じた。そして、明るさと妖しさが混合した悪戯っ子のような笑みを浮かべて、私に顔を近づけた。……ち、近すぎて吐息ががががががが!
「じゃあさ、お詫びをしてもらおうかな」
圧巻の美貌が眼前に差し迫り、私は息も絶え絶えになりながらも何とかかんとか歯を食いしばった。
「は、はいっ! 私にできることならば、煮るなり焼くなり何なりと!」
前のめりになった私の暑苦しい勢いに押されるようにして、玉露様は一歩後退した。一瞬、琥珀色の瞳がゆらゆらと揺らめいたのを私は見逃さなかった。
玉露様は苦笑いと共に私から視線を逸らし、力なく首を横に振った。
「僕の話を聞いて…………いや、やっぱりやめておくよ」
扇子を扇いで玉露様は和やかに微笑んだ。それは、――いわゆる胡散臭い笑顔だ。胡散臭いだけならいつものことだけれど、今の笑顔には仄暗い翳りが滲んでいた。飄々とした玉露様の抱える影の片鱗を見た気がして、私は胸が軋むような鋭い痛みを感じた。
失礼に失礼を重ねるのを承知で、私は意を決して開口した。
「玉露様、お詫びを申しつけてください」
「……んー、それじゃあ、美味しいねこめしを作ってもら――」
「そういうのではなく」
煙に巻こうとする玉露様の発言をぴしゃりとはね除け、私は鼻息荒く言葉を続けた。
「話を聞いてほしい……さっき、そう仰りかけましたよね?」
「うぐ」
珍しく玉露様は動揺した様子で口ごもり、更に一歩後退した。しかし、私はすかさず一歩前進して逃げようとする玉露様に詰め寄った。
「以前、玉露様は仰ってくれました。……私を幸せにする、と。であればこそ! 私が幸せになるためには、玉露様も幸せであってほしいんです。いえ、玉露様は一番に幸せであってもらわなくちゃいけないんですっ。だから、お願いします!」
一気にまくしたてて頭を下げた私に対し、玉露様は沈黙した。居酒屋の件に続いて我ながら勢い任せで滅茶苦茶だと痛感する。それでも、玉露様のために――いや、私自身が納得するためにはこれしか方法が思いつかなかった。
これでダメなら今度こそ打首獄門を、と思いかけた寸前、頭上で爽やかな笑い声が聞こえた。
「ははは、参ったな」
ゆっくりと頭を上げると、玉露様は朗らかな自然体の笑顔で私を見つめていた。
「……わかったよ、牡丹ちゃん」
ふぅ、と小さく息を吐き出して玉露様は髪留めを外し、結んでいた白銀の髪を緩やかに解いた。肩まで伸びた髪がふんわりと夜風に吹かれ、提灯の灯りを反射して艶やかな煌めきを放った。
「幻滅させちゃったらごめんね」
「玉露様に幻滅なんかしませんよ」
私は即答した。仮に、万が一、幻滅するようなことを仰ったとしても、その部分が逆に愛おしく思えてより好きになります。と、私は断言した。
「ふふっ」
気の抜けた笑顔で玉露様は肩をすくめ、屋台のカウンターに頬杖をついた。
「クロには気恥ずかしくて言えないし、八雲さんにも情けなく思われそうで言えなかったから……こんなことを言えるのは牡丹ちゃんだけだよ」
百鬼夜行の王として気丈に振る舞わなければいけない責務、化猫御前としての誇り、望月玉露を形成する義務感という名のカッコ付けを全て取り払い、玉露様は頬を緩めて開口した。
「僕は夜に眠るのが怖いんだ」
水面に波紋が広がるように、玉露様の打ち明けた言葉が静かに心に響き渡った。
「……実は、百鬼夜行の王になってから闇討ちされたことがあってね」
「や、闇討ち……ですか?」
「うん。この半年間で、十一回」
続け様に放たれた衝撃的な言葉に不意を突かれ、私は声を震わせた。
「正式な決闘の結果とはいえ、先代のじーさんから王座を奪った僕を許せない妖怪達が多いんだ。その中でも特に過激な連中が闇討ちをして、僕を亡き者にしようとしているのさ。勿論、全員返り討ちにしているけどね」
琥珀色の瞳は寂寞とした憂いを帯び、心の奥にひた隠しにしていた翳りが具現化したかのように顔色は青白く染まっていた。
「奴らは静かな夜の闇に乗じて闇討ちしようとするからね。四六時中、八雲さんの眷属が屋敷を見張ってくれているけど、それでも高位の妖術を使えばどうとでもなる。かといって、八雲さんやクロに夜通し護衛させるのも忍びないし……」
早口気味に仰って、玉露様は傍らに立てかけていた漆黒の太刀を握りしめた。
「だから、いつ闇討ちされても対応できるように、この太刀……鍋切丸をいつも傍に置いているんだ」
「……もしかして、毎日夜ふかしをされているのも?」
私の問いかけに玉露様は照れた表情で頷いた。
「うん。僕は自分の腕には自信があるけど、油断して寝首を掻かれたらどうなるかわからない。今度こそ、殺されるんじゃないか、って考えれば考えるほど怖くなって、臆病風に吹かれて……夜は眠らない方が良いという結論に至ったんだ」
玉露様は先代のぬらりひょんさんを打ち倒して百鬼夜行の王になった。だからこそ、いずれ自分も同じように倒されるかもしれない。と、強迫観念に囚われて疑心暗鬼に陥ってしまったのだ。
居酒屋を出た際に現れたぬらりひょんさんに太刀を抜こうとしたのも、恐怖心の現れなのだろう、と玉露様の先程の行動に私は合点がいった。
「情けなくてカッコ悪いでしょ」
乾いた笑い声を挙げた玉露様に私は首を横に振った。
「いいえ。むしろ、親しみが湧きました」
この半年間、私と結婚するまで玉露様は一人で夜に怯えていた。形は違えど、座敷牢に閉じ込められていた自分とどこか重なる気がして、奇妙な共感を抱いた。
「……牡丹ちゃんと夜を過ごすようになってから闇討ちは一度も起きていない。それはきっと、キミが妖怪達に好かれているからだと思うんだ。だから……」
「私なんぞでよければ、いつでもご一緒しますので!」
玉露様の仰りたいことを先読みし、私は声高々と宣言した。私と一緒にいるから闇討ちが起きていないのは、もしかしたら、ただの偶然かもしれない。けれど、私が一緒にいることで玉露さまの恐れが少しでも和らぐのならば、こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう」
私の目を真っ直ぐ見つめて玉露様は囁くように仰った。
「ふふっ。ずっと一人で抱えていたことを全部、本当に全部、話しちゃった。おかげですっごくスッキリしたよ。……僕は化猫になって、百鬼夜行の王になったけれど、結局のところは子猫の頃から何も変わっていないのかもね」
そう仰って、私の手に玉露様は優しい眼差しを向けた。
★ ★ ★
真夜中の深淵横町を愉しみ尽くした翌日。黄金色の夕焼けに染まる空の下、広場に運び込まれた大量の木箱を見上げ、玉露様と八雲さんと一緒に私は途方に暮れていた。
「想像以上だねぇ……」
玉露様はげんなりとため息を漏らした。
木箱の中身は御作祭のための商品や資材や備品、それに九尾の女将の呉服屋で注文した法被や暖簾がたっぷりと詰まっている。
深淵横町で気分転換ができたおかげで、今日の昼の間に書類の整理はあらかた終わらせることができた。残すは二日後の祭り本番に向けて、会場の設営を進めるだけだ。……だが、想像以上の荷物の量を目の当たりにし、放心状態に陥ってしまっていた。
はたして、これほどの準備をたった三人で可能なのだろうか……。
「あらあらまぁ。夫婦揃って同じような顔をされて、仲良しさんですねぇ」
玉露様と私の顔を一瞥し、八雲さんは微笑んだ。随分と気楽そうだが、その目はどこか虚ろだった。恐らく、現実逃避をしているのだろう。
「ところでクロはどこ? あいつがいれば力仕事は任せられるんだけど……」
「そういえば今日は見かけませんねぇ。おサボりでしょうか。昨日のお説教とおやつ抜きが余程堪えたのかもしれません」
そんな子供みたいなことをされていたのか、と思いつつも、八雲さんに説教されながらムスッとしている黒瀬さんの姿がありありと想像できてしまった。
「はぁ……泣き言を言っていてもしょうがないし、準備を始めよっか」
腕まくりをしながら玉露様が木箱に手を差し伸ばした、その時。
「王!」
からん、ころん、と風流な下駄の音と共に一人の天狗が姿を現した。玉露様と私と八雲さん、そして大量の木箱を順々に眺めて、天狗は荒々しい笑い声を上げて長い鼻を指で擦った。
「ガハハハッ! 折角の御作祭の準備だってのに、随分シケた顔ですな!」
「き、キミは……昨晩の居酒屋の!」
玉露様の言葉と共に私もハッとし、目の前の天狗と居酒屋で対峙した天狗が同一人物であることに気がついた。しかし、昨晩よりも凜々しい雰囲気を携え、玉露様に向ける口調もどことなく尊敬の意が込められていた。
「我ら一同、祭りの準備のために馳せ参じ申した!」
不敵な笑みを浮かべ、天狗は手を叩いた。すると、四方八方から沢山の妖怪達が続々とやってきた。河童、蛇女、鬼の集団、お多福の仮面の店主……と、居酒屋にいた妖怪達もいれば、ろくろ首、半魚人、ぬりかべ、……と、居酒屋にはいなかった妖怪達も大勢いる。
「みんな、一体全体どうして……?」
異様な光景に玉露様の声は掠れて震えていた。
「昨晩、牡丹殿の話を聞いたオレ達は心を改めたんですわ」
照れ臭そうに鼻を赤らめ、天狗ははにかんだ。
「王は胡散臭いだけで、カッコ付けたがりの恥ずかしがり屋。ガハハ! まったく、実にその通りだった! オレ達はただ、長年親しんだ先代への名残惜しさのせいで勝手に毛嫌いをしてしまっていたんだ」
「わいは天狗に話を聞いてな、いてもたってもいられなくなって手伝いにきたんや」
と、巨体を揺らしてぬりかべが言った。
「あの時の牡丹様の勢い、五臓六腑に染み渡ったわぁ。あたし、牡丹様のフアンになっちゃった!」
うねうねと身をくねらせて蛇女は魔性の目つきで私を舐め回すように見つめた。八雲さんは「あらま!」と野次馬根性を炸裂させていた。
「今更、王への不敬を許してもらおうなんて虫の良いことは言いやせん。ただただ、これからの働きを持って償いをさせていただきたい……!」
天狗の言葉と共に妖怪達は一斉に頭を下げた。中には跪く者もいた。一夜にしてここまで反転するなんて、逆に怪しい気もするが……と、考えたところで、かつて玉露様を悩ませた悪い意味での『逆に』を使って勘ぐってしまったことを反省した。
真っ直ぐ信じて、もし裏切られたらその時はその時だ。
「許すも許さないも何もないし、みんなに敬われるような王ってガラでもないけど……。みんな、ありがとう! これから宜しく頼むよ!」
満面の笑みで頷き、玉露様は妖怪達の助太刀を快く受け入れた。
「力仕事ならワシらの出番じゃき!」
「オレはこう見えて大工の息子だからよ、屋台の組み立ては任せてくんな」
筋骨隆々な鬼の集団が木箱から資財を次々に運び、インテリジェンスな丸眼鏡をかけた河童がみんなに指示を出し、妖怪達が一丸となって御作祭の準備が進められていった。いつの間にか黒瀬さんも合流し、不機嫌そうな表情で暖簾を広げていた。
たった三人でやらなければいけない、と震えていたのが嘘のように賑やかな光景を見て、私は活力がグングンと漲っていくのを感じた。