【第弐話】 


 玉露様との結婚から早一週間。隠世での生活にはすっかり慣れたような、未だ慣れていないような、何とも言えない日々を送っている。が、玉露様との結婚生活は幸せなことばかりで、逆に、幸せであることが怖くなってしまうくらいの毎日だった。

 毎晩かかすことなく夜食を一緒に食べ、部屋で一緒に遊戯に耽り、朝になったら昼間でぐっすり眠る。という生活が一週間続いている。

 八雲さんが作ってくれる食事と、玉露様と食べる夜食のおかげで座敷牢に閉じ込められていた頃よりも心なしか膨よかになり、どことなく健康的になった気がする。

 そして今日も今日とて、みんなが寝静まった真夜中に部屋を抜け出して、玉露様と二人きりでこっそりと夜食を食べていた。

「んー! すっごく美味しいっ!」

 台所の隅っこに身体を丸めて座った玉露様は丼いっぱいのねこめしを口に頬張り、歓喜の声を上げた。……外に聞こえないよう、あくまで声を潜めて。

 小さな提灯の仄かな灯りに照らされ、玉露様の美貌が薄闇の中で幻想的に浮かび上がっている。漆黒の太刀を抱え込み、白銀の髪を揺らす涼しげな表情は化猫というよりも若武者の幽霊のようで、四方八方どこから見ても絵になる美しさだった。

 そんな圧巻の殿方がねこめしを貪るの姿をうっとりと眺め、改めて、自分が置かれている特異な境遇のありがたみを感じ入った。

「流石は牡丹ちゃんだね」

 玉露様は心底幸せそうに舌鼓を打ち、私の顔を一瞥した。澄んだ琥珀色の瞳に映る私の顔は自分でも驚くほど和やかに緩んでいた。

「い、いえ、それほどでも……」

 と、謙遜しつつも玉露様に褒められた嬉しさが隠せていなかった。

「でも、玉露様に喜んでもらえたのなら何よりです」

 小さく頷き、自分の分のねこめしに視線を向けた。玉露様お気に入りの定番ねこめし――白ごはんにかつおぶしと醤油――に加えて、生卵一つと少量のちりめんじゃこがふりかけられている。

 朝ごはんの生卵と、お夕飯の付け合わせのちりめんじゃこを八雲さんにバレないようにこっそりと確保しておいたのだ。

「ん~、卵のまろやかさとちりめんじゃこの歯応えが最高に最高だよ!」

 最高に最高……。

 玉露様らしからぬ語彙力の欠如した感想を抱いてしまうほど、お気に召してくれたようで私は心の中でグッと拳を握りしめた。玉露様がいなければ小躍りしたくなるくらいに嬉しい。

 生卵をかけてしまうとねこめしというよりも、たまごかけごはんという印象が強くなってしまわないか、と少し心配していたのだが杞憂だったようでホッとする。

「こんな贅沢な夜食を食べちゃうなんて、イケないことをしているみたいでドキドキしちゃうね。背徳感こそ最高の調味料とはよく言ったものだよ」

 満面の笑みで仰り、玉露様はおかわりまでぺろりと平らげてしまった。そんな玉露様を真正面という特等席で眺められる幸せを噛み締めながら、私は卵じゃこねこめしを口に運んだ。

★  ★  ★

 昼過ぎの隠世は清々しいそよ風が吹き、淡い薄墨の空にふやけた卵のような形の太陽がぼうっと浮かび上がっている。四季という縛りがなく、あちこちで多種多様な草花が自由気ままに咲き誇っている様相は荒唐無稽で、さながら子供が思い描いた極楽浄土のようだ。

 昼過ぎに目を覚ました私は一人、屋敷の庭で草むしりをしていた。

 八雲さんは「奥方様なのですからのんびりとしていてくださいな」と言ってくれるのだが、一人で自室に籠もっていると座敷牢生活を思い出して気が滅入ってしまうので、こうして少しでも手を動かしている方が遙かに気が楽なのだ。

「ふぅ」

 額に浮かんだ汗を軽く拭い、私は周囲をざっと見渡した。黙々と草むしりをしていたせいか、想定よりも随分早くに終わってしまった。綺麗になった庭はさっぱりして気持ちが良いけれど、それはそれとして、このままでは夜まで手持ち無沙汰になってしまう。

 と、焦燥感に駆られていると、八雲さんと黒瀬さんが長屋門をくぐってくるのが目に映った。どうやら買い出しに行っていたようで、黒瀬さんは大量の荷物を抱えている。ムスッとした表情から察するに八雲さんに荷物持ちを無理矢理やらされているらしい。

「あ、おかえりなさい」

 声をかけた私に気づき、八雲さんは柔和な笑顔を向けてくれた。

「牡丹様、ただいま戻りました~。……って、あらま! 草むしりをやってくださったんですね! ありがとうございます~」

「あ、はい。丁度さっき終わったところでして、他に何かお手伝いできることってあるでしょうか?」

 黒瀬さんが両手で抱え込んでいる荷物を一瞥し、私は問いかけた。しかし、黒瀬さんには「これはオレの仕事だ」と視線を逸らされてしまった。

「う~ん、そうですねぇ。買い出しは黒瀬さんに手伝ってもらいましたし……あ! でしたら、これをお任せしてもよろしいですか?」

 八雲さんは何か閃いた様子で、脇に抱えていた風呂敷の中から分厚い封筒を取り出した。その背後で黒瀬さんの鋭い目が鈍く煌めいた、気がした。

「組合の妖怪達から預かった書類なんですが、玉露様に届けていただいてもよろしいでしょうか? 今の時間なら書斎で仕事をされていると思いますので」

「はい!」

 八雲さんから仕事をもらえた喜びで元気いっぱいに返事をして、私は分厚い封筒を受け取った。書類がパンパンに詰まっているようで、ずっしりと重い。その重さは玉露様が百鬼夜行の王として信頼されている証なのかもしれない、と勝手に解釈すると心が温かくなった。

「おつかいをさせて申し訳ありませんねぇ」

「いえ! むしろ、手持ち無沙汰だったのでありがたいですっ」

 封筒をギュッと抱きかかえ、私は力強く頷いた。

「それにしても、すごい量の書類ですね……。随分、溜まっていたんでしょうか」

「あー……それは今日一日の分なんですよ」

「え」

 驚いた拍子に封筒を落としてしまいそうになり、私は慌てふためいた。そんな私を支えてくれた八雲さんは眉毛を八の字に曲げて、困った様子で苦笑した。

「ちなみに昨日も一昨日も、それと同じ量の書類が玉露様に届けられていましてねぇ」

「三日前は倍だった」

 ぼそっと黒瀬さんが補足した言葉に私は口をあんぐりと開けて固まった。

「奥方様に言うのは大変心苦しいのですが……実は、妖怪達の多くは玉露様をあまり良く思っていないのです。だから、相談と称して無理難題を押しつけたり、めちゃくちゃな提案を出したり、と嫌がらせの書類が絶えないのです」

「良く思っていないどころか、大いに嫌われているぞ」

 ぶっきらぼうに言い放った黒瀬さんを横目で睨みつけ、八雲さんは酷く申し訳なさそうに頭を下げた。

「ぎょ、玉露様が嫌われている……? 百鬼夜行の王なのに……?」

 朗らかに笑う美貌を頭の中で思い浮かべ、私は震える声で黒瀬さんの言葉を繰り返した。優しくて、強くて、爽やかな風のような玉露様が嫌われているなんて、にわかには信じられない。

 だが、八雲さんと黒瀬さんの生々しい反応から、それが疑いようもない事実であることは察してしまった。

「百鬼夜行の王ゆえに、嫌われているのでしょう」

 重々しくため息を吐き出し、八雲さんは肩をすくめた。

「……玉露様が百鬼夜行の王になったのは今から半年前。先代の王・ぬらりひょん様を決闘で倒した後、正式に王の座を継承しました。決闘で王位を譲る、ということ自体は妖怪の歴史において珍しいことはありません」

「ただ、ぬらりひょんは慕われ過ぎていた」

 抱えていた大量の荷物を地べたに置いて、その上に黒瀬さんは気怠げに座り込んだ。が、八雲さんから無言の圧を感じてそそくさと立ち上がった。

「ぬらりひょん様は千年もの間、百鬼夜行の王を務めていましたからねぇ。それはもう、多くの妖怪達に慕われておりました。そのため、新しい王となった玉露様は毛嫌いされてしまったのです」

 半年の王と、千年の王。二人を隔てる差はあまりに途方もない。それこそ、先代は百年前の革命の時にも王を務めていたということになる。もはや英雄と言っても過言ではないだろう。そんな相手との差なんて、一朝一夕で埋まるものではない。

「それに、玉露様は胡散臭いと思われておりまして……」

「というか、それが嫌われている最大の理由だろ」

 玉露様が胡散臭い……?

 常に柔らかい微笑を携えて、神秘的な真っ白な姿をして、桁外れの美貌を誇って、言動は飄々としている玉露様が胡散臭いだなんて――――あ。いや、どこからどう見ても、どれをとっても胡散臭いですね、これ。

 と、私は塩をかけられたナメクジのようにへにゃへにゃになって黙り込んだ。反論できる隙がまるでない。

 そもそも、私も結婚初日に色々と怪しんで不安を抱いてしまっていたし。

「その上、玉露様は百鬼夜行の王として仕事を完璧にこなしているのです。大量の書類もきちんと対応して、イジワルな無理難題も対処して、と」

「で、でも、それは素晴らしいことじゃないんですか?」

「ええ、とても素晴らしいことです。ですが、胡散臭い玉露様が完璧に仕事をこなしていると、逆に、怪しく見えてしまうのです」

 逆に。

 何て酷い言い草だろう。そんなことは勝手な言いがかりじゃないか、と私は心の中で文句を口にした。声に出すことができなかったのは、悲しいことに何となく言い分が理解できてしまうからだった。

 申し訳ありません、玉露様……!

「その点、ぬらりひょん様はほどほどに仕事をしつつ適度にサボって、のらりくらりと上手い塩梅で王を務めていましたから。玉露様は能力が高く、万能ゆえに近寄りがたいというのもあるんでしょうねぇ」

 少し前までは信頼の証だと勝手に解釈していた封筒の重みが反転し、今では重苦しい禍々しいものに思えて仕方が無かった。心なしか、ずっしりと重さが増した気がする。

「って、暗い話を長々とごめんなさいね。ですが、ご安心を! 玉露様のことは私と黒瀬さんがしっかりと支えて参りますので……ね!」

 八雲さんに檄を飛ばされ、黒瀬さんは微かに首肯した。

「ああ、そうだ」

 地べたに置いていた大量の書類も黒瀬さんは再び持ち上げ、鋭い眼差しで私の顔を一瞥した。

「タマは仕事を手伝われるのを嫌う。書類を届けたら、さっさと帰ってやれ」

 黒瀬さんの言動は荒々しく、鋭く、真っ黒な軍服姿というのも相まって威圧感が凄まじいものがあった。けれど、玉露様を思って私に告げる言葉の一つ一つにはほんのりと温かい感情が込められている気がしてならなかった。

★  ★  ★

 ずっしりと重くなった封筒を抱え、私は屋敷の奥にある銀色の襖の淵をコンコンとノックした。

「どうぞー」

 襖の向こうから玉露様の少しくたびれた声が聞こえ、私は背筋を伸ばした。そして、八雲さん達と会話した内容を下手に思い返さないように注意して、心身を引き締めて襖に手をかけた。

「し、失礼しますっ」

 襖を開けて、おずおずと私は書斎に足を踏み入れた。まず、最初に視界に映ったのは畳の上に積み重なった大量の書類の山だった。それも一つや二つではない。大量の山脈が書斎いっぱいに広がっている。更に、足下にも書類や本や雑誌が無秩序に散らばり、足の踏み処を探すだけで精一杯だ。

 更に、書斎の四方を覆うように巨大な本棚が連なり、中央に置かれた文机の前に鎮座する玉露様の姿はまるで文学の神様のようだった。

「あれ? 牡丹ちゃん、どうしたの?」

 文机の上で書類と睨めっこしていた玉露様は私に気づき、顔を上げた。文机の上にはこれまた大量の書類や本が山盛りになり、万年筆や色々な種類の判子が無数に転がっている。更に、物々しい漆黒の太刀はいつものように手の届く範囲に立てかけられていた。

「え、えと、これを……」

 私が抱える分厚い封筒を一瞥し、玉露様は眉をほんの僅かに曲げて微笑んだ。

「わざわざごめんね、ありがとう。んー、そうだな……そこら辺に置いといてもらえるかな。後で確認するからさ」

「……は、はいっ」

 玉露様の指示通りに私は適当な場所を見つけ、書類の山脈を崩さないように気をつけて分厚い封筒をそっと置いた。

「す、すごいですね……」

 反射的に感想を口に出してしまった私に対し、玉露様はあっけらかんと笑った。

「あはは。びっくりしたでしょ」

 その笑顔はいつものような爽やかなものだったけれど、薄らと疲労の色が滲んでいるように見えた。

「妖怪達の相談事や要望に応えたり、いざこざを解決するのが百鬼夜行の王の主な仕事なんだ。王って言うと仰々しいけれど、実際は地味な事務作業がほとんどなのさ。……まぁ、いつもはここまでの量じゃないんだけど、今は御作祭(ごさくさい)が近づいているからね」

「御作祭? お祭り、ですか?」

「うん。三年に一度開かれる隠世の大祭りだよ」

 文机の上から適当な書類を手に取り、玉露様は苦笑した。

「御作祭まで一週間もないんだけど、未だに予定や出し物の準備でごちゃついていてね……。妖怪達の自由気ままな要望に、杜撰な書類に、めちゃくちゃな計画、とワガママ三昧でお祭り前だってのに僕は一人でてんやわんやだよ」

 喋りながらも書類の確認を怠ることなく、万年筆を走らせる玉露様を見て、私は胸がギチギチと軋むのを感じた。八雲さんが言っていたように、嫌われている玉露様は妖怪達に無理難題を押しつけられる嫌がらせをされているのだ。

「愚痴ってごめんね」

 頭を下げた玉露様を見て、よりいっそう胸が痛くなった。

 黒瀬さんの忠告通り、書類を届け終えたことだし、私はさっさと帰るべきなのだろう。けれど、この大量の書類の山脈を前にして、愚痴を吐いてしまう玉露様を目の当たりにして、そそくさと逃げ出せるほど私は大人になりきれていなかった。

 私なんぞにできることはないかもしれない……でも! 

 それでも!

「あ、あの!」

 いきり立つ感情に背中を押されて、私は挙手をして声を上げた。

「えと、その……私にも何か、手伝えることはないでしょうか?」

「ありがとう、牡丹ちゃん。気持ちだけ受け取っておくよ」

 さらりと受け流し、玉露様は穏やかに頬を緩めた。しかし、私は諦めることなく再び手を挙げて開口した。

「あの! 私! 読み書きも、一応できますので……! 書類の整理でも、掃除でも、肩もみでも、お茶くみでも、何でもござれですっ!」

 私を見つめる玉露様の表情は笑顔から真顔に移り変わり、琥珀色の瞳に真摯な感情が浮かび上がった。平常時の私なら臆病風に吹かれて、慌てて土下座をしてしまうこと間違いなしの雰囲気を醸し出していた。

 けれど、私は臆することなく、玉露様の顔を見つめ返した。

「牡丹ちゃん。申し訳ないけど、これは百鬼夜行の王の仕事だから」

 突き放すような冷たい声色で仰った玉露様に対し、私は追いすがるような力強い声色で言い返した。

「玉露様! お言葉ですが、私は百鬼夜行の王の妻です! 王の仕事を手伝うのもまた、妻の勤めかと!」

 我ながら滅茶苦茶な感情論だ。理屈もない、道理もない、ただ勢いだけがあった。

「…………ふふっ」

 突然、玉露様は笑い声を吹き出した。

「あはは! 牡丹ちゃんってば、何それ! ふふっ。カッコつけて冷酷な雰囲気出してたのにさ、ハチャメチャ過ぎて笑っちゃったよ」

 おなかを抱えてゲラゲラと笑う玉露様を見て、無性に自分が阿呆に思えて今更ながら恥ずかしさが込み上げてきた。耳の裏側と首筋がやたらめったら熱い。恐らく、今の私は顔が真っ赤に染まっているのだろう。

「す、すみません……っ」

「いや、謝ることなんかないよ。頑なに真っ直ぐなところ、すっごくキミらしいもん」

 無邪気な笑みを浮かべて玉露様は手元の書類を軽くまとめ、私に向けて差し出した。

「それじゃあ、キミの好意に甘えさせてもらうよ。僕が確認を終えた書類を封筒に綴じる作業をお願いするね」

「はい! よろこんでっ!」

 喜びで跳び上がってしまいそうになり、私は慌てて感情を抑え込んだ。こんなところで跳びはねたら書類の山脈を崩して大変なことになってしまう……!

 そして、玉露様の傍らで私は作業を開始した。山脈を少しずつ削り取る感じで書類を手に取り、玉露様の判子が押されているかを確認し、一つ一つ丁寧にして封筒に閉じていく。 至って地味なことの繰り返しだけれど、だからこそ、私の性分に合っている気がした。コツコツと成果を積み上げていく、というのも進捗が目に見えてわかって愉しいものだった。

 ふと、横目で玉露様を一瞥すると真剣な表情で書類と向き合っていた。いつもの神秘的な美しさとはまた異なる、真面目に働く男の格好良さが輝いていて……思わず、うっとりと眺めてしまいそうになった。

 時折、「なんでたこ焼き屋が三十軒もあるんだ」とか「射的でガトリング銃を使うなとあれほど言ったのに」とか、書類にぶつくさとツッコミを入れる玉露様の声が聞こえてきて、百鬼夜行の王の気苦労を痛感した。

 そして、一刻ほど経った頃……。

「んぅー!」

 勢いよく背中を伸ばして玉露様は気持ちよさそうな声を上げた。

 書斎を埋め尽くすように連なっていた書類の山脈は綺麗さっぱりなくなり、代わりに確認を終えた分厚い封筒の山が整然と並んでいた。後は八雲さんと黒瀬さんに任せて提出するだけ、つまり、今日の分の仕事は無事に終わったということだ。

「お疲れ様です、玉露様!」

 私は文机の上を整頓しながら労いの言葉を口にした。

「ありがとう、牡丹ちゃん。何もかもキミのおかげだよ。書類の整理だけじゃなく、無理難題の解決策も一緒に考えてもらっちゃったし」

「い、いや、私はそんな……! でへへ」

 謙遜しようとしたが玉露様に褒めてもらえた嬉しさが打ち勝ち、だらしない笑い声を漏らしてしまった。

「僕さ、仕事中に他の人がいると気が散っちゃうから手伝われるのは嫌だったんだ。でも、牡丹ちゃんが一緒だと、むしろ気合いが入っていつもより集中できたよ。だから、本当にありがとう」

「そ、そ、そんななななななっ! あわわ! わわあ!」

 べた褒めされた私はまともに言葉も発せられないほど取り乱し、あわあわと慌てふためいた。あまりにも嬉しくて、嬉し過ぎて、頭がどうにかなってしまいそうだった。いや、もはや、どうにかなってしまっているのかもしれなかった。

「ふふっ」

 玉露様の奏でる爽やかな笑い声が鼓膜に響き、脳みそを心地よく揺らし、私は至福の瞬間を全身で味わい尽くした。

「牡丹ちゃんのおかげで早めに片付いたし、ちょっと息抜きがてら帝都に遊びに行こっか」

 そう仰って玉露様は懐から取り出した懐中時計を確認し、柔らかく頬を綻ばせた。障子窓から差し込む明るい日差しから察するに、日が暮れるまではまだまだ充分に時間はありそうだ。

「え? て、帝都ですか?」

「うん。ちょっと呉服屋に用事もあるからさ。それに、美味しい洋食屋があるから牡丹ちゃんと行きたいと思ってたんだ」

 そして、傍らに立てかけていた漆黒の太刀を手に取り、玉露様は愉しそうに微笑んだ。

「それじゃ、まずは帝都行きの切符を買いに行かなくちゃね」

★  ★  ★

 極彩色の町並みを颯爽と歩く玉露様の姿はまさに幻想世界の王そのものだった。闇を具現化したようなドス黒いインバネスコートを翻し、漆黒の太刀を腰に携えて、ブーツの靴音を鳴らして闊歩する純白の美貌。

 対する私はつんつるてんの着物に、もさもさの髪に、少し膨よかになったとはいえ未だに色気のいの字もないちんちくりん。

 こんなに対照的な夫婦も珍しいだろう、と我ながら自嘲してしまう。

「おぅい、お嫁ちゃーん」

 不意に、野太い声で呼ばれているのが自分のことだ気がつき、私は振り向いた。そこには鮮やかな色彩で塗りたくられた魚屋があり、店主の半魚人のおじさんが和やかな笑顔で手を振ってくれていた。

「あ、ど、どうもっ」

 私は慌てて半魚人のおじさんに会釈を返した。この魚屋には以前、八雲さんのお手伝いで買い出しに来たことがあり、その時に半魚人のおじさんは隠世生活に不慣れな私に色々と良くしてくれたのだ。

「あーら、牡丹さーん。こんにちはー」

 更に、魚屋の隣のギンギラギンの八百屋からはろくろ首のおばさんが長~い首を伸ばし、私に声をかけてくれた。

「あ、こ、こんにちはっ」

 同じく、ろくろ首のおばさんも以前買い物に来た際、とっても親切にしてもらったのだ。

 よくよく考えると、隠世に住みはじめて一週間だけれども、座敷牢に閉じ込められていただけの人間社会よりも妖怪社会に遙かに馴染んでいる気がする。

「げ」

 半魚人のおじさんとろくろ首のおばさんは私の隣に玉露様がいることに気がつくと、突如として顔をくしゃくしゃにしかめて店の中に引っ込んでしまった。

 続け様に、道行く妖怪達は玉露様の顔を見るや否やコソコソと陰口を叩き、怪訝な表情を浮かべていた。時折、私に哀れみの視線が向けられるのが心苦しい。

 ……露骨だ。

「いつものことだよ」

 町の隅々からほとばしる負の感情を気にすることなく、玉露様は涼やかに微笑んだ。

 いつものこと。玉露様が平然と仰ったその言葉が私の心を抉った。一週間前までの私にとっては座敷牢に閉じ込められていることこそ、いつものことだった。それがおかしいことだと一切思うことなく、慣れてしまっていた。感情が薄れて、心が平たくなっていた。

 もはや、どうでもいいという諦め。玉露様もあの時の私とおんなじなのだろうか……と、不穏な思いを抱いてしまい、私は慌てて思考を押し潰した。

 玉露様に自分を重ね合わせるなんて、失礼だ。

 それに、勝手に心配するなんて余計なお世話だろう。

 …………でも。

 喉に魚の小骨が刺さっているような微かなわだかまりを感じつつ、私は平静を取り繕って玉露様の爽やかな笑顔を一瞥した。

「ついたよ、ここが切符屋さ」

 そう仰って玉露様が指し示したのは、色鮮やかな通りの角にある緑色の店舗だった。蔦が絡まった大きな看板には子供の悪戯書きのような筆致で『たばこ』と書いてある。

「たばこ屋件、切符屋なんだ。今どきは切符屋だけじゃ喰っていけないみたいで、たばこも売り始めたらしい。世知辛いね」

「な、なるほど……」

 恐らく、百年前の革命以降に妖怪と人間の交わりがほとんど途絶えたことで、切符を買ってまで人間世界に行く妖怪が減ったせいなのだろう。

「おっちゃん、帝都までの往復切符を二枚お願いね」

 会計台の向こうで新聞を読んでいた大狸の店長に小銭を渡し、玉露様は朗らかに笑った。対する大狸の店長は眠たげな表情でたばこを咥え、面倒臭そうにマッチで火をつけた。

「……奥方様とおでかけですか」

 もわっと煙を吐き出し、大狸の店長は奥の棚から切符を二枚取り出した。

「うん。用事がてら、美味しいものでも食べてこようかと思ってさ」

「……そいつは良いご身分ですな」

 大狸の店長にじっとりと不機嫌な視線を向けられてなお、玉露様は動じることなくニコニコと微笑んでいた。……その笑顔が余計に胡散臭く見えて、更に反感を買ってしまっているのだろう、と考えるとまたしても胸が痛くなった。

★  ★  ★

 黄金の鳥居をくぐって世界を跨いだ瞬間、一番最初に目についたのは天を貫かんばかりにそびえ立つ壮大な建物だった。異国の文化をふんだんに取り入れ、和花国の技術をこれでもかと尽くした高層展望施設――帝都の象徴、双雲十三階だ。

 更に、目線を落とすと華やかな洋装建築が連なる帝都の街が果てしなく広がっていた。行き交う人々は皆ハイカラで、モダンで、隠世の妖怪に匹敵するほど多種多様な様相をしていた。

 立派な髭を蓄えた紳士は黒のスーツでパリッと決めて、煌びやかな巻き髪の淑女は花柄のワンピースをひらっと翻して、紫色の小紋にブーツを合わせた女学生はかしましく笑い、雄々しい軍服に身を包んで軍人さんはきびきびと歩く。

 そんな天上の魔窟の如き帝都において、玉露様の美貌は一際輝いていた。

 老若男女、誰彼構わず。玉露様の存在に気がつくと色めいた声を漏らして、視線を集中させる。特に、女性は頬を赤くしてぽーっと見蕩れている始末。そう、皆が皆、振り返ってうっとりしてしまうほどに玉露様は美しいのだ。

 隠世の妖怪からの反応とはまるで正反対だ、と心の中で私は苦笑いした。

 ……ちなみに、隣を歩く私のことは従者か何かと思われているようで、人々はまったくもって気にもとめていないようだった。

「さて、と」

 懐から青海波の扇子を取り出し、首元を優しく扇いで玉露様はゆったりと笑った。

「出ておいでよ、クロ」

 不意に玉露様は黒瀬さんの名前を口にした。すると、赤レンガの建物の隙間から影が這いずるように立体化し、一瞬にして仏頂面の男性へと変化した。

「気づいていたか。流石だな、タマ」

 黒瀬さんは鋭い眼差しで玉露様を一瞥し、軽く肩をすくめた。

「今日は牡丹ちゃんとのデートだから、護衛はいいよ」

「……デート」

 玉露様が何気なく放った言葉を私と黒瀬さんは同じように繰り返した。

「近頃、帝都で怨念が出現するという報告を耳にしている」

「あはは、大丈夫だって」

 忠告を受け流すように軽やかに微笑み、玉露様は腰に携えていた漆黒の太刀を見下ろした。

 人間世界での佩刀は軍人以外禁止されているが、玉露様は人間達に太刀の存在が認識できないように妖術をかけている、らしい。何だかよくわからないけれど妖術がすごい、ということは理解できた。

「いざって時は自分で何とかするからさ。僕の強さはクロが一番よく知ってるでしょ?」

「……ああ」

 言い返せない様子で黒瀬さんは押し黙り、玉露様をジッと見つめた。が、すぐに根負けしたように頭を下げた。そして、私の顔をチラッと見つめた後、ムスッとした表情のまま切符をかざし、黄金の鳥居をくぐって隠世へと去って行った。

「まったく、クロってば心配性だなぁ」

 涼やかに頬を緩ませ、玉露様はパチン! と勢いよく扇子を閉じた。

「それじゃあ、まずは用事を済ませよっか」

★  ★  ★

 玉露様と訪れたのは帝都のど真ん中にある由緒正しい呉服屋だった。

 中に入ると人の気配はまったくなく、帝都の喧騒から切り離されたかのような静寂が店内を包み込んでいた。背筋がゾッとするほどの厳かな雰囲気は、子供の頃に行った西の都の神社を連想させた。

 天上からは無数の風鈴が垂れ下がり、風も吹いていないのにゆらゆらと揺らめき、清らかな音色を奏でているのもまた、この世ならざる神格を感じさせる。

「そんなに怯えなくて大丈夫だよ、牡丹ちゃん」

 緊張感に震え、もじもじしている私を一瞥して玉露様は穏やかに微笑んだ。

「は、はい……」

 と、頷きつつも私は全身全霊で臆病風に吹かれ続けていた。

 厳かな雰囲気に加え、四方八方の棚に並ぶ豪華絢爛たる彩り豊かな反物の数々が私の緊張感を更に煽っているのだ。眺めているだけでドキドキするお洒落な反物ばかりで、つんつるてんの薄っぺらな着物姿のちんちくりんとはあまりに世界が違いすぎる。

 私が存在しても良い場所なのだろうか、と生きた心地がしないでいると、棚の端に『切符売っています』と書かれた張り紙を発券した。呉服屋で切符? と首を傾げていると、玉露様は「ここは妖怪の店だからね、隠世行きの切符を売っているんだ」と答えてくれた。

 しゃらん。

 どこからともなく鈴の音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には目の前に煌々とした存在が優雅な佇まいで立っていた。

「わ!」

 驚きのあまり声を漏らしてしまい、私は慌てて口元を押さえた。

 目の前に立つ存在は、一言で表すなら……妖艶。

 狐の仮面で顔を覆い、頭頂部に金色のかんざしを怪しく煌めかせ、艶やかな打掛を幾重も羽織っている。しなやかな所作も含め、こぼれんばかりの色っぽい出で立ちは色気の化身と言っても過言ではない。

「これは、これは。百鬼夜行の王がお見えになるなんてねぇ」

 その声色は無邪気な子供のようにも、魔性の美女のようにも、老獪なおばあちゃんのようにも聞こえる不可思議な甘さを孕んでいた。

「おやおや、お嫁様まで連れて。ふふふふふふ、可愛らしいこと」

 狐の仮面を私に向けて、色気の化身は不穏な笑い声を響かせた。

「あ。え、えと……は、はじめまして! 玉露様の妻の牡丹、と申しますっ」

「ええ、存じておりますよ。こちらから結婚式を覗いておりましたので。ふふふふふふ」

 こちらから覗く、というのはどういうことだろう、と疑問に思いつつも色気の化身の底知れない凄みに尻込みしてしまって何も言葉を返すことはできなかった。

「あたくしのことは……そうですね。九尾の女将、とでもお呼びくださいな」

 そう言って色気の化身改め九尾の女将は袖の中から煙管をぬるっと取り出し、仮面に空いた穴に差し込んだ。

「ご覧のように普段は人間に紛れて、人間相手の商売をしておりましてね。ふふふ。隠世よりも、帝都の方が悲喜交々の人間模様が見られて愉しいんですよ」

 仮面の穴から紫煙をスーッと吐き出し、九尾の女将は素っ気ない態度で玉露様の顔を見上げた。

「それで、今日は何の用事ですかね。冷やかしでしたら、間に合っていますよ」

「まぁまぁ、そんなこと言わずに。法被とかのれんとか、御作祭で手配してほしいものがあるんだ」

 九尾の女将の冷ややかな態度にめげることなく玉露様は微笑み、数枚の書類を提示した。「祭りまで一週間もないというのに、やれやれ」と九尾の女将は文句をぼやきながら書類を受け取り、ざっと目を通した。

「……ほぅ」

 関心した様子で小さく吐息を漏らし、九尾の女将は頷いた。

「妖怪共の荒唐無稽な要望をよくもまぁ、ここまで綺麗にまとめましたねぇ」

「彼女のおかげさ」

 さらりと仰った玉露様に虚を突かれ、私はあわああわと慌てふためいた。

「そ、そんな! 私は少しお手伝いをしただけで……!」

 しどろもどろになって弁明する私を九尾の女将はジーッと見つめて、狐面の奥から妖しい眼光を輝かせた。

「へぇ……こいつは良い兆しかもしれないねぇ」

「え?」

「いえいえ、独り言ですよ。ふふふ!」

 玉露様の疑問をはぐらかし、九尾の女将は笑い声を弾ませた。そして、舞を踊るような流麗な所作で書類を丁寧に折り畳み、袖の中にしまい込んだ。

「いいでしょう。あたくしの妖術なら千枚でも二千枚でもチャッチャッと用意できますから、お任せあれ」

「ありがとう、女将さん」

 ふと何かを思いついた様子で玉露様は手を叩き、勢いよく青海波の扇子を開いた。

「そうだ! 仕事を手伝ってくれた牡丹ちゃんへのお礼に着物を買わせてよ」

「え? え! え?」

 思いがけない提案に私はまともに言葉を返すことができず、玉露様の顔を見上げて目をパチクリさせた。

「で、ですが、あの、私なんぞにお礼なんて――」

「お嫁様」

 唐突に腰を屈めて顔を覗き込んだ九尾の女将に仰天し、私は言葉をつまらせてしまった。

「遠慮は美徳と言いますが、折角のご厚意を無碍にする方が失礼になる場合もあるんですよ」

 もくもくと紫煙をくゆらせる狐の仮面を見下ろし、私は返す言葉を見つけることができずに静かに頷いた。九尾の女将の言い分はごもっともだ、と心の中で強く反省した。それに、百鬼夜行の王の妻がいつまでもつんつるてんの着物を着ているのは玉露様に申し訳ない。

 ただでさえ嫌われている玉露様が「妻にまともな着物を着させない酷い夫」と勘違いされて更に嫌われてしまうかもしれないし。

「で、では……お言葉に甘えさせていただきますっ」

 おずおずと頷いた私を嬉しそうな笑顔で眺めた後、玉露様は鼻唄を歌いながら店内を物色し始めた。

「ん~、牡丹ちゃんはどういうのが似合うかなぁ」

 私なんぞに似合うようなボロ布はこの店にはないと思います、と言いかけた卑下の言葉を寸前で呑み込み、私は玉露様の後を追いながら棚をキョロキョロと見渡した。

 見目麗しい色彩豊かな反物の数々に気押され、既製品の模様銘仙を着たマネキン人形の群れに圧倒される。チラリと右を見ても、そっと左を見ても、ぐっと前を見ても、わっと後ろを見ても、どこもかしこも千紫万紅の光景に溢れていた。

 可愛らしい花柄や、伝統的な七宝、ハイカラな水玉模様……などなど、眺めているだけで心が弾み、同時に心がざわめくものばかり。薫子ちゃんのように堂々とした子なら似合うだろうけれど、私にはどれもこれも敷居が高すぎる。

「あたくしはこういうのが良いと思いますがね。いかにも、王の妻って感じでございましょう?」

 九尾の女将が煙管で指した棚には、黄金の蝶の刺繍が施された深紅の反物や、孔雀を思わせる虹色の彩りの反物が並べられていて私はギョッとした。

 あ。

 ド派手な反物が折り重なった棚の傍らにひっそりと咲くように置かれた反物に気がつき、私は思わず立ち止まった。その反物は、隠世の薄墨の青空みたいにふんわりと淡い水色で、鮮やかな青海波の模様が描かれていた。

 青海波。玉露様のお気に入りの扇子と同じ模様だ。

 この反物で拵えた小紋を着たらきっと幸せだろうな、と私は頭の中で妄想を繰り広げた。が、玉露様の扇子と揃いの姿をとるのは失礼かもしれない、と慌てて妄想を押し潰して青海波の反物から目を逸らした。

「ほぅ、お目が高いですね」

 いつの間にか背後に立っていた九尾の女将は頷き、青海波の反物を手に取った。

「わー! 青海波! 良いね、それ! うん、絶対に牡丹ちゃんにぴったりだよ!」

 無邪気にはしゃぐ玉露様を見て、私は先程抱いていた後ろ暗い感情が急に恥ずかしくなり、申し訳なさと嬉しさで頭の中がぐしゃぐしゃになってしまった。

「王様も気に入っていることですし、これにしましょうか。では、早速」

 幾重も羽織った打掛を揺らし、九尾の女将は青海波の反物に紫煙を吹きかけた。

 しゃらん。

 静謐な鈴の音がどこからともなく聞こえたかと思うと、青海波の反物は消えてなくなっていた。

 しゃらん。

 再び鈴の音が聞こえ、九尾の女将は両手を叩いて景気の良い音を鳴らし、今度は私に向けて紫煙を勢いよく吹きかけた。視界が紫色に包まれ、キンモクセイの香りが鼻孔をくすぐった。

 そして次の瞬間、紫煙が晴れると共に私の姿は変わりはてていた。

「え?」

 つい先程まで着ていたはずのつんつるてんの着物はどこにもなく、代わりに私が纏っているのは爽やかな青海波の小紋だった。更に、薄い紅色の立派な帯まで巻かれている。採寸すらされていないというのに寸法もぴったりで、柔らかく軽やかな着心地も素晴らしい。

「妖術で仕立てさせていただきました。どうですかな……はて?」

 驚きと喜びに打ち震えている私を見据えて九尾の女将は満足げに笑ったが、玉露様を見るなり訝しげに首を傾げた。

「……」

 玉露様に視線を向けると、私を見つめたまま無になっていた。

 無。

 それはもう、完全な無だった。まばたき一つせず、目をひん剥いて、口をあんぐりと開けて、固まっていたのだ。時間が止まっているかの如く、ぴたりと。

 もしや、私の小紋姿が見るに堪えなくて――と思いかけた刹那。

「……めっちゃくちゃ可愛い!」

 感情が爆ぜるような声で玉露様は満面の笑みを浮かべ、ぴょーんと跳びはねた。

「いやぁ、見蕩れちゃったよ。淡い水色は牡丹ちゃんの雰囲気にぴったしで、爽やかな可愛らしさと儚い美しさが共存しているんだもの! それに僕の扇子とお揃いの青海波があまりに嬉しい! 毎日着て欲しいから何枚も作ってもらおう! あと、薄い紅色の帯を合わせてくれた女将さんは流石だね! 牡丹色、だもんね! 感謝しかないよ!」

 驚天動地の凄まじい早口で感想を語り終え、玉露様は肩で息をしながら額に浮かんだ汗を拭い取った。

 玉露様の興奮ぶりに九尾の女将と私は無言で目を合わせ、吹き出すように和やかな笑みを浮かべた。

「いやはや。王様にこんな一面があったなんて。ふふふ! 胡散臭い泥棒猫と思っていましたが、考えを改めないといけませんね」

★  ★  ★

 呉服屋で買い物を終えて、玉露様と私は目的の洋食屋のある賑やかな大帝商店街を歩いていた。

 大帝商店街は隠世の町の浮世離れした派手な趣とは異なり、洋風文化を取り込んだ華やかさと商売根性逞しい熱気が入り交じった人間臭さに溢れていた。

 そんな往来を素敵な青海波の小紋姿で歩くことに慣れない私は俯きがちに歩き、通りすがりのショーウインドウに反射した自分の姿が視界に入る度に身を縮こまらせた。ちんちくりんのぽんぽこぴーの私がこんな素敵な小紋を着て帝都を歩くだなんて……!

 可愛くて、綺麗で、心地よくて、清々しくて、心が弾んで、ときめいて、だからこそ恥ずかしさと身の丈に合っていないかもしれないという不安がない交ぜとなっている。そして、それらを吹き飛ばすほどの喜びが全身からほとばしり、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 三歩進む度に玉露様が褒めてくれるのも、更に、私の心身をとろとろにとろけさせる。

「ここでクロと僕は産まれ落ちたんだ」

 豆腐屋の角を曲がった路地裏を覗き込み、玉露様は懐かしそうな表情で感慨に耽っていた。対する私はとろけた思考を何とか正常に戻そうと躍起になりつつ、思い出を懐かしむ玉露様の穏やかな声に耳を傾けた。

「あの頃の僕は我が儘な子猫で、クロはやんちゃな子犬だった」

 十年前、お母様と一緒に手当をした子猫の姿が脳裏に蘇り、私の中にも寂寞とした懐かしさが込み上げてきた。帝都の記憶は朧気だけれど、この手で触れた血潮の温かさは今でもハッキリと覚えている。

「昔はクロとずっと一緒だった。ゴミ箱を漁ったり、道行く人に媚びを売って餌をもらったり、喧嘩したり、毛繕いしたり、大きな野犬に立ち向かったり……。ふふっ、今思い返すとハチャメチャな毎日だったなぁ」

「とても素敵な関係なんですね」

 いつもムスッとしていて、よく八雲さんに叱られている黒瀬さんのことを頭の中に思い浮かべた。飄々とした玉露様と、ぶっきらぼうな黒瀬さん。対照的な二人が幼馴染みだなんて、何だか無性に愛おしい。

「僕達は一緒に妖怪になって、今の地位まで上り詰めた。……でも、最近はちょっとギスギスしてる気がする」

「最近……?」

「うん。百鬼夜行の王になってからかな」

 私と結婚したせいだろうか、と一瞬思ったが、百鬼夜行の王になってから……つまり、半年前からギスギスしているのなら原因は他にあるのかもしれない。

「僕はずっと友達だと思っているんだけど、どうしても王と家来っていう関係性が溝を作ってしまうのかもしれないね」

 白銀の髪をわしゃわしゃと掻いて、玉露様はどこか切なそうにはにかんだ。

「あらぁ!」

 突然、甲高い声が背後で聞こえ、反射的にじっとりと不快な汗が背中に滲むのを感じた。この一週間、久しく忘れかけていたはずの感覚が心の中に影を落とす。人違いであってほしい、と希いながら私は声のした方向を振り返った。

「こんなところで会うなんて奇遇ねぇ、牡丹お姉様」

 私の懇願は露と叶わず、そこに立っていたは豪奢な銘仙を着た美少女だった。

「か、薫子ちゃん……」

 一週間ぶりに再会した実の妹の名を震える声で口に出し、私は一歩後退った。

「随分、良いものを着ているのね。ふーん、馬子にも衣装とはこのことね。勿体ないったらありゃしないわ~」

 青海波の小紋をねっとりといた視線で睨みつけ、薫子ちゃんは嫌らしく顔を歪ませた。が、私の隣に悠然と立っている玉露様の存在に気がつき、その美貌を目の当たりにした薫子ちゃんは見たこともない苦悶の表情で声を荒げた。

「そ、その美しい殿方は……!」

 震え上がる薫子ちゃんに向けて優雅に頭を下げ、玉露様は穏やかに開口する。

「やぁ、牡丹ちゃんの妹君だね。僕は百鬼夜行の王、望月玉露。化猫御前って言った方が通りは良いかな?」

「ば、化猫御前……! ということは、まさか!」

「うん。牡丹ちゃんの夫だよ」

 眼球が飛びださんばかりに目を見開き、薫子ちゃんは驚愕した。

「う、嘘……化猫御前って毛むくじゃらのブス猫じゃなかったの……? お姉様は不幸のドン底じゃなかったの! こんなの嘘よ! ありえないわ! ズルい! 酷い!」

 感情を爆発させて薫子ちゃんは地団駄を踏んだ。

「ど、どうせお姉様みたいな愚図は見捨てられるに決まっているわ!」

 実の妹ながら、見るに堪えない形相に思わず目を背けそうになった――その時、薫子ちゃんの口の中から黒い靄のようなモノが噴出した。

「うげげげげえぇ!」

 吐瀉物をぶちまけるように薫子ちゃんの口から飛び出したモノは、どろどろとした不定形の塊となって蠢いた。

「負の感情に当てられて怨霊が発生したようだね」

 玉露様は平然とした態度で頷き、腰に携えていた漆黒の太刀の鯉口を切った。

「な、なにこれ……うげっ、気色悪いっ」

 自分が吐き出した怨霊を見て、薫子ちゃんは嗚咽を漏らしながら一目散に逃げ去っていった。そんな薫子ちゃんに目もくれず、怨霊はぐちゃりぐちゃりと耳障りな音をたてて私に向かってきた。

 異形のおぞましさに悲鳴を上げそうになったが、爽やかな一陣の風と共に玉露様が抜刀した姿を見て、私の心には晴れやかな希望が差し込んだ。

 一閃。

 玉露様が神速で振り下ろした一太刀により怨霊は真っ二つに斬り裂かれ、黒々とした靄はあっという間に雲散霧消した。

「一件落着、と」

 さらりと太刀を納めて玉露様は涼やかに微笑んだ。おぞましい怨霊を討伐したとは思えないほど爽やかな笑顔だった。おかげで私は恐怖を引きずることなく、ホッと安心感に包まれた。

「あ!」

 怨霊のいた場所に見覚えのある手鏡が落ちていることに気がつき、私は飛びつくように拾い上げた。漆塗りの手鏡は見紛うことなき、お母様の形見だった。恐らく、薫子ちゃんが脱兎の如く逃げた時に落としていったのだろう。

 薫子ちゃんには申し訳ないけれど、返してもらおう。と、私は形見の手鏡をそっと抱きしめた。

★  ★  ★

 これぞ、モダンだ。

 そう断言できるほどのハイカラな店内を見渡し、私は萎縮に次ぐ萎縮を重ねて身を震わせた。

 ここは、玉露様のお目当ての洋食屋・陽星館(ようせいかん)

 真っ白なクロスが広げられたテーブル、たおやかな白樺の椅子、燃え盛るような紅蓮の絨毯、ささやかな音色でクラシカルな歌謡曲を奏でるレコード、中央に座する何だかよくわからないけど凄そうなモニュメント。……と、赤レンガ造りの外装に相応しく、ほんのりと薄暗い灯りが照らす店内はモダンの髄を極めていた。

 言うまでもなく、客層は紳士淑女の皆さん並びにお坊ちゃんお嬢ちゃん。店員は華麗な燕尾服に身を包み、絵本に登場する執事の如く丁寧な接客を繰り広げている。

 そんなモダンの極みの片隅、玉露様の対面の席に座った私はひたすらに縮こまっていた。

 素晴らしい青海波の小紋を纏っているとはいえ、その中身はちんちくりんの小娘だ。流石に分不相応すぎる。その内、つまみ出されやしないだろうか……。

「大丈夫だよ、牡丹ちゃん」

 びくびくする私に優しい眼差しを向け、玉露様はふわりと微笑んだ。

「キミはとっても素敵なレディーなんだから」

「……は、はいっ」

 有無を言わさぬ玉露様の褒め言葉に私は観念し、小さく頷いた。少し冷静になって辺りを見回してみると、店員も客も誰も私を気にしている様子はなかった。それどころか、外では誰もが振り返る美貌の玉露様さえ眼中にないようだった。

 皆が集中しているものはただ一つ、洋食のことだけだ。

 他者を気にせず食事と真剣に向き合う、それこそが真の紳士淑女なのかもしれない。と、私は勝手な結論に至って関心した。

「牡丹ちゃんは何食べる?」

「あ、えっと、えと」

 玉露様から手渡されたメニューを覗き込み、私はぐるぐると目を回した。当たり前のことだが、メニューに記載されている料理は全て洋食だ。確か、お母様と帝都に来た時に洋食を何か食べたはずだが、ほとんど覚えていない。思い出すことといえば、初めての洋食に興奮しすぎてはしゃいでいたことだけだ。

 オムライス、ライスカレー、ハヤシライス、ビーフシチュー、カツレツ、コロッケ……。どれも和花国の言葉とは異なる不可思議な響きで、メニューを眺めているだけでも心が躍るような気分を味わえた。

 その中で特に気になったのは、コロッケだ。何だかコロコロした語感が可愛らしい。

「……では、私はコロッケでもよろしいでしょうか」

「いいね! じゃあ、僕もおそろいでコロッケにしよっと。あ! そうだ、レモネードも飲もっか。お気に入りなんだ」

 そうして玉露様は慣れた様子で店員を呼び、注文を告げた。それから、お互いの帝都の思い出話に花を咲かせていると店員がレモネードを運んできてくれた。

「わ」

 初めて見るレモネードに私は小さく声を漏らした。硝子製の細長いコップに注がれた鮮やかな黄色は、お茶や水とは異なる華美な存在感を示している。四角に整えられた氷もたっぷり入っているため、そっとコップに触れてみるとひんやりと気持ちが良い。

「ほらほら、飲んでみて」

 レモネードを初めて飲む私に玉露様は期待の眼差しを向けた。

「は、はい……っ」

 玉露様に見つめられながら飲むことに緊張しながら、私は意を決してコップに口を付けた。

 レモネードの冷たさが口内を潤した瞬間。しゅわしゅわっ! と、生まれて初めて感じる爽快感が大いに弾け散った。これが炭酸水というものか、と目をパチパチさせて感極まっていると、続いて心地よい酸っぱさと優しい甘さが口内を満たしていった。

「ん! ……おいしいっ」

 ひんやりとした爽快感と清々しい酸味の波状攻撃に私は一口ですっかり虜になってしまっていた。

「ふふっ。美味しいよね、レモネード」

 薄暗いモダンな店内で優雅にレモネードを飲む純白の美貌、という絵になる姿を私はうっとりと眺めてレモネードを堪能した。

「妖怪になったばかりの頃、クロと一緒に安い喫茶店に行ってレモネードばかり飲んでいたなぁ。……懐かしい。そう考えるとレモネードは僕にとって青春の味なのかも」

「青春の味……」

 その話を聞いた後にレモネードを飲むと、玉露様の素敵な思い出の一端を私も知ったような気がして無性に嬉しくなった。この瞬間こそが私にとっての青春と言えるのかもしれない。

 そうしてレモネードを飲みながら玉露様との幸せな時間を過ごし、しばらくして、香ばしい匂いと共に店員が料理を運んできてくれた。

「……!」

 テーブルに置かれたコロッケを目の当たりにし、私は声を失った。

 真っ白な大きい皿の上に、これまた大きなコロッケが三つ、どでででん! と、威風堂々と並べられている。その傍らには寄り添うようにレタスが彩り、小さな赤茄子が賑わいを演出して添えられていた。

 更に、小さめのお皿に平たく盛られたライスが到着し、テーブルの上はいよいよ豪華絢爛たる様相を極めていた。

「いただきます」

「い、いただきますっ!」

 私は手を合わせ、コロッケに対して深々と頭を下げた。目の前の圧倒的な存在感を放つコロッケに私は思わず萎縮してしまったのだ。食べ物と人とはいえ、存在感では完全に負けている。そう思えるほどの熱烈な気迫をコロッケは纏っていた。

「で、では失礼して……!」

 ぷるぷる震える手つきでナイフとフォークを掴み、お母様に教えてもらったマナーを思い出して果敢にコロッケへと立ち向かった。
 ザクッと鼓膜に心地よい音が響くと共にフォークでコロッケを軽く突き刺し、ナイフで少しずつ切れ目を入れていく。すると、中から乳白色のとろ~りとしたクリームが溢れだした。

 反射的に喉が鳴った。それを鬨の声と受けとった私は勇気を振り絞り、切り取ったコロッケを頬張った。

 爆発!

 そう表現するしかないほどの感動が口内を――いや、全身を縦横無尽に駆け巡った。

 揚げたての衣はザクザクと歯応えが豊かで、とろとろのクリームは舌触りがまろやかで、蟹の旨味がギュッ! しっかりとした歯応えと、ふんわりとした舌触り、相反する二つが今一つとなりて私の全身を歓喜させる……!

 美味しい!

 その時、コロッケの声が聞こえた気がした。そして、コロッケの命を受けた私は続け様にライスを口に放り込んだ。そう、コロッケは求めていたのだ。ライスという名の伴侶を!

 美味しすぎるッ!

 吠え叫びたい衝動を必死に抑え、口内で逢瀬を繰り広げる両者を祝福した。コロッケがライスを求め、呼応するようにライスもまたコロッケを恋い焦がれる。旨味という旨味が複雑怪奇に絡み合い、快楽的な陶酔感へと結びつく。

 これが人生の答えなのかもしれない。

 ……よくわからない到達点に至り、コロッケとライスを食べ終えた私は急に理性を取り戻した。

「ふふっ」

 我に返ると、玉露様が穏やかな笑顔で私を見つめていることに気づき、恥ずかしさと申し訳なさで全身が爆発しそうになった。

「は、はしたなくてすみません……!」

「はしたなくなんかないさ」

 丁寧な挙動でコロッケを切り分け、熱を冷ますためにふーふーと息を吹きかけて玉露様は優しく微笑んだ。

「むしろ、すごく幸せそうで可愛かったよ」

 か、可愛い……だなんて! 餓鬼か亡者か、と喩えられた方が相応しい様相を褒められてしまい、私は嬉し恥ずかしてんてこ舞いだった。

★  ★  ★

「愉しかったぁ……」

 帝都から帰宅した夜更け。私は自室の文机に頬杖をつき、全身を満たす充足感に浸っていた。帝都で玉露様と共に過ごす時間はあまりに愉しくて、ひたすらに幸せだった。今でも目を閉じるとコロッケの爆発力とレモネードの爽快感が口内に蘇り、たまらず頬が緩んでしまう。

 八雲さんが用意してくれた衣桁(いこう)にかけた小紋に視線を移し、私は更に更に顔をとろけさせた。淡い水色に浮かぶは、玉露様の扇子と揃いの青海波。身に纏うと心が躍り、感情が弾む素敵な小紋だ。こんな素敵なものを買っていただけるなんて、夢みたいだ。

 こんなにも幸せな日々、座敷牢に閉じ込められていた時には想像もできなかった。喜怒哀楽、あらゆる感情が薄れて希望が風化していくばかりだった私が今、玉露様のおかげで幸せを噛み締めている。

 本当に、夢みたい。

 夢だとしたら冷めないでほしい……と切に願い、私は文机に立てかけていた漆塗りの手鏡を手に取った。お母様が遺した形見の手鏡。そっと抱きしめると鏡面にもさもさした髪に覆われた私の顔が映り込み、緑色の瞳が瞬いた。

 どうせお姉様みたいな愚図は見捨てられるに決まっているわ!

 薫子ちゃんの言葉が今更に頭の中で残響し、鏡に映る私の表情が酷く歪んだ。それは何の根拠もない薫子ちゃんの負け惜しみ、と思いたかった。けれど、開き直れるほどの自信は持ち合わせていなかった。

 幸せだ。

 幸せだから、怖い。この幸せはいつか崩れて、ぐしゃぐしゃに破滅してしまうんじゃないか。そんな悪夢のような想像が脳内を蝕んでいく。まるで、真っ白な布に墨が染みこみ、じわじわと染め上げていくかの如く……。

 玉露様は優しくて素敵な方だ。だからこそ、玉露様を落胆させてしまうことが怖い。今はまだ結婚をして一週間。たった一週間だ。もっと長い時を過ごしていく内に私の愚図な部分が露呈して、玉露様を失望させてしまうかもしれない。そして、薫子ちゃんの言葉通りに捨てられてしまったら――――。

「にゃー」

 突然、襖の向こうから軽やかな猫の鳴き声が聞こえ、私は絶望の淵で立ち止まった。

★  ★  ★

 月のない曇った夜空の下、私は行く当てもわからず隠世の獣道を歩いていた。玉露様は部屋で悶々としていた私を案じ、八雲さんと黒瀬さんにバレないように屋敷の外に連れ出してくれたのだ。

 鬱蒼と生い茂る草花をかき分け、飄々と歩を進める玉露様の後をついていく。宵闇の中で提灯の明かりだけが辺りをぼんやりと照らしてくれる。

「足下、気をつけてねー」

「は、はいっ」

 提灯に照らされた白銀の髪が妖艶に煌めき、夜風に吹かれて幻想的に揺らめいた。町外れを歩いているため、辺りは酷く静かで、虫の鳴き声一つ聞こえてこない。黒々とした静寂に玉露様の優しい声色がとても馴染んでいる。

 まるで時間が止まって闇に飲まれてしまったかのよう……なんて詩的なことを考えてしまうくらい、隠世の闇夜は魔性を孕んでいた。

「暗いから手を繋ごっか」

 不意に玉露様に手を握られた私は「ぎょぺっ!」と奇怪極まりない声を上げて驚いた。が、拒む理由を述べる余裕もなく、玉露様の細く長い指に身を委ねた。玉露様の手は骨張っていて、見た目以上に大きく感じた。

 手を繋いで歩く、という異常事態に私は思考崩壊しながら歩き続け、やがて辿り着いたのは小さな社がぽつねんと佇む空き地だった。

「わ……!」

 玉露様に促されて小さな社に腰を下ろすと、目の前には満開のひまわり畑が果てもなく広がっていた。更に、頭上では桜が見事に咲き誇り、風雅な香りを漂わせている。四季を超越した隠世ならではの無軌道な美しさだ。

「良いでしょ、ここ」

 私の隣に座り、玉露様は漆黒の太刀を傍らに立てかけた。そして、懐から扇子を取り出し優雅に広げると、ひらり、と花びらが青海波の上に舞い落ちた。その様子を愛おしげに眺めた後、玉露様は静かに開口した。

「ねぇ、牡丹ちゃん」

 玉露様の甘やかな声色が五臓六腑に染み渡った。

 私の顔をジッと見つめる玉露様の琥珀色の瞳は一週間前のあの朝のように、心を見透かすように澄み切っていた。

「玉露様。……私の中に渦巻く恐怖を吐き出しても、よろしいでしょうか」

「もちろん」

 一切の逡巡もなく玉露様は穏やかに頷いた。

「ありがとうございます」

 私は自暴自棄にならないように意識して、玉露様の顔を見据えた。

「……玉露様は十年前の恩返しのために私と結婚した、と仰いました」

 朧気な帝都の記憶を脳裏に映し、私は自らの手を桜の木に向けてかざした。舞い散る花びらは私の手を避けるように地面に落ちていった。

「ですが、あの時の恩なんてとっくに返してもらっています。むしろ、この一週間は過ぎたるモノです」

 青海波の小紋も、コロッケも、思い出のレモネードも、共に過ごす愉しい時間も、何もかも。十年前にたった一度、手当をしただけの恩に対するお返しとしてはあまりに多く貰いすぎている。

「僕はそう思わないけどね」

 ケロッとした態度で仰った後、「話を遮ってごめん」と玉露様は扇子を軽く扇いだ。

「知っての通り、私は座敷牢に十年間閉じ込められていた女です。学はなく、世間を知らず、何の取り得もない……文字通りの無能です。結婚してまだ一週間なので玉露様は気づいていないかもしれませんが、いずれ私の愚図さを目の当たりにしたら……きっと」

 そこで言葉を詰まらせて私は力なく首を振った。

「……だから、怖いのです。今が幸せすぎて、失った時の喪失感が末恐ろしいのです」

 一週間前に猜疑心に駆られていた時とは違い、今は玉露様のことを心から慕っている。だからこそ、捨てられるのが怖い。捨てられた後、野垂れ死ぬことになるのはそこまで怖くはない。ただ、玉露様に嫌われるのが何よりも怖いのだ。

「も、申し訳ございません……折角、帝都を愉しんだ日にこんなことを言ってしまって」

「そんなことないよ。むしろ、そんなキミだからこそ愛しているんだ」

「え……」

 ぐしゃぐしゃだった私の感情を斬り裂き、光を差し込ませるように玉露様は凜然と仰った。揺るぎない眼差しで私の目をジッと見つめて。

「それに、言ったでしょ? 恩返しっていうのはカッコつけた言い訳で、本当はキミと結婚がしたいがために百鬼夜行の王になった、って」

「ですが、玉露様が恋してくださったのは十年前の私で――」

 座敷牢で埃にまみれて風化した私とは違う、はず。

「恋に理屈も道理もへったくれもないよ。あるのは胸の内から溢れ出る勢いだけさ!」

 玉露様は力強く仰って、扇子をパチン! と閉じた。

「ぎょ、玉露様……!」

 耳の裏側が燃えるように熱くなったのを感じ、私はもごもごと口ごもった。玉露様の言葉は本当に勢いだけだ。ただ、その勢いは凄まじかった。反論の余地を根こそぎ奪い、有無を言わさず希望を輝かせ、恐怖の感情を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまったのだから。

「キミは無能じゃないし、愚図でもない。とっても素敵なレディーだよ」

 そう仰ると共に玉露様は手を伸ばし、私のもさもさの頭をそっと撫でた。

「たとえば、このふわふわの髪。綿毛みたいに柔らかくて、羊みたいに可愛らしくて、最高に可愛いよ。うん。撫で心地もたまらない」

「ぎょ、ぎょぎょく、ぎょくぎょさま!」

 まともに名前を呼べないほど取り乱した私に構うことなく――いや、むしろ嬉しそうに頬を綻ばせた。

「言わずもがな、緑釉の瞳は吸い込まれそうほどに美しい」

 玉露様は私の前髪を優しく掻き上げ、露わとなった緑色の瞳を覗き込んだ。玉露様の琥珀の瞳にあたふたする私の姿が映っているのが何とも無様で、羞恥心を再現なく増幅させていった。

「それに、一緒に夜食を食べることも、夜通し遊戯に耽ることも、一緒に仕事をすることも、牡丹ちゃんだからこそ愉しくて幸せが溢れてくるんだ。牡丹ちゃんじゃなきゃ、ダメなんだ」

 問答無用で褒め殺しにされ、私は身も心も火照って今にも弾け散ってしまいそうだった。耳の裏側どころか全身あらゆる場所が熱を帯び、血管がグツグツと煮え滾っているかの如く脈動は激しく猛っていた。

「この一週間で牡丹ちゃんの良いところを沢山知ったし、悪いところにも色々と気がついたよ」

 目を細めて私を一瞥し、玉露様は口をすぼめた。

「牡丹ちゃんは良くも悪くも頑なに真っ直ぐすぎて、思い詰めて悩みがち。あと、卑下しがち」

「も、申し訳ございま――」

「でも、そんな人間臭いところも愛おしくて大好きなんだ」

 私の謝罪の言葉をぶった斬り、不安も恐怖も何もかもを弾け飛ばす笑顔で玉露様はあっけらかんと言い放った。