【第壱話】
極東の島国、和花国和花国|は百年前まで古臭い概念に縛られて世界から孤立していた。封建制度、極端な身分社会、権力の集中、鎖国。そんな鎖された国を破ったのは人間と妖怪の同盟だった。彼らは革命を起こして古い政府を打破し、百年の帳を破って開国を果たした。
そして、和花国の人々はこれまでの鬱憤を晴らすかのように他国との交流を広げ、貿易で財をなし、様々な技術を取り入れて文明を飛躍的に発展させ、華やかに潤っていった。
……と、歴史の本の内容を頭の中で繰り返し、私は小さなため息を吐き出した。何度も読み返してくたくたになった本の内容を暗唱すること、それが今の私の唯一の娯楽であり、現実から目を逸らすための最大の慰みなのだ。
座敷牢の片隅にぽつねんと正座をしたまま、木漏れ日が差し込む格子窓を見上げた。外の世界はすっかり春真っ盛りのようだが、私には季節の移り変わりなんて関係ないことだった。強いて言うなら、冬の凍える寒さが過ぎ去ったことだけが少し嬉しい。
それくらいだ。
それくらいしか、今の生活におけるささやかな感情の変化は存在しない。
今年で私は十七歳、いや、十八歳だっけ? ……いまいち自分の年齢は定かではないけれど、座敷牢に閉じ込められている年数だけはしっかりと記憶している。
十年。
お母様が病気で亡くなったあの日から、お父様の独断で座敷牢に閉じ込められたのだから忘れるはずがない。きっかり十年間、私は鈴城家の屋敷の奥にある座敷牢から外へ出ていない。外の情報を知る手段はお手伝いさんが内緒で渡してくれる古新聞だけだ。
ささくれた畳、布団と呼ぶのは憚れるボロ布、お母様が遺してくれた本の山、お手伝いさんがくれる古新聞、どことなく人の顔に見える天井の染み。それだけが私の世界。座敷牢の外のことなんて、恋い焦がれる気持ちすら薄れて枯れ果ててしまった。それほどに十年という月日はあまりに長かった。
それこそ天井の染みを幼い頃は不気味に思って怖くて仕方がなかった。少しして慣れてきてからは染みの顔がひょうきんに見えて、親しみを感じていたこともあった。だが、十年経った今は何も感じない。恐怖も親近感も何もかも風化してしまった。染みは所詮ただの染み、感慨も感傷もありゃしない。
いや、残滓はある。それは大好きだったお母様への思い。お母様が遺してくれた思い出への名残り。
お母様と帝都へ遊びに行った思い出。お母様に文字の読み書きを教わった思い出。お母様の料理の手伝いをした思い出。お母様とおしゃべりした思い出。お母様と双六をした思い出。お母様と手を繋いだ思い出。お母様に頭を撫でてもらった思い出。
お母様との思い出を脳内で反芻し、心の奥底から温かくも苦々しい感情が込み上げてくるのを感じた。
ふと、私は立ち上がってよたよたとした足取りで本の山に近寄った。そして本の山の中に手を差し込み、漆塗りの手鏡を取り出した。それは、お父様に見つからないようにこっそりと隠しているお母様の形見だ。
形見の手鏡を両手で優しく包み込み、お母様への思いだけはまだ風化していないことを噛み締めた。しかし、不意に自分の顔が手鏡に映り込んでしまい、気分が一気に曇ってしまった。
鏡に映るのは、痩せ細った情けない顔。長い前髪が酷く辛気くさい。生まれつき毛量が多く、お手伝いさんに整えてもらってもすぐに伸びてもさもさになってしまうのだ。
何よりも目を引くのは、長い前髪の隙間から覗く緑色の瞳。この瞳の不気味な色こそ、座敷牢に閉じ込められる最大の原因だ。決して病気の類いではなく、視力に異常もない。が、お父様は緑色の瞳を凶相であると忌み嫌っていた。
曰く、太古の時代に和花国を襲った邪悪な妖怪が緑色の瞳をしていたから、とのことだ。が、その妖怪が記されたのは古い文献のため、本当に緑色の瞳だったのかの確証はない。むしろ蒼色だった説も多数見受けられ、非常に眉唾なのだが……それはそれとして、お父様は緑色の瞳を凶相だと信じ、思い込んでしまっていた。
そして、お母様が病気で亡くなったことを緑色の瞳の呪いだとお父様は決めつけた。こんな呪われた娘がいるなんて知られるわけにはいかない、と世間体を気にした末、お父様は私を座敷牢に閉じ込めた。
それから早十年、この生活が続いているというわけだ。
今思うと、凶相だからといって目を抉られたり、殺されたりしなかったのはせめてもの親の情なのかもしれない。
「牡丹お姉様!」
突然、座敷牢の外から甲高い声で名前を呼ばれ、私は慌てて形見の手鏡を懐に隠して振り返った。座敷牢の向こうには、黒地に豪奢な金色の刺繍を施した銘仙を着た美少女が悠然と立っていた。
妹の薫子ちゃんだ。
「お姉様ったら相変わらず陰鬱な顔をしてるわねぇ」
私の顔をジロジロと見下ろし、薫子ちゃんは口角を上げてニタニタと笑った。黒く澄んだ瞳には侮蔑の感情が色濃く滲んでいる。
座敷牢に閉じ込められている私と異なり、薫子ちゃんはお父様にそれはもう滅茶苦茶に可愛がられている。そのためか私より発育がよく、元気溌剌で、お母様に似た可憐さを誇っていた。
「……ど、どうしたの?」
私は恐る恐る薫子ちゃんに問いかけた。薫子ちゃんが私に会いに来るのは決まって機嫌が悪い時の八つ当たり目的だ。薫子ちゃんにとって私は姉ではなく、むしゃくしゃした時に気軽にいたぶれるオモチャも同然なのだから。
「うふふ。今日、学校で嫌なことがあってぇ」
胸焼けしそうな甘ったるい声色で語る薫子ちゃんを一瞥し、私は心の中で「やっぱり八つ当たりだ」と納得した。
「あ、学校って言ってもお姉様はわかんないかぁ。だって、お姉様は学校に通わせてもらえないもんねぇ~。こんなみすぼらしい座敷牢に監禁されているなんて、ホントかわいそ~」
ケラケラと笑った後、突如、薫子ちゃんの表情はおぞましく歪んだ。
「だからねぇ、お母様に慰めてほしいの」
「お母様に……?」
不穏な空気を感じ取りつつ、私は平静を取り繕って首を傾げた。
「うふふ。ねぇ、お姉様。お母様の形見を貸してくださらない?」
「え」
薫子ちゃんの視線が私の胸元――懐に向いていることに気づくと、どろりと粘ついた冷や汗が流れ落ちた。
「悲しい気持ちを癒やすにはやっぱりお母様しかいない、と思ってぇ。ねぇ、お姉様は持っているでしょ? お母様の形見の手鏡!」
「……で、でもこれは」
私の大切な宝物で、と続けようとした私を禍々しい目つきで睨みつけ、薫子ちゃんは座敷牢の格子を殴りつけた。大きな音と振動が私のみみっちい心身を揺さぶり、抵抗することが無意味であると突きつけた。
ここで私が断ったら、薫子ちゃんはお父様に言いつけるだろう。そうなったら、どんな折檻を受けるか、想像するだけでも吐き気が込み上げてくる。
「……は、はい」
おずおずと頷き、私は格子の隙間から形見の手鏡を差し出した。薫子ちゃんは歯茎が見えるほどの満面の笑みを浮かべ、形見の手鏡を引ったくった。
「ありがとぉ、お姉様! うふふふ!」
満足げに笑う薫子ちゃんを見て、形見の手鏡を返してもらえないことを悟った。恐らく、薫子ちゃんはお母様の形見が欲しかったわけではなく、私から宝物を取り上げて困らせることで嗜虐欲を満たしたかったのだろう。
私にできることといえば、お母様の形見を壊されたり、質屋に売られたりしないようにひたすら祈ることだけだった。
★ ★ ★
「出ろ」
薫子ちゃんに形見の手鏡を貸した翌朝、お父様の一存により座敷牢の扉が開け放れた。
「……え?」
あまりに唐突な出来事に私はついていけず、口をパクパクさせて放心状態だった。これまで十年間、私は一度たりとも座敷牢の外に出されたことはない。扉が開けられる時といえば、お手伝いさんが食事を運んでくる時か、お父様の折檻の時くらい。「出ろ」だなんて言われたことは当然、皆無だ。
混乱する私をジッと見下ろし、お父様は洋服のポケットから紙煙草を取り出し、口に咥えた。更に慣れた手つきでマッチで火を付けて、勢いよく煙を吐き出した。
「牡丹、緑色の呪われた瞳を持つお前は穢れだ。由緒正しき貴族の名家である鈴城の恥だ」
そう言ってお父様は眉間に深い皺を刻んだ。貴族階級なんて百年前の革命によって撤廃され、今や形骸化しているものだというのにお父様は未だに家柄にすがりついているのだ。
「俺は昔からお前が憎かった。その凶相を見るたびに先祖代々への恐怖に蝕まれた。妻の遺言さえなければとっくに処分していただろう」
煙草の灰が床にポロッと零れ落ちることも厭わず、お父様は言葉を続けた。私への侮蔑の言葉を連ねる表情は酷く苦々しいものだったが、次第に奇妙な明るい笑みへと変化していった。
「しかし、お前を憎むのも今日までだ。いや、今日ほどお前が娘であったことを喜んだ日はないだろう」
お父様らしからぬ言葉に私は己の耳を疑った。長きに渡る座敷牢生活でついに鼓膜がおかしくなってしまったのだろうか、とさえ思った。
「お父様ったら本当に嬉しそうねぇ」
と、上ずった声と共にひょっこりと現れたのは薫子ちゃんだった。今日も今日とて派手で煌びやかな銘仙に身を包んでいる。これ見よがしに懐からお母様の形見の手鏡を取り出し、歪んだ表情でお父様に目配せした。
「お前も嬉しいだろう? 薫子」
「ええ、もちろん。生まれて初めて牡丹お姉様の存在を祝福できるわ。うふふ!」
お父様に続いて薫子ちゃんの不気味極まりない上機嫌な言葉に私は怖気がした。何か悪い出来事を突きつけられる前触れなのだろう、と経験則で身構えた。
そんな私をギョロッとした目で見下ろし、お父様は勢いよく煙草を吸った。
「牡丹、お前に縁談が舞い込んだのだ」
むせ返るほどの煙と共にお父様が吐き出した言葉に私は目を見開いた。
縁談? 私に? 何故に?
疑問が疑問を呼び、頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していく。十年間、座敷牢に閉じ込められていた私と縁談なんて意味がわからない。学もなく、見てくれが良いわけではなく、某かの才覚があるわけでもない。そんな娘に縁談だなんて。
強いて思い浮かぶことがあるとすれば、政略結婚だが……いや、しかし、落ちぶれた現在の鈴城家にどれほどの価値があるのだろうか。
「当たり前だが有無は言わさぬ。お前に拒否権はないぞ、牡丹」
思い悩む私とは対照的にお父様は頬を紅潮させてニンマリと笑った。
「相手方には真夜中の社交場で声をかけられてな。縁談をお願いできぬか、と。しかも、牡丹を名指しでだ! まったく、世間には物好きがいるものだ」
「ねぇ~、私じゃなくてお姉様をご指名だなんて変わった趣味よねぇ」
座敷牢の中の私を心の底から見下す眼差しで薫子ちゃんは目を細めた。妙に上機嫌なのは変わりないが、それはそれとして、自分ではなく私を指名した相手方への嫉妬が滲んでいるのが手に取るようにわかった。
「向こうは顔合わせだの何だのと手順を重視してきたが、俺はその場で結婚を快く承諾してやった。下手に時間をかけて向こうの気が変わってはたまらんからな! 何せ、結納金をたんまりくれると言うのだから!」
結納金をたんまり。
その言葉でやっとお父様と薫子ちゃんが上機嫌な理由に納得した。
この十年間、お父様と薫子ちゃんの堕落と贅沢三昧で家計は火の車になっている、とお手伝いさんから聞いたことがある。お父様の仕事もあまり上手くいってない様子で、先祖代々の資産を食い潰す一方。つまり、鈴城家は緩やかに滅びかけていた。そんな折、多額の結納金を提示されたのだから、二人が有頂天になるのも無理はない。……ついでに厄介払いもできるわけだし。
「お前には感謝しているぞ、牡丹。何せ、我が鈴城家のために人柱となってくれるのだからな」
そう言ってお父様は煙草の火を格子で揉み消し、吸い殻を床に放り捨てた。私に向ける表情はこれまで以上に露悪的で、もはや悪辣と言っても過言ではないほど醜悪さが露わとなっていた。
「ねぇ~、お父様ぁ。人柱ってどういうことぉ~?」
答えを知っているのだろう薫子ちゃんはわざとらしい猫撫で声を上げ、お父様に寄り添った。
「ああ、まだ説明していなかったな。牡丹よ、お前の結婚相手の名は望月玉露。通称・化猫御前。つまり、妖怪なのだ」
「きゃー! 妖怪? お姉様、妖怪と結婚するのぉ~! やだー!」
「しかも、数多の妖怪共を統べる百鬼夜行の王らしいぞ」
化猫。
妖怪。
百鬼夜行の王。
続け様に告げられた言葉に私は思考が追いついていなかった。ただ、お母様がくれた本に載っていた妖怪についての知識をひたすらに脳内で繰り替えし続けた。
妖怪とは、人ならざる魔の物。かつては人と共存し、百年前には同盟を組んで古い政府を打破した。が、それ以降は人の世から姿を隠し、歴史の影に潜んでしまった。そんな人知を超えた存在と結婚することになるだなんて……。
「呪われた瞳のお姉様にはお似合いの相手ね。化猫御前だなんて偉そうな名前だけど、きっと酷く醜いブス猫に決まってるわ! うふふっ」
「ふふ、あまり虐めてやるな」
と、薫子ちゃんを諫めつつもお父様の口角は意地悪く釣り上がっていた。
「だってぇ、お姉様がいなくなると思うと寂しくて……」
十中八九、八つ当たりをする相手がいなくなることを嘆いているだけだろう。
「まぁ、でもでも、ブス猫に嫁入りするお姉様のことを想像するだけでスカッとするからどうでもいいかもしれないわ。うふふ。結婚をするんですもの、毛むくじゃらのブス猫に抱かれることくらい日常茶飯事でしょうし! えんがちょ、えんがちょ!」
「だ、抱かれる……?」
想像だにしていなかった言葉に私は目の前が薄らと暗くなった。そんな私を至極愉しそうに見つめて薫子ちゃんは腹を抱えて大笑いした。
「うふふふ! 化猫の夜伽相手だなんて、最悪だわっ。えんがちょ、えんがちょ!」
開け放たれた座敷牢に薫子ちゃんの嬌笑が延々と響き渡り、私の心はどんよりと蝕んでいった。
★ ★ ★
化猫御前・望月玉露様との結婚を告げられた三日後、私は帝都を訪れていた。
十年ぶりに外を出て、照りつける太陽の眩しさと澄み渡る青空の雄大さ、そして帝都を行き交う人々の躍動感にただひたすら圧倒された。座敷牢という狭苦しい空間とはまるで異なる、果てしない世界を目の当たりにした瞬間、気がつくと頬を涙が伝っていた。
まさか座敷牢の外に出る時がくるなんて、と喜びと解放感をひしひしと噛み締める。が、今は感動に浸っている場合ではない、とお父様と薫子ちゃんの悪辣な視線で思い出した。
今日、私は結婚するのだ。
まだ見ぬ妖怪の殿方と。
「それじゃあ御達者でね、お姉様。嫌なことがあったら、いつでも教えて頂戴ね。お姉様の不幸は最高の蜜の味なんだから。うふふ!」
私の鼻のてっぺんを指先で突っついて、薫子ちゃんはけたけたと笑った。
「その目を見ないで済むと思うと清々するな」
道路の傍らに駐車した自動車の中でお父様は私の顔を見ることなく、吐き捨てるように悪態をついた。そして、野良猫を追いやるような手つきで「しっしっ」と言って私を半ば無理矢理に自動車から降ろした。
「たんまりと結納金をもらったからな、お前はもう用済みだ。ほら、さっさと化猫に抱かれてこい。粗相はするんじゃないぞ、金を返せと言われたら面倒だ」
そう言って、お父様は自動車を走らせて去って行った。助手席に乗る薫子ちゃんは最後までいやらしい笑顔を私に向けていた。
そして、一人になった私は帝都でぽつねんと佇んだ。
いざ、お父様と薫子ちゃんと別れると少しくらいは寂しさを感じるかと思っていたが、ついぞ感傷に浸るようなことはなかった。ただ、薫子ちゃんにお母様の形見の手鏡を返してもらえなかったことだけが気がかりだった。
「……はぁ」
小さくため息を吐き、私は十三階建ての巨大な建築物を見上げた。お母様と十年前に帝都に来て以来、久方ぶりの光景に思わず生きを呑んだ。それは、洗練された建物が連なる帝都の中でも一際壮大で、殊更に圧巻の十三階建て高層展望施設――通称・双雲十三階。
双雲十三階を見上げていると自分のみみっちい小ささが浮き彫りになるような気がして、何だか無性に物悲しくなった。
自分が着ているつんつるてんの着物と、道行く人々の絢爛たる服装と見比べると更に侘しさが込み上げてきた。薫子ちゃんのお古の着物とはいえ、これでも座敷牢生活で着ていたボロ布に比べれば遙かに上等なものなのだが……。
帝都には異国の技術を取り入れた洋風文化が多く取り入れられている。レンガ造りの洋装建築を筆頭に、彩り豊かな洋食店や洋風雑貨、更には気品溢れる優雅な洋服などなど、和花国の昔ながらの和風文化とはまた異なる華やかさが咲き誇っていた。
そんな中で私という異物が路傍の石ころのように転がっている、というわけだ。
「にゃあ」
自己憐憫にすがりかけた、その時、不意に足下から猫の鳴き声が聞こえてきた。どことなく凜として、溌剌とした声色だった。
足下を見下ろすと、そこには一匹の白猫が目を細めて私を見上げていた。毛並みがとてつもなく綺麗で、琥珀のような瞳は自信に溢れていて、野良猫とは一線を画す気品を全身から漂わせている。
……あれ?
その白猫に見覚えがあるような気がして、私は首を傾げた。しかし、十年も座敷牢に閉じ込められていた私に猫との出会いなんてあるだろうか、と物思いに耽っていると白猫は人懐っこい声色で「にゃー」と鳴いた。
瞬間。
白猫の全身がまばゆい光に包まれ、私は反射的に目を瞑った。すると、次に目を開けた時には白猫の姿はどこにも見当たらなく、代わりに一人の人間の男性が悠然とした佇まいで立っていた。
しかも、そんじょそこらの男性とは比べ物にならない凄まじい美貌の殿方なのだ!
「やあ」
爽やかな声色で美貌の殿方は私に語りかけ、柔らかく目を細めた。対する私は白猫が美貌の殿方に変化した事実に驚きを隠せず、目をパチクリと開閉することしかできなかった。
「鈴城牡丹ちゃん」
今度は私の名前を口にして、美貌の殿方は薄らと頬を緩ませて清らかな笑みを浮かべた。青天の霹靂の如き出来事と、清涼感たっぷりの笑顔の破壊力に私の思考力は物の見事に粉砕され、口をパクパクと開閉することしかできなかった。
「あはは、びっくりさせちゃってごめんね」
鈴を転がすように軽やかな口調で美貌の殿方は仰って、私に向けてペコリと頭を下げた。
「ちゃんと自己紹介しないとね。僕は、望月玉露。化猫御前なんて仰々しい名前で呼ばれることもあるけど、普通に玉露って呼んで欲しいかな」
そう仰って、美貌の殿方は照れ臭そうにはにかんだ。
驚愕の連続でバチボコに打ちのめされた思考を懸命に稼働させ、私は目の前の現実を何とか理解しようと試みた。
柔らかさと鋭さを兼ね備えた怜悧な眼差し、端麗に整った鼻筋、常に微笑を携えている薄い唇。艶めかしい男性のようにも、凜々しい女性のようにも見える中性的な美しい顔立ち。煌びやかな白銀の髪は肩まで伸び、薄緑の髪留めで束ねられている。
お召し物は気品溢れる純白の着物に朱色の帯。その上にインバネスコートを颯爽と羽織り、無骨なブーツを合わせることで和風と洋風の色香を共存させている。更に、腰に携えた物々しい漆黒の拵えの太刀が堂々とした存在感を放っている。
そんな神秘的な美貌を誇る殿方の名前はあろうことか、望月玉露様。
化猫御前にして、百鬼夜行の王。
即ち、私の結婚相手になるお方だなんて……!
信じられないことばかりで逆に思考が冷静になってきた。
「あ、あの、えっと……ほ、本当に望月玉露様、ですか?」
不躾な私の質問に対し、目の前の美貌の殿方は「うん!」と無邪気な子供のように元気よく頷いた。
「本当は使用人がキミを迎えにいく予定だったんだけどね。キミと結婚できると思ったらワクワクが抑えきれなくてさ。使用人を差し置いて、ついつい飛び出してきちゃったんだ」
美貌の殿方、改め、玉露様はうっとりした夢心地の表情を浮かべた。
「いやぁ、本当に可愛いなぁ」
唐突に放たれた言葉に私は虚を突かれ、「ほぁ?」と呆けた声を漏らしてしまった。
玉露様が「可愛い」と仰った先にいるのは、私。つまり、玉露様は私のことを「可愛い」と仰った、ということになる。だが、しかし、これほどに見目麗しい美貌の殿方が何私のようなちんちくりんを「可愛い」と言う道理があるだろうか? いや、ない。即ち、これは私の聞き間違いに他ならない。
と、脳内で高速で導き出した答えを一撃粉砕するように玉露様は再び「可愛いなぁ、牡丹ちゃん」と口にした。
「なななななななななッ!」
流石の私も名指しで可愛いと言われた以上、反応せざるを得なかった。といっても、半狂乱状態であたふたと言葉にならない声を悲鳴のように上げることしかできなかったけれど。
そんな私を琥珀色の瞳に映し、玉露様は穏やかに頷いた。
「それに、とても綺麗だ。特に、この瞳」
そう仰って、玉露様は細く長い指先で私のもさもさの前髪をそっとかき分けた。白日の下に晒された緑色の瞳をジッと見つめ、玉露様はほんのりと頬を朱に染めた。
「まるで緑釉みたいに美しい緑色だね」
緑釉とは恐らく緑釉陶器を指しているのだろう、と私は火照った頭で必死に思考を回転させた。和花国の古の時代に作られた鮮やかな光沢を放つ緑色の陶器、それが緑釉陶器だとお母様がくれた本に記載されていた。
そんな伝統的なものに私の瞳を喩えてくれるなんて、と私はらしくもない感慨に耽ってしまった。お世辞やおべっかかもしれない、妖怪の美的感覚は人とは異なるのかもしれない、それでも、だとしても……!
呪い、災い、凶相、とお父様に十年間ひたすらに否定されてきた緑色の瞳を面と向かって褒めてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。
自分の存在を肯定してもらえたような気がして、目の奥がカッと熱くなるのを感じた。世間知らずと罵られてもいい、チョロいと笑われてもいい、だから今だけはこの青い感情に身を委ねさせて欲しい。
「……あ、ありがとうございます」
恐る恐る口にした私の感謝の言葉を玉露様は爽やかな笑顔で受け止めてくれた。座敷牢に押し込められていた塵芥のような存在の私はその笑顔の前では、今にも雲散霧消してしまいそうだった。
「僕の方こそ、感謝の気持ちでいっぱいだよ」
私のもさもさの髪を優しい指使いで撫でて玉露様は静かに、感慨深そうに頷いた。
「わ、私に感謝ですか……?」
皆目見当も付かず、私は大きく首を傾げた。わざわざ多額の結納金をお父様に渡してまで私と結婚することに何か意味があるのだろうか。それこそ人の身では理解できない、妖怪ならではの魔性の真意が……。
想像を張り巡らせている内に全身が緊張で強張り、喉がごくりと鳴った。
「あはは、そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。妖怪だからってキミを食べたりするわけじゃないんだから」
無垢に微笑む玉露様を見上げ、私は「も、申し訳ありません……!」と勝手に恐怖したことを謝罪した。
「ううん、謝る必要はないよ。むしろ、いきなり妖怪に結婚を申し込まれて怖くなるのは当然でしょ」
「そ、それは……」
「でも、少しずつ、わかっていってくれたら嬉しいかな。僕がキミに危害を加えるつもりは一切ないということを。そして、キミを幸せにするために結婚をするということを」
真っ直ぐな眼差しで私を見つめ、玉露様は真摯な声色で言い放った。玉露様の言葉の一つ一つはとても温かくて、優しい思いが詰まっているように感じた。けれど、それでも私は後ろ暗い疑惑を心から消すことはできなかった。
何故、私なんかを幸せにするのだろう、と。
「さて、と。立ち話を続けるのも何だし、そろそろ行こっか」
ひらり、とインバネスコートを翻して玉露様は双雲十三階に背を向けた。
「行くって、どこへでしょうか……?」
「妖怪達の住む世界、隠世さ」
凜とした声色で仰って、玉露様はインバネスコートのサイドポケットから小さな紙片を二枚取り出した。その内の一枚を手渡され、私はおずおずと覗き込んだ。その紙片には達筆な筆字で『帝都↔隠世』と記されていた。
「切符、ですか……?」
「うん。妖術が刻まれた特製の切符だよ」
おもむろに玉露様は切符を宙にかざした。すると、次の瞬間には目の前に黄金の鳥居が出現していた。どこからともなく生えてきた鳥居は太陽の光を浴びて荘厳に輝いている。対する私は目をギョッと見開き、口をあんぐりと開けたまま固まることしかできなかった。
玉露様と出会って以降、何もかもが驚愕の連続すぎる。
「これは帝都と隠世を結ぶ幻想鳥居。切符を宙にかざすことで召喚できるんだ。ちなみに、切符を持っていない者には認識できないし、触れることもできないから安心して。ほら」
玉露様の示した指先に視線をやると、双雲十三階の目の前にド派手な鳥居が出現したにも関わらず人々は一切気にしている様子はなかった。何食わぬ顔で鳥居をすり抜けて行く人々を目の当たりにして私は呆然と立ち尽くした。
そんなマヌケ面の私を可笑しそうに眺め、玉露様は優雅な所作で手招きした。
「この鳥居をくぐれば一瞬で隠世に到着するよ」
鳥居の向こうは普通に帝都の華やかな街並みが広がっているのを一瞥し、私は何度目かわらかないくらいに首を傾げた。しかし、ただでさえ世間知らずな私が人知を超えた妖怪の力に思い悩むだけ無駄だ、と悟って考えることを放棄した。
「さあ、行こう」
玉露様の後に続き、私は漠然とした恐怖を胸に抱きながらもなけなしの勇気を振り絞って鳥居に足を踏み入れた。
世界がぐにゃりと歪んだ。
★ ★ ★
世界がぐにゃりと整った。
鳥居をくぐった瞬間、ついさっきまで溢れていた帝都の喧騒が掻き消えていることに気がついた。しん、と静まりかえった空気は驚くほどに澄んでいて、ひんやりと心地が良い。春の陽気というのを差っ引いてもここまで清々しい空気は初めてだった。
「ようこそ、おいでませ。妖怪の里、隠世へ」
朗らかに微笑んだ玉露様は懐から扇子を取り出し、ぱさりと勢いよく広げた。そして、爽やかな青海波の模様が描かれた群青色の扇子を軽く扇ぎ、猫が捕まえたネズミを見せつけるような自慢げな表情で目配せした。
「わ」
思わず声が漏れ出てしまうくらい、隠世の景色は幻想的なものだった。
水に薄墨を溶かしたかのような淡い空、朧気ながらも温かな光を落とす太陽、遙か遠くにそびえ立つ細長い峰々……更には、梅、沈丁花、ひまわり、桜、柳、朝顔、薔薇、と無数の花々が季節に囚われることなく自由気ままに咲き誇っていた。
異国の文化を取り込んだ洋風建築が建ち並ぶ帝都とは異なり、隠世は昔ながらの和風建築と共に豊かな自然に溢れている。右を向けば田畑が広がり、左を向けば清らかな川が流れ、前を向くと適度に舗装されて草木と調和する牧歌的な道が伸びていた。当然ながら、振り向いても双雲十三階はどこにも見当たらなかった。
明らかに人の世からは隔絶された光景。だけど、どことなく、いや、どこもかしこも人の世の香りが滲んでいるような気がして妙に懐かしくなった。
「綺麗ですね」
私が零した言葉に玉露様は穏やかに頷き、「気に入ってもらえて嬉しいよ」と扇子の先端で鼻を擦ってはにかんだ。
「僕も人の世の生まれでね。初めて隠世に来た時は感動したもんだよ」
「……人の世の生まれ?」
妖怪は産まれも育ちも隠世ではないのだろうか、と私は呆けた顔で首を傾げた。そんな私を一瞥し、玉露様は腰に携えた太刀の柄をそっと撫でた。
「うん。僕は元々、ただの野良猫だったんだ。路地裏でにゃーにゃー鳴いている何の変哲もない野良猫の一匹さ」
「の、野良猫……」
その言葉を反芻し、私はチラリと玉露様に視線をやった。真っ白く神秘的な美貌、飄々と風のような雰囲気、どこをとっても野良には見えやしない。一番最初に見た白猫の姿も高貴な姿だったし……と、疑惑を抱く私に対し、玉露様は広げた扇子で顔を隠して開口した。
「僕は、まぁ……色々と頑張って妖力を得て、化猫に成ったんだ」
色々と頑張って、という言葉を発する時だけ玉露様の声は妙に小さかった。
「そんで、更に色々と頑張って、百鬼夜行の王になったってわけさ」
またしても、色々と頑張って、という言葉を玉露様は濁したが、続け様に「頑張ったことを威張り散らすのってカッコ悪いでしょ?」とバツが悪そうに呟いた。浮世離れした玉露様でもそんなことを恥じるものなのか、と私は意外に思った。
「おっと、またしても立ち話をしてしまったね。ごめんよ、野良の癖が抜けてなくてさ。ちっちゃい頃はいつも道端でクロとまったりしていたんだよねぇ」
クロ? と私が疑問を抱くよりも先に玉露様は扇子の先端で田畑の向こうを指し示した。
「この先の小道を道なりに行けば町があるから、のんびりと向かおっか」
緑豊かな道を進みながら玉露様は百鬼夜行について軽やかに語ってくれた。玉露様の柔らかな声はとても耳心地がよく、会話をしていると無性に心が温かくなっていく気がした。
「百鬼夜行っていうのは、悪しき妖怪や怨霊から和花国を護る妖怪達……いわば、自警団みたいなものなんだ。あ、心配しないで。一応、帝都のお偉いさんとも繋がっているから、それなりに真っ当な集団だから」
和やかな口調でつらつらと語り、玉露様は言葉を続けた。
「もっとも、今の時代には和花国を揺るがすような悪しき妖怪も怨霊もいないけどね。それこそ鎖国をしていた時はいっぱい出現して、その度に百鬼夜行が大活躍したみたいだけど。今では雑魚の怨霊が数匹、極稀に悪戯をするくらいさ」
そう仰って、玉露様は「だから今の百鬼夜行の王の仕事のほとんどは地味な事務作業ばかりなんだよ」と肩をすくめて乾いた笑い声を上げた。
「人間は政治やら外交やらデモやらで大変らしいけど……それは妖怪が踏み込む領域じゃないからね」
妖怪が踏み込む領域じゃない。その言葉が気にかかり、私はおずおずと挙手をした。
「……あ、あの、質問をしてもよろしいでしょうか」
百鬼夜行の王様に対し、ただの人間の小娘如きが質問だなんて失礼だろうか、と思ったが玉露様はむしろ嬉しそうに顔を綻ばせて「もちろん」と頷いてくれた。
「あ、ありがとうございます。えっと……歴史の本で読んだのですが、昔は妖怪と人間は共存していたんですよね? それに、百年前の革命では妖怪と人間が同盟を結んで古い政府を打破した、と書かれていましたし……」
「僕は若い妖怪だから、その時代を生きていたわけじゃないけど……先代のじーさんがよく話してくれたよ。人間と妖怪が共存していた頃の思い出話や、革命を起こした時の英雄譚をね」
道の真ん中に落ちていた小石をブーツの先端で軽く小突き、コロコロと転がっていく様を愉しそうに眺めて玉露様は静かに頷いた。
「妖怪達にとって人間と共に過ごした時間はとても満ち足りたものだったのは間違いないよ。じーさんってばいっつも嬉しそうに昔話をしてくるからね」
「で、では、どうして妖怪は人の世から姿を消したんでしょうか……?」
「和花国が発展したからさ」
インバネスコートを颯爽と翻し、玉露様はほんの僅かに寂しそうな表情を浮かべた。
「鎖国していた頃は狭い島国の中で何もかもが完結していたけど、開国した今の時代はまるで違う。商売も、損得も、いざこざも、国と国の話になってくる。そんな中で人知を超えた力を持った妖怪がいたら、いつ戦争の火種になってもおかしくない。……だから、人々の前から姿を消したんだ。人の世を護るために」
鎖国に苦しむ人間のために革命を起こし、開国と共に人間のために身を退いた妖怪達のことを想像すると、胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みを感じた。
「……妖怪はとても優しいんですね」
「あはは。そう言ってくれると嬉しいよ。でも、それは人間も妖怪もおんなじさ。優しいヤツもいれば、優しくないヤツもいる。それに、妖怪は人間のために犠牲になったとも思っていないよ。だって、僕達はこうして今も賑やかに愉しく暮らしているんだから」
晴れやかな声色で言い切って、玉露様は勢いよく扇子を広げて青海波の模様を太陽の光に照らした。そして、視界いっぱいに広がる極彩色の町並みを指して、にっこりと満面の笑みを輝かせた。
「さあ、到着したよ。ここが隠世一番の妖怪の町さ!」
玉露様と共に妖怪の町に足を踏み入れた瞬間、私は目をまん丸くして仰天した。それこそ妖怪の使う妖術で幻でも見せられているのではないか、と疑ってしまうほどに目の前の町並みはとんでもないものだった。
大通りを挟んで連なる建物はどれもこれも昔ながらの木造仕立ての和風建築だが、問題はその色味が常軌を逸していることだ。
ギンギラギンに煌めく銀色の八百屋、鮮やかな蒼色に燃え盛る炎のような赤色が塗りたくられた魚屋、紅と白のおめでたい縦縞に彩られた書店、頭蓋骨を模した紋様が無数に散りばめられた料亭……と、破天荒な色味の建物が所狭し犇めき合っているのだ。
そんな極彩色の町並みを姿形様々な妖怪達が闊歩する光景を見て、改めて妖怪の住む世界にいることを再認識した。
河童、天狗、ぬりかべ、ろくろ首、鬼、一つ目小僧……歴史の本や妖怪図鑑に載っていた姿そっくりの妖怪達があちこちを歩き、店番をし、買い物をし、談笑し、喧嘩をし、それぞれの生活を謳歌している。
「……すごい」
あまりにも語彙力のない感想をポッと漏らし、私は妖怪達の営みに心奪われてしまった。
十年間ずっと座敷牢に閉じ込められていたせいか、余計に好奇心が溢れている。幼い頃、お母様が生きていた頃の無邪気な童心に返った気がして、更に更にワクワクが込み上げてきた。
しかし、ふとした瞬間に心の中に冷たい感情が生じ、ついさっきまで抱いていたワクワクは一瞬にして途絶えてしまった。
それは、この妖怪の世界で私という人間はどういう扱いなのだろう、という不安。そして、百鬼夜行の王と結婚するということの意味。
ただの人間である私が、座敷牢に閉じ込められるような出来損ないの私が、妖怪達に歓迎されることはありえるのだろうか……。
そんな漠然とした不安を一度抱いてしまうと、ドツボにハマったように更なる不安が次々に浮かび上がってきた。
町を歩く玉露様と私を見て、多種多様な妖怪達がひそひそと噂話をしているような気がするし、それどころか、怪訝な表情を浮かべているようにさえ思えてしまう。
異物。
私は異物なんじゃないだろうか。
「あ、あのっ」
疑心暗鬼に陥った私はたまらず、玉露様に声をかけた。
どうして私と結婚するのですか。という根本的な疑問が嘔吐感のように喉元まで込み上がるが……寸前のところで押し留めてしまった。
結婚する理由なんて聞いてどうする。それはまるで、救いを求めているようじゃないか、と情けなく――怖くなったのだ。
玉露様は「キミを幸せにするために結婚をする」と優しく仰ってくれた。けれど、その言葉の真意は未だわからない。こんな私を幸せにしたいと思う道理など、どこにも存在しないのだ。
その上で、結婚する理由を聞くことは希望にすがるようなものだ。自己憐憫の極みそのものだ。下手に希望にすがるくらいなら、最初から諦めていた方が遙かにマシだ。だって、希望が潰えれば真っ逆さまに落下して、酷く絶望するだけなのだから。
お母様が死んで、座敷牢に閉じ込められた時のように。
あんな思いをするくらいなら最初から心を薄くして、流されるままに生きている方が幸福なはずだ。きっと。
「牡丹ちゃん? 大丈夫?」
首を傾げて優しい眼差しを向けてくれる玉露様に「な、何でもないです。すみません……」と私は掠れた声で言葉を返した。
「初めてのことばかりで大変だと思うから、困ったことがあったらいつでも言ってね。僕は絶対にキミの味方だから」
歯の浮くようなことを玉露様は真っ直ぐと口にした。普通の女性にとっては怪しむべき言葉なのだろう。女たらしだと訝しむべき言葉なのだろう。だけど、世間知らずな私にはどうしようもなく甘い希望に思えて仕方がなかった。
★ ★ ★
妖怪への好奇心を抱いたり、不安でぐちゃぐちゃになったり、玉露様の優しさにすがってしまいそうになったり、と色々なことを経て私は今、玉露様の住む屋敷に足を踏み入れていた。
「わ」
ド派手な橙色の長屋門をくぐった先には、絵本に登場するお殿様の屋敷を具現化したように壮大な光景が広がっていた。
玄関だけでも私が閉じ込められていた座敷牢の二倍以上ある。塵一つ落ちていない広々とした廊下は木目が芸術作品のように美しく、私の足で汚すのが酷く申し訳なくなるほど艶やかだった。玉露様に促されておっかなびっくり摺り足で少しずつ歩を進めると、煌びやかな襖が次々に姿を現した。菖蒲、鳳凰、仏様、と厳かな絵で彩られている。
そして真に驚くべきは、これほど豪奢な屋敷にも関わらず成金趣味のような悪辣さを微塵も感じさせないところだ。不自然さが一切なく、全ての調和が均等に取れているのだ。
さっきまでの悲壮感はどこへやら、壮大な屋敷への驚きと興奮で私の頭の中はいっぱいいっぱいになっていた。……我ながら感情の変化が激しくて子供みたいだ、と呆れてしまう。
「すごいでしょ。といっても僕が建てたんじゃなくて、先代のじーさんから譲ってもらった屋敷だけどね」
改めて、玉露様が王様であることを思い知り、私は胃がキリキリと痛んだ。興奮で忘れかけていた不安が鎌首をもたげた気配を感じる。
「あらま!」
廊下の先から素っ頓狂な声色が響いたかと思うと、ドタドタと足音をたてて一人のおばあさんが走り寄ってきた。しかも、凄まじい笑顔を携えて。
「ひぃ!」
驚きのあまり跳び上がった私の肩をそっと支え、玉露様は「大丈夫だよ」と優しい声色で囁いた。
「彼女はこの屋敷の使用人の八雲さんだよ」
おばあさん――使用人の八雲さんは目の前で立ち止まり、ぜーはーぜーはー、と乱れた息を急いで整えて私の顔をまじまじと見つめた。上品な着物姿の優しい顔立ちのおばあさんにしか見えないが、この人も妖怪なのだろうか?
「あらあらまぁ!」
私に向かって破顔一笑し、八雲さんは跳びはねんばかりに身体を弾ませた。
「可愛いお嫁様だこと! 胡散臭い玉露様には勿体ないくらい!」
はしゃぐ八雲さんに向けて「胡散臭いは余計だよ」と玉露様は肩をすくめた。歯に衣着せない八雲さんの発言と、玉露様の柔らかな対応から二人の主従関係が著しく良好であることが手に取るようにわかった。……お手伝いさんに怒鳴り散らしてばかりのお父様とはえらい違いだ。
「玉露様が一人で帝都まで迎えに行っちゃったもんで心配していたんですよぉ~」
「ははは、ごめんごめん。お土産買ってきたから許してよ」
そう仰って玉露様は懐から小さな桐箱を取り出し、八雲さんに手渡した。それを見た瞬間、八雲さんは目をギョッと見開き、ニマニマと頬を緩めだした。
「あらま! 大帝商店街のきんつばじゃないですか! ありがとうございます~。後でお茶受けにしましょうかねぇ~」
満面の笑みの八雲さんに目配せして、玉露様は閉じたままの扇子を緩やかに振った。
「それじゃあ僕は部屋で準備してくるね」
「……準備?」
問いかけた私にニンマリと笑い、玉露様は扇子を勢いよく開いた。
「結婚式の準備だよ。こういうのは早いとこやっておいた方が気分も良いでしょ? 変に引っ張っても緊張するだけだし」
そういうものなのだろうか、と浮世のことを何も知らない私は狐につままれたような気持ちで静かに頷いた。未だ、玉露様と結婚するということの意味合いを理解できないでいるような身で大丈夫なのだろうか、と心の内がモヤモヤする。
「結婚式といっても気軽なもんだから、気負いしないで大丈夫だから。それに式までは一刻は悠にあるし、牡丹ちゃんはゆっくりと休んでていいからさ。八雲さん、よろしくね~」
そう仰って、玉露様はぴらぴらと扇子を振って去って行った。
「変なお方でしょう?」
廊下の角を曲がって玉露様の姿が見えなくなった途端、八雲さんが不意に口にした言葉に私は目をパチクリさせた。確かに、玉露様は不可思議なお方だが、それはそれとして、変なお方という言い回しは直球すぎて無性に可笑しくなった。
「けれど、ああ見えてとても心優しきお方ですので安心してくださいね」
ゆったりとした所作で八雲さんは廊下に腰を下ろし、私なんかに向けて深々と頭を下げた。
「牡丹様。改めまして、使用人の八雲、と申します。百鬼夜行の王には先代の頃から仕えておりますので、この屋敷のことは手に取るようにわかっております。いつでも何なりとお申し付けくださいませ。牡丹様はこれより百鬼夜行の王の奥方となるお方、遠慮も心配もいりませんから」
真摯な声色で厳かに言葉を並べ連ねた後、八雲さんは頭を上げてニコッと優しい笑みを向けてくれた。
「畏まりすぎても疲れちゃいますね、ほほほ。牡丹様もごゆるりとおくつろぎくださいな」
そう言って八雲さんはそっと横を向き、金箔が散りばめられた襖を丁寧な所作で開け放った。
「こちら、牡丹様のお部屋です。ご自由にお使いくださいね」
「え」
八雲さんが手をかざした先にある部屋を目の当たりにし、私は阿呆みたいに口をぽかーんと開けて立ちすくんだ。もはや実家と比べるのすらおこがましく、ただひたすらに圧巻されるだけだった。
滑らかな畳の心地良さに打ち震えながら部屋に入ると、その広さと清潔さと美しさが全身に飛び込んできて軽い眩暈すら覚えてしまった。
清廉な和風を基調としつつ、飾り棚に置かれたランプや床の間に飾られたタペストリーなど、ところどころに洋風の要素を綺麗に落とし込んでいる。一言で表すなら、酷く心地が良い。ここが極楽かと錯覚してしまうほどに。
「ご実家では随分、酷い目にあっていたと聞いております」
「え、あ、えっと……はは」
八雲さんが用意してくれた柔らかな座布団に腰を下ろし、私はおずおずと頷いた。
「玉露様はいつも牡丹様の現状を嘆き、怒っておられました。今すぐにでも鈴城家を取り潰してやりたい、と時には憤怒の形相を露わにして……」
爽やかな風のように微笑む玉露様が憤怒の形相をすることがまったく想像できなかった。ただ、私のことで嘆き、怒ることに疑問符が沸々と浮かび上がっていった。
「ですが、妖怪が下手に人間の問題に手を出すのはよくない、ということで縁談という形で穏便な手段をとったのでございます。無論、玉露様が牡丹様にほの字であるからゆえ、ですが。おほほほ」
ほの字。
その言葉の真意が見えず、私は首を傾げた。いや、意味はわかる。本で読んだから恋愛感情の機微というものは、何となくは知っている。けれど、玉露様が私に対して抱く感情の真意はそれとは異なるはず……というか、私なんぞに恋愛感情を向ける者がいるはずがないのだ。
「鈴城家にはすでに結納金という名の手切れ金を払っておりますので、ご安心くださいね」
上機嫌だったお父様と薫子ちゃんのことを思い出し、私は肩をすくめた。
「それに、人間と妖怪が結婚することも決しておかしなことではございません。一昔前、人間と妖怪が共存していた頃なんて、ざらにあったことですし、子供を成した者も沢山おりました。何を隠そう、私もオニグモと人間の合いの子、女郎蜘蛛ですから」
「……そう、なんですね」
おほほ、と笑う八雲さんに不信がられないように相槌を打ちつつ、私は心の中で再び犇めき出した感情を何とか抑え込もうと躍起になっていた。謎はあれど、玉露様も八雲さんもとても良くしてくれているのだから、疑うなんていけないことだ、と何度も何度も自分の心に言い聞かせて――。
「では、お茶を酌んで参りますね。玉露様にいただいたきんつばも二人で全部食べちゃいましょ。おほほ」
おばあさんとは思えない素早い身のこなしで去っていった八雲さんを見送り、私は一人、部屋の隅に腰を下ろした。
★ ★ ★
いつの間にか文机にうずくまって眠り呆けていたようで、私は寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回した。机の上に置かれていた飲みかけのほうじ茶がまだ湯気を上げていることに気づき、それほど時間が経っていないことに気がついた。
どうやら、八雲さんにいただいたほうじ茶ときんつばがあまりに美味しく、八雲さんとの穏やかな会話がとても愉しく、気が抜けてそのまままどろみに身を委ねてしまったのだろう。
肩に柔らかな掛け布団がかけられていることに気づき、八雲さんへの感謝と申し訳なさで胸が痛くなった。
飲みかけのほうじ茶をごくごくと飲み干し、口の中に残っていたきんつばの甘さにとろけそうになりながらも、私は慌てて部屋を出た。結婚式まで一刻あると仰っていたが、流石に寝ぼけたまま呆けているわけにもいかない。と、八雲さんを探そうと廊下に出たのだが……。
「わ」
夕陽が指す廊下で見知らぬ男性と目が合い、私はビクリと身を震わせた。
「む」
男性は私の存在に気がつくと、鋭く尖った目を更に尖らせた。そして、短く整えた黒髪を無造作に掻き撫で、小さく微かな吐息を漏らして開口した。
「あんたが、タマの結婚相手か」
心を刺すような鋭い声色で男性は静かに、独り言のように言って私を一瞥した。
何者かわからない男性との出会いに恐怖と好奇心がない交ぜになりつつ、私はおずおずと男性の姿を見渡した。パッと見は普通の人間の青年のように見えるが、玉露様や八雲さんのように妖怪なのだろう、人ならざる張り詰めた空気を纏っている。
どことなく玉露様のインバネスコートと細部の装飾がが似ている真っ黒な軍服に身を包み、腰には鈍い輝きを放つ白銀のサーベルを携えている。玉露様の美貌と負けず劣らずの整った顔立ちは野生の狼のような獰猛な勇ましさと孤高の美しさを兼ね備えていた。
「ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、男性はズボンのポケットに手を突っ込み、そっぽを向いた。これ以上、私と話をする気はない、という意思がひしひしと伝わってきた。
「こら! 奥方様になんて態度をしているんですか!」
廊下の奥から現れた八雲さんの怒鳴り声を聞き、男性はバツが悪そうに肩をすくめた。
「牡丹様、お気を悪くさせたらごめんなさいねぇ。彼は悪い子ではないんですが、酷く不器用なもんで」
ぺこぺこと頭を下げる八雲さんを見て、むしろ、そんなに謝られる方が申し訳なくなって私も負けじとぺこぺこと頭を下げ返した。
「……変なヤツ」
私に向けてボソリと男性が呟いたことに気づき、八雲さんは再び「こら!」と怒声を響かせた。
「はぁ」
八雲さんの怒気に辟易している様子で男性はため息を吐き出し、鋭利な刃のような視線で私の顔を睨みつけた。瞬間、八雲さんに思いっきり頭を叩かれ、男性は情けなくしゃがみ込んだ。
「痛っ……」
「ほら! いつまでも不貞腐れてないで、奥方様に挨拶をしてくださいな!」
「不貞腐れてるわけじゃ――」
と途中まで言いかけたが八雲さんの無言の圧に怯み、男性は言葉を引っ込めた。そして、改めて私をジッと見据えた後、ゆらりと跪いて片膝を立てた。
「オレは犬神の黒瀬。タマ……玉露とは昔からの腐れ縁で、今は家来をやっている。つまり、あんたの家来にもなる。よろしく頼む」
男性――黒瀬さんは淡々と語った後、そそくさと立ち上がって八雲さんに視線を向けた。
「これでいいだろ、八雲さん」
「言葉遣いはてんでダメですが……まぁ、あなたにしては上出来でしょう」
うんざした声色で言った八雲さんだったが、黒瀬さんは褒められたと受け取った様子で妙に口角を上げて勝ち誇った表情を浮かべていた。
「ふふん」
上機嫌で鼻を鳴らす黒瀬さんを横目に八雲さんは軽く咳払いをし、「ところで」と話を切り替えた。
「牡丹様、そろそろお着替えをしましょうか」
つんつるてんの着物を見下ろし、確かにこんな格好で結婚式に挑めるはずがないか、と私は苦笑いした。
★ ★ ★
屋敷の大広間の中央に玉露様と並んで座り、沢山の妖怪達に囲まれながら結婚式は滞りなく始まった。
結婚式は和花国伝統の神前式を妖怪流に再構築したもので、異国の洋式を取り入れたり、独自の儀礼を用いたり、と厳かでありながらも華やかに行われていく。玉露様は立派な紋付袴姿で凜と佇み、私は白無垢姿でもぞもぞと所在なく縮こまっていた。
八雲さんの丁寧ながらも時折ユーモアを交えた進行のおかげで場の空気は朗らかで、私もそこまで緊張をすることなく、全身を小刻みに痙攣させて目をぐるぐる回す程度で済んでいた。……八雲さんがいなければ私は緊張のあまり、その場でぶっ倒れていただろう。
姿形様々な妖怪達は興味津々といった爛々とした目で私を見つめていた。百鬼夜行の王に突然嫁いだ人間の娘――しかも、こんなちんちくりんなのだ、彼らにとっては気が気でないのだろう。
しかし、妖怪達の多くが玉露様に向ける視線が妙に訝しいというか、冷ややかなものに見えたのは少し気がかりだった。やはり、私なんぞを迎え入れたことに疑惑を抱いているのかもしれない。
ちなみに、黒瀬さんは妖怪達の最後列に陣取り、仏頂面を浮かべていた。
そして、小・中・大の三つの杯に注がれた御神酒を酌み交わす三三九度の杯を終えた後、玉露様は袴の裾を整えて悠然とした所作で妖怪達に頭を下げた。更に、腰に携えていた漆黒の太刀をすらりと抜刀した。
「今宵はハレの日でございますゆえ、謹んで皆々様に申し上げます」
拝み奉るように抜き身の刃を掲げ、玉露様は少し声色を高くして誓いの言葉を口にした。
「本日、私達二人は皆々様のご臨席のもと、ここに夫婦の契りを結びました。化猫一匹、人間一人、異なる種族ではございますが互いに助け合い、支え合い、誠の愛を育んでいくことをお誓い申し上げます。彼方此方より神霊のご加護を賜り、何卒幾久しくお守りくださいますよう、お願い申し上げます」
凜と語り終え、場が静寂に包まれたところで玉露様は太刀を緩やかに納刀し、改めて頭を下げた。見よう見まねで私も慌てて頭を下げ、玉露様の語った言葉一つ一つに思いを馳せた。
★ ★ ★
結婚式を終えて、私は自分の部屋でぽけーっと呆けていた。
帝都で待ち合わせをして、隠世に来て、と激動の一日だった。驚きの連続で頭の中もすっかりくたくただ。
今更ながら、私があんな綺麗な白無垢を着る日が来ようとは、露とも考えていなかった。と、着慣れた薄っぺらの着物姿でくつろぎながら、八雲さんが用意してくれた梅茶を口にした。細やかな塩っ気が疲れ果てた身体に染み渡り、ほっと一息ついた。
結婚式の後は盛大な宴会を開いてくれたが、どんちゃん騒ぎの熱気に当てられたせいか正直なところ、ほとんど記憶がない。人の世では見たことも聞いたこともない豪勢なご馳走をたんまりと振る舞ってもらった朧気な記憶がほんのりと残っているくらいだ。……残念ながら味は何一つ覚えていないが。
すっかり夜も深まり、日付さえも跨いでしまっている。八雲さんがふかふかの布団を敷いてくれたが、何となく眠れないでいた。昼間に少し眠ってしまったから、というのもあるが……一番の理由はやはり、心に犇めく不安のせいだ。
結婚式を経て、百鬼夜行の王・望月玉露様と私は正式に夫婦の契りを結んだ。けれど、未だにまったくもって実感が湧いていない。むしろ、不定形の漠然とした不安ばかりが湧き上がる一方だ。
だって……十年間、座敷牢に閉じ込められていた私みたいなものが結婚だなんて、ちゃんちゃら可笑しいではないか。
玉露様のような美貌の殿方が――いや、美しいのは容姿だけでなく、その心根も含めて、だ。私の緑色の瞳でさえ、緑釉のようなだと褒めてくれたのだから。あの爽やかな笑顔を思い出す度に胸の奥がほんのりと火照り、同時にどうしようもない不安に押し潰されそうになるのだ。
何故、玉露様は私なんぞ結婚をしたのか。
一体全体、こんな私に何の価値があるというのか。
と、その時、襖の淵を軽く小突く音が何度か聞こえた。洋風のノックというものだろうか、と私は訝しく思いつつも立ち上がり、恐る恐る襖の前に向かった。
「夜分に失礼する」
声量を抑えているとはいえ、鼓膜を刺すような鋭い声色から襖の向こうにいるのが黒瀬さんだということがわかった。相手の正体が判明した安心感と、それはそれとして黒瀬さんがこんな夜中に何の用だろうか、という疑問を抱きながら私は小さく返事をした。
「は、はい。なんでしょうか……」
「タマが呼んでいる」
襖越しの黒瀬さんの端的な言葉に私は首を傾げた。タマ、というのは恐らく玉露様のことだろう。
「開けるぞ」
「え? あ、は、はいっ」
私の返事を聞くや否や黒瀬さんは襖を開け放った。夜の闇に包まれた廊下に同化するような黒瀬さんの漆黒の出で立ちを見上げ、私は何と問いかけようか口をパクパクと開閉させて戸惑った。
そんな私を鋭く見据え、黒瀬さんはまたしても端的に答えた。
「タマの部屋まで案内する。ついてこい」
え。
刹那、時が止まったような錯覚に陥った。
私は世間知らずだけれど、お母様がくれた本の山とお手伝いさんがくれる新聞で多少の色事は知っている――つもりだ。真夜中に旦那が妻を部屋へ呼び出す理由なんて、考えれば考えるほど、いや、考えるまでもなく、一つしかない。
夜伽。
以前、薫子ちゃんが愉しそうに嘲り笑っていた言葉が頭の中で縦横無尽に跳びはねた。
夜伽。初夜。床入り。情事。睦言。……と、文字列でのみ知っている言葉の数々が溢れかえり、左胸の辺りが信じられない音をたてて暴れ始めた。心なしか、全身の体温が仄かに上昇している気さえしてくるほどに。
当たり前だが、私にそんな経験はない。恐らく、器量もない。どうすればいいかなんて皆目見当もつかない。だが、しかし、玉露様が求めているのであれば――。
いや。
本当に玉露様は私なんぞを求めているのか? と、不意に湧き出た疑問が私の頭を急速に冷やしてくれた。そうだ。こんな痩せ細ったちんちくりんのぽんぽこぴーの私なんぞを夜伽に招くだなんて、普通に考えればあり得るはずがない。
……今日一日、普通ではないことを散々目の当たりにしておいて何だが。
「ふぅ」
私は安堵の息を吐き出し、前を歩く黒瀬さんの背中を一瞥した。闇夜を照らす提灯の明かりだけがゆらり、ゆらりと揺れ動く。
「タマはあんたを抱くのか」
ぽつりと黒瀬さんが呟いた一言が安心感に包まれていた私の心を一撃で粉砕した。そのまま泡を吹いて倒れそうになったところ、黒瀬さんが静かに開口した。
「ついたぞ」
黒瀬さんが視線を向けた先には、大きなしゃれこうべが描かれている襖があった。この向こうが玉露様の部屋なのか、と私はごくりと生温かい唾を呑み込んだ。
「タマ」
呼びかけと共に襖はゆっくりと開き、闇夜に浮かび上がるように玉露様が姿を現した。インバネスコートは纏っておらず、乳白色の素朴な着流しに身を包んで優雅に扇子を扇いでいる。
「ありがとう、クロ」
黒瀬さんに優しく声をかけ、玉露様は穏やかに微笑んだ。
「後は大丈夫だから、クロはもう寝てて」
「護衛はいいのか」
「うん、平気だよ。僕は百鬼夜行の王様なんだから」
和やかに返した玉露様をどこか名残惜しそうに一瞥し、黒瀬さんは一歩後退って頭を下げた。そして、私の顔を鋭く見つめた後、漆黒の姿を闇夜に溶かすように音もなく走り去っていった。
「夜遅くにごめんね、牡丹ちゃん」
甘く囁く玉露様の顔を見上げることができず、私は俯いたまま首を横に振った。
「い、いえ、昼間に少し寝てしまったので……ぜんぜん、大丈夫ですっ!」
自分でもびっくりするくらい溌剌とした返事をしてしまい、余計に胸の奥が熱く火照ってしまった。
「ありがとう、嬉しいよ」
狂おしいほどにドギマギする胸を懸命に押さえ、玉露様に招かれるまま部屋に足を踏み入れた。
★ ★ ★
畳の上に堂々と鎮座する大きなベッドを一瞥し、私は全身に脂汗がほとばしるのを感じた。そのベッドは身長の高い玉露様でも一人では大きすぎるが、男女二人が横たわることを想定すると丁度良い塩梅な気がして、更に更に油汗がほとばしった。
つんつるてんの着物に汗染みができていないか慌てて確認し、……私はなるべく腋を締めて行動するように注意した。
「このベッド、特注なんだ。ふっかふかで寝心地がいいんだよね。あ、牡丹ちゃんもベッドがよければ用意するから、いつでも言ってね」
「ふぁ、ふぁい……」
情けない返事をした私を流し目で一瞥し、玉露様は少しはだけた胸元に向けて青海波の扇子をゆらゆらと扇いだ。仄かに灯りを放つランプに照らされ、玉露様の白銀の髪が更にいっそう神秘的に煌めいている。
「緊張しなくて大丈夫だよ、牡丹ちゃん」
優しい声色で仰って玉露様は頬を緩めた。その笑顔は昼間に見る爽やかなものと同質なはずだが、今の私には夜の魔性に包まれた妖艶の笑みに見えて仕方がなかった。
ふと、ベッドの傍らに佇む屏風に目をやると、そこには番いの白蛇がうねうねと艶めかしく絡み合っている様子が幻想的な筆致で描かれていることに気がついた。まるで、何かを暗示するように……と考えてしまうのははしたないことだろうか。
「さて、と。そろそろ頃合いかな」
やはり! はやり、そういことなんですか! 今から私達はあの白蛇のようにうねうねと、うにゃうにゃと、ぬちゅぬちゅと!
と、てんやわんやの私に対し、玉露様は穏やかな笑顔のまま枕元に立てかけてあった漆黒の太刀を手に取った。そして、慌てふためく私の横を素通りし、襖をそっと開けて廊下をキョロキョロと見渡した。
「うん。クロはちゃんと帰ったみたいだね」
そう仰って玉露様は腰に太刀を携えて「あいつ、用心深いからなぁ」と気怠そうに眉をひそめた。
「それじゃあ行こっか、牡丹ちゃん」
「……え?」
静かな足取りで廊下に出た玉露様に手招きされ、私は大きく首を傾げた。事は、部屋の中で行われるのではないのですか? と、流石に声に出して質問することはできなかった。
「抜き足、差し足で静かにね。クロとか八雲さんに見つからないように、そーっと」
「は、はい……」
頭の中がぐるぐると謎と疑惑で渦巻きつつ、言われた通りに私は細心の注意を払って玉露様の後を追って廊下を歩き始めた。物音をたてないよう神経を研ぎ澄まして、ゆっくり、ゆっくり、着実に。
誰にも見つからないように提灯の明かりを消しているため、廊下はほとんど真っ暗闇だった。ただ、すぐ目の前を玉露様の白い姿がぼんやりと浮かび、私の進むべき道を示してくれていた。
まるで今の私の縮図のようだ、と思いながら玉露様の背中を見つめた。
それにしても、部屋を出て一体どこに向かっているのだろう。仮に夜伽を行うのであれば部屋が最適なはずだ。あれほど大きなベッドがあるわけだし。
悶々と考えていると脳内に雷鳴のような閃きが瞬いた。
まさか、外で夜伽を?
理外の思考に私は一瞬、気を失いそうな衝撃を受けた。ただでさえ夜伽に恐れ戦き、てんてこまいになっているというのに。よもやよもや、外で行うだなんて……! 少しでも想像するだけで全身が茹で上がり、脳みそが爆発四散してしまいそうだった。
玉露様は見目麗しい美貌の殿方とはいえ、人知を超えた妖怪。それも、化猫御前という存在なのだ。夜の魔性に駆られて獣の如き情欲を貪っても何らおかしくはないだろう。
むしろ、それが本性なのだとしたら――。
「ついたよ、牡丹ちゃん」
暗闇の中で目の前が真っ白になりかけた寸前、玉露様の柔らかな声色で名前を呼ばれ、私は命からがら何とか理性の糸をたぐり寄せることに成功した。
そして、玉露様が開いた扉の先に視線をやると…………そこは、台所だった。
「え?」
きょとん、と私は呆けた声を漏らして玉露様の顔を見上げた。
「ほらほら、誰かに見つからない内に牡丹ちゃんも入って」
玉露様に促されて私はいそいそと台所に入り、辺りを見渡した。お母様の料理の手伝いで何度か台所に入ったことがあることを思い出し、懐かしい感慨が胸の奥底に広がった。
「あ、あの玉露様……台所で……何を?」
まさか、台所で夜伽を? と訊く勇気は私にはなかった。
「夜食だよ」
けろっとした態度で答えて、玉露様は戸棚から大きな丼を二つ取り出した。
「え――」
夜食。
今、玉露様は確かに、夜食、と言った。夜伽ではなく、夜食と。これまで私が一人悶々と試行錯誤していたことは全て的外れだったのだろうか? 最初から玉露様は夜伽ではなく夜食のために私を呼び出したということなのか? それとも、夜伽のための腹ごしらえの夜食なのか?
「あ。ごめん、ごめん」
私が頭を抱えていることに気づいた玉露様は謝罪の言葉を申し訳なさそうに繰り返し、テーブルの上に丼と箸を二つずつ並べていった。
「キミを呼び出したのは一緒に夜食を食べたかったからなんだ」
「や、夜食を……?」
「うん」
扇子の先端で鼻の頭をかいて気恥ずかしそうに玉露様ははにかんだ。
「宴会で振る舞われたごはんをこっそり隠しておいたんだ。ほら」
そう仰って、玉露様は足下の棚から小さなお櫃を引っ張り出し、その中に入っている白ごはんを見せてくれた。その時の玉露様の表情は無邪気な子供のようでもあり、捕まえた獲物を見せつけてくる悪戯な子猫のようでもあった。
「ご馳走すごかったけどさ、緊張してあんまり味わえなかったでしょ? 僕もイマイチ食べられなくて、夜になって小腹が空いちゃったんだよね」
しゃもじを握りしめて玉露様は目を細めて微笑んだ。
「野良猫だった時は時間とか外聞とか気にせずモリモリ食べてたけど、王様になっちゃうとどうしてもカッコつけないといけないからさ」
神秘的な美貌とは裏腹な可愛らしい理由を語りながら、玉露様は大きな丼に冷めた白ごはんをこんもりと盛り、かつおぶしをパラパラと振りかけた。更に、醤油をささっと垂らし、しなやかにふやけたかつおぶしとごはんを箸先で優しくかき混ぜていく。
料理と呼ぶにはあまりにささやかな行程が何だか無性に愛おしい。
「こういう夜食を食べているのがバレても、八雲さんは優しいから笑って許してくれるかもしれないけど、でも、それはそれでカッコ悪いでしょ? だから、内緒なんだ」
王様だからカッコつけたい。夜食を食べるのがバレたらカッコ悪い。と、真面目に語る玉露様は普段の浮世離れした印象からガラリと変わり、親近感の湧く可愛らしさを強く感じた。……って、百鬼夜行の王たる旦那様を可愛らしい、と思うのは不躾かもしれないけれど。
それに、こうして私に秘密を打ち明けてくれるのがとても嬉しかった。
「じゃーん! ねこめし完成~」
嬉々として丼を掲げて、玉露様は溌剌と声を上げた。そして、私に丼を一つ手渡し、にっこりと屈託のない笑みを輝かせた。
「じゃあ、一緒に食べよっか」
「は、はいっ」
玉露様は台所の片隅にちょこんと座り、漆黒の太刀を大事そうに腋に抱えた。その隣に私も縮こまるように腰を下ろし、玉露様が作ってくれたねこめしを覗き込む。自然と頬が緩んでしまった私を一瞥し、玉露様は満足げに頷いた。
「いただきます」
「い、いただきますっ」
玉露様の食事風景は我を忘れてうっとりと眺めてしまうくらい、異様の美しさだった。すらりと細長い指先による華麗なる箸捌きと共に、圧巻の美貌を大きな丼に口づけをするように寄せ、一心不乱に貪り喰らう。それは決して下品ではなく、むしろ、上品な荒々しさという矛盾した表現がしたくなる不可思議さを秘めていた。
口いっぱいにねこめしを頬張り、感無量といった様相で玉露様は目を細めてもぐもぐと咀嚼する。
「んぅ~、おいしい……っ」
ほろり、と涙さえ流してしまいそうなほど玉露様の声色は感極まっていた。
こんなに美味しそうに食べてもらえて、ねこめしもさぞ幸せだろうな……と、何故か私はねこめしに感情移入して玉露様の食事に見蕩れてしまった。
きゅぅ。
「……!」
玉露様が美味しそうに食べるのを見て、おなかの音が鳴ってしまい私は思わず顔を伏せてうずくまった。結婚したての旦那様の隣でおなかの音を――しかも、あんな情けない音を鳴らすなんて!
穴があったら入りたい。
そのまま三日三晩悶絶したい。
そんな衝動に駆られつつも、おなかの音は幸いなことに玉露様には聞こえていなかったようで、箸を止めることなくねこめしを貪り続けていた。
今度、音が鳴ったら玉露様に気づかれるかもしれないし、早いとこおなかを満たしてしまおう。と、私は意を決して玉露様から視線を外し、自らの丼に箸を向けた。
そっと箸でごはんをすくい取ると、かつおぶしと醤油の香りが鼻孔をくすぐり、口内に一瞬で唾液が溢れかえった。このままでは空腹が刺激されてしまう、と慌てて箸を口に運び――――ぱくり。
一口頬張った瞬間、口の中にかつおぶしと醤油の旨味がぶわっと一斉に広がった。更に、ひんやりとしたごはんの歯応えと、ふやけたかつおぶしの柔らかさと、醤油の塩っ気が絶妙に絡まり合って口の中を得も言われぬ充足感で満たしていく。
「おいしい……っ」
素朴だけど美味しい。
素朴だからこそ美味しい。
一口頬張った矢先に、すぐさま次の一口を箸ですくい取り、もう一口、更にもう一口と際限なく食べ進めていく。噛めば噛むほど美味しさが増していき、食べれば食べるほど次の一口への渇望が湧き上がってしまうのだ。
そう。今や私はねこめしを一心不乱に貪り食っていた。
「フフッ」
隣から和やかな笑い声が聞こえてきたが、私の箸は止まることを知らなかった。思い返せば、おなかも心も満たされるような食事なんて、それこそ十年ぶりだ。お母様の手伝いをした時におにぎりをこっそりと食べた高揚感と背徳感が蘇り、今の幸せと重なり合った。
幸せ?
そうか。私は今、幸せなのか。
風化していた十年ぶりの感情に私は身を委ねつつも、どこか他人事のような感想を抱いてしまっていた。それはまだ心のどこかで不安と疑惑が犇めいているからだろうか。なんて、折角の食事中に嫌なことを考えるのはよくないな。
と、私は後ろめたい不定形の感情を心の奥底に無理矢理捻じ込み、改めて、ねこめしを一心不乱に貪り続けた。
「……ふぅ」
あっという間に綺麗さっぱり空っぽになった丼を見下ろし、私は両手を合わせて「ごちそうさまです」と感謝の言葉を口にした。
「牡丹ちゃんが堪能してくれて何よりだよ」
夢中になって貪ってしまったことを今更ながら恥ずかしく思い、玉露様の顔をまともに見ることができなかった。
「ねぇ、牡丹ちゃん。よければだけど、このまま僕の部屋で遊ばない?」
一緒に食器を洗って片付けをした後、玉露様は平然とした面持ちで開口した。しかし、対する私は史上最大にビクビクビクッ! と、身を震わせていた。
夜食の後に玉露様の部屋で行う『遊び』なんて、今度こそ夜伽に違いない……!
「双六とか花札とか、あとは喧嘩独楽もあるよ」
それはもしかして私が知らないだけのとんでもないいやらしい隠語なのだろうか、と私は身構えた。そして、ここまで来て臆するのは失礼千万だ、と玉露様の意のままに従うことに覚悟を決めた。
はたして。
玉露様の部屋で待ち受けていたものは…………至って健全極まりない双六や花札や喧嘩独楽という遊戯に耽る穏やかな時間だった。
夜伽だ、夜伽だ、と慌てふためいた自分が酷くはしたなく思い、心の中でひたすらに反省した。
★ ★ ★
花札勝負がついつい白熱し、気づいた頃には障子窓から朝の日差しが差し込んでいた。
ついさっきまで真夜中だったはずが、いつのまにやら爽やかな朝ぼらけ。大きなベッドの上で玉露様と私は互いに顔を見合わせ、思わず顔を綻ばせた。傍らに積み上げていた得点代わりのおはじきを一瞥し、玉露様は気持ちよさそうに伸びをした。
ちなみに得点は丁度互角だった。
「んー! すっかり朝だねぇ」
とろんとした目を擦りながら玉露様はゆったりとした所作で扇子を扇いだ。
「ですねぇ」
心地よい眠気を感じつつ、私は自分でも驚くほど緩慢な動きで頷いた。
玉露様と夜通し遊ぶ時間はあまりに幸せだった。花札も、双六も喧嘩独楽も、どれもこれも愉しくて、時間はあっという間に過ぎていった。永遠に遊び続けたい、このまま何もかもを忘れて、ずっと。ずっと。ずっと。
十年間の座敷牢生活で失ってしまった人を人たらしめる感情を少しずつ取り戻せた気がした。
「牡丹ちゃん」
着流しの胸元を正して、玉露様は扇子をパチンと閉じた。
「今日一日、どうだった?」
おもむろに玉露様が問いかけた言葉により、頭の中で揺蕩っていた睡魔は一目散に去って行った。心の奥底に捻じ込んでいたはずの不定形の感情がムズムズと起き上がり、かま首をもたげるのが手に取るようにわかった。
「……た、愉しかったです」
その言葉に嘘偽りはない。ついさっき、心の中に溢れかえっていた誠の感情なのだから。
「そっか。良かったよ」
静かに頷いた玉露様は手のひらで扇子の骨子を摩り、伏し目がちな視線で私を見つめた。琥珀のような瞳は恐ろしいほどに澄んでいて、私の後ろめたい感情さえも見透かしている気がした。
だからか、私は自暴自棄な衝動に駆られて勢いに任せて声を荒げてしまった。
「で、でも!」
自分が発したとは思えないほど、大きな声量を上げてしまい私は一瞬、気まずさと申し訳なさで頭の中がぐちゃぐちゃになった。このまま黙り込んで、なかったことにしてしまいたい、とすら思った。
けれど。
玉露様の真っ直ぐな眼差しが私の心を否応なしに突き動かした。
「でも……ふ、不安なんですっ」
私は心の奥底から不定形の感情を引きずり出し、喉を震わせた。情けないとわかっていても、醜いと理解していても、もう、どうしようもなかった。
それでも、玉露様は視線を揺らがせることなく私を見つめてくれていた。
「今日一日、愉しかったのは本当です。一緒に夜食を食べたことも、夜通し遊び耽ったことも、すごくすごく幸せでした。……ですが、ずっと不安なんです」
玉露様は驚くことなく静かに頷いた。きっと、私が疑心暗鬼になって不安を抱いていることも見抜いていたのだろう。だから、私の心を後押しして、このような場を設けてくれたのかもしれない。
そう考えると余計に申し訳なくて、そして、感謝の気持ちで胸が痛くなった。
「玉露様は何故、私なんぞと結婚してくれたのですか……? 多額の結納金まで支払って、優秀な妹の薫子ちゃんではなく、どうして私と結婚をしてくれたのか理由を教えてくれませんか」
「……キミを幸せにしたいからだよ」
柔和な声で仰って、すぐに玉露様は首を振って「って、こういう漠然とした答えを求めているわけじゃないよね」と苦笑した。
「玉露様」
私は自らの前髪を掻き上げて、両目を露わにした。
「もしや、この緑色の瞳が目的ですか?」
「瞳? 確かに、キミの緑釉の瞳はとても綺麗だけれど――」
「お父様が言っていたのです。古の時代に和花国を襲った邪悪な妖怪は緑色の瞳をしていた、と。……もしかして、私はその邪悪な妖怪の血を継いでいて、玉露様はその力を御するために結婚という手段を用いたのでは、と」
我ながら酷い妄想だとは思う。三文小説のような脈絡の無さだ。しかし、それくらいしか思い浮かばなかった。玉露様が価値を見出す可能性のある要素なんて、私は何も持っていないのだから。
「違うよ」
部屋に凜と響く声色で玉露様は言葉を続けた。
「そんな酷い理由で結婚したわけじゃないよ。それに、キミの瞳はとっても魅力的なもので、邪悪な妖怪とか呪いとかはまったく関係がないんだから。先代のじーさんが邪悪な妖怪の瞳は緑色ではなく蒼色だった、って自慢げに語っていたから間違いないよ」
「では、何故……!」
吠えるように問いかけた私を見据えて、あろうことか、玉露様は頭を下げた。
「苦しませてごめんね、牡丹ちゃん。恩着せがましくてカッコ悪いかな、と思って本当のことは内緒にしておきたかったんだけれど……そのせいでキミを不安にさせてしまった。本当に、すまない」
玉露様は握りしめていた扇子をゆっくりと手放し、ベッドの上に転がした。更に、脇に置いてあった太刀を少しだけ押しのけてベッドの上を整えてから、私の顔を再び見つめた。次の瞬間、玉露様の全身がまばゆい光に包まれ、私は思わず目を瞑ってしまった。
「にゃあ」
人懐っこい猫の鳴き声が聞こえて、目を開けると玉露様の姿は気品溢れる白猫の姿へと変化していた。
「僕はキミが好きだ」
白猫の姿のまま爽やかな声色を放ち、玉露様は私の顔を見上げた。
「だから、あえて、この姿で語らせて欲しい」
玉露様の琥珀そっくりの瞳には、髪がくしゃくしゃに乱れた私が映り込んでいた。
「十年前、帝都で僕はキミに救われた」
「十年前……?」
座敷牢に閉じ込められる前、生きていたお母様と一緒に帝都に遊びに出かけた記憶が脳裏に蘇り、私はハッとした。
私の目の前に佇む白猫は毛並みが綺麗に整い、その瞳は凜とした自信に溢れ、全身から王者の風格を漂わせている。けれど、どことなく見覚えがあった。勘違いだと思ってしまうくらいにふわふわと朧気な記憶だけど。
「玉露様、もしかして……」
帝都の路地裏でボロボロの姿でうずくまっていた子猫の姿が、今の玉露様の姿と薄らと重なり合った。
「うん。ただの野良猫だった僕はあの日、性格の悪い人間にいたぶられて死にかけていたんだ。親友のクロともはぐれて、途方にくれていた。行く当てもないし、そもそも身体が動かない。もう、死ぬのか……って、薄っぺらな命を諦めかけた」
初めて訪れた帝都をワクワクしながら走り周り、お母様の制止の声も聞かずに飛び込んだ路地裏で出会った、あの子猫。血と泥にまみれて、弱々しい瞳を潤ませ、みゃーみゃーと小さな声を漏らしていた、あの子猫。
まさか、あの子猫が玉露様だったなんて……!
「突然、目の前に現れた女の子――キミは脇目も振らず、汚れることも厭わずに僕を抱き上げてくれた。そして、綺麗な緑釉の瞳を濡らしてボロボロと涙を流してくれた」
これまでで一番の驚愕に固まってしまった私を見上げたまま、玉露様は十年前を懐かしむように「にゃー」と鳴いた。
「だけど、あの頃の僕は人間に慣れていなかった。今思い出すだけで、最悪さ。だって、キミの手を無茶苦茶に引っかいて、手当たり次第に噛みついて、暴れ回ってしまったんだから」
「……あはは。そういえば、そんなこともありましたね」
今ではすっかり癒えて傷一つない手を撫でて、私は頬を緩めた。
「なのにキミは僕を手放さず、怒ることもなく、ずっと抱きしめてくれていた。手が傷だらけになっても、血が滲んでも、お構いなしに……。そして、共にいたお母さんを説得して、一緒に僕の怪我を治療してくれたんだ」
「私、包帯を巻くのが下手でぐちゃぐちゃになっちゃってましたよね」
「いや、僕が暴れていたせいだよ。それに、実はあの包帯の巻き方を僕は気に入ってたからね。カッコいいでしょ、って後でクロに自慢しちゃったし」
悪戯っ子のような無邪気な笑い声を上げて玉露様は尻尾をぴょこぴょこと揺らした。
「お母さんは最初、こんな乱暴な猫は手に負えない、と言ってキミを諦めるように諭そうとした。けれど、キミは一切折れることなく、揺らぐことなく、頑なに意思を曲げなかった。結果、お母さんが逆に諭されて、僕も暴れ疲れておとなしくなったんだ」
「そ、そんなに私って頑固でしたっけ……」
「そんなキミだからこそ僕は好きになったんだ」
気恥ずかしそうな面持ちの玉露様の真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥でぱちぱちと何かが弾けるような気がした。それは初めての感覚だった。更に、胸の奥の動向に連鎖するように、耳の裏側が無性に熱くなっていた。
「キミの優しさと強さに触れ、僕は胸の奥がぱちぱちと弾ける感覚を知った。クロに対する友情とか家族愛とはまるで違う、生まれて初めての感情。その正体が恋だと気がついた時、僕は帝都を飛び出していた」
恋。
玉露様が口にした言葉を真っ白になった頭の中で反芻した。
「そして、僕が鈴城家にを探し出して辿り着いた頃には、キミはすでに座敷牢に閉じ込められていた。……実の父親に監禁されるなんて、怒りではらわたが煮えくり返ったよ。でも、ただの野良猫の僕にできることは何もなかった」
シーツに爪をたてて、玉露様は低く唸り声を上げた。
「――だから、力を手に入れるって決めたんだ。おこがましいかもしれないけれど、キミに恩を返したかったから」
「……恩」
「それから僕は色々と頑張って……いや、死ぬほど努力をして化猫に成った」
昨日は「カッコ悪いから」という理由で濁した言葉を改めて言い直し、玉露様は照れ臭そうに私の顔を一瞥した。それでも玉露様は努力の内容については語ろうとしなかったが、一匹の野良猫が妖怪に成るなんて途方もない努力だったに違いない、と私は痛感した。だって、そんな簡単に成れるのなら世界は化猫で溢れているはずだから。
「化猫になった僕は更に努力を重ねて、強くなった。そして、先代のじーさんと決闘をして何とか倒し、百鬼夜行の王の座を譲り受けた。まぁ……他の妖怪達にとっては、王の座を奪い取った、と言った方が正しいかもしれないけど」
どこか寂しそうな声色で仰った玉露様の尻尾は弱々しくしなだれていた。
「人間であるキミを助け出すには妖怪としての力だけじゃなく、有無を言わさぬ権力と財力が必要だったんだ」
「妖怪が人間の問題に手を出すのはよくないから、ですか……?」
八雲さんが昨日言っていたことを思い出し、私は恐る恐る問いかけた。
「うん。何事も穏便に済ませたかったからね。暴力で無理矢理に座敷牢を壊すことはいつでもできたけど、それじゃあ本当の意味でキミを救えないと思ったんだ。……とはいえ、キミの気持ちも考えずに無理矢理縁談を取り決めて、あまつさえ、こんな不安を抱かせてしまって本当にごめん!」
「い、いえ! 玉露様が謝ることではないですからっ。私が勝手に不安になってウジウジしていただけですし……」
前足を揃えて頭を下げる玉露様を見下ろし、私はあたふたと首を振った。
「それに……嬉しいです。こんな私なんぞを思ってくれたことが、とても嬉しいです」
「ほ、ほんと?」
勢いよく起き上がった玉露様は目をまん丸にして私を見上げた。さっきまでへなへなだった尻尾は張り詰めた弓のようにしなっている。
「それじゃあ……僕との結婚生活は……こ、このまま続けることを許して、くれる?」
玉露様は途切れ途切れになりながらも、泣きそうな声で懇願するように仰った。許すも何も、それを反故にする理由は私にはなかった。今更、座敷牢に出戻りするのは御免だし、路頭を彷徨うことになるのもできれば遠慮したい。
それに、たった一日とはいえ玉露様と過ごした時間はあまりに愉しかった。不安という感情を差っ引いたとしても、どうしようもなく幸せだったのだから。
「……むしろ、私なんぞと結婚していても玉露様はよろしいのでしょうか」
恩返しとはいえ、いくらなんでも与えられ過ぎている。
「よろしいも何も!」
私の心配をぶん殴って吹き飛ばすように玉露様は声を張った。
「僕はキミのことが好きなんだ! 十年前に恋に落ちてから、ずっと! 大好きなんだ! 恩返しというのはぶっちゃけ、言い訳で! カッコつけてるだけで! ……実際は、キミと結婚するために百鬼夜行の王になったんだから!」
凄まじい勢いで仰った後、玉露様は「あ」と呆けた声を漏らし、前足で顔をこしこしと擦りながら項垂れるようにうずくまった。
「……ごめん。ぜんぶ言っちゃった」
今にも溶けて消えてしまいそうなくらい縮こまる玉露様を見つめて、私は自分の左胸の辺りが際限なく高鳴っていることに気がついた。
「玉露様」
ちんちくりんのぽんぽこぴーの私なんぞに……と、ウダウダと卑下することは簡単だ。けれど、そんなことを言い続けるのは自己憐憫に浸っているだけでしかなくて、玉露様に対して失礼千万だ。
だから、今こそは。
せめて、今だけは。
「……嬉しいです、玉露様」
素直な気持ちを真っ直ぐ応えよう。
「不束者ではありますが……玉露様のお側に、是非」
そして、私は三つ指をつき、玉露様に頭を深く下げた。対する玉露様は「にゃー」と人懐っこい鳴き声を上げた。
瞬間。
眼前でまばゆい光がほとばしり、玉露様の姿は神々しい光に包まれていった。ゆっくりと顔を上げると白猫の姿はどこにも見当たらなく、代わりに縮こまるように正座をしている美貌の殿方が姿を現した。
「ありがとう、牡丹ちゃん」
薄らと朱に染まった頬は真っ白な姿の中で一際目立っていた。