8.
どうすれば音は戻ってくるだろう?
僕は美月が死んでずっとそんなことをぼうっと考えていた。
美月の生命反応が消えて、それから蘇生措置も終わって、俊明さんが僕に何かを語りかけて、それから病室を出て、誰かに電話をしているあいだにも、僕はなにも聴こえなくなった世界で、そんなことばかり考えていた。
どうすれば音は僕のもとに返ってくる?
俊明さんが電話を終えて戻ってきた。また僕に何かを話しかけている。僕は口を動かして俊明さんに何か答えている。
でも僕はなんて言っているのだろう。なにも聴こえない。
僕は表情を動かしている。
どうやら驚いたことに俊明さんに微笑んでいるらしい。
わからない。
まるで深夜に観客席で自分が出ているレイトショーの映画でも見ているみたいだ。
僕は今どこにいるのだろう。
母さんがいなくなったときもこうだったっけ?
僕は中学に上がってほどなく母さんを失っていた。そのときもこんなふうに音がなにも聴こえなくなったような感覚があった。
あのときはどうだったっけ。なんだっけ、少し頭がぼんやりしている。
ああ、でもあのとき母さんが完全に壊れて僅かにほっとしたのを思い出した。
どうしてだろう、いま美月が死んでも同じようにどこかほっとしたように感じてしまっているのは。
ひどいな、僕はとてもひどいやつだな。自分の大切な人が壊れて、死んでいるのにほっとしたように感じるだなんて。
悲しいのにな、すごくすごく悲しいのにな。
結局、僕はピアノが好きだったのか、嫌いだったのか、いまでもわかっていない。
僕は母さんがいなくなってからピアノを弾くのをやめてしまった。僕にとってピアノを弾くのはその程度のものだったのだろうか。
それはわからない。
僕にとってピアノはその程度のものだったから、母さんは僕のピアノが嫌いだったのだろうか。母さんは僕のことが嫌いだったのだろうか。
僕は美月のピアノを思い出す。どんな音だったかな。
それはうまく言葉にならない。
僕はそれをどんなふうに感じていたかな。
それもうまく言葉にならない。
でも美月の弾くピアノの音はいまでも頭のなかでずっと聴くことができる。
美月の弾くピアノの音は母さんの弾くピアノの音と似ていたのだろうか。
それとも全然似ていなかったのだろうか。
わからないな。でも、それはこんな音で。
僕は頭のなかで美月が弾くピアノの音を思い出す。静寂で満たされたうるさい世界で、美月のピアノの静かな音は少しづつ心地よく僕の頭のなかに流れた。
その音は少しずつ大きくなって、世界のうるさい静けさを食い破っていく。
少しづつ、少しづつ。
そうだ、世界に音が再び充されていく。
さっきまで他人の身体のようだった僕の指先に再び血が通っていく感覚が戻ってくる。
止まっていた演奏が、楽譜が再び動き始めたような気がした。
雨の音が戻ってくる。
リズムを刻むような遠くの雷の響きも 。
最初に聴いたような懐かしい音だ。
最初の最初のような。
美月のピアノは僕に何を思い出させようとしているんだろう。
なにか驚くような人の声が聞こえる。
音が世界に戻りつつあった。
やがて、大人たちのあいだで一人の少女が目を開けた。
ゆっくりと目覚めの音ともに。
彼女の目はぼーっと天井を見ている。
ゆっくりと身体を起こして。
やがて少女はこちらを見て最初のフレーズを弾くように、何かを求めるように僕の名前を囁いた。
僕は彼女が目覚めて最初に求めるものを知っていた。
音だ。目覚めた彼女は響きを求めていた。
だから、僕はそれに応えるように、彼女にそれを与える。
「美月」
目覚めた彼女の最初の一音になるように、僕は蘇った少女の名前を呼んだ。
どうすれば音は戻ってくるだろう?
僕は美月が死んでずっとそんなことをぼうっと考えていた。
美月の生命反応が消えて、それから蘇生措置も終わって、俊明さんが僕に何かを語りかけて、それから病室を出て、誰かに電話をしているあいだにも、僕はなにも聴こえなくなった世界で、そんなことばかり考えていた。
どうすれば音は僕のもとに返ってくる?
俊明さんが電話を終えて戻ってきた。また僕に何かを話しかけている。僕は口を動かして俊明さんに何か答えている。
でも僕はなんて言っているのだろう。なにも聴こえない。
僕は表情を動かしている。
どうやら驚いたことに俊明さんに微笑んでいるらしい。
わからない。
まるで深夜に観客席で自分が出ているレイトショーの映画でも見ているみたいだ。
僕は今どこにいるのだろう。
母さんがいなくなったときもこうだったっけ?
僕は中学に上がってほどなく母さんを失っていた。そのときもこんなふうに音がなにも聴こえなくなったような感覚があった。
あのときはどうだったっけ。なんだっけ、少し頭がぼんやりしている。
ああ、でもあのとき母さんが完全に壊れて僅かにほっとしたのを思い出した。
どうしてだろう、いま美月が死んでも同じようにどこかほっとしたように感じてしまっているのは。
ひどいな、僕はとてもひどいやつだな。自分の大切な人が壊れて、死んでいるのにほっとしたように感じるだなんて。
悲しいのにな、すごくすごく悲しいのにな。
結局、僕はピアノが好きだったのか、嫌いだったのか、いまでもわかっていない。
僕は母さんがいなくなってからピアノを弾くのをやめてしまった。僕にとってピアノを弾くのはその程度のものだったのだろうか。
それはわからない。
僕にとってピアノはその程度のものだったから、母さんは僕のピアノが嫌いだったのだろうか。母さんは僕のことが嫌いだったのだろうか。
僕は美月のピアノを思い出す。どんな音だったかな。
それはうまく言葉にならない。
僕はそれをどんなふうに感じていたかな。
それもうまく言葉にならない。
でも美月の弾くピアノの音はいまでも頭のなかでずっと聴くことができる。
美月の弾くピアノの音は母さんの弾くピアノの音と似ていたのだろうか。
それとも全然似ていなかったのだろうか。
わからないな。でも、それはこんな音で。
僕は頭のなかで美月が弾くピアノの音を思い出す。静寂で満たされたうるさい世界で、美月のピアノの静かな音は少しづつ心地よく僕の頭のなかに流れた。
その音は少しずつ大きくなって、世界のうるさい静けさを食い破っていく。
少しづつ、少しづつ。
そうだ、世界に音が再び充されていく。
さっきまで他人の身体のようだった僕の指先に再び血が通っていく感覚が戻ってくる。
止まっていた演奏が、楽譜が再び動き始めたような気がした。
雨の音が戻ってくる。
リズムを刻むような遠くの雷の響きも 。
最初に聴いたような懐かしい音だ。
最初の最初のような。
美月のピアノは僕に何を思い出させようとしているんだろう。
なにか驚くような人の声が聞こえる。
音が世界に戻りつつあった。
やがて、大人たちのあいだで一人の少女が目を開けた。
ゆっくりと目覚めの音ともに。
彼女の目はぼーっと天井を見ている。
ゆっくりと身体を起こして。
やがて少女はこちらを見て最初のフレーズを弾くように、何かを求めるように僕の名前を囁いた。
僕は彼女が目覚めて最初に求めるものを知っていた。
音だ。目覚めた彼女は響きを求めていた。
だから、僕はそれに応えるように、彼女にそれを与える。
「美月」
目覚めた彼女の最初の一音になるように、僕は蘇った少女の名前を呼んだ。