6.
 美月が演奏を終えると僕たちは教会を出て、外を歩いた。
 僕たちは黙ったまま、ただたんたんと敬虔な墓石が連なるあいだの道を一歩一歩歩いていく。教会に着くまでは汗が止まらないほどの暑さだった気温も午後のピークを過ぎると地上よりもわずかに標高の高いこの場所の風で落ち着きを見せたようだった。
 それから前を歩く美月と陽菜が歩みを止めると僕は目的地に到着したことを理解した。目の前の黒い御影石のかたちはシンプルでやや傾斜のついた真四角の墓石が夏の午後の光りを受けていた。
 藤咲望美。その墓石にはアルファベットでそう刻まれていた。美月と陽菜の母親の名前だった。
 陽菜が持ってきた鞄から献花を取り出すと墓石の前にそっと置いて離れた。
「久しぶり、ママ」
 美月は黒の御影石にそう語りかけた。その石の艶めきは僕にはどことなくピアノのそれを思わせた。僕は二人が目を閉じて手を合わせるのを見ると、みようみまねで手を合わせて目を閉じた。
 静かな夏の時間だった。
 ただ虫たちが背後の茂みで鳴きわめくなかで一瞬葉を揺らす風の音がした。
 僕は美月の母親に会ったことはない。
 けれどその風の音を聴いて、なんとなく美月と同じような笑い方をするような人だったんじゃないかと思った。
 美月は祈りの時間を終えると、閉じていた目を開けて一歩だけ進んで、僕らより墓石のほうに近づいた。
「今日は二人とも遠いところに連れてきちゃって、ごめんね。でも、どうしても二人とここに来たかったの、最後にさ」
 美月はそっと慎重に付け足すように言った。
「奏、これ」
 美月はそういって、鞄から一冊ノートを取り出した。僕は黙って、受け取った。一ページだけ捲るとなかに引かれた五線紙のうえに手書きでいくつもの音符と休符が描かれていた。ピアニストならそれだけでここに何が書かれているかわかる。これは楽譜だ、それもピアノのための。一ページ目のうえには曲のタイトルが書かれている。
 僕はノートから視線を上げて再び美月の表情に視線を戻した。
「これは……」
「奏に持っていてほしい」
 美月の目はまっすぐでそこにはいつもの冗談もいつもの笑った表情もなかった。でもそれは悲しみや嘆いているわけでもなかった。
 ただ美月はこちらをまっすぐと見つめていた。
 こんな表情もするんだな。
 僕はそんなことを思うとなぜか涙が溢れて止まらなくなるのを感じた。まだ彼女が涙を流していないのに、先に泣くべきではないとわかっているのに、それでもこれから美月がいうことが僕にはわかって、どうしても涙が止まらなかった。
「ごめん」
「大丈夫、謝らないで」
 責めるわけでもなく、咎めるわけでもなく美月は穏やかに言った。
「奏、あのね。わからないけど、たぶん、ママも今のわたしとおんなじ状況だったんだと思う。自分の生命か、それとも大切な人のこれまでの記憶と未来の記憶その二つのどちらか選ばないといけない状況だったんだと思う」
 美月の声がどこか遠くから響いているような気がした。目の前にいるのに、でも真剣に一音たりとも逃さずに聴かなければダメだと僕は目を閉じなかった。
「ママがここにいるってことは、ママは選ばなかったんだ、ううん、違うよね、ママも選んだんだ。ママは大切な人たちとの記憶を失うより、大切な人との未来を失うよりも、それを自分の命よりも抱えて、そういう人生にしようって選んだんだ」
 隣で嗚咽が聴こえる、陽菜も堪えきれずに泣いていた。陽菜は手で涙を拭うこともせず、ただ両手の拳をぎゅっと握り込めていた。

「ママの選択は娘のわたしにとってはちょっと残酷だったかな。わたしはママが記憶を失っても、わたしたちと生きていてほしかった。でももしかしたら、それも一つの残酷な選択なのかもしれない。ごめんね、奏、結局どっちを選んでもあなたには残酷な選択になっちゃうね、それはわかってるんだ」
 美月の声が掠れてくる。それでも美月は俯かずにまっすぐとこちらを見つめている。僕も決して目を逸らさない。逸らすもんか。

「でも、わたしが言えるのはわたしの選択はママと違うってこと。わたしはママと違う。わたしは生き続ける。わたしはわたしの道を選ぶよ。ごめんね、奏、本当にごめんね、あなたと本当にこの先も生きていきたかった、本当に本当に生きていきたかった。ごめんね、本当にごめんね」
 僕らはすでに涙を堪えることする諦めていた。
「僕も美月と生きていたいよ」
 だから、どこにもいかないでほしい。僕のことを忘れないでほしい。でも、それだけは言わなかった。それが僕にできることだから。それだけが僕が彼女にしてあげられることだから。それが僕の彼女についての選択だから。
 僕にとっての、彼女にとっての選択だから。
「奏と一緒にいたい。この先も、この先も、ずっとずっとずっと一緒にいたい。あなたのことを忘れたくない。ずっとずっとこれまでのことをこれからのことどんな些細なことも楽しいことも嬉しいことも、辛いことも悲しいことも、腹が立つことも、なんでもないこともぜんぶぜんぶあなたとの思い出を忘れたくない。それがわたしの今日までの人生で、そしてこれからの人生であってほしいから。だからわたし忘れたくない。あなたのこと忘れたくない」
「うん」
「でも、だからわたしは生きなくちゃいけないの。あなたのことが大切だから、あなたとの今日までをほんとうにほんとうに大事にしたいから、本当に本当に大事なものだと思うから、だから、あなたとわたしのために、あなたのことを忘れても、これからの人生が同じじゃなくても、あなたと生きるために、あなたのいない人生を選んで、精一杯生きないといけないの」
 うん、大丈夫、わかってるよ。
 僕の言葉は涙で声になっていなかった。
 美月にはどんなふうに聞こえたろう。
「ありがとう、わたしはあなたのことが大好きだった。ほんとうにほんとうに大好きだったよ、そしてこれからもずっとずっとあなたのことが大好きだよ、どうかそのことを忘れないで、わがままかもしれない、ずるいかもしれない、でもやっぱり忘れないで、わたしのことを忘れないで、この言葉が嘘偽りのないあなたへの誠実なわたしのことばだから、だからどうかお願い」
「ありがとう、僕も美月のことが大好きだったよ、心の底から大好きだったよ、これからもずっとずっと、偽りなく、僕は君を忘れないよ」
 それから僕たちは彼女の母親の墓の前で泣き続けた。どれくらいの時間泣き続けたのかわからない。どれくらいの時間が経ったのかわからない。もしかしたら、それは一瞬だったのかもしれない。それはとてもとても長い時間だったのかもしれない。でも僕たちは泣き続けた。
 最後にようやく僕たちは涙を全て枯れさせると、最後に、この演奏の最後に美月はいつものように泣き腫らした目で笑っていった。
「忘れても良いよって言おうと思ってたのに、失敗しちゃった」
 僕も同じような顔で笑った。
 僕も同じことを考えていたからだ。