1.
 そうして春は過ぎて、僕らは高校最後の年に進級した。
 入院中でも自分がフォローしていたとはいえ、一年もの勉強のブランクは大変だったろうし、クラスの人間関係なんかもすっかり様変わりしていたろうから、自分が想像しているよりもきっと何倍も大変だったはずだが、それでも美月は弱音を吐かずに退院後の生活を危なげなくこなしていた。
 美月は持ち前の屈託のなさでもともとクラスの人気者だったし、教師の覚えもめでたい生徒だったので、自然といろんな人が美月をフォローしてくれたことも幸いだったのかもしれない。
 復帰後、教室のなかでクラスメイトに囲まれて歓迎されているのをみて、僕は安堵するとともに、美月の人を惹きつける姿に自分との違いを知らされて、苦笑いが漏れるのを感じないわけでもなかったが……。
 もっともそれも陽菜にいわせれば、「そんなのあたりまでしょ、お姉ちゃんに奏が勝てるわけないじゃん」とのことだったが……。
 反論はない。
「奏、今日、放課後空いてる?」
 それは6月の最後の金曜日だった。
 美月がお昼休み入る前に、学食を食べに行こうとする自分を引き止めて尋ねてきた。季節はとっくに春が過ぎて、涼しさはいよいよ立ち去り、暑さがやってきはじめていた。
「空いてるけど」
「よしよし、それじゃあ、今日、授業終わったらちょっと帰るの待っててくれる?」
「いつも待ってるだろ、まあいいけど、今日は補習はないのか」
「あ、うん、あるんだけど、今日は担当の先生が時間ないからいつもよりすぐお終わりそうなの」
 美月は学校から放課後に、二年の学習内容をバックアップするための補修室での補講を入れられていた。二年の出席日数が足りてないところを特別に三年に進級させるために学校側が俊明さんに出した条件だったらしい。
 俊明さんは退院後にあまり無理をさせたくなかったし、瀬川くんが勉強を教えてくれていたので、と少し抵抗したらしいが、学校側としてもなんらかの代替を行なったという実績を残しておきたいのか譲れないところだったらしく、俊明さんは結局その条件を飲んだらしい。
 もっとも美月によれば、受験生だからむしろ受験勉強のために塾にいく代わりになってちょうどよい、渡りに船だと言っていた。もちろん一年かけてやる授業内容を放課後の短い時間にやるわけだから、完全なものではなかったらしいが、それでも入院中に自分が無手勝流に教えていたものはよりよいだろう。
「わかった。じゃあ教室で待ってる」
「うん、よろしく」
 美月はそういって、教室のクラスメイトたちのもとに戻っていった。


                     ***

「瀬川ってさ、藤咲さんと付き合ってんの?」
 激辛特製麻辣担々麺セットか激甘特製味噌麻婆定食を見比べていると話しかけられた。
 僕は比較的クラス内でまだ話す方であるクラスメイトと食堂でお昼を食べようと教室を出ていた。
 短い昼休みの時間でさっさとオーダーをするために僕は積み重なったトレーを取った。
「激甘特製味噌麻婆定食をひとつ」
 え、そっち?
 僕の隣りでクラスメイトの困惑した声が聞こえた。
「辛いものは全然好きじゃないんだよ。麻婆定食一択」

 クラスメイトは自分の選択が理解できんという顔で、食堂のおばちゃんに担々麺セットをオーダーしていた。というか、今日の二択は妙に極端だな。
「あ、ていうか、誤魔化すなよ。瀬川は藤咲さんと付き合ってんの?」
 僕はどういうふうに答えようか、ふむと頬に手を当て、天井を見た。それから激甘味噌麻婆が来るまでに答えていた。
「付き合ってる?」
「なんで最後にハテナがつくんだよ」
「なんでって」
 プロコフィエフ『サルカズム』。僕はこっそり目の前のクラスメイトを心のなかでいつもそう呼んでいた。なんとなく落ち着きのない騒がしいやつなので。
「付き合ってるってどういう状態なの?」
「はあ! お前は本当に、本当に高三か? そんなんもわからねえのか! お前受験生だろ、大学落ちるぞ」
「お前は大学入試をなんだと思ってるんだ……」
『サルカズム』は両腕が変になった指揮者のようにくねくねと身悶えするような動きをしつつ、絞り出すように言った。
「いいかね、瀬川くん、健全な男子高校生と女子高生のお付き合いという奴はだね。ちゃんとお互いに好きだとお伝えしあってですね。それから、こう……、むふふなキッスをしたり、こう……なんというか、こう……対戦したりするんだよ!」
「対戦ってなんだよ」
「きゃあああ、瀬川くんのえっち! すけべ! えろえろ大魔王! もうほんとにぴゅあでぴゅあな青年なんだから! もしかして瀬川クン、そんなんじゃまだちゃんと藤咲さんに告白もしてないのでは?!」
「告白ってちゃんと好きっていうとかそういう話? 確かにしてないな」
「瀬川クン、それは問題だよ! 大問題! それはよくない! そんなんじゃキッスもできないわよ」
「いや、それはしたけど」
「ぐあー!」
『サルカズム』は大袈裟に胸をおさえて叫んだ。
 僕は目の前のこいつの名前を『サルカズム』よりさらにうるさい曲に変えようかと他にいい曲はないかと頭のなかで探した。
「お前、キスはしたのに? 付き合ってる(?)なのかよ! それはいかん! それはいかんぞ! おい、お前、ほんとに藤咲さんのこと好きなのかよ」
「? 当たり前だろ、好きに決まってるだろ」
「ぐあー!」
『サルカズム』はまた大袈裟に胸をおさえて叫んだ。リフレイン。
「もうだめだ、お前は今日麻婆を食べる資格はありません」
 いつのまにか麻婆と担々麺がやってきていた。『サルカズム』は僕の麻婆まで自分のトレーに乗せてしまった。
「コラ、返せ」
 僕たちは言い合いを続けながら、騒がしい食堂で席を見つけて座った。しかしテーブルに座っても『サルカズム』の騒がしい演奏は終わらなかった。
「とにかくちゃんと告白はしておいたほうがいいって、うん、そう倫理的にも! うん、これ、倫理の問題だから。こういうのはちゃんと言葉にして宣言する! それが倫理だから!」
 どうにもピンと来なかったが僕は言い返す言葉も思いつかず、レンゲを口に咥えたまま、『サルカズム』の方を見た。
「ははーん、お前の考えていることはわかるぞ、俺と藤咲さんは言葉にしなくてもピアノのメロディで通じ合ってるんだとかそういう感じだろ! だめだぞ! そういうのはルール違反だぞ!」
「なんのルールだよ……」
 でも、確かに僕は思い返すと美月にきちんと「好き」だとか、その他いろいろ言葉にするのを疎かにしてしまっていたのかもしれない。僕は美月との時間を思い出して今日までどんな言葉を美月に伝えたかを思い出してみた。だが、思い当たるのは美月が弾いて求められるピアノの感想とかばかりで、それ以外のことが思い当たらなかった。
「まあ、確かに、これからも一生ずっと一緒にいるなら、ちゃんと言うべきことは言ったほうがいいか」
「一生一緒にいる? おお、お前、なんか淡白そうにみえて、自覚なく激重だよな、くわばらくわばら」
「なんだよ、好きな人とは一生一緒にいたいだろ」
「ぐあー!」
 付き合っていたら昼休みの時間がなくなると思い、僕は激甘味噌麻婆を口に運んだ。
 しかし、激甘というわりにどうも甘さが足りない気がした。
 そういえばと、僕は一つ疑問に思っていたことを『サルカズム』に聞いてみた。
「しかし、なんで彼女のいないお前が、僕と美月のことをそんなにアドバイスできるんだ?」
『サルカズム』は、もはや「ぐあー」とすら叫ばず、担々麺の箸を握ったまま床に倒れた。
 どうやら、激辛の方は恐ろしいほど辛かったらしい。
 僕は頼まなくて良かったと激甘麻婆をさらに口に運んだ。