1.
 記憶のなかで最初に見たものは思い出せない。でも最初に聞いた音ははっきりしている。きっとそれはピアノだ。
 なんてね。
 人は最初に目を開ける前に、口を開く。世界を見る前にまず声を出すんだ。
 僕たちの声を最初に聞くのは母親だ。母さんは僕の声をどんな音だと感じたろうか。
 物心をつく頃には鍵盤に触れていた。
 自分から触ったのか、母さんが最初に弾かせようとしたのかはわからない。
 僕が好きだったのはメヌエットだ。
 穏やかに、弾むように4分の3で踊る響き。
 兄が幼稚園に行って、父が北京だかワルシャワだかに演奏会に出かけているとき、僕と母さんは二人防音のマンションに残された。
退屈しのぎだったのか、今となってはどこまで本気だったのか、わからない。けれど母さんは僕をアップライトピアノの前に座らせて、確かに二人で鍵盤に触れた。
 母さんは片手でメヌエットを弾いて、僕の方を横目でじっと見ていた。

──奏には、わかる?
 母さんは弾き終えると、僕にそう問いかけた。
 僕は返事もせず、ただ手のひらで黒鍵も白鍵も一緒に打楽器みたいに叩いた。
 鍵盤は柔らかく、笑うように沈んだ。
 それから僕は不協和音がおかしくて笑った。
 響きが笑えば、僕も笑った。
 母さんはそんな僕とピアノを、閉め切って風の音がしないマンションの静かな午後に眺めていた。
 たんたんたんと母さんが指で鍵盤を弾く。
 僕はピアノに両手をたんたんたんと叩きつける。
 繰り返しのなかに心地よいものを見つける。それがリズムの始まり。
 母さんがまた指先でたんたんたん。
 僕も手のひらでたんたんたん。
 母さんはやがて僕の子どもらしい短い人差し指をとって、一本沈み込ませた。
 ド。
 それから、指を右にずらして、ド。レ。ミ。
 その繰り返し。
 ド。レ。ミ。ド。レ。ミ。
 母さんが指をとって一音づつ旋律を僕に感じさせる。
 僕にとって、それは音よりも音だった、それは言葉よりも言葉だった。
 きっとそれは母さんにとってもそうだったんだろう。
 僕はそのとき言葉をすでに覚えていたかはわからない。
 けれど、そのとき母さんと初めて会話をしたという感覚を感じていた。
 幼稚園に上がるころには兄と同じピアノ教室に入れられていた。
 母さんはもともと父と同じでプレイヤーだった。
 結婚をしたばかりの頃は有名なピアニスト同士の結婚ということでそれなりに世間を騒がせたらしい。
 母さんは妊娠をする少し前に引退をした。
 理由を知ったことはない。
 演奏家としての実力は父のほうが上だったから、比べられたくなかったんじゃないの。僕は昔、僕ら家族に近い大人がそう話しているのを耳にしたことがある。
 けれど、僕はそれは違うと思う。少なくとも僕が小学校に上がってしばらくまでは、母さんと父の関係は悪くなかったように子どもながらに見えていた。というか母さんは父に対して依存というか、どこか不健全な神格化のような振る舞いをしていた。
 父は母さん以上にピアニストとして評価も高く、世界的演奏家として家を空けることが多かった。多忙だったのだろうが、それでも父は僕ら家族に心の底では冷めていて、関心を少しも示していないのが兄も僕も子どもながらに早い段階でわかっていた。
 でも母さんだけはどういうわけかそれに気づいていなかった。
 いや、無意識では気づいていたのだろうか。
 いずれにせよ父といるときの母さんは子どもながら少し不気味だった。
 母さんは父といるときは、まるで従者のように、そしてときに父を大きい子どものように扱った。そして父はそれを明らかに疎ましく思っていた。
 でもやっぱり母さんだけが家族のなかでそれに気づいていなかった。
 それは痛々しく、そして歪だった。
 兄は器用な男だった。
 同じ教室で同じ課題曲を与えられていても、早く弾きこなせるようになるのは兄だった。
 兄は求められるものをすぐに理解して、すぐに弾きこなしてしまう。先生がイメージして僕らに弾かせようとしている音を即座に把握して、いとも簡単に弾いてみせた。彼は周りが聴きたい音をすぐに理解して、それを再現する音を作るのが上手だった。確かに天才だったのかもしれない。
 僕は先生や周囲の大人から、もっと兄のように上手に弾けるようになれとよく言われた。
 周りを楽しませるタイプのピアニストという意味ではある意味、兄は美月と似たタイプの演奏家なのかもしれない。
 けれど、僕は兄と美月の演奏はまるで違うのだと思う。
 僕は兄の演奏が苦手だった。
 兄の響きを聴いても、僕は彼がどういう人間かまるでわからなかった。
 いつか兄が演奏室で珍しく遅くまで練習しているのをこっそり覗き込んでいたことがある。
 兄はみるみるうちに自分の演奏を作り上げていった。僕はそのあまりの手際のよさに一人の奏者として感銘を感じた。
 でも、兄は違っていた。
 兄はある程度のところまで弾き終えると、楽譜をつまらなそうにまるで心底軽蔑するかのようにパラパラめくりながら一人言ったのだ。
──こんなもののなにが面白いんだ? と。
 僕はそのとき兄が楽譜をひどく汚れたものをみるようにみていたその目が忘れられない。
 兄は覗き込んでいた僕に気がつくと、少し驚いた顔を見せたが、それでもすぐにもとのつまらない表情に戻って、すぐに僕に苦笑いしたのだった。
 父と母さんの関係が破綻したのは僕が小学校四年の頃だった。
 父は母さんをおいて出て行った。
 ある日も海外の演奏会から、夜中の飛行機で空港から帰ってきた。そして日が明けるまでにまた演奏会に行くようにマンションから出て行った。そしてもう二度と戻ってこなかった。
 そのときは知らなかったが、あとで知ったところによれば海外での演奏会の最中に出会ったべつの女性ピアニストと不倫していたらしい。
 父が出ていったあと、母さんの精神は明確に不安定になった。
 僕と兄に、通わせていた教室を唐突に辞めさせ、自分で教えると宣言してからピアノを休みの日は朝から晩まで、平日は学校の友達と放課後遊ぶことは許さず、ご飯を食べるとき以外徹底的に僕らに教え込んだ。
 僕たちはその母さんのピアノ指導のなかで、──どうしてお父さんのように弾けないの、と言われ続けた。
 少しでも間違えたりミスをしたり、いや完璧に弾きこなせたとしても、どうして、どうして、どうして、と。それがその頃の母さんの口癖だった。もう幼いときにマンションで共にアップライトを弾いたような楽しさはなかった。
 緊張感のある母さんの指導のなかで僕は少しでも母さんの心を癒せるような音を探した。
 兄はいつものように求められるように弾くだけだったが、僕はなんとか母さんを元に戻したかった。
 母さんは父の弾くピアノが忘れられなかった。
 母さんの頭の底でずっと父のピアノが鳴り続けていた。
 だからそれに代わるような新しい音を、響きを見つけさえすれば……。
 そしてそれは兄ではなく僕ならできると思った。
 いつのまにか母さんは僕らに手をあげるようになっていた。
 それでも僕はずっと音を探し続けた。
 あの響きを、あのマンションの午後で弾いた音を。
 でも無駄だった。
 母さんはそのうち薬の飲みすぎで事故を起こした。
 目覚めた母さんはなにも覚えていなかった。僕たち家族も、そして自分ですら。
 それが僕が中学一年生の冬だ。
 僕と兄はその年の最後に演奏会で演奏を行った。母さんはその頃もう施設に入っていたが、その日は祖母に連れられてきていた。僕の演奏は兄の演奏順の前だった、母さんの前で演奏をするのはそのとき半年ぶりだった。
 僕が弾き、そしてその次に兄が最後に演奏をした。
 母さんは演奏会が終わったあとに言ったそうだ。
 最後に演奏した子の音の方が私は好きだわ、と。
 母は施設でずっと一日中それが自分にとって誰なのかもわからず、父の演奏の録音を聴いているらしかった。
 僕はその演奏会以来、ピアノを弾かなくなった。
 美月に最初に会ったのはその演奏会の次の年の中学二年のときだった。