涙を流したわけでもないのに頬に冷たく濡れる感覚があって空を見上げた。
 いつのまにかすっかり晴れていた午前の太陽は予報通りこの場所に来るまでにすでに隠れてしまったようだ。
 僕は手元の真っ黒な傘を握り、天に向けて翳した。
 たちまち、ふわり、ふわりとまるで誰かの遣いのようにそれは頭上から舞い降りて、あっというまに世界は一変した。
 
 足元の地面があっというまに水を含んで靴まで濡らす。
 僕は木々の狭間に打ちつける雪の音を聴く。
 そしてその敷地に近づいていく。
 ときどき僕は同じように傘を差した人たちとすれ違った。
 僕は一定速度で傘を差しながら足を運び、すれ違う彼らはどんな人なのだろうかと妄想を広げる。

 僕と同じだろうか。
 僕と同じ、大切な人を失った人だろうか。
 
 僕はたくさんの墓石が並んで小道のように続いていく道をいつかのように時折右に、また時折左に曲がる。そしてときに真っ直ぐに進んでいく。
 濡れた墓石は色が濃くなって、やがて世界はいとも容易く白に染まっていく。
 
 雪はちっとも止まない。
 でも心の奥では、こんな冬の景色も本当は快く感じていたりもする。
 穏やかで、澄んでいて、この雪の音以外に何も聞こえなくて静かで。
 まるで彼女のピアノのように懐かしくて。

 教会の麓に併設された葬儀場からは雪に逆らって空に吸い込まれるように煙が立ち昇っている。
 僕は一瞬立ち止まってその煙を眺める。
 最期のときになれば一緒になれるのかもしれないな、僕はそんなことを思う。
 この身体が、心が、魂が。

 やがて最期のときに至って、あんなふうに僕も燃やされてしまえば、僕も君もやがて埃の匂いで満たされたこの雪風の空気に。
 この星のひとつの大気に混ざり合って。
 ようやく僕と君は一緒になれるのかな。

 いつのまにか僕は墓石に辿り着いていた。
 僕はそこに刻まれた降り出した雪に埋もれつつある名前をみて、思わず口に出さずに語りかけていた。

 ねえ、あなたはどう思いますか?

 結局のところ、君の選択は正しかったのだろうか。
 君の選択、僕の選択、あるいは僕らの選択?
 僕は片方の手で持つ傘をぎゅっと握りしめる。
 どちらでもよいか。

 誰がどう思ってどんな選択をしようが、君は今ここにはいない。
 僕たちはともに同じ人生を最後まで歩むことはなかった。
 それが現実だ。そう、それが現実。
 君も僕も誰も間違いを犯してはいない。

 ねえ、そうだよね? 

 目の前の墓石は僕に何も語りかけない。
 君も僕も誰も間違いなんて犯していない。
 けれど君は今僕の隣にいないし、僕は君の隣にいない。

 それって一体何の罰だよ。

 僕は傘を放り投げて、全身に白を浴びる。
 一粒一粒、この服にひんやりとした冬の悲しみが舞い降りて溶け込んでいく。

 冷たいな。

 なにも聴こえない。ただ悲しみが地面に落ちていく音だけが聞こえる。
 しんしん、さらさら、と。
 音楽みたいだ。

 そう、鍵盤に触れるように。
 君の笑い声と共に。