高校二年の夏が来る頃、俺に「弟」ができた。
父が再婚した相手の連れ子というやつだ。
お互い一人息子だったので、初めての兄弟ということになる。
そいつ、咲哉は一つ下の高一で、顔合わせの日に俺は目をぱちくりした。「うわ、すげえかわいい」って。整った顔をしてるだけで、ちゃんと男なんだけど。
高校生男子つかまえて「かわいい」はないよな。だから口にはしなかった。
でもともかく、俺は咲哉のことがすごく気に入ったんだ。
性格もおだやかで、気をつかう奴だった。なぜかすんなり馴染めた。
――そしてこれは、俺、加賀谷将吾の運命を変える出会いになった。
「将吾、学校なの? もうそんな時間かあ」
リビングに出てきた咲哉は、ふあーあ、と伸びをした。あくびをしても顔がいいな。
家族になって二ヶ月。すでに俺の自慢の義弟となっている咲哉は朝が弱い。サラサラストレートの髪が乱れているのもかまわずボーッとしているので、手ぐしを入れた。
「なに?」
「ボサボサだぞ」
もふもふ。なんか犬をかまう気分だ。つい機嫌よく笑うと、咲哉もにへらとした。
「へへ、あんがと」
「俺もう行く。咲哉は仕事か?」
「今日はない。オンライン授業に出るよ」
「そか。出席日数かせがないとな」
「ん」
まだ十五歳の咲哉は、なんと働いている。といっても芸能人だ。
子役あがりの現役高校生声優〈入戸野咲哉〉としてあれこれ出演していて、高校は通信制に在籍していた。
義母になった人がすごく綺麗なおばさんでビビったのだけど、昔はモデルをしてたらしい。
そのつながりで咲哉はちっちゃい頃から事務所に入ってたんだってさ。どうりでイケメンなわけだ。
だけど咲哉はフツメンの俺にもすぐ打ちとけた。そしてわりと甘ったれ。「お兄ちゃんとか呼ぶの恥ずいから名前でいい?」って可愛いかよ。
そんで何かっちゃ、「将吾、将吾」ってくっついてくる。兄弟仲良くなったもんだから両親はひと安心だ。
「ひとりでもメシちゃんと食えよ」
「だいじょぶだって」
「そか。じゃ、行ってくる」
「行ってらー」
中から鍵をかけてくれた咲哉は、一日中マンションでひとりになる。食事の心配をされるような子どもじゃないのはわかってるんだけどさ。
そういう心配って、するのもされるのも嬉しいだろ。俺たちはこれまで、家での一人時間が長かったから。
朝いちばんに家を出るのは両親だった。
俺は高校が近くて、その後。
咲哉の仕事は午前だと十時開始が多いから、いつも最後まで家にいる。
せっかく家族になったのに、誰にも見送られずに出かける咲哉。俺は少し引け目を感じていた。
家から駅まで十分、電車で八分、駅から高校まで七分。それが俺の通学路。
早足で歩くには、まだまだ暑い九月の朝だった。
朝なのに陽射しはくっきりと影を落とす。その長さは少し季節が進んだことを示しているけど、抜ける空の青さに入道雲が白かった。
いつもの電車がホームにすべり込んでくる。
ぎゅうぎゅうと乗ったところに漫画の広告が下がっていて、なんとなく見上げた。
アニメ放送中、となっているその学園ラブコメを俺は知っていた。咲哉が出演してるんだ。
主役じゃないけど、ちゃんと名前のあるクラスメイト役なんだと照れ笑いされた。アニメでしゃべってるヤンチャな声は咲哉なのに咲哉じゃなくて、変な感じだった。
もう収録は終わっているらしい。最終回どうなるのと訊いた俺に「そんなの守秘義務だよ」と大真面目に言い返してきて笑いこけた。
すごいよな、本当に仕事してるなんてさ。
俺なんかなんとなく高校に行ってるだけで、帰宅部で、雑に家事して。
将来のこともぼんやりしか思い描けない。
「加賀谷ー、はよっす」
「うす」
混んだ中、近くにいた同級生が寄ってきた。俺が見ていた広告に目を向け、うなずく。
「これ、アニメちょっと観たぞ」
「そっか。俺もめずらしく観てる」
「作画いいよな。俺ヒロインより主人公の姉さんの方が好きだわー。でもこういうの親のいるとこで観るのキツくね?」
「わかる」
女の子とキャッキャウフフするアニメを親に観られるなんて男子高校生には拷問だ。どうせ夜中放送だからリアタイしないし、親の留守をねらって配信で観てると言われた。
ふふん。
俺なんかな、仕事のチェックだという咲哉と並んで堂々とリビングで観るんだぞ。すごいだろ。
「これの声優、マジの高校生が出てるんだってさ。男だけど」
ぎくり、とした。
それきっと咲哉のことだ。
「……よく知ってんな」
「うちの妹が声オタ。いやすでに声豚かも」
「豚って言うなよ。そんなにガチオタ?」
「いや普通に体型ポチャだから」
「妹泣くぞ」
「泣かねえよ。なぐられるわ」
「怖っ」
話がそれてよかった。
なんかさ、咲哉のことは誰にも言いたくない。義理の弟ができたことだけならいいけど。
ほら、芸能人だなんて知られたらあいつが困るかもしれないし。守ってやんなきゃ。
俺は咲哉の兄なんだ。できれば俺だって、いい兄貴になりたい。
咲哉に自慢してもらえるような、そんな奴になりたいよ。
「……とか言われたんだけど、咲哉が声優やってるってバラさない方がいいよな?」
家に帰った俺は、咲哉と並んで台所に立っていた。夕飯の準備だ。つってもレトルトの煮込みハンバーグがメインで、用意するのは付け合わせの野菜ぐらい。
朝の電車でのことを話すと咲哉はウーンと唇をとがらせる。
「そうだなあ、学校に声優ファンがいると将吾がめんどくさいかもね。迷惑かけてごめん」
「ばっかやろ。迷惑なんかじゃねえよ」
レタスをちぎっていた俺は、ひじで隣を小突いた。くすぐったそうに咲哉は笑う。
二人ともシングルの親に育てられてきたので、ひと通りの家事はできる。
でも大ざっぱな俺に比べ、咲哉のやる事はどれもこれも丁寧だ。今だって油揚げの味噌汁を作るのにちゃんと湯通しするんだぞ。驚くわ。
「声優なら誰でもお近づきにって人もいるから。黙っててくれる? 俺なんかあんま売れてないけど」
「いやおまえ、人気あるだろ。雑誌で写真見たぞ」
本屋で声優雑誌の中身をチラ見したのは表紙に小さく咲哉の名前があったからだ。
めくってみたら、イケメンを発揮し、でも少し恥ずかしそうに撮られた写真が載っていて、買って帰ろうか迷った。でもそんなの兄としてキモいかと思って、やめたんだよな。
「雑誌って……それ俺の部屋のやつ?」
「部屋? あっ、そっか本人は持ってんのか!」
見本をもらったりするんだな。あぶねえ、よかった買わなくて。
「え、まさか本屋で?」
「いやまあ、咲哉どんなことしてんのかなって」
ちょっとバツが悪くなってモゴモゴ言ったら、咲哉は嬉しそうに笑ってくれた。
「たいした仕事してないけどさ、俺のこと気にしてくれたんだ」
「そりゃ気にするよ……」
やべえ。すげえ恥ずい。
でも咲哉がなんだか機嫌よく出汁に味噌を溶きはじめ、それをながめて俺はまあいっかとなった。
「ねー将吾」
夜になって、俺の部屋にひょいと咲哉が顔を出した。開いたドアの向こうでリビングのテレビの音がする。帰宅した両親がつけてるんだ。
親のことなんで照れるけど、あの二人は中年の再婚とはいえ新婚さん。親孝行な俺たちは夜、なるべくさっさと自室に引っ込むようにしていた。
「将吾が本屋で見たの、これ?」
「あ、うん」
出されたのは見覚えのある雑誌だった。
ベッドに転がって音楽を聴いていた俺はイヤホンを外す。咲哉が俺の腹の横に座るとマットレスがギシ、といった。
俺を見下ろす目は真剣だった。
「……この記事どう思った?」
「どうって」
「俺、めっちゃ少年キャラみたいに扱われてるじゃん。なんかさ、頑張ってもまだ社会的には子どもなんだなって」
「ああ……」
ピックアップされたコーナーは〈フレッシュボイス!〉の見出しだった。撮られ方だって上目づかいで、いつもより可愛い感じ。
「そりゃあ声優としては新人だし、高一だし。八十過ぎて現役の人たちがいる業界だから仕方ないんだけど」
「八十! そんななの?」
「そうだよ、レジェンドの大御所さまも働いてるから」
「なんかすごくブラックな世界なんじゃ」
俺らの親が子どもの頃にテレビに出ていた人が引退していないらしい。すごいんだな。
「だから俺が子ども扱いなのは当たり前だよ。でも俺――父親になめられるの嫌で」
不意にそんなことを咲哉が言って、俺は黙った。
父親。
それは義父である俺の父ではなく、血のつながった人のことだろう。
咲哉と義母さんに暴力をふるって離婚した男だそうだ。
小学生の頃、咲哉は殴りつける父親から必死で逃げたのだと再婚する時に聞いた。
咲哉の芸名、入戸野は義母さんの旧姓だった。小さい頃に芸能活動するにあたり名乗ったんだ。
ところが実父がDV野郎になって、離婚。入戸野咲哉は本名になってしまった。
もちろん父親だって、その名前は知っている。接近禁止命令が出てるから会うことはないけど、こうして雑誌やなんかで息子の活躍を目にすることはあるわけで。
「だからもう凸られたりしないように、コワモテになりたい」
「こわもて!?」
そんなことを真面目に言われて俺は起き上がった。
いや、咲哉はなあ。綺麗な顔してるから無理だと思う。
そう言いかけたけど、言えなかった。あんまり思い詰めた目をされて、心臓がズキンとした。
「ほんとはもっとガッシリした体がいいし」
「ええぇ……」
俺たちの背は175センチ前後で同じぐらいだけど、咲哉は細身で頭がちっちゃい。これはこれでバランス取れてるんだけどな。俺は好きだ。
なのに向き合って座った俺の肩幅を両手ではかり、咲哉はうらやましそうにした。
「男っぽくていいな。名前だってさ、加賀谷将吾とか強そう」
俺の方が体が太い。小学校低学年まではサッカーをしていたし、筋肉質だ。髪はほんの少し癖毛で、あごもがっしりで。
俺たちって、わりと正反対だよな。
だけど俺、咲哉が好きだ。咲哉は咲哉のままでいいと思う。
「咲哉だってもう加賀谷だろ。てか、カガヤ・サクヤって音のすわり悪いんだけど、こっちの苗字でよかったのか」
「いいんだよ、それは。俺うっかり芸名が本名になっちゃって、やだったんだもん」
「あー、それもそうだ……」
こいつ、いろんな生きづらさを抱えてきたんだな。
しんみりした俺は、絶対に咲哉を幸せにしてやりたくなった。
咲哉がガチムチにならなくっても、俺が守ればいい。こっそりそう決意した。
……ま、なんの武道の心得もないんだけど。
「今日は将吾と一緒に学校行く」
「は?」
朝、ちゃんと起きてきた咲哉に得意げにされて俺はきょとんとした。
それを尻目に咲哉はパンをトースターに突っ込み、フライパンを出す。
「将吾も食べる? ベーコンエッグ」
「あ、うん。サンキュ」
じゅう。ベーコンを焼き、卵を割って。料理をしながら咲哉は楽しそうだ。
「今日スクーリングでさ。途中まで将吾と同じ電車なんだ」
「すくーりんぐ、て何」
俺の疑問には、パタパタと出勤の支度をしながら義母さんが答えてくれた。
「通信制でも登校日があってね。行かないと単位落とすの」
「単位。大学みたいなんだ」
「おまえだって赤点とればそうなるんだぞ」
父さんまで口をはさむ。なんか四人家族っぽくてテンション上がるな。
「今月のスクーリング遅めだったから、将吾は初めてだったっけ。通信のことなんか知らないよね、ごめん」
「いやこっちこそ知らなくてごめん。スクーリングって毎月あるんだ?」
じゃあたまに咲哉と出かけることになるんだな。それもいい、と俺は嬉しくなる。
俺たちが同居するようになったのは夏休みからだった。元々俺と父さんが住んでいた町で、四人で住める広いマンションに引っ越したんだ。
長期休暇のおかげで、俺と咲哉は急速に距離を縮められた。でも学校がなかったから通信制の勉強のやり方を俺はまだよく知らない。
仕事のことといい咲哉の生活は俺の普通とは違っていて、それをこなしているこいつを俺は、素直にすごいと思う。
「二人とも、遅刻しないようにな」
「お先に行ってきまーす」
「行ってらっしゃあい」
仲良く出勤する両親を見送った。
そして俺は咲哉と朝ご飯を食べ、食器を洗い、制服に着替える。でも部屋から出てきた咲哉はゆったりしたTシャツにジーンズだった。
「制服は?」
「ない。着る人もいるけど。俺はいいかなって」
「補導されたりしないの」
咲哉の学校は俺たちの乗る私鉄が山手線に接続するターミナル駅にあるらしい。
どうみても十代ど真ん中の少年、咲哉。繁華街を平日昼間にフラフラしていて大丈夫なのか。
「だいじょぶだって。そんなこと言ったら俺、いつもあちこち歩いてるよ。スタジオなんて、目黒、赤坂、代々木、大久保、どこにでもあるんだから」
「お、おう……」
俺が行ったことのない場所もふくめ、慣れたように口にする咲哉にビビった。
外に出ると、咲哉がさっさと鍵を閉めてくれる。
「……おまえ大人だなあ」
「なに言ってんの。将吾の方が年上だろ」
「いや、なんか経験値が違う気がしてきた」
なんだそれ、と笑う咲哉がまぶしい。
朝の光のせいかもしれない。
二人で外を歩くことはあまりなかった。
夏休みは暑すぎて遊びに出なかったんだよな。まだ俺たちの距離感も定まらなかったし、咲哉は仕事もあったし。
だから、並んで駅まで行くのが新鮮だ。
たくさんの人が歩いていく。
会社員も、ちゃらい兄ちゃんも、女子高生も。
その中で俺たちは変な取り合わせかもしれない。制服の男子高校生と、同い年ぐらいの私服のイケメン。
兄弟だけど兄弟じゃない、俺たち。
数ヶ月前までは互いの存在すら知らなかったなんて嘘みたいだった。今は咲哉が隣にいるだけで通学路が楽しくなるのに。
「さっき将吾、経験値って言ったけど」
「うん」
ぽつん、と咲哉が言い出した。風がサラサラの前髪をなぶっていく。
「俺ね、学校の経験値、あんまない」
「へ?」
「普通の、全日の、クラスのみんなで何かするっていうの、やってないんだ」
ちょっとうつむきがちの咲哉。ほんの少しの切迫を感じる理由がわからなくて考える。
「ええっと、ホームルームなんかもオンラインだったっけ」
「……まあ、そういうこと」
歯切れの悪い返事。俺はきっと咲哉の気持ちを言い当てられなかったんだろう。
「おかしいよね、学園ラブコメとかやってるのに、学校行事がよくわからないなんて」
そうなのか? でもそれだけじゃなく、俺に伝えたいことがあるんだろ?
ちくしょう、やっぱ俺はまだ、咲哉のことわかってないんだよ。ごめんな。
「……なあ、俺んとこの文化祭とか来てみる?」
「文化祭?」
「来月あるんだけど」
俺はもっと咲哉を知りたい。
たくさんの時間をかけていけば、これまでに咲哉が積み重ねてきたものを理解できるかもしれない。そのために咲哉と過ごしたい。
「仕事とか平気なら、どうよ」
「そっか……通信にも文化祭はあるけど、こじんまりしてるし俺は出し物に参加してないんだ。将吾の学校、大きいよね?」
「咲哉んとこもあるの? わりぃ」
「悪くないよ、アニメで描かれるのって基本は全日制だし、スケジュール合えば行きたい!」
仕事に活かすため、という言い方だけど、それでも俺は嬉しかった。役に立てるならそれでよかった。
「俺の声って軽めだし、低音イケボじゃないじゃん。若い役で勝負していくしかないから、そういう方面のリアルは見ておかなきゃね」
「……真面目だなあ」
ほとほと感心してつぶやいたら、そんなことないよと照れ笑いされた。
何言ってんだ、そんなことあるって。
ふらふら生きてる俺からすると、仕事で生き残ることを考えている咲哉は、とてもまぶしいんだ。
ホームに着いて、俺はいつもと違うドアまでさりげなく咲哉を連れてった。高校の奴らがたくさんいる車両を避けたんだ。
妹が声優オタだという同級生もたぶん乗ってるだろう。あのアニメ広告の下で咲哉と会わせるのは、なんだか後ろめたかった。
「将吾、奥に行かないで」
乗り込んだドアから中に進もうとすると、咲哉が俺のワイシャツをつかんだ。ドア横のスペースにピタリと止まる。引きとめる声が尖っていた。
「え、どした。ここ乗り降り多くて邪魔だろ」
「わかってるけど、無理」
小声でやり取りする咲哉の頬が硬い。俺は心配になり、すぐ隣で顔をのぞいた。
「ぐあい悪いのか」
「違う。吊り革がやだ」
「……潔癖だっけ?」
「じゃないよ――男の人が腕を上げてるのが、」
怖いんだ、と咲哉は息だけでささやいた。
あ。
父親に殴られていた頃の記憶。
そのせいか。
「……おっけー。じゃ、ここで」
普通の顔をして、俺はそう言った。それしか言えなかった。
「ありがと」
――うつむいて礼なんか言うな。
「将吾と一緒なら平気かもって思ったけど。駄目そう」
「仕方ないよ」
俺はなるべくやさしく笑った。ちゃんと笑えているといいなと願った。
ひどいだろ、子どもに手をあげるなんて。
そのせいで咲哉はずっとずっと、心が傷ついたまんまなんだ。
悪いのは、咲哉じゃないのに。
電車の八分はあっという間だった。
俺は咲哉と他愛のない話をして、学校の最寄り駅で先に降り、ホームから咲哉を見送った。
終点まで行く咲哉は、たぶんいつもドア付近に立っているのだろう。
吊り革につかまる人々から目をそらして。
なんでそんな苦しい思いを咲哉がしなくちゃならない。くそ親父。
俺はおそらく人生で初めて、人をぶっ飛ばしてやりたいと思った。どんな奴だか知らないけどさ。
「――あ!」
高校へと歩きながら、俺は気がついて立ち止まった。
俺、咲哉の頭をさわった。髪をもふりたくて上から手を伸ばした。
もしかしたらそういうの、すごく怖かったんじゃないか。義理の兄弟だから我慢してくれてたんじゃないか。
「やべえ……」
知らずに咲哉を追い詰めてたかもと思って、俺は青ざめた。
「みっちり授業あると、すごい疲れるー! 全日制の子たちって毎日元気だよね」
家に帰ると咲哉はソファにひっくり返っていた。俺に向ける笑顔はいつもと変わらない。でも俺は、近寄って見下ろすのを避けた。
「疲れたなら、飯のしたくは俺がやるよ」
「え、いいよ。一緒にやろ」
「気にすんな。台本チェックとかもあるんだろ」
笑ってみたら、咲哉はうーん、と目をつぶる。
「レギュラー、ゼロ……」
「え、そうなの?」
「そんな甘くないんだよ」
秋アニメには一本も出ていないし、冬クールの予定もまだないのだと、咲哉はソファに撃沈してしまった。
「マネージャーさんは頑張ってくれてるんだ……俺が高校生だからガシガシ売るわけにもいかないし、加減が難しいんだよね、たぶん。いや俺がオーディション落ちるのがいけないんだけど!」
今は単発で呼ばれるゲスト出演、それに音声ドラマの予定がちょっとあるぐらいだとか
「だから俺、とりあえず勉強する。レポートと出席時間数ヨユーにしておくんだ! 冬はみてろよ、忙しくなってやるー!」
クッションを抱いてゴロゴロしながら咲哉はうめいた。かわいくて笑っちゃうじゃないか。
かわいくてかわいくて、俺のこと怖かったかと確かめられなくなってしまう。
「……咲哉はすげえよ。ずっと大人の間で仕事してきたんだろ」
「ずっとっていうか、ポツポツとだけど」
「声優は中学からだっけ。でもその前は、写真のモデルも教育番組の子役もやったんだよな。いろいろやらせてもらえるんだから、才能あるって」
「才能なんかないよ」
むう、と咲哉は口をへの字にした。
「嘘つきなだけ」
突然の言葉に、俺は首をかしげた。
嘘つき。
何を言ってるんだ。咲哉はいつも開けっぴろげな笑顔を俺に向けてくれていて。
すごく素直に甘えてくれて、俺はとても、それが。
「何が嘘なんだよ? 咲哉が嘘つきなら、世界中が嘘つきだ」
強く否定したら、咲哉は俺に向かって手を伸ばした。にっこり笑う。
ひらひらと招くようにされ、俺はおそるおそる近づいた。きゅ、と制服のズボンをつかまれる。
「ありがと、将吾。でも嘘つけないと、セリフなんか読めない」
「そりゃそうか……あのさ」
咲哉の手を外し、俺はソファの脇に座り込んだ。
「俺の、腕。怖かったなら、ごめん」
「え」
「咲哉の頭さわったりしたろ。もうしないからさ、嫌なことはすぐ言ってくれ」
「え、え、ちょ」
飛び起きた咲哉が、逆に俺の髪に手をふれた。
「これのこと? 将吾が髪の毛なおしてくれたりしたやつ?」
「うん」
「嫌なんかじゃないよ、将吾になでられんのは気持ちよくて、安心できて、だから将吾がいれば電車の中も平気かなって思ったんだ。それで何も言わずに一緒に乗ってみて……ごめん、気にしたの?」
あわてる咲哉の言葉は、もちろん嘘のようには聞こえなくて、俺はホッとした。
「なら、よかった」
「……ほんとに。ほんとに将吾のこと、好きなんだよ。信じて」
言いながら咲哉はポスンと俺の肩に顔を伏せた。
「うん、わかった。ありがとな」
苦手な吊り革の下も、俺と一緒ならと思ってくれたんだ。
そのぐらい俺のこと、頼りにしてくれたんだ。まあ駄目だったんだけど。
俺は両手を咲哉の背中に回し、ぽんぽんとした。
こんな弟ができて、俺は幸せ者だ。
今日は咲哉と外で待ち合わせだった。
土曜日の朝イチで仕事が入ったという咲哉に誘われたんだ。「一時に終わるから、買い物つきあってよ」って。
秋冬物の服を見に行きたいという。なら俺のも買おうと話していたら義母さんが臨時の小遣いをくれた。咲哉はやったね、と笑っていたが、なんだか悪い気がした。
スタジオからは、裏渋を抜けてセンター街へも、代々木公園を通って原宿へも行けるらしい。俺にはその立地がまったくわからなかった。
気分次第でどっちにも行けるようにスタジオ近くで合流することにした。スマホに地図を出し説明する咲哉も俺も半袖Tシャツで、並んでのぞき込んでいると腕が当たってくすぐったい。
長袖の季節はそろそろだろうか。
咲哉に教えられた駅で降り、周辺をぶらぶらと歩いてみた。大通りから中に入ると住宅街で、どうやらそっちにスタジオはあるらしい。意外に地味なんだな。
ピロン、と通知が鳴った。咲哉からのメッセージ。
〈おわった。駅いくよ〉
〈おれ近いかも〉
〈スタジオに?〉
待ってる、のスタンプが来て笑う。犬の絵が咲哉にぴったりだったんだ。やっぱりあいつワンコ系だな。
きょろきょろ歩いていくと、向こうに咲哉を見つけた。道端で誰かと話してる。マネージャーさんか何かかと思ったのだけど、近づいたら違うとわかった。
どこか前のめりな感じの女性だった。必死で咲哉に話しかけているけど、逆に咲哉は距離を保とうとしているように見えた。
「あ」
俺を振り向く咲哉は、とってつけたように綺麗な笑顔。
「どした」
「ううん、だいじょうぶ。じゃあね、ここのスタジオ厳しいから、出待ちはしない方がいいですよ。怒られたくないでしょ?」
年上の女にそう言い聞かせて咲哉は俺の腕を引っぱった。どこに向かうんだか知らないが歩き出す。
出待ち?
聞いたことはあるぞ。てことはあれファンか。さっきのは咲哉の営業スマイルなんだな。
俺は後ろをチラリとした。ついてこないのを確かめて、小さく訊く。
「……追っかけ?」
「俺のじゃないよ。誰でもいいから通らないかなってスタジオ前で張ってたんだろ」
「そんなことするんだ」
「だって俺、今日ゲストだし。俺目当てなわけない」
ちょっと唇をとがらせているのは、あまりいい気がしないのだろう。でも自分のファンじゃなくて怒ったわけではない。
あれは迷惑行為なんだ。とくにここは住宅地の中なので、近隣からの苦情でスタジオ側が何度も警告を出している場所だそう。入り待ち、出待ち禁止って。
「それでも会いたいってのは……すごい情熱なんだなあ」
「情熱だからって、相手のこと考えなきゃ」
達観したことを言い出されて俺は苦笑いした。こういうところ、咲哉は大人びてると思う。
「人生何週目だよ。好きって気持ちは、止まらないもんじゃないの?」
「……なに。将吾って、好きな人とかいるの。彼女?」
ぶすっと不機嫌に言い返された。ちょっと言葉に詰まる。
立ちどまった信号の向こうは森のような場所だった。どうやら俺たちは代々木公園に向かっていたらしい。通りすぎる車の騒音にまぎれながら、情けない告白をした。
「……そんなもん、いない」
「これまでも?」
「ないって。咲哉は?」
「彼女なんていたことないよ」
それは少し不思議だった。咲哉ならモテただろうと思うのに。仕事柄、恋愛禁止とかそういう理由か。
「そんなんじゃない。好きになる女の子がいなかっただけ」
「へえ。理想高いんじゃ」
「将吾だって、いない歴イコール年齢だろ。俺より一年長く生きてるくせに」
横断歩道を渡り公園に入ると、いきなり街のざわめきが遠くなった。木々の根元で鳩が群れている。
話の流れとは関係なく、雰囲気にのまれて辺りを見まわした。
「……初めて来た」
「あ、ごめん、問答無用でこっちに歩いちゃった。あの人から逃げたくて」
「別に、どこ行きたいとかなかったから。なんかいいな、ここ」
ビルと道路ばかりの街の間に、ぽっかりと緑と土におおわれた場所があるなんて。木立を抜ける風が涼しい。
「ふうって、楽になるな……」
「だよね!」
咲哉が屈託なく笑ってくれてホッとした。
今は彼女とかいいよ。それより咲哉と出かけたい。
俺の知らない世界をたくさん教えてくれる咲哉との時間は、何にも代えがたいと思った。
ランニングの人々を避け、木陰のベンチに並んで座る。
空を見上げると自然にぽかんと口が開き、力が抜けた。
「煮詰まった時、たまに来るんだ。将吾も、けっこう気を張ってるでしょ。どこかでリラックスしなきゃ」
「気を張ってる?」
そんな風に言われたことはなくて驚いた。ぼんやりと高校生やってるだけだぞ。仕事もしてる咲哉に心配されるのは、ちょっとどうよ。
「俺は、別に」
「ううん、がんばりすぎ。将吾って誰にも迷惑かけたくない人だよね。頼ったりしないじゃん」
「え……そう、か?」
「そうだって。家族にも頼らないだろ」
わざと怒ったようににらまれた。
家族。
ここにいる咲哉。父さん。義母さん。
「お小遣いもらった時に将吾、困った顔してたよ。義理だけど、母親になったんだから息子に服ぐらい買ってやりたいもんなの。ちゃんと甘えなよ」
「あ……」
言われてみれば、そうだったかも。
「お義父さんにだって同じだよ。会社の邪魔しないように、家のことは将吾がやってきたんじゃない? 中学からずっと帰宅部なんだよね」
「それは……やりたいことがなくて」
「サッカーは?」
畳みかけられて黙った。
小さい頃に入っていた、地域のサッカークラブ。母親が病死した小学三年生でやめた。
だって葬式からしばらくは何もできなくなったんだ。母がいなくなって、わけがわからなくて。学校に行くのも無理だった。
でも俺の預け先もなく会社もそんなに休めず、困り果てた父さんの姿を見て、俺は頑張ることにした。歯を食いしばった。そもそも妻を亡くして泣きたいのは父さんだって同じだった。
あそこから、俺はずっと突っ張らかっていたのだろうか。
「スポーツって親もたいへんだもんね。だから気をつかったんでしょ」
「そんなつもりじゃ……才能だってないし」
「才能なくても、やりたいことはやればいいんだよ。俺も才能ないって言ったろ」
やりたいこと。俺のやりたいことってなんだ。
「将吾はずっと〈いい子〉をやってたんだ。そんなの俺より嘘つきじゃない? 俺はすくなくとも好きなこと、やってる」
咲哉の声はあったかくて、責めてるわけじゃなかった。だけど俺は呆然とする。
世界がひっくり返った気がした。
俺がなんの目標もなく生きてるのはわかってる。高校生なんてそんなもんだろって思ってた。
でもそれが、母親が死んだから、なのは駄目だ。
病気と闘いながら俺のことを心配してくれてた母さんへの、侮辱だ。
残された父親の負担になりたくないなんて理由で何もかもを諦めちゃいけない。
俺はうつむいて、ぽつんと言った。
「……俺のやりたいことってなんだろな」
「わかんないけど。将吾が嬉しいのはどんな時?」
咲哉は静かに訊いてくれた。横を見なくてもわかる、きっとかすかに笑ってる。
俺は泣きたくなるのをこらえた。
「……今、嬉しい」
頼りになる家族が隣にいて。咲哉がいてくれて、嬉しいんだ。
やべえ、俺ってすんごく咲哉のこと好きなんじゃないか?
「なーんだ」
俺の声が明るくなったことで安心したか、声を上げて笑うと咲哉は立ち上がった。
サク、と草を踏み正面に来て、俺を見下ろす。
「俺、将吾の役に立った?」
「たぶん」
「ならよかった。まだまだゆっくり考えればいいよ。でもさ、とりあえずお腹すいたから公園抜けよう。大通りに出れば屋台とかあるかもしれないし」
「祭りかよ」
「このへん、お祭りじゃなくてもいるんだ。それとも原宿まで行く? 軍資金あるから豪遊しよう!」
手を引かれて、俺も立つ。
ええっとだけど軍資金って、義母さんからの小遣いだろ。それで豪遊?
「こ、これが甘えるということか……」
「そういうこと」
咲哉はニヤリとして悪びれない。
「俺ね、人に甘えんの好きなんだけどさあ」
「まあ、そうだよな」
「……言い方! でもね、将吾の役に立てたのも、すごく嬉しかった。いっつも頼ってばかりな気がしてたから」
「そんなことないけど。いつでも頼れよ」
俺はひょいと咲哉の肩を抱いた。むぎゅ。
だってなんか、すごく近づいた気がしたんだ。心の距離が。
「わ、なんだよ!」
さすがに咲哉が大きな声を出す。
ヘッドロックするみたいに抱え込んだ咲哉の顔をのぞくと、うろたえていた。少し顔が赤くて、むちゃくちゃかわいいな。
「なんかモフりたい気分になった。咲哉、犬みたいだから」
「……将吾って、甘やかすのと頼られるのが好きだよね」
むすぅ、とするのは照れ隠しだろ。俺にはもうわかるんだ。だから、へへん、と笑ってやった。
「まあ、そうかも」
「じゃあ俺たち、ぴったりだ」
けらけら笑って咲哉は肩に寄りかかる。さすがによろけて、二人で馬鹿笑いした。
――俺さ、たぶん強い人になりたかったんだ。誰かに頼られる。
だって俺、母さんに何もしてあげられなかったから。
遺して逝かなきゃならない子どものことを、母さんがどれだけ案じていたか。言葉ではなく俺は感じ取っていた。なのに安心させてあげることはできなくて。
無力で小さな自分が嫌だった。大きく強くなりたかった。
「……この池がねえ、真夏には見た目が涼しげだったんだ。でもぜったい、お湯になってたよ。怖くて手、突っ込めなかった」
園内をぶらぶらしながら咲哉は笑う。
ひとりで仕事に来ては、この道を歩いていたんだな。
「こっちの花壇は、春? 夏の初め? バラが咲いてたよ」
「ええと、今もつぼみ、あるな?」
「ほんとだ。じゃあ秋にも咲くんだね。咲いたら将吾も見に来なよ! ……また俺と一緒でもいいけどさ」
そんな日常を話して、歩いて。
咲哉がその相手に俺を選んでくれることが嬉しくて。
頼ってくれてありがとう。
それに、頼らせてくれてありがとう。
俺は咲哉が好きだ。そう感じた。
家族とか友人とか、なんなのかはわからないけど、咲哉が好きなんだ。
十月、俺の高校は文化祭だ。二日間の日程のうち、一日目に咲哉は来ることになった。
帰宅部の俺がかかわるのはクラスの企画だけ。定番の喫茶店をやると伝えたら、咲哉はむしろ喜んだ。
「文化祭で喫茶店って、めっちゃ読むし観るシチュエーション! ほんとにあるんだね」
「都市伝説みたいに言うなよ……」
笑ってしまったけど、そもそも高校生活のリアルを感じたいという理由で見学するんだもんな。
ならば協力するしかない。空き時間にあちこち案内してやるのが楽しみだった。
「なあ加賀谷、客とか来る? うち母親が行くって言い出してダルいわー」
文化祭一日目、間もなく開門という時間に合わせ、調理室の冷蔵庫から大量のドリンク類を運びながら同級生の森下がボヤいた。
あれだよ、電車の中で「高校生の声優が出てる」と言った奴。
咲哉がその声優だということは内緒だけど、ただの弟としてなら紹介してもいいんだな。
「弟が来る」
「あれ、一人っ子じゃなかった?」
「今年再婚して、義理家族できたんだ」
「へー! なになに、弟くんかわいい? ちっちゃいの?」
「高一だよ。身長も同じくらい」
「なんだ、それだと友だち感覚だな」
かわいい子どもの弟を期待するってどういうことだと思ったら、森下は二歳下の妹がかわいくなくてクサってるらしい。生意気だの言葉がキツいのとグチられた。
「あーあ、別の学校の彼女呼んだ奴とか超うらやましい。俺も彼女できねえかなあ」
しみじみつぶやかれた。
彼女か。まあ、いれば楽しいのかも。だけどあまり想像できない。
デートするにも家に呼ぶにも、そういうのって咲哉と過ごす時間と何が違うんだろう。キスしたりそれ以上を狙ったり、てことぐらいかな。まあそういうのは、してみたいけどさ。
でも今日は咲哉が来てくれる。それでいいやとナチュラルに思った。
そして教室にあらわれた咲哉を見て、クラスの女子が色めきたった。
ダークブラウンの細いパンツ。ゆったりした生成りのカットソー。カーキのキャップ。そして丸縁の伊達メガネ。
いちおう顔が目立たないよう帽子と眼鏡という変装アイテムを身につけたのに、着こなしすぎだろ。むしろ目がいく。
「将吾ー!」
いえい、と手をヒラヒラされて俺が接客に出た。後ろから女子の視線を感じる。これ後で質問攻めじゃないか?
「いらっしゃい」
「高校って広いね! 俺のとこってビルのワンフロアだから知らなかった」
「迷ったか?」
「んー、ちょっと探検した」
迷ったんだな。苦笑いしながら注文を聞く。
うちのクラスは残念ながらメイド喫茶とかじゃないんだけど、提供する品物だけは猫コンセプトで統一した〈猫カフェ(生体はいません)〉という喫茶店だった。
「んじゃ、ネコ型クッキーとアイスミルクティーください」
「かしこまりました」
「将吾にそんな言い方されると笑える」
「うるせえ」
注文をキッチンに伝えたら、待ちかまえていた女子に囲まれた。
「ちょっと加賀谷くん、あれ友だち?」
「弟なの? えー似てない! てか年下か……ぜんぜんアリ」
「うちの学校じゃないんだよね、どこ高校? まさか中学?」
食いつきがすごくて俺はわりと引いた。楽しげに教室内をきょろきょろしている咲哉はすごく絵になり、客からも視線を集めている。
ササッと注文の品を用意して咲哉のところに配膳しにいった女子のことを、周りにいた奴らが「あっ」とくやしそうに見送った。猫シールの貼られたコップを受け取る笑顔がちょっと営業スマイルなのを、俺はあーあ、とながめた。
咲哉、無事に帰れるのかな。
当番が終わり自由時間、俺は咲哉と合流した。
「どこ見てた?」
「んーと、前庭でやってたダンスと、体育館の軽音と、写真部の展示と……」
わりと楽しんだようでホッとする。そして俺を振り向くニコニコ顔。
「食べ物系は将吾と行こうかなって待ってた」
甘えた言い方がかわいくて、きゅんとした。
ん? きゅん、てなんだよ。彼女じゃないのに。
うっかりそんな風に咲哉を見た自分に動揺し、誤魔化すために大きくうなずく。
「おし、食べ物な。俺も腹減った」
「何食べよっか」
「去年の同クラの奴とかに義理があるから、買わなきゃなんない店もあるんだ」
「ああ、お互いに顔出すんだね」
そう言う横顔がほんの少し寂しそうだ。大規模な催しがうらやましいのか。
でもどうしたよ。去年まではそういうのもやってただろうに。元気出してほしくて背中をポンとした。
「食べ物って中学ではあまりないだろ。おごるぞ」
「うん……食べ物がっていうか。俺、中学もあんまり行ってないから、ぜんぶめずらしい」
「え」
それは初耳だった。そんなに忙しく仕事していたのか。
だけど買い込んだ焼きそばとポップコーンとジュースを抱え陣取ったフードスペースで、ぽつぽつ話されたのはぜんぜん違う事情だった。
咲哉は、中学で不登校だったんだ。
小学生時代にテレビに出た役柄をからかわれたりということはあったけど、それよりもキツかったのが身長。
入学当初小柄だった咲哉は、先輩や同級生が大人の体格に近づく中学の校内を歩くのがつらかったらしい。自分より大きい男が怖くて。
「それ……吊り革のアレと同じ」
「うん。小学校は女の先生も多いし、それに男の先生はたぶん気をつけてくれてたんだと思う。でも中学の生徒全員にそんなこと告知できないでしょ。むしろいじめられるから」
「だな……」
「で、大きい同級生にいちいちビビっちゃって、変に思われて、もうだめ」
はは、と情けなさそうに笑ってみせられても、俺は笑えない。咲哉の抱えてきたものが悲しくて、この場でギュッとなぐさめたくなった。
「将吾に言えてなくてごめん。俺ほんとに中学の勉強してなくて馬鹿だから、恥ずかしかったんだ。将吾はお義父さんに迷惑かけないように頑張ってたのに……」
「ばっかやろ。おまえ別のこと頑張ってたし、俺の知らないことたくさん教えてくれたじゃないかよ」
頭をなでるのは我慢して、焼きそばを向こうに押しやった。もっと食べろ。
咲哉はへへへ、と紅ショウガをがっつり取る。いいよいいよ、それぐらいゆずってやらあ。
「お、加賀谷! それが弟くん?」
言いながら駆け寄ってきたのは森下だった。さっきは当番じゃなくて教室にいなかったんだ。同級生だよ、と俺は咲哉にささやいた。
「弟です。兄がお世話になってまーす」
一瞬で無邪気な笑顔に変わる咲哉は、たしかに嘘つきなのかもしれない。外ヅラを作ることができる点で。まあ俺に対しては無防備になってくれるんだけど。
「……え、ちょっとお兄ちゃん!」
森下の後ろから来た中学生ぐらいの女の子が咲哉を見て立ちすくみ、声を上げた。そして俺と咲哉の視線をあび、硬直する――いや、俺のことは無視だな、この子。
あ。
俺は思い当たった。森下を「お兄ちゃん」と呼ぶってことは、これは妹。
声オタ女子だ。咲哉の正体に気づいたんだ!
「あ、あの! もしかして入戸野さん」
「あ……ちょっと待って」
咲哉は困ったような顔をして、シイッと指を口に当てる。
「今日は仕事じゃないから、その名前やめてほしいな」
「え、なに。加賀谷の弟ってなんなの」
「悪い、声小さくしろ」
俺は強く言った。
きょとんとしている森下と、キラキラしながら震えてる妹。二人を俺の横に座らせる。
咲哉はキャップを深くかぶり直してあいまいな笑みを浮かべていた。森下兄妹がゴニョゴニョささやき合う。
「ねえお兄ちゃん、知り合いなの?」
「なんだよ、加賀谷はダチ」
「制服じゃない方の人っ」
これはもう俺が説明するしかないのかな、と覚悟した。チラッと咲哉を見ると苦笑してうなずく。わかった、まかせろ。
「ええと、森下さん?」
「瑛美です!」
妹なんだなと確認しようとしたら名前アピールされた。隙あらば、かよ。
「エイミちゃん。俺は森下の同級生なんだけど」
「はいッ」
「こっちは、俺の弟なわけ。今日はプライベートで遊びに来ただけだから、そっとしといてくれる?」
「いや加賀谷、だから弟くんて」
「……すみません、声優やってます」
このテーブルにしか届かない声で咲哉がささやいて、エイミちゃんは「ひゃああんっ」ともだえ死んでしまった。森下も目を丸くして絶句する。
もう咲哉は黙っとけ、と手で合図して、俺は横を向いた。
「あのさ、エイミちゃん。弟に会ったのを喜んでくれてありがとな。でも、外で騒がれると迷惑なんだ」
迷惑、という言葉にエイミちゃんが傷ついた顔をした。ごめん。
でも言わなきゃならない。
スタジオの出待ちで困っていた咲哉の姿を思い出す。だからせめて、俺の高校の中では俺が咲哉を守りたいんだ。こんな人混みで大勢にザワザワ見られたらたまらない。
「仕事の応援してくれるのは、いいよ。でもついて回ったり、どっかで待ち伏せたりはしないでくれる?」
「そんなの、してないじゃないですか」
「うんわかってる。まだ会ったばっかりだし。森下の妹だから信用したいけど、念のためな。今日これからも、今後も、そういうことはしないようにお願いします」
俺はそっと頭を下げた。真剣に話したの、伝わっただろうか。
エイミちゃんは小さく「はい」と返事してくれた。
森下の母親は体育館で演劇部の公演に夢中だったらしい。食事代を持たせて高校見学のエイミちゃんを兄貴に押しつけたそうだ。
エイミちゃんと別れ際にそっと握手して「じゃあね」と手を振る咲哉はやっぱり微妙に営業スマイルで、俺はなんだか悲しくなった。
けっきょく咲哉を守り切れなかった気がする。
「おかえりー」
先に帰っていた咲哉が普通に夕飯を作りながら迎えてくれた。
Tシャツにスウェットパンツの部屋着姿を見て落ち着く。やっぱ咲哉って、外では格好よすぎて困るんだ。ふう、と安堵の息をついた。
「なに、疲れた?」
「ああうん。授業とは違う疲労感」
「あはは、俺のこともあったしね」
「笑えねえよ……」
肩をすくめて部屋に引っこみ着替えていたら、咲哉がひょこんと来た。
「あれ、ご飯できたのか」
「あとは食べる時に肉を焼くだけ。ねえ、俺が帰ってからだいじょうぶだった?」
心配そうに訊かれて笑ってしまった。エイミちゃんのこと、クラスの女子のこと、人の目を集めていた自覚はあるわけだ。
「声優バレしたのは森下だけだ。普通に紹介しろとかは、めっちゃ言われたけどさ」
「やだよ、そんなの」
ぶすう、とふくれる咲哉がかわいい。こういう顔は外でしないでほしいな。俺だけのものにしておきたい。
「断ってくれた?」
「彼女いない、とは言っちゃったよ」
「火に油! ばかばかばか!」
ポカスカされて、ベッドに尻もちをついた。そのまま咲哉も俺の上に倒れ込んでくる。ごろんと一緒に転がって、左腕に抱くみたいになった咲哉の頭をくしゃ、となでた。
俺の体の上にあった咲哉の左手に、軽く力が入った。
「俺に、彼女とかさ……」
つぶやいた咲哉がやや身を起こす。至近距離で見下ろされた。
「できていいんだ?」
言葉をつむぐ唇が降ってきそうな位置にあって、俺の目は吸い寄せられた。
「さく、や……?」
「ねえ将吾、どうしていつも俺の頭なでて、むぎゅってするのさ。そういうことされると俺、困る」
言いながら、咲哉は俺の体の上にのしかかってきた。自由な右腕を動かしたら、それも片手で押さえつけられる。
俺を見つめるまなざしは、いつものワンコじゃなかった。肉食獣のように鋭い。
どうしたんだ咲哉。
俺は動けなくなっていた。細身の咲哉をはねのけるのは、たぶんできる。だけどそうしたくはなかった。
とりあえず、息のかかりそうなところにある咲哉の顔を見つめ、声をしぼり出した。
「ごめ……嫌だったのか」
「嫌じゃないよ」
「ならなんで」
「嫌じゃないから困るんだ!」
小さく叫ぶ咲哉の目は苦しそうで、泣きそうで。
俺はそんな咲哉から目をそらせない。
「俺、将吾のこと……、」
大好きだから。
肩の上に顔を伏せながら、耳もとにささやかれた。
ぞく。
首筋にしびれが走る。咲哉の背中をつかんでいた手がビクリと動いた。
俺の脚の間にはまっていた咲哉の左ふとももを、すごく感じてしまった。ヤバい。
こんな、だめだ。
俺のその変化はきっと咲哉にもわかってしまったんだ。息をのんだ咲哉がほんの少し顔を上げて目を見開く。そして。
「……っ! さ、くや」
落ちてきた唇に、俺は抵抗できなかった。
そろそろ秋が終わる。
十一月の朝、通学路を行く人々はコートを羽織ったり、気の早い人はマフラーを首に掛けたりしていた。乾いた風に吹かれる落ち葉がカラカラと音を立て、道を転がっていく。
隣を歩く咲哉は厚手のシャツを上着がわりにし、後ろ襟を抜きぎみに着ていた。相変わらずイケメンだ。
こいつは俺の義弟。
そして、内緒の彼氏。
そんなことになるなんて思ってもいなかったのに、どうしてだろうな。
俺の視線で振り向いた咲哉が、少しだけ外用の顔で笑う。
「なあに将吾、俺、どっかおかしい?」
「ちゃんとしてるよ。あ、忘れ物とかは知らないぞ」
「それはだいじょぶ。たぶん」
「たぶんかよ」
笑い交わしながら歩く、咲哉のスクーリングの日。この時間が俺たちは好きだ。
友だちのような、恋人のような、兄弟のような。
俺たちは、そのぜんぶでもあるから。
彼女がいたことない。好きな女の子ができなかった。以前、咲哉はそう言っていた。
それは、嘘じゃない。
「ほんのりいいなって思うのは男の子ばっかりだった」
あの日、勢いでキスしてしまった後でそう白状する咲哉の前で記憶をたどった。俺はどうだったっけ。
かわいいと思った女の子。
すごいなとドキドキした男の子。
どっちも、いる。
「なんだ……将吾ってそういう?」
「えええ、俺そんなつもり」
「まあなんでもいいや。将吾が俺のこと好きなら」
言い切られてめちゃくちゃ照れた。
好き、てさ。
本人から確認されても気まずいよ。出会いからこっち、兄弟のつもりだったのに。
「俺ね、将吾のことは会ってすぐカッコいいと思ったよ。でも兄だから。そういう目で見ないように気をつけてたのに……将吾がやたらかわいがってくるし」
「俺のせいか?」
「ううん。だってすごく、やさしくて。強そうなのに怖くなくて、そう思ったらもう駄目だった」
そう言う咲哉は、たぶん嘘つきじゃない。やわらかいのに切羽詰まった声は、ツンと俺の胸に刺さった。
だから俺もちゃんと言うよ。
「咲哉はかわいくて、でもすごくて。外ヅラいいけど家ではへにゃってしてて、そういうのは他の誰にも見せたくないって思ってた」
「ぐふぅっ……」
心臓を押さえて咲哉がうめいてみせる。
「殺し文句に殺された」
「いや生きろよ」
俺たちは小さく笑い合い、そして黙った。
この気持ちに正直に生きるのは、とてもたいへんだと思う。
俺たちは男同士なうえに兄弟だから。
どうすればいいのかわからない。
どうなるのかわからない。
だけど。
「とにかく、俺と咲哉はもう家族なんだし。堂々と一緒にいられるんだから、それは満喫しような」
開き直って言ってみたら、咲哉は呆気にとられた顔をした。
そして大笑いしてうなずいてくれたんだ。
「お、加賀谷。それと弟くん」
電車に乗ったら森下がいて、寄ってきた。咲哉がいるから俺がいつも乗るのとは違うところを選んだのに。
「いや、前に加賀谷がこの辺で降りるの見たことあるから。もしかして弟といるのかなって」
「無駄に勘がいい」
こいつと咲哉を会わせるのは嫌だったんだけどな。
森下本人はすごくいい奴なんだ。咲哉の名前も仕事もわかったうえで、「弟くん」と呼んでくれている。
でもこいつからは、困った話を持ち込まれているのだった。
「なあ弟くーん、お兄さんの好みの女の子ってどんな?」
「は? なんですか」
ほら。俺は目を閉じてため息をついた。
「あのさあ、おまえエイミちゃんに使われすぎ!」
「だって、せっかくあいつが勉強にやる気出してんだぞ。これは親からの命令でもあるんだよっ」
「ちょっと何。どうしたのさ将吾」
わけがわからない顔の咲哉に対して後ろめたくて、俺はもごもごした。そしたら森下がしれっと暴露する。
「エイミがね、加賀谷のこと追っかけてウチの高校受けるって言い出したんだ」
「へ?」
「きっぱりと弟くんを守った男らしさに憧れたんだってよ」
そう、らしい。
俺はすごく嫌な顔をしてみせた。
「そんなの困るって言ってんだろ」
「別につき合ってくれなくていいよー! あいつポチャだしかわいげないし。ただ受験のモチベになってくれれば」
「いや言うほどポチャでもないし、ちゃんとした子だとは思うけど」
「マジか未来の弟よ」
「やめろ……」
げんなりした俺を見て、咲哉は吹き出した。ヒーヒーいって笑うのを森下は片手で拝んでみせる。
「な、だから加賀谷の好みの感じを教えてくれよ」
「そうですねえ、へにゃ、とかわいく笑う子とか?」
「おいこら、変なこと言うな」
それは、おまえのこと。
意地悪くにっこりした咲哉に、森下はニヤリとした。
「兄弟仲いいんだな。まだ半年とかのつき合いじゃないの?」
「いえいえ、そんなに仲いいとかないですよ。俺、別に兄さんのこと好きじゃないし」
「おい!」
しれっと言われるうちに俺の降りる駅に着く。八分間なんて短いんだ。
俺は咲哉を不機嫌ににらんでやった。
「帰ったら覚えてろよ」
「忘れておくよーだ」
降りていく俺を見送る咲哉の目はいたずらっぽく光る。
閉まったドアを振り返り、咲哉を見送り返す俺の目だって、きっとやさしいんだろう。
〈兄さん〉なんか好きじゃない。
でも将吾のことは、好きだよ。
そう言われた気がした。
咲哉は本当に本当に嘘つきで……。
そして、俺にだけは嘘をつかない。
〈了〉