「今日は将吾と一緒に学校行く」
「は?」

 朝、ちゃんと起きてきた咲哉に得意げにされて俺はきょとんとした。
 それを尻目に咲哉はパンをトースターに突っ込み、フライパンを出す。

「将吾も食べる? ベーコンエッグ」
「あ、うん。サンキュ」

 じゅう。ベーコンを焼き、卵を割って。料理をしながら咲哉は楽しそうだ。

「今日スクーリングでさ。途中まで将吾と同じ電車なんだ」
「すくーりんぐ、て何」

 俺の疑問には、パタパタと出勤の支度をしながら義母さんが答えてくれた。

「通信制でも登校日があってね。行かないと単位落とすの」
「単位。大学みたいなんだ」
「おまえだって赤点とればそうなるんだぞ」

 父さんまで口をはさむ。なんか四人家族っぽくてテンション上がるな。

「今月のスクーリング遅めだったから、将吾は初めてだったっけ。通信のことなんか知らないよね、ごめん」
「いやこっちこそ知らなくてごめん。スクーリングって毎月あるんだ?」

 じゃあたまに咲哉と出かけることになるんだな。それもいい、と俺は嬉しくなる。

 俺たちが同居するようになったのは夏休みからだった。元々俺と父さんが住んでいた町で、四人で住める広いマンションに引っ越したんだ。
 長期休暇のおかげで、俺と咲哉は急速に距離を縮められた。でも学校がなかったから通信制の勉強のやり方を俺はまだよく知らない。
 仕事のことといい咲哉の生活は俺の普通とは違っていて、それをこなしているこいつを俺は、素直にすごいと思う。

「二人とも、遅刻しないようにな」
「お先に行ってきまーす」
「行ってらっしゃあい」

 仲良く出勤する両親を見送った。
 そして俺は咲哉と朝ご飯を食べ、食器を洗い、制服に着替える。でも部屋から出てきた咲哉はゆったりしたTシャツにジーンズだった。

「制服は?」
「ない。着る人もいるけど。俺はいいかなって」
「補導されたりしないの」

 咲哉の学校は俺たちの乗る私鉄が山手線に接続するターミナル駅にあるらしい。
 どうみても十代ど真ん中の少年、咲哉。繁華街を平日昼間にフラフラしていて大丈夫なのか。

「だいじょぶだって。そんなこと言ったら俺、いつもあちこち歩いてるよ。スタジオなんて、目黒、赤坂、代々木、大久保、どこにでもあるんだから」
「お、おう……」

 俺が行ったことのない場所もふくめ、慣れたように口にする咲哉にビビった。
 外に出ると、咲哉がさっさと鍵を閉めてくれる。

「……おまえ大人だなあ」
「なに言ってんの。将吾の方が年上だろ」
「いや、なんか経験値が違う気がしてきた」

 なんだそれ、と笑う咲哉がまぶしい。
 朝の光のせいかもしれない。

 二人で外を歩くことはあまりなかった。
 夏休みは暑すぎて遊びに出なかったんだよな。まだ俺たちの距離感も定まらなかったし、咲哉は仕事もあったし。
 だから、並んで駅まで行くのが新鮮だ。

 たくさんの人が歩いていく。
 会社員も、ちゃらい兄ちゃんも、女子高生も。
 その中で俺たちは変な取り合わせかもしれない。制服の男子高校生と、同い年ぐらいの私服のイケメン。

 兄弟だけど兄弟じゃない、俺たち。

 数ヶ月前までは互いの存在すら知らなかったなんて嘘みたいだった。今は咲哉が隣にいるだけで通学路が楽しくなるのに。

「さっき将吾、経験値って言ったけど」
「うん」

 ぽつん、と咲哉が言い出した。風がサラサラの前髪をなぶっていく。

「俺ね、学校の経験値、あんまない」
「へ?」
「普通の、全日の、クラスのみんなで何かするっていうの、やってないんだ」

 ちょっとうつむきがちの咲哉。ほんの少しの切迫を感じる理由がわからなくて考える。

「ええっと、ホームルームなんかもオンラインだったっけ」
「……まあ、そういうこと」

 歯切れの悪い返事。俺はきっと咲哉の気持ちを言い当てられなかったんだろう。

「おかしいよね、学園ラブコメとかやってるのに、学校行事がよくわからないなんて」

 そうなのか? でもそれだけじゃなく、俺に伝えたいことがあるんだろ?
 ちくしょう、やっぱ俺はまだ、咲哉のことわかってないんだよ。ごめんな。

「……なあ、俺んとこの文化祭とか来てみる?」
「文化祭?」
「来月あるんだけど」

 俺はもっと咲哉を知りたい。
 たくさんの時間をかけていけば、これまでに咲哉が積み重ねてきたものを理解できるかもしれない。そのために咲哉と過ごしたい。

「仕事とか平気なら、どうよ」
「そっか……通信にも文化祭はあるけど、こじんまりしてるし俺は出し物に参加してないんだ。将吾の学校、大きいよね?」
「咲哉んとこもあるの? わりぃ」
「悪くないよ、アニメで描かれるのって基本は全日制だし、スケジュール合えば行きたい!」

 仕事に活かすため、という言い方だけど、それでも俺は嬉しかった。役に立てるならそれでよかった。

「俺の声って軽めだし、低音イケボじゃないじゃん。若い役で勝負していくしかないから、そういう方面のリアルは見ておかなきゃね」
「……真面目だなあ」

 ほとほと感心してつぶやいたら、そんなことないよと照れ笑いされた。
 何言ってんだ、そんなことあるって。
 ふらふら生きてる俺からすると、仕事で生き残ることを考えている咲哉は、とてもまぶしいんだ。


 ホームに着いて、俺はいつもと違うドアまでさりげなく咲哉を連れてった。高校の奴らがたくさんいる車両を避けたんだ。
 妹が声優オタだという同級生もたぶん乗ってるだろう。あのアニメ広告の下で咲哉と会わせるのは、なんだか後ろめたかった。

「将吾、奥に行かないで」

 乗り込んだドアから中に進もうとすると、咲哉が俺のワイシャツをつかんだ。ドア横のスペースにピタリと止まる。引きとめる声が尖っていた。

「え、どした。ここ乗り降り多くて邪魔だろ」
「わかってるけど、無理」

 小声でやり取りする咲哉の頬が硬い。俺は心配になり、すぐ隣で顔をのぞいた。

「ぐあい悪いのか」
「違う。吊り革がやだ」
「……潔癖だっけ?」
「じゃないよ――男の人が腕を上げてるのが、」

 怖いんだ、と咲哉は息だけでささやいた。
 あ。
 
 父親に殴られていた頃の記憶。
 そのせいか。

「……おっけー。じゃ、ここで」

 普通の顔をして、俺はそう言った。それしか言えなかった。

「ありがと」

 ――うつむいて礼なんか言うな。

「将吾と一緒なら平気かもって思ったけど。駄目そう」
「仕方ないよ」

 俺はなるべくやさしく笑った。ちゃんと笑えているといいなと願った。

 ひどいだろ、子どもに手をあげるなんて。
 そのせいで咲哉はずっとずっと、心が傷ついたまんまなんだ。
 悪いのは、咲哉じゃないのに。



 電車の八分はあっという間だった。
 俺は咲哉と他愛のない話をして、学校の最寄り駅で先に降り、ホームから咲哉を見送った。

 終点まで行く咲哉は、たぶんいつもドア付近に立っているのだろう。
 吊り革につかまる人々から目をそらして。

 なんでそんな苦しい思いを咲哉がしなくちゃならない。くそ親父。
 俺はおそらく人生で初めて、人をぶっ飛ばしてやりたいと思った。どんな奴だか知らないけどさ。

「――あ!」

 高校へと歩きながら、俺は気がついて立ち止まった。

 俺、咲哉の頭をさわった。髪をもふりたくて上から手を伸ばした。
 もしかしたらそういうの、すごく怖かったんじゃないか。義理の兄弟だから我慢してくれてたんじゃないか。

「やべえ……」

 知らずに咲哉を追い詰めてたかもと思って、俺は青ざめた。




「みっちり授業あると、すごい疲れるー! 全日制の子たちって毎日元気だよね」

 家に帰ると咲哉はソファにひっくり返っていた。俺に向ける笑顔はいつもと変わらない。でも俺は、近寄って見下ろすのを避けた。

「疲れたなら、飯のしたくは俺がやるよ」
「え、いいよ。一緒にやろ」
「気にすんな。台本チェックとかもあるんだろ」

 笑ってみたら、咲哉はうーん、と目をつぶる。

「レギュラー、ゼロ……」
「え、そうなの?」
「そんな甘くないんだよ」

 秋アニメには一本も出ていないし、冬クールの予定もまだないのだと、咲哉はソファに撃沈してしまった。

「マネージャーさんは頑張ってくれてるんだ……俺が高校生だからガシガシ売るわけにもいかないし、加減が難しいんだよね、たぶん。いや俺がオーディション落ちるのがいけないんだけど!」

 今は単発で呼ばれるゲスト出演、それに音声ドラマの予定がちょっとあるぐらいだとか

「だから俺、とりあえず勉強する。レポートと出席時間数ヨユーにしておくんだ! 冬はみてろよ、忙しくなってやるー!」

 クッションを抱いてゴロゴロしながら咲哉はうめいた。かわいくて笑っちゃうじゃないか。
 かわいくてかわいくて、俺のこと怖かったかと確かめられなくなってしまう。

「……咲哉はすげえよ。ずっと大人の間で仕事してきたんだろ」
「ずっとっていうか、ポツポツとだけど」
「声優は中学からだっけ。でもその前は、写真のモデルも教育番組の子役もやったんだよな。いろいろやらせてもらえるんだから、才能あるって」
「才能なんかないよ」

 むう、と咲哉は口をへの字にした。

「嘘つきなだけ」

 突然の言葉に、俺は首をかしげた。
 嘘つき。
 何を言ってるんだ。咲哉はいつも開けっぴろげな笑顔を俺に向けてくれていて。
 すごく素直に甘えてくれて、俺はとても、それが。

「何が嘘なんだよ? 咲哉が嘘つきなら、世界中が嘘つきだ」

 強く否定したら、咲哉は俺に向かって手を伸ばした。にっこり笑う。
 ひらひらと招くようにされ、俺はおそるおそる近づいた。きゅ、と制服のズボンをつかまれる。

「ありがと、将吾。でも嘘つけないと、セリフなんか読めない」
「そりゃそうか……あのさ」

 咲哉の手を外し、俺はソファの脇に座り込んだ。

「俺の、腕。怖かったなら、ごめん」
「え」
「咲哉の頭さわったりしたろ。もうしないからさ、嫌なことはすぐ言ってくれ」
「え、え、ちょ」

 飛び起きた咲哉が、逆に俺の髪に手をふれた。

「これのこと? 将吾が髪の毛なおしてくれたりしたやつ?」
「うん」
「嫌なんかじゃないよ、将吾になでられんのは気持ちよくて、安心できて、だから将吾がいれば電車の中も平気かなって思ったんだ。それで何も言わずに一緒に乗ってみて……ごめん、気にしたの?」

 あわてる咲哉の言葉は、もちろん嘘のようには聞こえなくて、俺はホッとした。

「なら、よかった」
「……ほんとに。ほんとに将吾のこと、好きなんだよ。信じて」

 言いながら咲哉はポスンと俺の肩に顔を伏せた。

「うん、わかった。ありがとな」

 苦手な吊り革の下も、俺と一緒ならと思ってくれたんだ。
 そのぐらい俺のこと、頼りにしてくれたんだ。まあ駄目だったんだけど。

 俺は両手を咲哉の背中に回し、ぽんぽんとした。
 こんな弟ができて、俺は幸せ者だ。