ピアノに真剣に向き合っていると時間はあっという間に過ぎて行って、約束の木曜日がやってきた。
瑛くんと仲良くなるきっかけになった木曜日の特別な時間。
2人きりのこの時間がおれは何より好きな時間だった。
瑛くんの音色に導かれて再会したのもここで、この場所がおれ達を繋げてくれている。
ちょっと早く着いてしまったから、おれは荷物を置いて椅子に腰を下ろして、ピアノを開いた。
おれ達くらいしか弾いてなさそうなのに、4月からずっとピアノの旋律は綺麗できっと知らないところで調律師さんが調整してくれているのだろう。
ありがたい。これから先も、きっとお世話になるピアノだからいつか調律師さんにお礼を言わないとな、なんて思った。
今、練習しているバッハの半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903を弾き始めた。
やっぱりすごく難しい。何度弾いても躓くともどかしくて投げ出したくもなる。
だけど、何度も弾いていれば、いつしかすらすらと弾けるようになっていく。
弾けた時は嬉しくて、途中で投げ出さなくて良かったと思う。
出来なかったことが出来るようになっていくのって当たり前だけどすごく楽しい。
しばらくして、ガチャリとドアが開いた。
「瑛くん」
「はると、お待たせ。もうかなり弾けてるじゃん」
こちらへ向けて歩きながら瑛くんは言った。
「そうかな?」
「うん、はるとは飲み込みが早い。今度フルで聞かせてよ」
「もう少し上手く弾けるようになったらね~。おれ、ちゃんと瑛くんへの答え考えてきたよ」
「そうか……」
そう言いながら、瑛くんもピアノの椅子に腰を下ろしてきておれ達の距離は必然的に縮まった。
ウィーンの音大でノアくんと瑛くんがこうして座っていた時すごく嫌だった。
今は、おれが瑛くんと近距離にいられている。それが、すごく幸せだと思った。
瑛くんの隣に座るのはこの先もずっと、おれでありたい——
「おれ、瑛くんと一緒にこれから先もピアノやって行きたい。ピアノデユオ良いなって思った。もちろん、単純な気持ちで言ってないよ。おれはさ、ノアくんと違ってレベルもまだまだ低いし、親に音楽家がいるわけでもないし才能がずば抜けてるわけでもない。だけど、ピアノが好きって気持ちと瑛くんと一緒にプロを目指したいって気持ちは誰よりも持ってる。厳しい世界だってのはもちろん知ってる。高校生らしいこととか全部捨ててでも、おれは瑛くんとピアノデユオの世界に飛び込んでみたい! そう思ったよ」
じっと瑛くんの瞳を見つめて伝えた。
音楽科のある高校を目指したのは、ピアノを続けていたら瑛くんと再会できるかもなんていう想いからだったし、プロになりたいと思ったことはなかった。
ピアノを弾くのは瑛くん関係なしに好きだけれど、現実的に考えて音大なんておれには難しいかもとかそもそも家もそこまで裕福なわけじゃないし、とか思っていた。
だけど、瑛くんと出会い、恋をして変わってしまった。
決定的なのはウィーンで得た刺激だけれど、もしウィーンに行かなくても、小畑瑛という人の傍にいたら自然とおれも音楽の虜になっていっていたと思う。
「はると……」
「瑛くんには、絶対もっと見合うパートナーがいるはずとか本当におれで良いのかとかって思うけどさ、そんな風に思っちゃうのはおれとピアノを弾いて行きたいって言ってくれた瑛くんに対して失礼だなって思ったんだ。だから、おれがもっともーっと努力して、頑張って瑛くんの世界に追いつくよ。だから、最近今まで触れてこなかった曲も練習しようと思い始めたよ。バッハなんて難しすぎて意味わかんないって最初は思ったけどさ。好きなことだけやって生きていける世界じゃないのは分かってるから。だから、おれなりにこれからも頑張って行くつもり」
先生にはまだ言っていないけど、今日を得たら伝えるつもりだった。
そうしたら瑛くんみたいに特別レッスンを受けさせてもらったり瑛くんと同じ先生の所に通わせてもらったりも出来るかもしれない。
親にも言っていない。音大に行くのか留学するのかは、この先瑛くんと考えていくのだろうけどどちらにしてもお金はかかる。
苦労をかけさせてしまうって分かっている。今までもたくさん我儘を聞いてもらってきたのにまだいうのかって怒られるかも。
でも、親に反対されてもきっと瑛くんが一緒に立ち向かってくれる。
それなら、何とでもなりそうな気がした。
「はると、ありがとう。俺、はるととここで出会えたからピアノに対してすごく明るい未来を想像できるようになれたんだ。何度もピアノなんて辞めたいって思った。こんな辛い想いしながらなんでまだ続けてるんだろうって……。小6の失敗の時に辞めてたっておかしくなかった。だけど、ピアノがない生活ってのも考えられなくて。辞めるのも怖かった。だったら続けていようかなって、何でピアノを弾いているのかも分からないまま続けて来たけど、はるとの音色に出会って、あぁ俺もあんな風に楽しくまたピアノ弾きたいなって思い始めたんだ」
「瑛くん……」
「はるとと一緒にピアノを弾いていたら楽しく未来を見られるように思えたんだ。だから、俺と一緒の世界を歩むことを決めてくれてありがとう。これからも——「その先はちょっと待って!」
おれは、慌ててその先の言葉を遮った。
「はると?」
きっと瑛くんは、これからもよろしくと言おうとしたのだろう。
だけど、その言葉はもう少し待って欲しい。
おれも敢てまだその言葉は言っていない。
もう1つの伝えたいことを伝えてからが良かったから。
「おれ、ずっと瑛くんに伝えたいことがあったんだ」
心臓の音が煩い。顔が熱くなっていくのが分かる。
だけど、伝えよう。伝えなかったらきっと後悔するから——
「おれ、瑛くんのことが好きです! えっと、この好きは瑛くんのピアノがとか友達としてとかそーいうんじゃなくて、なんというか……」
もっと格好つけたかったのに変に慌ててしまって、ダメダメだ。
瑛くんの顔を見るのが怖くて俯いていると、瑛くんが「俺も」と答えた。
「……え!???」
ガバッと顔を上げれば目の前の瑛くんの顔は真っ赤で、すぐに反らされてしまった。
「う、嘘」
「嘘じゃない。はるとが俺の誕生日を祝ってくれた時、好きになった」
「え!!! おれが気持ちに気づくよりも前から!???」
驚くことの連発で雰囲気とかもう何もなくなってしまっている。
だって、瑛くんの誕生日って4月29日で、おれはその頃まだこの想いに気づいていない。
瑛くんと仲良くなれただけで浮かれていた時期なのに。
「はるとはいつから?」
「ウィーン旅行中に……でもたぶん、もっと前から予兆はあって、でもその気持ちの名前に気づいたのはウィーンの時で……あはは~~なんだーまさか、瑛くんに先越されてたとはな~~~~」
何だか急に笑えてきた。
じゃあ、おれ達ウィーン旅行中もほぼ両想いみたいな状態で海外デートしてたわけだ。
おれが、もっと早く想いに気が付いていれば、瑛くんが先に告白してくれてたらとか色々と思ったけれどまあ結果的にタイミングは今で良かったのかも、とも思う。
「えーっと、じゃあ気を取り直して……お互いの想いも確かめあったことだし、将来の方向性も決まったことだし、あ、ちなみにおれまだ親に言えてないからもし反対されたり怒られたりしたら助けてね。改めてこれから先の人生も末永くよろしくお願いします」
深々と、おれはお辞儀をした。
「そんなの当たり前だし、挨拶がてら一緒にはるとの実家に行こう。こちらこそ、よろしくお願いします」
瑛くんも同じようにお辞儀をした。
ピアノの小さな椅子に2人で座っていったい何をしているのだろうか。
おかしくて笑い合った。
「そうだ、久しぶりに瑛くんの〝愛の夢〟聞きたいな」
「分かった。俺達を繋げてくれた曲だよな」
「うん、特別な曲」
ピアノ楽曲はこの世界に数多く存在する。
おれもたくさんの曲を聞いてきたし、弾いてきた。
きっとまだ触れていない曲もたくさんあるのだろう。
だけど、これから先どんなに良い曲に出会っても、リストの〝愛の夢〟がおれ達の中では不動の1番。
瑛くんは覚えていなくても、幼き日に瑛くんと初めて出会った時に瑛くんが弾いていた曲で、おれが瑛くんの音に惚れたきっかけの曲。そして、この公民館で再会した時に瑛くんが弾いていた曲——
「やっぱり瑛くんの手、綺麗だよなぁ」
「俺は、はるとの手も好きだけど」
「そう?」
「うん」
美しい瑛くんの指で奏でられる、リストの〝愛の夢〟
この音色がこの世界で何よりも美しい音だとおれは思っている。
瑛くんと仲良くなるきっかけになった木曜日の特別な時間。
2人きりのこの時間がおれは何より好きな時間だった。
瑛くんの音色に導かれて再会したのもここで、この場所がおれ達を繋げてくれている。
ちょっと早く着いてしまったから、おれは荷物を置いて椅子に腰を下ろして、ピアノを開いた。
おれ達くらいしか弾いてなさそうなのに、4月からずっとピアノの旋律は綺麗できっと知らないところで調律師さんが調整してくれているのだろう。
ありがたい。これから先も、きっとお世話になるピアノだからいつか調律師さんにお礼を言わないとな、なんて思った。
今、練習しているバッハの半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903を弾き始めた。
やっぱりすごく難しい。何度弾いても躓くともどかしくて投げ出したくもなる。
だけど、何度も弾いていれば、いつしかすらすらと弾けるようになっていく。
弾けた時は嬉しくて、途中で投げ出さなくて良かったと思う。
出来なかったことが出来るようになっていくのって当たり前だけどすごく楽しい。
しばらくして、ガチャリとドアが開いた。
「瑛くん」
「はると、お待たせ。もうかなり弾けてるじゃん」
こちらへ向けて歩きながら瑛くんは言った。
「そうかな?」
「うん、はるとは飲み込みが早い。今度フルで聞かせてよ」
「もう少し上手く弾けるようになったらね~。おれ、ちゃんと瑛くんへの答え考えてきたよ」
「そうか……」
そう言いながら、瑛くんもピアノの椅子に腰を下ろしてきておれ達の距離は必然的に縮まった。
ウィーンの音大でノアくんと瑛くんがこうして座っていた時すごく嫌だった。
今は、おれが瑛くんと近距離にいられている。それが、すごく幸せだと思った。
瑛くんの隣に座るのはこの先もずっと、おれでありたい——
「おれ、瑛くんと一緒にこれから先もピアノやって行きたい。ピアノデユオ良いなって思った。もちろん、単純な気持ちで言ってないよ。おれはさ、ノアくんと違ってレベルもまだまだ低いし、親に音楽家がいるわけでもないし才能がずば抜けてるわけでもない。だけど、ピアノが好きって気持ちと瑛くんと一緒にプロを目指したいって気持ちは誰よりも持ってる。厳しい世界だってのはもちろん知ってる。高校生らしいこととか全部捨ててでも、おれは瑛くんとピアノデユオの世界に飛び込んでみたい! そう思ったよ」
じっと瑛くんの瞳を見つめて伝えた。
音楽科のある高校を目指したのは、ピアノを続けていたら瑛くんと再会できるかもなんていう想いからだったし、プロになりたいと思ったことはなかった。
ピアノを弾くのは瑛くん関係なしに好きだけれど、現実的に考えて音大なんておれには難しいかもとかそもそも家もそこまで裕福なわけじゃないし、とか思っていた。
だけど、瑛くんと出会い、恋をして変わってしまった。
決定的なのはウィーンで得た刺激だけれど、もしウィーンに行かなくても、小畑瑛という人の傍にいたら自然とおれも音楽の虜になっていっていたと思う。
「はると……」
「瑛くんには、絶対もっと見合うパートナーがいるはずとか本当におれで良いのかとかって思うけどさ、そんな風に思っちゃうのはおれとピアノを弾いて行きたいって言ってくれた瑛くんに対して失礼だなって思ったんだ。だから、おれがもっともーっと努力して、頑張って瑛くんの世界に追いつくよ。だから、最近今まで触れてこなかった曲も練習しようと思い始めたよ。バッハなんて難しすぎて意味わかんないって最初は思ったけどさ。好きなことだけやって生きていける世界じゃないのは分かってるから。だから、おれなりにこれからも頑張って行くつもり」
先生にはまだ言っていないけど、今日を得たら伝えるつもりだった。
そうしたら瑛くんみたいに特別レッスンを受けさせてもらったり瑛くんと同じ先生の所に通わせてもらったりも出来るかもしれない。
親にも言っていない。音大に行くのか留学するのかは、この先瑛くんと考えていくのだろうけどどちらにしてもお金はかかる。
苦労をかけさせてしまうって分かっている。今までもたくさん我儘を聞いてもらってきたのにまだいうのかって怒られるかも。
でも、親に反対されてもきっと瑛くんが一緒に立ち向かってくれる。
それなら、何とでもなりそうな気がした。
「はると、ありがとう。俺、はるととここで出会えたからピアノに対してすごく明るい未来を想像できるようになれたんだ。何度もピアノなんて辞めたいって思った。こんな辛い想いしながらなんでまだ続けてるんだろうって……。小6の失敗の時に辞めてたっておかしくなかった。だけど、ピアノがない生活ってのも考えられなくて。辞めるのも怖かった。だったら続けていようかなって、何でピアノを弾いているのかも分からないまま続けて来たけど、はるとの音色に出会って、あぁ俺もあんな風に楽しくまたピアノ弾きたいなって思い始めたんだ」
「瑛くん……」
「はるとと一緒にピアノを弾いていたら楽しく未来を見られるように思えたんだ。だから、俺と一緒の世界を歩むことを決めてくれてありがとう。これからも——「その先はちょっと待って!」
おれは、慌ててその先の言葉を遮った。
「はると?」
きっと瑛くんは、これからもよろしくと言おうとしたのだろう。
だけど、その言葉はもう少し待って欲しい。
おれも敢てまだその言葉は言っていない。
もう1つの伝えたいことを伝えてからが良かったから。
「おれ、ずっと瑛くんに伝えたいことがあったんだ」
心臓の音が煩い。顔が熱くなっていくのが分かる。
だけど、伝えよう。伝えなかったらきっと後悔するから——
「おれ、瑛くんのことが好きです! えっと、この好きは瑛くんのピアノがとか友達としてとかそーいうんじゃなくて、なんというか……」
もっと格好つけたかったのに変に慌ててしまって、ダメダメだ。
瑛くんの顔を見るのが怖くて俯いていると、瑛くんが「俺も」と答えた。
「……え!???」
ガバッと顔を上げれば目の前の瑛くんの顔は真っ赤で、すぐに反らされてしまった。
「う、嘘」
「嘘じゃない。はるとが俺の誕生日を祝ってくれた時、好きになった」
「え!!! おれが気持ちに気づくよりも前から!???」
驚くことの連発で雰囲気とかもう何もなくなってしまっている。
だって、瑛くんの誕生日って4月29日で、おれはその頃まだこの想いに気づいていない。
瑛くんと仲良くなれただけで浮かれていた時期なのに。
「はるとはいつから?」
「ウィーン旅行中に……でもたぶん、もっと前から予兆はあって、でもその気持ちの名前に気づいたのはウィーンの時で……あはは~~なんだーまさか、瑛くんに先越されてたとはな~~~~」
何だか急に笑えてきた。
じゃあ、おれ達ウィーン旅行中もほぼ両想いみたいな状態で海外デートしてたわけだ。
おれが、もっと早く想いに気が付いていれば、瑛くんが先に告白してくれてたらとか色々と思ったけれどまあ結果的にタイミングは今で良かったのかも、とも思う。
「えーっと、じゃあ気を取り直して……お互いの想いも確かめあったことだし、将来の方向性も決まったことだし、あ、ちなみにおれまだ親に言えてないからもし反対されたり怒られたりしたら助けてね。改めてこれから先の人生も末永くよろしくお願いします」
深々と、おれはお辞儀をした。
「そんなの当たり前だし、挨拶がてら一緒にはるとの実家に行こう。こちらこそ、よろしくお願いします」
瑛くんも同じようにお辞儀をした。
ピアノの小さな椅子に2人で座っていったい何をしているのだろうか。
おかしくて笑い合った。
「そうだ、久しぶりに瑛くんの〝愛の夢〟聞きたいな」
「分かった。俺達を繋げてくれた曲だよな」
「うん、特別な曲」
ピアノ楽曲はこの世界に数多く存在する。
おれもたくさんの曲を聞いてきたし、弾いてきた。
きっとまだ触れていない曲もたくさんあるのだろう。
だけど、これから先どんなに良い曲に出会っても、リストの〝愛の夢〟がおれ達の中では不動の1番。
瑛くんは覚えていなくても、幼き日に瑛くんと初めて出会った時に瑛くんが弾いていた曲で、おれが瑛くんの音に惚れたきっかけの曲。そして、この公民館で再会した時に瑛くんが弾いていた曲——
「やっぱり瑛くんの手、綺麗だよなぁ」
「俺は、はるとの手も好きだけど」
「そう?」
「うん」
美しい瑛くんの指で奏でられる、リストの〝愛の夢〟
この音色がこの世界で何よりも美しい音だとおれは思っている。