プロローグ
あの日の音色を今もずっと忘れられないでいる。
7歳の頃に初めて出たピアノコンクールでおれは、珍しく緊張していた。
あまりに緊張していたから、演奏が始まる前に演奏者と曲の紹介があるはずなのにそれを聞き逃してしまっていた。
後からパンフレットを見返そうという気もその時のおれにはなくて。
パンフレットとか取っておく主義でもなかったから、当然終わったら捨ててしまっていた。
だから、美しいピアノの音色の主の名前を知らないまま生きてきたんだ。
パチパチパチと拍手が響く。おれの出番は次というところまで来てしまった。
拳をぎゅうと握り、緊張を解そうとしていると前の人の演奏が始まった。
そして、聞こえてきた音色はとても、とても美しいリストの〝愛の夢〟だった。
おれが、いちばん好きなピアノ楽曲で毎日、聞いているから名前と演奏曲紹介を聞き逃しても曲だけは分かった。
いつも聞いているCDの音色よりもずっと美しい。
綺麗で、正確で、一音一音丁寧で……。気づけば演奏に聞き惚れていて、次が自分の番だなんて忘れてしまっていた。
夢中になって、その人の演奏を聞いていた。ピアノの音はもちろん、その姿も美しくて……。
「きれいだな……」
思わずそう呟いていた。
気づけば、演奏は終わっていておじぎも美しく、舞台袖に戻って来る足取りも堂々としていた。
すれ違う時、声をかけようともした。だけど、その人の纏う空気があまりに神聖で別世界の人のようで、とてもおれなんかが声をかけられる人ではなかった。
躊躇っている間にその人はもう去ってしまっていたし、おれの名前が呼ばれてしまっていた。
その日の演奏は、前の人の演奏を聞くまでの間の緊張が嘘かのようにいつも通り楽しく弾けた。
結果はダメだったけれど、心は入賞したかのように晴れ晴れとしていた。
コンクールが終わってから控室に戻って、彼の姿を探した。でも見つからなかった。
スタッフさんに聞いて回りたかったけれど、帰らないといけない時間になってしまって結局何も分からなかった。
後日、ピアノの先生に聞いてみたりもしたけれど個人情報だから教えられないと言われた。
パンフレットを取っておくべきだった。あれほど自分の管理能力のなさを憎んだことは後にも先にもない。
だけど、おかげで夢が出来たんだ。
彼にもう一度会いたい、彼の奏でる音色をまた聞きたい、という夢。
その夢を原動力にしておれは、ずっとピアノを続けている……。
1話
「おお~ここが宮瀬村か~山ばっかだー湖デカー!」
バスを降りておれは大きく伸びをした。
駅からここまで約1時間はかかった。駅回りは割と栄えていたというのに、この辺りは見渡すばかり山と湖で長閑な風景が広がっている。観光地らしいけれど、人はあまりいない。
神奈川県宮瀬村。おれは、ここにある県内で唯一、音楽科を設置してある高校——宮瀬川高校に入学する為に引っ越して来た。
入学式は明日だけれど、入寮は今日中に行っておかないといけなかった。
実家は神奈川県内なので通えなくはないけれど、宮瀬川高校は不便な所にある為通学に時間がかかる。
通学に使う時間をピアノの練習の時間に使いたいから、なんて親には言って寮暮らしを許してもらった。
別に、嘘ではない。真面目に練習もする。だけど、寮に入りたい本当の理由は昔流行っていたドラマの影響だった。
「寮、楽しみだなー」
ドラマが流行っていた当時はみんな、絶対寮がある中学、高校に通うんだ! なんて言っていたっけ。
中学はさすがに難しかったけれど、おれは高校でちゃんと実行したぞ。
本気で寮に入りたいなんて思っていたのはどうやら、おれだけだったみたいだけれど……。
そんなことを思い出しながら、ぶらぶらと湖の畔を歩きながら寮を目指していた。
長く立派な橋を渡り切った先には橋を渡る前よりかは大きな建物があったり、賑わっているような雰囲気がした。
寮もこの広場の中にあるみたいだけれど、どれだろうか。春だけど今日はちょっと暑くて、歩き疲れてしまった。
まだ陽が暮れるまでは全然時間があるし、少し休めそうな所で休もうかと思っているとどこからか、ピアノの音色が聞こえてきた。
「この曲……」
曲が聞こえる方に少しずつ近づいていくと、曲だけでなくこの音色に聞き覚えがあることに気が付いた。
間違えるはずがない。ずっと、求めていた音色だ。
その音色は公民館の中から聞こえているようで、おれはすぐに中へと入った。
その建物内には、全然人はいなくて美しいピアノの音色だけが響いている。
まるで別世界に紛れ込んでしまったかのような不思議な気持ちに陥っていた。
奥へと進んだ所にフリースペースと書かれたプレートが貼ってあるドアを見つけた。
その中からピアノが聞こえる。おれは、ゆっくりとドアを開けた。
「この音、やっぱり……っ!」
間近で聞いてはっきりした。
そして、そのピアノを奏でる後姿を見てどくんと心臓が高鳴った。
間違いない、あの日聞き惚れてずっと追い求めていた人だ。
やっぱり、この人の奏でる〝愛の夢〟がこの世でいちばん美しいと感じた。
おれは、ゆっくりとピアノに近づいた。彼は、集中して弾いているようで全然気が付かない。
演奏の妨げにはなりたくなかったから、少し離れた所で演奏が終わるまで立っていた。
あのピアノコンクールの日は、遠くからしか聞けなかったから気が付かなかったけれどピアノを弾く彼の手はとても大きくて、指は長くて、まるでピアノを弾く為に産まれてきたような手だな、と思った。
あれだけ大きな手なら難関といわれている曲も、楽々と弾けてしまうのだろう。ピアノは、手が大きければ大きいほど有利だ。
おれは小さい方だから、羨ましいなぁと思いながらその姿を見つめた。
最後の一音が奏で終わり、おれは我慢ならなくて大きな拍手をおくった。
おれがいたことに初めて気づいた彼は、びくっと驚きおれの方を向いた。
「誰? 何してんの?」
「おれ、佐野陽都《さのはると》! 4月から宮瀬川高校の1年! 今日から寮暮らしだからここに来たんだけど、君のピアノの音が聞こえてきて……君の音色をずっと探してたんだ!」
「は……?」
彼は、おれの言葉を聞いて怪訝そうな顔をした。
まあ、そんな顔になるのも無理はないなと思いつつもそれ以上の言葉が見つからなかったのだ。
何よりこんな所でようやく出会えたことが嬉しすぎて、まともな思考になることなど出来なかった。
「何、新種の詐欺?」
「違うよ! ちゃんと自己紹介したじゃん! 君は覚えていないかもしれないけど、おれ7歳の時のピアノコンクールで君の後ろの番だったんだ。その時、君の奏でるピアノに感動して……」
「ごめん、覚えてない」
「そうだよね! 覚えてないのは当たり前だから良いんだけど、君のこと少しで良いから教えてくれないかな?」
ようやく出会えたのだ。彼が、たまたまここに遊びに来ててここでピアノを弾いていただけならば、これでまたさよならとなってしまうかもしれない。何も知らないまま、さよならになるなんて嫌だった。
「……小畑瑛《こばたけえい》」
彼——瑛くんは、名前を教えてくれると椅子から立ち上がり近くに置いてあったバッグを持っておれに背を向けた。
「行かないといけない所があるから。……拍手してくれてありがとう」
瑛くんは、小さくお礼の言葉を述べるとぺこりとお辞儀をして部屋を出て行った。そのお辞儀の姿勢もまた、あの頃と変わっていなかった。
「小畑、瑛くん」
たった一つ知られた情報をおれは口の中で繰り返し呟いていた。
それから、名残惜しいけれど公民館を出て寮へと向かった。
寮の前では、同じように今日から入寮するのであろう人が寮のドアの前まで行ったり後ずさったりしていた。
「何してんのー? 寮入らないの?」
その人は、びくっと肩を揺らして驚きおれの方を振り向いた。
「あ、いや、あの、緊張しちゃって……」
「そっかーじゃあ、一緒に入ろう!」
「良いの?」
「うん! おれ、佐野陽都。よろしくー!」
「僕は、藤織蓮《ふじおりれん》。よ、よろしく」
自己紹介を済ませたおれ達は寮の中へと入った。自動ドアが開き中へと入ると、すぐ傍に受付があった。
「こんばんはっ! 今日からお世話になります佐野陽都ですっ!」
「あら~元気が良いわねぇ。佐野くんの部屋の鍵はこれね。そちらの方は?」
「ふ、藤織蓮です……」
「藤織くんね」
はい、と受付のおばちゃんは鍵を手渡してくれた。初めて手にする寮の鍵は何てことないただの鍵なんだけど、すごくキラキラして見えた。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。詳しくは部屋に置いてある冊子を見てね。夕飯の時間は19時30分最終だから気を付けてね~」
「はーい!」
「ありがとう、ございます」
時計を見ると、時刻は18時45分。意外とギリギリになってしまっていた。
蓮とは部屋は別だったみたいだから、荷物を置いたら一緒に食堂へ行こうと言って一度別れた。
寮の部屋は2階の階段を登った1番手前だった。
「おじゃましまーす!」
ドアを開けた向こうに広がっていたのは、思っていたよりも広々としたおしゃれな空間だった。
床は絨毯で、奥と手前側でベッドが分かれていて、机も棚も広くてそれぞれに大きなクローゼットも用意されていて文句のつけようがない。ベッドも病院とかのカーテンみたいなのが、ちゃんとあって仕切られるようになっていた。
別におれは、どこでも誰とでもすぐに打ち解けられるしどんな空間でも問題はないけれど、良く出来てるなーと感心した。
「てか、まだルームメイト来てないのか~」
夕飯の最終は19時30分で、寮の門限は21時と書いてあった。21時になると自動ドアが自動では開かなくなるらしい。
「ま、いっかー。お腹すいたし早くご飯行こっ!」
荷物を置いてすぐにおれは、部屋の鍵を閉めた。
食堂の前では、蓮が既に待っていた。
「ルームメイト来てた?」
「うん、同じタイプそうな人だったから安心した」
「そっか、良かったね!」
「陽都くんは?」
「おれの方はまだ来てなかった。どんな人だろ~」
そんな会話をしながら食堂へ入った。
食堂は、時間もギリギリなのもあって席はけっこう埋まってしまっていた。
「お、あそこ空いてる。いこー!」
おれが見つけた席には既に仲良さそうな3人組がいた。蓮はおずおずしているけれど、おれは構わず話しかけた。
「ここ良い?」
「おー良いぜ~」
「サンキュー! おれ、佐野陽都!よろしく~」
それから、食事の間にもたくさん友達が出来て初日から順調に過ぎて行った。
お腹いっぱいになって、幸せな気持ちで部屋と戻った。
ドアを開けた次の瞬間、おれは心臓が止まってしまうのではないかと思うくらい驚いてしまった。
だって、そこには何故か小畑瑛くんがいたから。
「え!? 瑛くんっ!???」
「あ、さっきの」
おれとは反対に瑛くんは、さほど驚いてなさそうで冷静だ。
「佐野陽都!」
「佐野さん」
「いや、ルームメイトになるんだからさもっとフレンドリーで行こうよ! 陽都って呼んで欲しいな!」
おれは、驚きはしたがすぐにこれは頑張ってきたおれに対する神様からのプレゼントだと思うことにして、瑛くんと会話を始めた。
「はると……」
仕方なさそうに瑛くんは、おれの名前を呼んでくれた。
「まさか、瑛くんとルームメイトになるなんてびっくりだよ! 同じ学校だったら良いな―とはちょーっと思ってはいたけど!」
「そうなんだ」
「うん! あ、てか夕飯は食べたの⁉ 最終19時30分だったけど」
「知り合いと食べて来たから寮のは食べてない」
「そっかー」
おれが言葉を区切ると瑛くんは、荷物の整理を始めてしまって会話をする気はなさそうな感じだった。
だけど、おれは瑛くんと話したくて溜まらなかったので瑛くんに質問をぶつけてみることにした。
「瑛くんって、7歳以降どうしてたの? おれ、結局瑛くんと同じコンクール出られたのあの1回だけだったんだよね」
「東京に引っ越して、東京のもっと上のコンクール出てた。中学の時は留学で日本にいない。お世話になってた先生がここの高校に転勤になったから、俺もついて来たって感じ」
「えー! すごい! あ、じゃあ高校生で久しぶりの日本って感じなんだ⁉」
「まぁ、そーいうことになる」
「はーすごいなー帰国子女ってやつだ! かっこいい~~おれなんて海外行ったことないから、ここの研修がめっちゃ楽しみなんだ~」
この学校は、毎年秋に選ばれた人だけが参加できるヨーロッパ研修がある。選ばれた人というのは、音楽の成績が良い人なんだけれど……。
「ふーん。行けると良いな」
「うん! あ、瑛くんラインとかやってる?」
「やってるけど、俺あんまりスマホ見ないよ」
「えぇ!? スマホ見ないなんてよく出来るね。まあ、それでも良いからライン教えて欲しいな!」
おれがそう言うと、分かりやすく嫌そうな顔をされた。
「ほら、ルームメイトだし、もし何あった時1番連絡取れた方が良い相手じゃん!?」
「んーまあ、確かに……」
「でしょでしょ!」
瑛くんは、あまり乗り気ではなさそうだったけれどバッグからスマホを取り出してくれた。
「じゃあ、早速交換しよ! QRコードで良いかな?」
「QRコード?」
「えっと、まずライン開いて~」
「分かった……あ、アップデートしてないから待って」
「おっけ~」
瑛くんが、スマホをあまり触らないというのはどうやら本当らしい。スマホを打つ手がとても不慣れだ。
おれなんて、忙しくて半日スマホをいじれないだけでも禁断症状が出そうになるというのに……。
「アップデートできた」
「じゃあ、場所教えるね!」
教えるために瑛くんのスマホを除くと本当に必要最低限のアプリしか入っていなさそうだった。
ホーム画面の画像も初期設定のものだし。
瑛くんと出会うまで、おれはおれと似たタイプの人としか知り合わなかったからスマホをあまり使わない人というのはとても新鮮だった。
「ライン開いたら、まずホーム画面にいって、一番右上のマーク押して……」
「これ?」
「そう、それ! で、そこのプロフィール覧に入ったらマイQRコードってのが出るからそれ開いておいて~」
「へぇ、こんなの初めてみた」
「マジか」
「ラインなんて親のと先生のしか知らないし……その時はたぶん、検索かけたような気がする」
「え、じゃあおれが友達第一号ってこと⁉」
そんな経験は早々出来ない。おれは嬉しくて今すぐ部屋の中を駆け回りたくなってしまった。
「友達……」
「友達だよ! はい、今おれから友達追加した! そっちに通知入ってると思うから見てー」
「うん……あ、これ? HARUTOってやつ」
「そう! なんかメッセージ送ってよ!」
「そう言われてもな……」
瑛くんは、スマホを凝視しながら何を送れば良いのか悩んでいた。
おれは、そんな瑛くんを見つめながら可愛いなぁなんて思ってしまっていた。
嫌そうにしたりしながらも、結局はおれの願いを聞いてくれる。
瑛くんは、無愛想だけどそれはたぶん単純に人見知りなだけな気がするなと思った。
だって、本当に嫌な奴ならおれの言葉なんて全部無視するはずだから。
ピコン
そんなことを感じているとスマホの通知音が鳴った。
瑛くんからメッセージが届いていた。
「今日からよろしく……すっごくシンプル!! おれ、こんなシンプルなラインメッセージ初めて見た!」
「嫌なら消せよ」
「嫌じゃないよ! 嬉しい!!」
本当に本当に嬉しくて幸せだ。
「記念にスクショとった! これ印刷して額に入れたいくらい嬉しい!」
「それだけはやめろ。はぁ、慣れないことしたら疲れたから俺はもう寝る準備する」
「うん、おれも今日は早めに寝ようかなーありがとう、瑛くん!」
「別にお礼言われるようなことじゃない」
照れ臭そうにそう言いながら、瑛くんは洗面台へ歯磨きセットを持って向かった。
瑛くんが葉磨きをしている間、おれはスマホのライン画面をずっと見つめてしまっていた。
小学生の時に魅了された人と再会が出来て、名前を知られて、まさかのルームメイトになれて、ラインの友達第一号になれた。
こんな嬉しい出来事が一日の間に起こってしまって、何か良くないことが起こりはしないかとちょっとだけ不安になった。
「ま、ハッピーが続くのは良いことだよねっ!」
うんうんと一人納得していると、寝る準備を終えた瑛くんが戻って来た。
「何にやついてんの」
「え、おれにやついてた⁉」
「気持ち悪い顔してた」
「気持ち悪いってひどいなー良いことがたくさん起きて嬉しいなーって思ってたんだ! おれも、この最高な気持ちのまま寝よう~!」
リストの愛の夢を口ずさみながらおれは、洗面所へ向かおうとした。
「それ、愛の夢?」
「お、さすが! おれピアノはまーまー出来る方だけど歌は全然でさーよく分かったね!」
「まあ、昼間弾いたばっかだし。……好きなの?」
「うん、大好きな曲! 毎日聞いてるけどやっぱり瑛くんの〝愛の夢〟がいちばん好き! また聞かせて欲しいな」
「レッスンがない日なら良いけど……」
「やったー! めっちゃ楽しみにしてるっ」
また、今日の嬉しい出来事が増えた。
おれは、なんて幸せものなのだろうか。
きっと、明日からはもっともっと嬉しい出来事が待っているのだろう。
明日からの高校生活がより一層楽しみになった。
あの日の音色を今もずっと忘れられないでいる。
7歳の頃に初めて出たピアノコンクールでおれは、珍しく緊張していた。
あまりに緊張していたから、演奏が始まる前に演奏者と曲の紹介があるはずなのにそれを聞き逃してしまっていた。
後からパンフレットを見返そうという気もその時のおれにはなくて。
パンフレットとか取っておく主義でもなかったから、当然終わったら捨ててしまっていた。
だから、美しいピアノの音色の主の名前を知らないまま生きてきたんだ。
パチパチパチと拍手が響く。おれの出番は次というところまで来てしまった。
拳をぎゅうと握り、緊張を解そうとしていると前の人の演奏が始まった。
そして、聞こえてきた音色はとても、とても美しいリストの〝愛の夢〟だった。
おれが、いちばん好きなピアノ楽曲で毎日、聞いているから名前と演奏曲紹介を聞き逃しても曲だけは分かった。
いつも聞いているCDの音色よりもずっと美しい。
綺麗で、正確で、一音一音丁寧で……。気づけば演奏に聞き惚れていて、次が自分の番だなんて忘れてしまっていた。
夢中になって、その人の演奏を聞いていた。ピアノの音はもちろん、その姿も美しくて……。
「きれいだな……」
思わずそう呟いていた。
気づけば、演奏は終わっていておじぎも美しく、舞台袖に戻って来る足取りも堂々としていた。
すれ違う時、声をかけようともした。だけど、その人の纏う空気があまりに神聖で別世界の人のようで、とてもおれなんかが声をかけられる人ではなかった。
躊躇っている間にその人はもう去ってしまっていたし、おれの名前が呼ばれてしまっていた。
その日の演奏は、前の人の演奏を聞くまでの間の緊張が嘘かのようにいつも通り楽しく弾けた。
結果はダメだったけれど、心は入賞したかのように晴れ晴れとしていた。
コンクールが終わってから控室に戻って、彼の姿を探した。でも見つからなかった。
スタッフさんに聞いて回りたかったけれど、帰らないといけない時間になってしまって結局何も分からなかった。
後日、ピアノの先生に聞いてみたりもしたけれど個人情報だから教えられないと言われた。
パンフレットを取っておくべきだった。あれほど自分の管理能力のなさを憎んだことは後にも先にもない。
だけど、おかげで夢が出来たんだ。
彼にもう一度会いたい、彼の奏でる音色をまた聞きたい、という夢。
その夢を原動力にしておれは、ずっとピアノを続けている……。
1話
「おお~ここが宮瀬村か~山ばっかだー湖デカー!」
バスを降りておれは大きく伸びをした。
駅からここまで約1時間はかかった。駅回りは割と栄えていたというのに、この辺りは見渡すばかり山と湖で長閑な風景が広がっている。観光地らしいけれど、人はあまりいない。
神奈川県宮瀬村。おれは、ここにある県内で唯一、音楽科を設置してある高校——宮瀬川高校に入学する為に引っ越して来た。
入学式は明日だけれど、入寮は今日中に行っておかないといけなかった。
実家は神奈川県内なので通えなくはないけれど、宮瀬川高校は不便な所にある為通学に時間がかかる。
通学に使う時間をピアノの練習の時間に使いたいから、なんて親には言って寮暮らしを許してもらった。
別に、嘘ではない。真面目に練習もする。だけど、寮に入りたい本当の理由は昔流行っていたドラマの影響だった。
「寮、楽しみだなー」
ドラマが流行っていた当時はみんな、絶対寮がある中学、高校に通うんだ! なんて言っていたっけ。
中学はさすがに難しかったけれど、おれは高校でちゃんと実行したぞ。
本気で寮に入りたいなんて思っていたのはどうやら、おれだけだったみたいだけれど……。
そんなことを思い出しながら、ぶらぶらと湖の畔を歩きながら寮を目指していた。
長く立派な橋を渡り切った先には橋を渡る前よりかは大きな建物があったり、賑わっているような雰囲気がした。
寮もこの広場の中にあるみたいだけれど、どれだろうか。春だけど今日はちょっと暑くて、歩き疲れてしまった。
まだ陽が暮れるまでは全然時間があるし、少し休めそうな所で休もうかと思っているとどこからか、ピアノの音色が聞こえてきた。
「この曲……」
曲が聞こえる方に少しずつ近づいていくと、曲だけでなくこの音色に聞き覚えがあることに気が付いた。
間違えるはずがない。ずっと、求めていた音色だ。
その音色は公民館の中から聞こえているようで、おれはすぐに中へと入った。
その建物内には、全然人はいなくて美しいピアノの音色だけが響いている。
まるで別世界に紛れ込んでしまったかのような不思議な気持ちに陥っていた。
奥へと進んだ所にフリースペースと書かれたプレートが貼ってあるドアを見つけた。
その中からピアノが聞こえる。おれは、ゆっくりとドアを開けた。
「この音、やっぱり……っ!」
間近で聞いてはっきりした。
そして、そのピアノを奏でる後姿を見てどくんと心臓が高鳴った。
間違いない、あの日聞き惚れてずっと追い求めていた人だ。
やっぱり、この人の奏でる〝愛の夢〟がこの世でいちばん美しいと感じた。
おれは、ゆっくりとピアノに近づいた。彼は、集中して弾いているようで全然気が付かない。
演奏の妨げにはなりたくなかったから、少し離れた所で演奏が終わるまで立っていた。
あのピアノコンクールの日は、遠くからしか聞けなかったから気が付かなかったけれどピアノを弾く彼の手はとても大きくて、指は長くて、まるでピアノを弾く為に産まれてきたような手だな、と思った。
あれだけ大きな手なら難関といわれている曲も、楽々と弾けてしまうのだろう。ピアノは、手が大きければ大きいほど有利だ。
おれは小さい方だから、羨ましいなぁと思いながらその姿を見つめた。
最後の一音が奏で終わり、おれは我慢ならなくて大きな拍手をおくった。
おれがいたことに初めて気づいた彼は、びくっと驚きおれの方を向いた。
「誰? 何してんの?」
「おれ、佐野陽都《さのはると》! 4月から宮瀬川高校の1年! 今日から寮暮らしだからここに来たんだけど、君のピアノの音が聞こえてきて……君の音色をずっと探してたんだ!」
「は……?」
彼は、おれの言葉を聞いて怪訝そうな顔をした。
まあ、そんな顔になるのも無理はないなと思いつつもそれ以上の言葉が見つからなかったのだ。
何よりこんな所でようやく出会えたことが嬉しすぎて、まともな思考になることなど出来なかった。
「何、新種の詐欺?」
「違うよ! ちゃんと自己紹介したじゃん! 君は覚えていないかもしれないけど、おれ7歳の時のピアノコンクールで君の後ろの番だったんだ。その時、君の奏でるピアノに感動して……」
「ごめん、覚えてない」
「そうだよね! 覚えてないのは当たり前だから良いんだけど、君のこと少しで良いから教えてくれないかな?」
ようやく出会えたのだ。彼が、たまたまここに遊びに来ててここでピアノを弾いていただけならば、これでまたさよならとなってしまうかもしれない。何も知らないまま、さよならになるなんて嫌だった。
「……小畑瑛《こばたけえい》」
彼——瑛くんは、名前を教えてくれると椅子から立ち上がり近くに置いてあったバッグを持っておれに背を向けた。
「行かないといけない所があるから。……拍手してくれてありがとう」
瑛くんは、小さくお礼の言葉を述べるとぺこりとお辞儀をして部屋を出て行った。そのお辞儀の姿勢もまた、あの頃と変わっていなかった。
「小畑、瑛くん」
たった一つ知られた情報をおれは口の中で繰り返し呟いていた。
それから、名残惜しいけれど公民館を出て寮へと向かった。
寮の前では、同じように今日から入寮するのであろう人が寮のドアの前まで行ったり後ずさったりしていた。
「何してんのー? 寮入らないの?」
その人は、びくっと肩を揺らして驚きおれの方を振り向いた。
「あ、いや、あの、緊張しちゃって……」
「そっかーじゃあ、一緒に入ろう!」
「良いの?」
「うん! おれ、佐野陽都。よろしくー!」
「僕は、藤織蓮《ふじおりれん》。よ、よろしく」
自己紹介を済ませたおれ達は寮の中へと入った。自動ドアが開き中へと入ると、すぐ傍に受付があった。
「こんばんはっ! 今日からお世話になります佐野陽都ですっ!」
「あら~元気が良いわねぇ。佐野くんの部屋の鍵はこれね。そちらの方は?」
「ふ、藤織蓮です……」
「藤織くんね」
はい、と受付のおばちゃんは鍵を手渡してくれた。初めて手にする寮の鍵は何てことないただの鍵なんだけど、すごくキラキラして見えた。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして。詳しくは部屋に置いてある冊子を見てね。夕飯の時間は19時30分最終だから気を付けてね~」
「はーい!」
「ありがとう、ございます」
時計を見ると、時刻は18時45分。意外とギリギリになってしまっていた。
蓮とは部屋は別だったみたいだから、荷物を置いたら一緒に食堂へ行こうと言って一度別れた。
寮の部屋は2階の階段を登った1番手前だった。
「おじゃましまーす!」
ドアを開けた向こうに広がっていたのは、思っていたよりも広々としたおしゃれな空間だった。
床は絨毯で、奥と手前側でベッドが分かれていて、机も棚も広くてそれぞれに大きなクローゼットも用意されていて文句のつけようがない。ベッドも病院とかのカーテンみたいなのが、ちゃんとあって仕切られるようになっていた。
別におれは、どこでも誰とでもすぐに打ち解けられるしどんな空間でも問題はないけれど、良く出来てるなーと感心した。
「てか、まだルームメイト来てないのか~」
夕飯の最終は19時30分で、寮の門限は21時と書いてあった。21時になると自動ドアが自動では開かなくなるらしい。
「ま、いっかー。お腹すいたし早くご飯行こっ!」
荷物を置いてすぐにおれは、部屋の鍵を閉めた。
食堂の前では、蓮が既に待っていた。
「ルームメイト来てた?」
「うん、同じタイプそうな人だったから安心した」
「そっか、良かったね!」
「陽都くんは?」
「おれの方はまだ来てなかった。どんな人だろ~」
そんな会話をしながら食堂へ入った。
食堂は、時間もギリギリなのもあって席はけっこう埋まってしまっていた。
「お、あそこ空いてる。いこー!」
おれが見つけた席には既に仲良さそうな3人組がいた。蓮はおずおずしているけれど、おれは構わず話しかけた。
「ここ良い?」
「おー良いぜ~」
「サンキュー! おれ、佐野陽都!よろしく~」
それから、食事の間にもたくさん友達が出来て初日から順調に過ぎて行った。
お腹いっぱいになって、幸せな気持ちで部屋と戻った。
ドアを開けた次の瞬間、おれは心臓が止まってしまうのではないかと思うくらい驚いてしまった。
だって、そこには何故か小畑瑛くんがいたから。
「え!? 瑛くんっ!???」
「あ、さっきの」
おれとは反対に瑛くんは、さほど驚いてなさそうで冷静だ。
「佐野陽都!」
「佐野さん」
「いや、ルームメイトになるんだからさもっとフレンドリーで行こうよ! 陽都って呼んで欲しいな!」
おれは、驚きはしたがすぐにこれは頑張ってきたおれに対する神様からのプレゼントだと思うことにして、瑛くんと会話を始めた。
「はると……」
仕方なさそうに瑛くんは、おれの名前を呼んでくれた。
「まさか、瑛くんとルームメイトになるなんてびっくりだよ! 同じ学校だったら良いな―とはちょーっと思ってはいたけど!」
「そうなんだ」
「うん! あ、てか夕飯は食べたの⁉ 最終19時30分だったけど」
「知り合いと食べて来たから寮のは食べてない」
「そっかー」
おれが言葉を区切ると瑛くんは、荷物の整理を始めてしまって会話をする気はなさそうな感じだった。
だけど、おれは瑛くんと話したくて溜まらなかったので瑛くんに質問をぶつけてみることにした。
「瑛くんって、7歳以降どうしてたの? おれ、結局瑛くんと同じコンクール出られたのあの1回だけだったんだよね」
「東京に引っ越して、東京のもっと上のコンクール出てた。中学の時は留学で日本にいない。お世話になってた先生がここの高校に転勤になったから、俺もついて来たって感じ」
「えー! すごい! あ、じゃあ高校生で久しぶりの日本って感じなんだ⁉」
「まぁ、そーいうことになる」
「はーすごいなー帰国子女ってやつだ! かっこいい~~おれなんて海外行ったことないから、ここの研修がめっちゃ楽しみなんだ~」
この学校は、毎年秋に選ばれた人だけが参加できるヨーロッパ研修がある。選ばれた人というのは、音楽の成績が良い人なんだけれど……。
「ふーん。行けると良いな」
「うん! あ、瑛くんラインとかやってる?」
「やってるけど、俺あんまりスマホ見ないよ」
「えぇ!? スマホ見ないなんてよく出来るね。まあ、それでも良いからライン教えて欲しいな!」
おれがそう言うと、分かりやすく嫌そうな顔をされた。
「ほら、ルームメイトだし、もし何あった時1番連絡取れた方が良い相手じゃん!?」
「んーまあ、確かに……」
「でしょでしょ!」
瑛くんは、あまり乗り気ではなさそうだったけれどバッグからスマホを取り出してくれた。
「じゃあ、早速交換しよ! QRコードで良いかな?」
「QRコード?」
「えっと、まずライン開いて~」
「分かった……あ、アップデートしてないから待って」
「おっけ~」
瑛くんが、スマホをあまり触らないというのはどうやら本当らしい。スマホを打つ手がとても不慣れだ。
おれなんて、忙しくて半日スマホをいじれないだけでも禁断症状が出そうになるというのに……。
「アップデートできた」
「じゃあ、場所教えるね!」
教えるために瑛くんのスマホを除くと本当に必要最低限のアプリしか入っていなさそうだった。
ホーム画面の画像も初期設定のものだし。
瑛くんと出会うまで、おれはおれと似たタイプの人としか知り合わなかったからスマホをあまり使わない人というのはとても新鮮だった。
「ライン開いたら、まずホーム画面にいって、一番右上のマーク押して……」
「これ?」
「そう、それ! で、そこのプロフィール覧に入ったらマイQRコードってのが出るからそれ開いておいて~」
「へぇ、こんなの初めてみた」
「マジか」
「ラインなんて親のと先生のしか知らないし……その時はたぶん、検索かけたような気がする」
「え、じゃあおれが友達第一号ってこと⁉」
そんな経験は早々出来ない。おれは嬉しくて今すぐ部屋の中を駆け回りたくなってしまった。
「友達……」
「友達だよ! はい、今おれから友達追加した! そっちに通知入ってると思うから見てー」
「うん……あ、これ? HARUTOってやつ」
「そう! なんかメッセージ送ってよ!」
「そう言われてもな……」
瑛くんは、スマホを凝視しながら何を送れば良いのか悩んでいた。
おれは、そんな瑛くんを見つめながら可愛いなぁなんて思ってしまっていた。
嫌そうにしたりしながらも、結局はおれの願いを聞いてくれる。
瑛くんは、無愛想だけどそれはたぶん単純に人見知りなだけな気がするなと思った。
だって、本当に嫌な奴ならおれの言葉なんて全部無視するはずだから。
ピコン
そんなことを感じているとスマホの通知音が鳴った。
瑛くんからメッセージが届いていた。
「今日からよろしく……すっごくシンプル!! おれ、こんなシンプルなラインメッセージ初めて見た!」
「嫌なら消せよ」
「嫌じゃないよ! 嬉しい!!」
本当に本当に嬉しくて幸せだ。
「記念にスクショとった! これ印刷して額に入れたいくらい嬉しい!」
「それだけはやめろ。はぁ、慣れないことしたら疲れたから俺はもう寝る準備する」
「うん、おれも今日は早めに寝ようかなーありがとう、瑛くん!」
「別にお礼言われるようなことじゃない」
照れ臭そうにそう言いながら、瑛くんは洗面台へ歯磨きセットを持って向かった。
瑛くんが葉磨きをしている間、おれはスマホのライン画面をずっと見つめてしまっていた。
小学生の時に魅了された人と再会が出来て、名前を知られて、まさかのルームメイトになれて、ラインの友達第一号になれた。
こんな嬉しい出来事が一日の間に起こってしまって、何か良くないことが起こりはしないかとちょっとだけ不安になった。
「ま、ハッピーが続くのは良いことだよねっ!」
うんうんと一人納得していると、寝る準備を終えた瑛くんが戻って来た。
「何にやついてんの」
「え、おれにやついてた⁉」
「気持ち悪い顔してた」
「気持ち悪いってひどいなー良いことがたくさん起きて嬉しいなーって思ってたんだ! おれも、この最高な気持ちのまま寝よう~!」
リストの愛の夢を口ずさみながらおれは、洗面所へ向かおうとした。
「それ、愛の夢?」
「お、さすが! おれピアノはまーまー出来る方だけど歌は全然でさーよく分かったね!」
「まあ、昼間弾いたばっかだし。……好きなの?」
「うん、大好きな曲! 毎日聞いてるけどやっぱり瑛くんの〝愛の夢〟がいちばん好き! また聞かせて欲しいな」
「レッスンがない日なら良いけど……」
「やったー! めっちゃ楽しみにしてるっ」
また、今日の嬉しい出来事が増えた。
おれは、なんて幸せものなのだろうか。
きっと、明日からはもっともっと嬉しい出来事が待っているのだろう。
明日からの高校生活がより一層楽しみになった。