その日の夜、夢を見た。十歳頃の俺は、まだ小さい手を懸命に動かしてピアノを弾いている。

 右隣に座った父が俺の演奏にあわせて〈ねこ踏んじゃった〉の上パートを演奏していた。

 最後までミスなく弾ききると、父が僅かに微笑む。俺もつられて笑顔になった。

『なあ、もっかい弾こう』

 促すと、もう一度鍵盤に手を置いてくれる。父はほとんどピアノを弾けないが、俺が連弾をしたいと母に伝えて弾けへんよと断られているのを聞いていたらしく、いつの間にかこの曲だけは一緒に弾けるようになっていた。

 ユーモラスな音楽がアップライトピアノから奏でられ、母が食器を洗いながら微笑ましそうに聞いている。

 だんだんと水が溶けるように景色が歪んでいき、目が覚めた。

 ぼんやりと畳の縁を見つめながら、夢の余韻に浸る。ああ、そんなこともあったっけ。今まで忘れていた。

 父のことを考えると苦しくなるから、脳が無意識にストッパーをかけていたのかもしれない。

 台所に向かうとお茶を沸かしている母と目があう。

「おはよう明人、パンでいい?」

 頷くと、母さんはトースターにパンをセットした。パン屑が中で焦げているらしく、嫌な匂いがしている。後で掃除をしないと。

 今日の母さんはやけに静かだ。無言でいると、今朝の夢のことを思い出してしまう。

 考えてみると、そう悪い父でもなかった気がする。繊細で不器用で、だけどさりげない優しさを持っていて、俺が落ち込んでいると黙って側にいてくれるような人だった。

 幼い俺はそれが父の思いやりだとは気づかずに、見過ごしていただけで。

 本当は俺が知っているよりも父は俺に関心があって、なにかしら行動してくれていたのかもしれない。

 咳払いをしてから、喉に絡んでいた言葉を吐き出そうとする。

「なあ、昨日の話だけど」
「うん、なに?」

 鼻声で母さんが答える。ティッシュで鼻をかんでから苦笑した。

「最近風邪が流行ってて。スタッフの数も足りてへんから、合唱祭の日のお休みはなくなるかもしれんわ」
「……あっそう」

 人がせっかく勇気を出そうとしたのに、タイミングが悪い。

 朝食を終えて家を出ようとする母親に、椅子にかかったままのマフラーを渡してやった。

「あら、ありがとう」
「こじらせんなよ」

 玄関の扉を閉める時、母が笑いながら「優しい子に育って。お父さんみたい」とマフラーに顔をうずめるのを見てしまった。

 音が立たないよう慎重に扉を閉めた。

 その日は放課後になっても教室に残っている俺を見て、時藤が近づいてきた。

「あれ、今日は合唱祭の練習に参加するの?」
「……する」

 隣の席の女子が驚いたようにこっちを見てからすぐに目を逸らす。時藤は嬉しそうに手をあわせた。

「ええね、やっとやる気になったんだ」

 やる気があるのはどちらかというと、合唱練習ではないが。練習に出るからにはちゃんとするつもりなので、頷いておいた。

 立ち上がって音楽室に向かいながら、小声で問いかける。

「今日はバイトないし、合唱練習の後でお前んち寄っていいか」
「もちろん! 課題曲の練習をしよう。あ、ピアノコンクールの申し込みはできた?」
「朝イチで済ませた」

 音楽室には過半数の生徒が揃っていて、俺の登場を目撃してざわめいていた。時藤は何事もなかったようにリュックから楽譜を取り出している。

「月城、歌詞が載ってるプリントは持ってきてる?」
「持ってない、もう覚えた」
「やっぱり月城はすごいなあ、メロディも歌詞もすぐ覚えられるなんて」
「誰でもこんなもんだろ」
「ええっ、僕は無理だよ?」

 頭のいいやつに謙遜されても、嫌味にしか聞こえないぞと苦笑する。

 クラスメイトたちは時藤と俺の会話を聞いて、ひそひそと俺らを見ながら話していた。

 しかし俺がちゃんと参加する気があるとわかったからか、時藤がピアノの前に座る頃には、生徒たちは俺に注目しなくなっていた。

 指揮者役の生徒が壇上に立ち指揮棒を振ると、時藤が演奏をはじめる。俺も列の一番後ろに立って歌いはじめた。クラスメイトたちはまともに練習していたのだろう、それなりに聴ける合唱になっている。

 歌はピアノほど得意じゃないが、自分の体を楽器にしてみんなと音をあわせる感覚は好きだ。歪みのない時藤の伴奏に支えられて、安心して歌うことができる。

 ピアノを弾く指をじっと見つめても、もう苦しくはならなかった。それどころか指先が美しい音を奏でる様を、ずっと見ていたくなる。

 間奏を卒なく弾き終えた時藤は、どうやった? と俺に目で問いかける。大丈夫だと合図を送ると、ホッとしたように微笑んだ。

 なんだよお前、そんなに弾けるのにそれでも俺の力が必要なのか。

 優越感とともに胸をくすぐるような感覚が湧いてきて、顔に出さないように苦労した。




 その日から、毎日のように時藤の家に通いはじめた。

 合唱祭の練習が音楽室でできる日は週に一度らしく、それ以外の日は文化祭準備をしているため、時藤の出席は必須ではないらしい。

 彼も快くピアノを使わせてくれたおかげで、一週間が経つ頃には課題曲の音を最初から最後まで辿ることができるようになった。

「ええね、これならなんとか間にあいそう」
「二曲あるからな、油断できない」

 一曲はもともと弾いたことのある曲だからいいが、二曲目はようやく旋律を覚えたところだ。油断はできない。

 少しでも効率的に練習するために、二曲目の課題曲は時藤と同じ曲にした。

 これなら指導者がいなくても、時藤の演奏を聞けば自身の演奏に反映することができるだろう。

「くそ、もっと上手く弾きたいのに」
「根を詰めすぎてもしょうがないよ。ちょっと休んだほうがいい」

 俺が休憩している間は時藤がピアノを弾いた。お手本のような音運びはどこにもほつれがなく、感嘆する気持ちと同じくらい焦りが募っていく。

 バイトの前と休みの日だけで、まともに弾けるようになるだろうか。不安だ、だがやるしかない。

「……バイトが終わった後も、来ていいだろうか」

 潜めた俺の声に呼応して、時藤も共犯者のように小声で返してくる。

「ええよ。お母さんは十時には寝るから、そのあとなら」

 お互いに頷きあう。秘密の会合みたいで、不謹慎にもテンションが上がった。

「悪いな、お前自身の練習もあるのに」
「そこは本当に気にしなくてええから。合唱曲は大したことないし、課題曲も二ヶ月前から練習してる」
「お前だけが受かりそうだ」
「それは嫌! 一緒に東京行こうよ」
「行けたらな」

 時藤に誘われると、本当に東京の舞台の上に立てる気がする。胸が弾んで、口角が笑みの形に歪むのを抑えきれなかった。