指が追いつかなかった部分をスローで繰り返し反復練習すると、少しずつマシになってきた。

「まずい、ここの音を忘れた」
「楽譜あるから使って」

 時藤が年季の入った楽譜を持ってきて、ピアノに立てかけてくれる。まともに譜面を見ながら弾くのも久しぶりだ。

 懐かしい感覚に頬を緩めながら、一音づつ音符を確認していく。

 楽譜のおかげでジャズ風アレンジを入れることもなく、原曲通りに弾くことができた。満足するまで指を動かし最後まで曲を演奏し、腹から息を吐き出す。

「いい演奏やった、うん」

 時藤まで満足げな顔で頷くので、噴き出しそうになった。

「変なやつだな、普通は自分で弾くほうが楽しいだろうに」
「いや僕、弾いてて楽しいって思ったことないんよ」
「じゃあなんで弾いてんだ」
「なんでやろうね」

 時藤は顎に手を当てて目を伏せる。独り言のように小さな声で呟いた。

「たぶん、弾いてほしいって望まれているから」
「なんだよそれ。弾きたくて弾いてるわけじゃないのか」
「そうとも言い切れない」
「はっきりしろよ」

 煮え切らない答えだが、誤魔化しているわけではなさそうだ。時藤は眉をしかめて考え込んでいる。

「僕が弾きたいわけやないけど、弾いてほしいって望まれてて、その願いを叶えてあげたい」
「じゃあたとえば俺が、お前の演奏を聴きたいって言えば弾くのか?」

 時藤はソファから立ち上がり、ピアノのほうに向かってきた。椅子を譲ると、ポーンと一音響かせる。

「うん。月城のためなら弾きたい」
「いや、言ってみただけだ。弾きたくないなら練習させろ」
「あ、はい」

 時藤は素直に席を譲ろうとするが、途中で気が変わった。肩を押し込んで座らせ、右隣に無理矢理座る。

「わっ、なに?」
「連弾ってしたことあるか」
「ない、けど」

 触れあった腕が逃げていく。なんだよ、お前は無遠慮に近づいてくるのに、近づかれるのは駄目なのか。

「〈ねこ踏んじゃった〉は弾けるか」
「うん」
「じゃあ弾け」

 顎をしゃくって促すと、時藤は戸惑った様子で鍵盤に手を置いた。頷いて合図をすると、軽快な曲が流れはじめる。

 〈ねこ踏んじゃった〉には簡単な上パートがあるので、まずはそれを曲にあわせて弾いてみる。

 時藤のテンポを掴んだところでアレンジを加えて、シャンデリアをキラキラさせるみたいに高音で飾ってみた。

 時藤は目を見開きながらもテンポを崩さない。こいつなら多少遊んでもあわせてくれると踏んで、二メロ部分で大胆にオクターブジャンプする。

「ええっ、なにそれ」
「いいから、そのまま弾いてろ」

 右に左に、縦横無尽に音を滑らせる。時藤の右手を飛び越えて飾り音を弾くと、彼は叫ぶように抗議した。

「弾きづらいって!」
「ならこれはどうだ」
「やめてー」

 何度か手をぶつけながら、好き勝手にアレンジを加えていく。

 満足いくまで曲を繰り返し弾いて、曲調が大人しくなってきた頃、時藤と目があった。次で終わらせるぞと合図を送ると、彼は頷く。

 リズムをあわせて同じメロディを弾き、最後の音を押し込み同時に鍵盤を離した。時藤は肩を震わせて笑い出す。

「なにっ、これ……めちゃくちゃ、ははっ」
「楽しく弾けるじゃねえか」
「え? あ……」

 時藤は今気づいたとでも言うように、口の周りを触って笑っていたことを確かめていた。

「僕の音、楽しそうやった?」
「いつも通り正確で安定感のある演奏だった」
「そうか……そうかあ」

 俺はわざと感情を音に溶け込ませようなんて意識して弾いていないので、時藤がどうすれば彼の望んだ弾き方ができるかなんてわからない。

 でもこれで、弾いてる時に楽しいと感じたことがないなんて言わないだろう。

 時藤はしばらく口周りを指で揉んでから、膝上にあった俺の手をとった。

「ありがとう、月城。この感情を音で表現できるように、頑張ってみる」
「……おう」

 手のひらから伝わる温度がやけに熱く感じた。

 ぎこちなく手を離して立ち上がり、壁にかかったアンティーク家具のような時計を見上げる。時計の針は午前十時前を指していた。

「そろそろ出ないと」

 今日はバイトの前に楽器店に寄っていこうと思っている。せっかくピアノが弾ける環境にあるのだから、自分の楽譜を購入したくなったためだ。

「もうそんな時間かあ」

 充実した時間が過ぎるのは、暇な時間の何倍も速い。上着を羽織って部屋から出ると、当然のように時藤もついてくる。

「道わかるって」
「僕が行きたいんよ」

 人通りの多い街路樹を歩いていると、旅行客を目一杯詰め込んだ市バスが通り過ぎていった。

「今年も多いな」
「オーバーツーリズムやって、ニュースでやってたね」

 円安の影響で外国人観光客が増えており、ただでさえ人でいっぱいになる秋の京都は余計に混んでいる。はらりと落ちてくる黄色の葉を空中でキャッチした。

「紅葉なんて、どこで見たって変わらないだろうに」
「人によっては、場所が重要なんやないかなあ」
「憧れの場所ってやつか」
「月城にはそういう場所ないの?」

 フッと頭に浮かんだのは、暗い客席と対照的に明るく照らされたホールと、屋根を大きく広げて光を反射するグランドピアノだ。

 もう一度大きなホールでクラシック曲を弾きたい。父が入院したのは俺の発表会の日で、でもその前からすでにレッスンには通えていなかったから、どうしようもなかった。

「……ある」
「そう。僕もあるよ。東京文化会館のホールで、ピアノを弾いてみたい」

 勢いよく振り向いた。同じようなことを考えていたなんて。

「全日本高校生ピアノコンクールの本選会場がそこでさ。実は三週間後が予選なんだ」
「は? おい、俺にピアノを貸してる場合じゃないだろ」
「平気平気、この後練習するし」

 時藤はバイトをしていないし時間はあるだろうが。それにしても文化祭は来週末だってのに、よく合唱祭の伴奏まで引き受けたな。

「……いいよな、時間があるやつは」
「なに、もしかして月城もピアノコンクールに興味ある?」

 唇を噛み締めながら顔を背けると、時藤は俺を通り越して地下鉄へ続く階段を下りはじめた。

「一緒に出よう! 受付、明日までやから」
「待て、コンクールってどうせ土日だろ? 土日は基本バイトがあってだな」
「その日は休ませてもらおう! 月城と一緒に予選に出たら、本選に進める気がする。僕を助けると思って、お願い!」

 乗り気な時藤につれられて楽器店まで一緒に赴き、抵抗しながらも結局は押しきられて、全日本高校生ピアノコンクールの参加規定書を購入した。

「あとは写真撮って、参加費払って、書類書いて送るだけ。消印は明日ならギリ間にあうから」

 参加申し込みのための必須事項を眺めてみる。師事している先生なんて欄を見つけて顔をしかめた。

「書類審査で落とされる」
「やってみなきゃわからないよ」
「課題曲は……三週間でなんとかなるか?」
「なんとかしよう、僕も全力で協力する」

 バイトまで時間がない。ショルダーバッグの中に冊子を突っ込んで、後で記入することにした。時藤と慌ただしく別れて、地下鉄への階段を早足で駆けおりる。

 ああもう、なるようになれだ。逸る心のまま走り出し、改札をくぐり抜ける。足取りはいつになく弾んでいた。