十月の第二日曜日の朝、目覚ましが鳴る前に起きてしまった。軋む廊下を渡って台所に向かう。

 嫌な音で唸る冷蔵庫から牛乳を取り出して飲んでいると、洗面台で顔を洗っていた母さんが台所に顔を出した。

「おはよう、早いやん。なんか用事?」
「友達……の家に行ってくる」

 時藤とは友達になったんだろうか。確証が持てないまま伝えると、背中を叩かれた。

「ええやん、高校入って初めてやない?」
「うっせ」

 食パンを棚から取って、母さんの分もついでに焼いてやる。横顔に視線を感じた。

「なんか安心した。お父さんのことがあってから明人、ちょっと変わっちゃったから」
「……そりゃ変わるだろ」

 父親が頼れる大人から病人に変貌し、母が働いて家計を支えるようになって。それで子どもがなにも変わらないほうがおかしい。

「そうやんね、心配かけたよね……明人は大人みたいにしっかりしてるけど、まだ高校生やねんから」
「子ども扱いすんな」
「してないしてない。いっつもすごい助かってる。でもほんま、無理せんでね。限界までがんばると、人の心ってポキって折れてしまうんよ」

 父さんのように、そう言いたいのだろう。わかっている、そんなヘマをするつもりはない。

「今週はテスト期間やったやんね、大丈夫そう?」
「別に、いつもと変わらない」

 最低限、赤点をとらない程度には勉強している。この時期は合唱祭の練習もないから、時藤から練習に誘われることもなく平穏に過ごした。

 ……休みが明けたらまた誘われるだろうか。

 トースターから取りだしたパンにマーガリンを塗った母さんが、思い出したように口を開く。

「あ、ところで今年の文化祭って月末であってたやんな? 合唱祭の日にお休みとれたから見にいくわ」
「来なくていい」
「ええ、でも、こんな機会なかなかないし……明人が歌ってるとこ見たいなあ」

 失敗した、休みを取られる前に「来るな」と釘を刺しておくべきだった。

「去年は知らん間に終わってたし、来年は受験で忙しいやろし。今年がええチャンスやん?」

 前回文化祭の日を伝えなかったことを、根に持っているらしい。口の中に食パンを詰め込んで、食べるのに忙しいアピールをする。

「録音して、お父さんにも聞かせてあげたいんよ」
「やめろよ、余計なことすんな」

 尖った声が出た。しまったと思ったが、もう遅い。

 母さんは水を飲み干すと席を立ち、流しに向かい俺に背を向けた。

「ごめん、そうやな。明人が嫌ならやめとくわ」

 明るく装っているが、言葉尻が震えている。なにか言わないと。そう思うのに喉が引きつって動かない。

「ごめんなあ。ただでさえ習い事もさせてやれんで、バイトもしてもらってるんやから。合唱練習に出る時間なんてないわね」
「バイトは俺がやりたくてやってんだよ」

 低い声で唸るように返事をしてしまう。たしかにバイトは生活費のためにやっていて、嫌な客が来た日なんてやめてしまいたいと思うのも事実だ。

 でも母さんだって俺を養うために苦労しながら働いているのだから、俺が支えてやらないと。

「……もう家を出る時間や、お化粧してくるわ」

 バタバタとスリッパの音を立てながら、母さんが台所を出ていく。ああ、失敗した。ぐしゃりと前髪を掴んだ。

 洗面台から二度目の顔を洗う音が聞こえてくる。限界まで無理してるのはどっちだよ。 

「それじゃ、仕事行ってくるわ」

 しっかりと顔を作った母さんは、泣き言一つ口にせず笑顔で手を振って家を出ていった。

「くそ……」

 父のことになると、どうも感情が制御できない。

 父は口数が少なくて無表情がデフォルトで、子どもの俺にも積極的に関わるタイプじゃなかった。

 いつも世話を焼いてくれておしゃべりでよく笑う母に懐いていたし、仕事ばかりの父は同じ家に住んでいるらしい遠い人、という感覚だった。

 とくに中学に入ってからは、父が母に負担をかけてばかりいるのを見ているから、彼の肩を未だに持つ母に対して文句を言いたくなってしまう。

 そんなやつの治療費なんて払わなくていい。離婚して見捨てればいいのになんて、最低なことを考えてしまい頭を振る。

 部屋に戻って、適当に目についた服に着替えた。素早く鍵を手に取り、早々に家を出る。

 今すぐ鍵盤に想いを叩きつけたかった。



 約束した時間よりだいぶ早く家に向かったが、時藤は快く出迎えてくれた。

 リビングにいた時藤の母に会釈をして、ピアノ室に向かう。

「いらっしゃい月城、よう来てくれたね」
「……こんな朝早くから音を出して、近所迷惑にならないか」

 飴色に艶めくピアノを目にしたとたんに、急に尻込みしてしまう。時藤は笑って首を横に振った。

「大丈夫、この部屋は防音がしっかりしてるから」
「父親が寝てたりとかは」
「単身赴任中で家におらんよ」

 そういうことならと、ピアノの前に座った。だったら遠慮なく弾かせてもらう。

 左手でソのシャープを思いきり響かせた。和音を一音づつ波のように行き来させ、滑らかなアルペジオを紡ぎはじめる。

 〈幻想即興曲〉は、憤りや悲劇的な気分を表すのに最適な曲だと思う。

 しばらく弾いていなかったので、指が回らない部分があるが、無視して無理矢理突き進んだ。

 力でねじ伏せるように弾くと、腕の筋肉が痛みを訴えはじめる。音の間違いが増えていき、曲は空中分解を起こした。

「……中学の時より腕が落ちてる」
「しばらく練習してない曲は弾けなくなるよ、仕方ない」

 励まされて、時藤の存在を思い出した。罰が悪くてピアノから手を離す。

「なんかあった?」

 怒っていることがダダ漏れだったようだ。しかし理由は言いたくない。

「……別に。悪かったな、楽しんでなくて」
「え、なにが?」
「だから、俺が楽しんで弾いてるところが見たいって言ってただろ」

 楽しいから弾いている自覚はなかったが、時藤に指摘されてから、そうだったんじゃないかと思えてきた。

 たしかに好きでなきゃ、ストリートピアノに通い続けて、かじりつくように練習なんてしないよな。

 俺にとってピアノは精神安定剤で、未練で、そして希望でもある。だから楽しいと称されるのは、そんなに間違っているわけじゃない。

 時藤は壁際のソファに座ったまま、真顔で首を横に振った。

「いや、これはこれでいい。もっと弾いて」
「なんでもいいのかよ」

 うーんと唸りながら考えた時藤は、一拍置いてから俺の顔を見た。

「月城の弾き方は、ちゃんと感情が音に乗ってる。だから好き」
「……そうかよ」

 やたらと真剣に好きだのなんだの言われると、まともに顔が見られない。恥ずかしいやつだな。

「練習してもいいか」
「弾いてるとこが見られるなら、なんでも」

 練習を見られるのは気が進まないが、ここは彼の家だ。出ていけとも言えず、恥ずかしさを意識しないように鍵盤に向き直る。