イカと里芋の煮物、金目鯛の煮付け、ほうれん草のおひたしに卵焼きとお吸い物、そしてつやつやの炊き立てご飯。ダイニングテーブルの上にはご馳走が並んでいた。

「こんなんで足りるかしら、足りなかったら遠慮なく言ってね」
「……あの、お構いなく」

 すでに席に着いた時藤から隣の席を示されて、できるだけ音を立てずに腰を下ろした。

「今日はお母さんも作ったの?」
「卵焼きとおひたしはさっき作ったところよ」

 言い回しが不自然だと目で尋ねると、時藤は週に二回お手伝いさんが入って、料理や掃除をしてくれていると説明した。

「いつも助かってるわあ」

 右腕をさすりながらのほほんと笑う時藤の母は、洗い物とは無縁そうな指先を桜色のネイルでコーティングしていた。

 ぼそぼそといただきますと告げて、魚の身を箸でほぐす。煮つけは優しい味がした。

 時藤の母は左手で箸を持ち、俺と時藤が食事をするのをにこにこと眺めている。

「日向が友達を連れてくるのって久しぶり。高校に入ってからは初めてやないの?」
「そうかもね」
「月城くんやっけ? 日向と仲ようしてくれてありがとう」

 別に仲良くしているつもりはないが、否定するのも違う気がして頭を下げておく。時藤は誇らしげに胸を張った。

「月城もピアノを弾くんだ、すごくええ音を出すよ」
「まあ、聞いてみたいわあ」

 身体を小さくしながら里芋を口に入れた。無駄にハードルを上げないでくれ。

 俺がピアノを続けているのは自己満足であって、そんなに大した腕は持ち合わせていない。

「せやったら、今度のコンクールに月城くんも出はるんかしら」

 隣の気配が固くなった。時藤は俺の視線に気づくと、箸で魚をつつきはじめる。

「どうなんやろう、聞いたことないや。月城、全日本高校生ピアノコンクールって知ってる?」

 頷きを返した。小学生と中学生のピアノコンクールには俺も出たことがあったし、特に中学一年生の時はけっこういいところまで行った覚えがある。高校生も同じようなコンクールが開催されていると知っていた。

「日本で一番歴史が長いコンクールなんだよ。ここで賞を獲ってプロになった人がたくさんいるんだ」
「決勝戦は東京のホールで演奏するんよ。ええなあ、憧れやったわ」

 うっとりと夢見るように、時藤の母は呟く。食後のお茶はいかがと勧められて席を立った。

「いえ、そろそろ帰ります」
「そう? 寂しいわあ。またいつでもいらしてね」

 片手で食器を持ち上げようとした母親を、時藤が止める。

「お母さんいいよ、僕がやるから」
「このくらいええのに」

 押し問答する二人から食器をかっさらい、シンクに持っていった。

「ありがとう月城、ついでに食洗機に入れてくれる?」
「ああもう、お客様を手伝わせたらあかんよ」
「いいからお母さんは座ってて」

 時藤の母は右腕を抱えながら椅子に座った。さっきから一度も右手を動かしていないな。

 ほっそりとした傷ひとつない腕に見えるが、怪我でもしているのだろうか。

 別に必要ないのに、時藤が駅まで送ると言って聞かないので、夜の中を二人歩いた。

 よそよそしい印象の石作りのビルに囲まれながら、人一人分の距離を空けて時藤と並ぶ。

「今日はお母さんにつきあってくれてありがとうね」
「いや……」

 お礼を言うのは俺のほうだろう。もごもごと口の中で言葉を探していると、言い訳するみたいに時藤が話しはじめる。

「お母さんの右腕、神経が切れているんだ。そのせいでできることが限られてて、引きこもりがちやから。今日はいい気分転換になったと思う」

 それで腕が動かないのかと合点がいった。気にするなと首を横に振る。

 ……金があっても、どうにもならないことがあるんだな。そう思ったが、口に出すと同情されていると受け取られるだろうか。

 なんと声をかければいいのかわからず黙っていると、時藤は柔らかな声で続けた。

「よかったらまた来てよ、お母さんも喜ぶし。ピアノも好きに弾いてもらっていいし」
「本当か!?」

 あっ、激しく食いついてしまった。時藤は二度瞬きをした後噴き出す。

「フッ、月城、ほんまにピアノ好きやなあ」
「……悪いかよ」
「悪くない、すごくいい。いつでも来て」

 時藤の目元が嬉しそうにほころんでいる。心から歓迎されているように見えて戸惑ってしまう。

 軽く受け入れるのはためらわれて足を止めた。もう地下鉄の入り口に着いてしまっている。

「でもお前、合唱曲とかコンクール曲の練習があるんじゃないのか」
「僕もピアノは弾くよ、弾かなきゃって思う……でも、だからこそ月城の演奏を聞きたいんよ」

 意味がわからず眉をしかめると、時藤は地下鉄の入り口に背をつけて、ビルの隙間から煌々と光る三日月を見上げた。

「月城の演奏を聞いてると、僕に足りないものが見つかる気がする」
「足りない?」

 あれだけ弾けて、なにが足りないというのだろう。

 俺よりもよほど恵まれている時藤が、俺から得たいものがあるなんて衝撃だった。

「だから、頼むよ」

 時藤の真剣な声音に感じるものがあり、俺は頷いていた。連絡先を交換すると、時藤は宝物みたいにスマホを胸の前で抱きしめる。

「また連絡する、それじゃ」

 時藤が背を向けるのを見送って、俺も地下鉄へ続く階段を降りた。

 友達リストを確認すると、時藤日向の名前がある。ためしによろしくと送ると、目つきの悪い狼が尻尾を振っているスタンプが秒で返ってきた。好きなのか、狼。

 クラスの人気者が、一匹狼の俺と仲良くなりたいだなんて。唇から笑い声がはみ出しそうになって、慌てて口元を引き締めた。