月が昇りはじめた空には目もくれずに、碁盤(ごばん)の目のような通りを歩いて、河原町(かわらまち)ガーデンへと向かう。

 たしかここの八階にもストリートピアノがあったはず。ステージで聞いた音が耳に残っているうちに、手のひらから放出してみたい。

 エレベーターで八階に登り記憶していた壁際に向かうと、ピアノは忽然と消えていた。どういうことだとスマホで検索すると、知らない間に設置場所が変わっていたらしい。

 現在ピアノは、七階のレストラン内にあるようだ。レストランはさすがにハードルが高い。

「くそ……弾きたかった」
「はあ、追いついた!」

 声と同時に肩に手をかけられて、不覚にも引きつった声が喉から漏れた。半ギレで後ろを振り向く。

「お前……っ」
「なに、ピアノを弾きたくなった?」

 時藤は俺の形相などものともせずに、へらりと笑う。

「なに追いかけてきてんだよ」
「だから話したいことがあるんやって」

 話を聞くまでしつこく追いかけてきそうだ。仕方なく対面した。

「なんだよ」
「あ、ていうかピアノ弾きたいならうち来る?」
「は?」
「僕のお願いもそれやから。月城にもっかいピアノを弾いてほしい」





 一時間だけと懇願されて、俺は時藤の家に向かうこととなった。

 四条烏丸(からすま)から徒歩四分。高級さを醸し出す十五階建てのマンションのエントランスへと、時藤は吸い込まれていく。

「なにしてんの? 早よ来て」

 知らないうちに止まっていた足をギクシャク動かして、オートロックの玄関ホールを抜ける。

 大理石の床にコツコツと二人分の靴音が響く。靴底が汚れていないかさりげなく確認したが、床は無事だった。

 エレベーターで十五階に向かうと、時藤はまばらにあるドアの一つに鍵を差し込む。

「ただいまー」
「おかえりなさい、日向」

 母親らしき女性が笑顔で時藤を出迎えた。柔和な顔立ちが時藤とそっくりだ。家族がいるとは予想しておらず、その場に固まってしまう。

「友達を連れてきた。ピアノ室使うね」
「あら、いいわよ。お夕飯は?」
「月城、お腹空いてる?」

 空いているが、素直に頷くのも(しゃく)に触る。眉をしかめると首を傾げられた。

「せっかくだから食べてって。いいでしょ? お母さん」
「ええよ、できたら呼ぶわ」
「ありがと」

 チリ一つない廊下を息を殺して歩く。ピアノ室の扉が閉まった瞬間に、時藤の胸ぐらを掴んだ。

「おい、なに勝手に決めてんだ」
「あ、お家の人がご飯の用意してはるかな?」
「……いや」

 母さんは夜間の工場勤務に行っている。今夜は袋ラーメンを茹でて食べる予定だった。手の力が緩むと、時藤は何事もなかったかのように襟の皺を伸ばす。

「ご飯ないんやったら食べてって。お母さんは賑やかやと喜ぶし」

 ……まあいい、一食分浮くと思えばいいかと開き直った。気を取り直して壁際のピアノへと視線を向ける。

 グランドピアノは飴色をしていて、上品な内装とこの上なくマッチしている。部屋のカーテンは金色のフリンジタッセルでまとめられていて、舞台の上よりよほど豪華だ。

 ピアノの屋根を最大まで上げて、鍵盤の上からフェルトカバーを取り去った時藤は、うやうやしく椅子を引いた。

「さあ、弾いて月城」

 場違いすぎて頬が引きつる。ためらっていると、時藤は思い出したように壁際の棚から消毒液を取り出した。

「ごめんごめん、消毒したほうがええね」

 時藤は自分の手を消毒してから、専用の掃除布で鍵盤全体を拭いてくれる。

「はい、月城もよかったら消毒液を使って」
「……そうじゃなくてな」
「あ、洗面台で手を洗うほうがいい?」

 脱力して消毒液を受け取った。素早く手に擦り込んでから、クッションがしっかりしている椅子に座って高さを調整する。

「なにを弾けばいいんだ」
「月城のテンションが上がる曲がええな」

 だったらと、挑むような気持ちで〈別れの曲〉の自己流アレンジを弾きはじめる。視界の端に映る時藤は、俺を食い入るように見ていた。

 背中が熱くなって、指先がチリチリする。落ち着けと言い聞かせながら、速まりそうなテンポを律した。

 複雑な和音を響かせながら、メロディーのリズムをジャズ風に変える。即興で新しい展開を入れながらも、なんとか綻びなく弾き終えた。

 大きな拍手を浴びせられて、ハッと顔を上げる。

「すごい、すごいよ月城!」

 こっちが恥ずかしくなるくらいに賞賛されて、肩を竦めてしまう。

「やっぱりええなあ。楽しそうに弾いてると、こっちまでその気持ちが伝わってくる」
「楽しい?」

 理想の音を掴みたくて必死に足掻いていただけの行動を、そんな風に言われて口を覆う。口角が上がっていたのをようやく自覚した。

「音楽って、気持ちが伝わるのが一番やね」
「……やめろよ」

 しみじみと言われて、頬が火照りそうになる。

「もっと聞かせてよ」

 そんなに聞きたいなら好き勝手に弾いてやると、合唱曲〈Chessbord〉を演奏した。間近で鍵盤をのぞきこまれて背筋を伸ばす。

 原曲にすでにジャズっぽい部分があるため、あまりアレンジは加えずに聴いたままを指で表現していく。

 時藤が前回演奏をやめた間奏の部分を勢いだけで弾ききると、彼はハッと息を呑んだ。つられて浅くなりそうな息を、肩の力を抜いて整える。

 最後まで弾き終えた後、時藤は満足げなため息をついた。

「なるほど……間奏入りで一気に盛り上げて、その後の小さい音の粒は控えめに、それからもっかいコーラスにあわせてフォルテ……」

 時藤は腕を伸ばしてメロディを片手で弾きはじめた。俺はのけぞって彼の腕を避ける。

「その後は左手の低音を目立たせて、打ち寄せる波みたいにじわじわと盛り上げていく」

 横顔がすぐ目の前にある。意外とまつ毛が長くて、頬は卵のようにつるんとしていてニキビ一つなかった。

 人当たりよく笑っているイメージしかなかったが、意外と整った顔をしていることに気づく。

「うん……参考になった、ありがとう」

 真剣な表情で見つめられる。まるで修行僧のような雰囲気に目を見張った。

「お前、いつもそんな分析しながら弾いてんのか」
「そうしないと弾けないからね。いや、それでも弾けていないんやけど」
「どこがだ、演奏自体はお前のほうがよっぽど上手いだろうが」
「えっ、そんな風に思ってくれてたの?」

 失敗した、声に羨ましいって気持ちが滲み出ていた気がする。時藤は頬を綻ばせてふんわり微笑んだ。

「嬉しいなあ。僕、ずっと月城みたいに弾きたいって思ってたんよ」
「は? 寝言は寝てから言え」
「冗談じゃないって」

 顔を背けるが、時藤はピアノの椅子に手をかけて俺の表情を確かめようとした。

「ねえ、月城……」

 時藤が声をひそめた時、ピアノ室の扉からノックの音が鳴り響く。わずかに開いた扉の隙間から、和やかな声がした。

「ご飯よー」

 思わず顔を見合わせる。

「……また後でね」

 時藤の虹彩が目の前にあって、柔らかな茶色が暖色ライトの下で煌めいた。彼はそのまま身体を離して去っていく。

 ……なんなんだ、あいつは。鼓動が速まっているのに気づき、ぐっと胸の前で拳を握りしめた。