月に一度のジャズクラブ通いは、俺にとって欠かすことのできない日常の一部となっている。

 花見小路の小さな路地にひっそり存在するジャズクラブに向かい、二部のチケットを買ってピアノが一番よくみえる席を陣取った。

 コーラをちびちび飲みながら、スイングの効いた〈枯葉〉を演奏するピアニストの指先を見つめる。上手いやつの演奏は聴くのも見るのも好きだ。

 俺がこのジャズクラブを知ったのは、京都に引っ越してきて一年が経った頃だった。

 合唱祭のある高校を選んだのは音楽に未練があったからなのに、いざクラスメイトがフルートを練習しているだの、ピアノを習っているだの聞くと、どうにもやるせない気分になった。

 カラオケで遊ぶ金すら惜しい俺にとって、彼らの日常はあまりにも贅沢だ。

 どうにも日々をやり過ごすのが辛いと感じる時はこの町に来て、適当に通りを歩いていると心が静かになった。

 東京生まれの俺にとって、京都はまるで別世界のように感じることがある。その中でも花見小路はもっとも浮世離れしていて、舞子や芸妓が道を歩いているとタイムスリップしたような気分に浸れる。

 店を見つけたあの日、微かに漏れ聞こえるサックスの音色に惹かれて扉を開けると、俺の知らない世界が広がっていた。

 テーマ演奏以外のソロ場面では、各々(おのおの)が自分のセンスで演奏をしていい音楽があるなんて、その日まで知らなかった。

 仕事帰りのおじさんやめかし込んだ妙齢の女性が、思い思いに自分の音を楽しんでいる。それぞれが調和しあって一つの曲になっている。

 クラシックはもう習うことができないけれど、ジャズなら俺にも続けられるんじゃないかと希望を持った瞬間だった。

 ドラムソロからテーマへ戻り、サックスが高らかに曲の終了を告げる。十数人いる客席からは拍手が巻き起こった。

「これにてユニット演奏終了です。ジャムセッションを開始するので、希望者は壇上へどうぞ」

 後ろの席に座っていた数人が、譲りあいながら舞台へと上がっていく。なんの曲を弾きましょうか、まずはスタンダードですかね、なんて初対面のおじさんたちが笑顔で楽譜をめくっている。

 もう少しジャズコードが操れるようになったら、あの場に混ざってみたい。クラシックピアノの発表会と比べると、信じられないほど小さい舞台を眺める。

 ……なんでもいいから、もう一度舞台に立ちたい。あそこでも代わりになるだろうか。

 目を閉じると、暗い客席にぼんやり見える人影と、艶々のグランドピアノが舞台を照らすライトを反射する様子がありありと思い描けた。ピアノに近づいて、椅子に座るイメージをする。

 客席には母が座っている。いつもそうだ、父はいない。けれど曲の途中で扉が開いて、父が客席の隅に立ち俺の演奏を聞いている、そういう妄想を何度も繰り返している。

 突然背後から声をかけられた。

「あれ、月城?」
「は? お前……」

 こんなところにいるはずのないクラスメイトがいた。時藤はホッとしたように笑って、勝手に相席してくる。

「よかった、こういうところって初めてで。場違いかなって焦ってたんだ」
「場違いだよ、帰れ」
「そんなん言わんで、仲ようしよ」

 最悪だ、俺の憩いの場所が浸食されている。話しかけるなとオーラを発しながら壇上に目を向けているのに、時藤は気にする様子もない。

「お酒さえ飲まなければ、高校生でも入場できるんやね。知らなかった」

 知らないままでいればよかったのに。ステージライトを照り返すサックスや、ドラムを眺めるたびに時藤は感嘆の声を上げている。

「なんか大人っぽくて雰囲気ええね」

 ジンジャーエールを飲みながら、時藤は目を輝かせてステージを見つめていた。やがて曲と奏者が決まったようで、即席セッションがはじまる。

 はじまったのは〈Fly Me to the Moon〉だ。知らない人はいないと言っていいほどの有名曲。

 語りかけるような雰囲気のあるメロディの合間に、ピアノの伴奏が漏れ聞こえてきた。今回のピアノ奏者はなかなか腕がいいようだと耳を澄ませる。

 時藤は跳ねるように弾くピアノ奏者に目を見張っていた。そうだよな、クラシックとはまるで弾き方が違うから目を疑うだろう。

「うわ、楽しそう」
「そうか?」
「うん。音が踊ってる」

 奏者は真剣な表情で鍵盤を叩いているが、まあ、楽しそうではあるよな。

 しばらく無言で演奏に聴き入った。曲が終わると時藤は大きな拍手を送る。

「月城の演奏、ここのジャズの要素を取り込んでたんやね」

 どうだろう、取り込めているかはわからないが。こんな風に軽やかに、大人っぽく弾けるように意識はしていた。

「どおりで、僕の演奏よりずっと自由で楽しそう」

 思ってもみないことを言われて、まじまじと時藤の横顔を見つめた。彼はステージ上の演者を眩しそうに見ている。そのまま俺のほうに視線を移してきた。

 瞳を細められて、どきりと心臓が跳ねる。

 なんだその目は。俺はいつだって溺れないよう必死で足掻いている気分なのに、なんで憧れるような眼差しを向けてくるんだ。

 席を立って店の出口に向かうと、時藤も立ち上がってついてくる。
 
「おい、お前はまだ来たばかりだろうが」
「雰囲気が掴めたからもういい。それに、月城にお願いしたいことがあって」

 聞きたくないと雑踏に足を踏み出すが、すぐに時藤が追いついてきた。

「ついてくるな。お前の願いを聞く義理も時間もない」
「そんなこと言わんで、一回だけ」

 人混みに紛れてまこうとしたが、時藤は食いついてくる。ええい、俺は忙しいんだ。花見小路から抜け出した。