合唱祭の課題曲は多数決の結果〈chessboard〉に決まったらしい。最近人気のミュージシャンが作った曲らしく、エモさと爽やかさが融合したような曲だ。

 クラスメイトの女子が、時藤くんならすごい伴奏を弾いてくれるからこの曲にしたのと、誇らしげにはしゃいでいた。

 歌うのはお前らだろうに、そんな難しい曲にしていいのかと思ったが……練習に積極的に参加するそうだから、歌いきるつもりでいるのだろう。

 職員室前の廊下を歩いている時に、音楽教師の高畑先生と時藤が話しているのが目に入った。

「楽譜、渡しておくわね」
「ありがとうございます」
「熱烈に指名されていたけれど、忙しかったら断ってくれても大丈夫よ」
「……いえ、光栄です」

 予想通り、時藤が伴奏者に選ばれたようだと目を伏せる。意義を唱えるつもりはないし、学校の人間にピアノが弾けることをひけらかすつもりもない。

 それでも時藤と同じ立場になれたらなんて、一瞬でも考えたことを自嘲した。

 学校をやり過ごした後ストリートピアノへ向かったが、あいにく先客がいた。

 来た道を引き返しながら〈chessboard〉とスマホの検索欄に打ち込む。複雑なジャズ風の和音は俺の心を弾ませた。

 弾きたいのはクラシックだが、最近はジャズにも興味がある。時藤の演奏を模倣しつつも、最終的には自分流にアレンジしてしまっている。

 どうせあいつのように正確には弾けないし。指導者がいないから、どうしても自己流になるし。

 時藤のように正確に弾くためには、どの程度練習をすればいいのだろう。

 二、三日に一度、三十分程度しかピアノに触れないままじゃ、きっと追いつけない。



 九月に入って一週間が過ぎた。朝から曇っていたが、とうとう降り出したなと窓の外を見ていると、クラスメイトがはしゃぐ声が聞こえた。

「えっ、時藤くんもう伴奏仕上げてきたんっ?」
「一応ね、完成にはほど遠いけれど」
「そんなこと言って、もう完璧なんでしょ。今日の放課後楽しみやわ」

 練習できる時間があるやつはいいよな。俺は今日の放課後もバイトが入っている。バイトがない日も、合唱の練習に出るつもりはないが。

 弁当を食べながらぼんやり見つめていると、時藤と目があった。げ、こっち来んな。

「月城も合唱練習に来ない?」
「行かない」

 ぶっきらぼうに返すが、彼はまだなにか言いたそうにしている。クラスメイトに呼び戻されて、後ろ髪を引かれる様子で退散していた。

「ちょっと、月城くんを刺激すんのやめーや。なんか怖いやんあの人って。時藤くんが喧嘩ふっかけられないか心配」
「怖いのは見た目と態度だけで、暴力を振るうって聞いたことないよ」
「でも見た目も態度も怖いやん」

 見た目は知らんが態度はわざとだ。どうせ話があわないのはわかりきっているんだから、話して反感を抱かれるより最初から関わりがないほうがいい。

「一年の時に同じクラスやった子から聞いたんやけど、話を振っても話題があわへんし、なんかいつも眠そうで目つきも怖いし……不良とつるんでるって噂があるらしいわ」
「ただの噂でしょ、そんな人やないよ」
「でもぉ」

 あの女子はどうしても俺を悪者にしたいようだ。時藤が俺に関心を寄せるのが気に食わないのだろう。

 くだらない、恋の鞘あてに利用されるのはごめんだ。弁当箱を鞄に戻して教室から抜け出した。

 教室が煩くて眠れない日は図書館に向かうのだが、あいにく今日は臨時閉館していた。

 第二候補である外のベンチを使いたくても雨が降っている。どこか時間を潰せる場所はないかと校内を渡り歩き、音楽室の鍵が空いているのを見つけた。

 のぞいてみるが、中は無人だ。忍び足で滑り込んだ。

 電気のついていない音楽室内は湿ってひんやりしていた。どこかで眠ろうと計画していたはずなのに、グランドピアノから視線を外せないまま歩み寄る。

 蓋を持ち上げると抵抗なく開いた。一瞬立ち止まった後、椅子を引いて座ってみる。象牙の柔らかな白は、俺の指先を歓迎しているかのようだ。

 学校のピアノを触ったのは初めてだ。今日は吹奏楽部の自主練もないらしい。念のため廊下に出て確認してみたが、人影ひとつ見当たらない。

 しっかりと音楽室の扉を閉めて、ピアノの前に座り直した。まずは〈別れの曲〉を自己流に演奏する。

 原曲の雰囲気は残しつつも、音使いはジャズっぽく。数日で仕上げたにしてはそれなりに聴けるのではと自画自賛する。

 曲調が変わる部分まで弾き終えて、満足して指を膝に置いた。次はなにを弾こうか……あれがいいな。

 聞きかじっただけの合唱曲を、メロディつきで演奏してみる。指をもつれさせ音を外しながら一回目を弾ききった。もう一回。

 何度か通しで演奏しているうちに、だんだん良くなっていく。途中でここなら誰にも聞かれる心配をしなくていいと気づいて、引っかかる部分を集中的になおしはじめた。

 最初は穏やかに、だんだん盛り上げて、サビは壮大に……弾けば弾くほどよくなっていく。口角が無意識に上がっていく。

 ある程度形になったところで、一番を通しで弾いてみる。うん、悪くない。やはりちゃんと練習できると上達が早い。

 パチパチと拍手の音が聞こえて、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり入り口を注視した。

「すごいね、月城」

 悠々と音楽室へ上がり込んできたのは時藤日向だ。最悪だ、一番見られたくない人物に目撃されてしまった。

「なに勝手に聴いてんだよ」
「聴かれたくなかった? こんなにいい演奏なんやから、みんなに聴いてもらいたいくらいやけど」
「うるさい、黙れ」

 どこが素晴らしいんだ、白々しい。

 熱くなった頬のまま威嚇するが、時藤は気にするそぶりもなく近づいてくる。喧嘩を買うつもりで歩み寄った。

 二センチほど高い目線を睨み上げつつ啖呵を切る。

「誰かに言いふらしたら、しばく」
「わあ怖い、じゃあ月城と僕の秘密やね」

 脅したのに彼は怯む素振りもなく、それどころか嬉しそうにすら見える。

 ただのハッタリだと見破られているってことか? 挑発して楽しんでいるとしたら性格が悪い。

 指を傷めたくないし、母に泣かれるのも面倒だ。もしも秘密を盾に脅されたとしても、本当に殴るわけにはいかないのにと眉間の皺を深くした。

「なんでピアノを弾けることを秘密にしてはるの?」
「お前には関係ない」
「気になるなあ、こんなに上手いのに」

 まだ言うか。お前のほうがよっぽど上手いだろうが。

「あ、お披露目の前に一回通しで弾こうと思ってたんやった。ピアノ、ちょっとだけ譲ってもらってもいい?」
「勝手にしろ」

 椅子から離れると、時藤が座った。丁寧で繊細な伴奏が指先から紡がれる。

 やっぱり俺の演奏とは全然違う。時藤のが正しくて、俺のは邪道だ。

 盛り上がるところはしっかり盛り上げて、弾きこなしている……聴き入っていたら、間奏の部分で彼は突然演奏を止め、髪に指を突っ込んだ。

「ああ、やっぱり上手くいかんわ」
「どこがだ」

 完璧だったぞと目を見張っていると、彼は俺以上に目を丸くした。

「全然月城みたいに弾けてないやろ」
「は、俺……?」

 いつも人当たりのいい笑みを浮かべている柔和な顔が、迷子の子どもみたいに見える。

 言葉をなくして時藤を見つめていると予鈴が鳴った。弾かれたように背を向けて、彼を残して音楽室を出る。

「あ、待って月城!」
「ついてくんな」
「言うても、教室おなじ方向やし」

 できる限りの速足で時藤を引き離し、自席に戻った。教室のドアから顔を出した時藤に「話しかけてくるな」と念を込めて思いきり睨みつけると、彼は肩を竦める。

「また後でね」

 ひらひらと手を振って自分の席についていた。なんなんだ、あいつは。俺は授業が終わったら速攻で帰るぞ。

 放課後、荷物をまとめていると時藤に声をかけられた。

「なあ、月城は今日の放課後……」
「バイトあるから」

 途中で彼の言葉を遮り教室を飛び出した。時藤は無理に俺を追いかけてくることはしなかった。

 ……引き止めて、なにを言いたかったんだろうか。鈍りかけた足を蹴りだして、駅までの道を早足で駆け抜けた。