本選が終わって、ホールから次々に人が出てくる。
文化会館のエントランス前で日向が来るのを待ち構えていると、俺の姿を見つけた日向が両親に手を振って別れ、トレンチコートを腕にかけながら走り寄ってきた。
「お待たせ月城!」
「おい、家族はいいのか」
父親となかなか会えないのではと日向の背後を確認するが、日向の父と母はお互いだけを見つめて会話をしている。
「ええんよ、僕は邪魔になるし。お父さんとは普段からラインで話してるから」
日向はあっけらかんとしていて、無理している様子は微塵も感じられない。
そういうことならと納得し、コートを着ている日向を連れて文化会館を出て、上野公園を南へと歩いていく。
「月城、お昼はもう食べた? 僕は軽食を摘んだけど……」
「そんなことよりも、やってくれたな日向」
「ええ、なに?」
わあ怖い顔してるなあと日向が離れるが、わざと顔を近づけて凄んでみせる。
すると日向が背を向けて逃げ出すので、ムキになって追いかけた。
裸を晒す木々の間をくぐってお堂の前を通り過ぎ、階段を駆け降りると不忍池の前に出る。
夏場は緑の葉を茂らせ、池中を覆っていたであろう蓮はすっかり枯れ果てて、茶色い茎ばかりが残っていた。
日向は池の前まで着くと、薄曇りの空を見上げながら立ち止まる。
「ああ、ここは……」
彼は辺りを見渡して、なにやら感慨深そうにしていた。俺に注意を向けてほしくて彼の腕を掴む。
「おい日向」
「ねえ、さっきからなんでそんな怒ってるの?」
「違う、怒ってるんじゃない」
回りくどいことをしやがって、してやられたなという感覚があるから、素直に喜べないだけで。
それでも日向のサプライズは嬉しかったから、羞恥心を押し込めて伝えた。
「お前の返事、伝わったぞ」
日向は俺の腕を引き剥がそうとするのをやめて、まじまじと俺の顔を見つめた。
眉間に皺が寄ってしまうが、逸らさずに見つめ返す。あーあ、頬に熱が昇ってしょうがない。
〈献呈〉はシューマンが妻との結婚前夜、彼女のために捧げた愛の歌だ。
俺をわざわざ本選に呼び寄せて愛の歌を贈ったということは、つまりそういう意味で受け取っていいのだろう。
「僕の気持ち、伝わった?」
「ああ」
「じゃあなんでそんな怖い顔してるの」
「強面なのは元からだ、我慢しろ」
「そうやけど、もっとこう……あ、頬が赤いね」
やめろ指摘するな、触るんじゃない。頬に寄ってきた手を跳ねつけても、日向の口角はじわじわと笑みの形に歪んだままだ。彼の頬も紅潮していた。
「僕たち、ついに両思いやね」
「ああ。ったく、散々もったいぶりやがって」
「演奏、どうだった?」
「最高によかったよこの野郎」
手すりにもたれかかってそっぽを向くと、体温が伝わる距離に陣取った日向も、手すりに体重を預けた。
今更だが、チラホラと人がいるな。日向から一歩分離れると、同じだけ距離を詰められた。
「人前でくっつくな」
「くっついてないよ、ちゃんと間は空いてるし」
ほら、と指二本程度の隙間を示されて、苦虫を噛み潰したような表情で頭を掻いた。
せいぜい風よけに利用してやると、内心で悪態をついていないと、側にいられそうにない。
日向は俺の悪巧みに気づく素振りもなく、周囲を見渡している。
「懐かしいなあ。四年前もここに立ち寄ったんだ」
「四年前?」
先程、日向の母も四年前がどうのこうの言っていたな。四年前というと、俺が中学一年生の時か。
「ちょうど四年前……あの日、はじめて東京に来て。はじめて月城の演奏を聴いた」
「俺の演奏?」
「そう。あのホールで」
日向は俺たちがやってきた方向を指差した。それでやっと、全日本中学生ピアノコンクールのことを言われているのかと理解をする。
「従姉妹の演奏を聴きにきたら、とんでもなく情熱的にピアノを弾いてる男の子を見つけて。目が離せなかった」
ああ……その頃はピアノを弾くのに一番熱を入れていた時期だ。
本選で入賞すればそっけない父もさすがに俺のことを認めるだろうと、鍵盤に熱を叩きつけるようにして弾いていた。
結局は入賞することなく敗退したんだった。来年に賭けようと思っていたところで、父が心の調子を崩して夢は潰えた。
「あの時、ピアノではじめて心が動いた。こういう演奏をすればいいんだって、答えをもらえた気がした。その時から、僕はずっと月城のファンなんだ」
思い出を抱きしめるように、日向は自身の胸の前に手を置いた。
「僕のこと、全然覚えてない? 最前列で聴いてたし、最後舞台から去る時に目があったと思ったんやけど」
遠慮がちに日向から聞かれるが、悪いが全然覚えていない。
一種の興奮状態にあったし、舞台の上からは客の顔なんてろくに見えやしない……ああ、でも。
不意に頭の中にサラサラの髪の、キラキラと目を輝かせている少年の姿が蘇る。
演奏を終えて去っていく俺を、シートから乗り出す勢いで見ていたやつがいた。
「ああ、あれがお前か」
「思い出してくれた!?」
「たぶん」
「たぶんかあ。まあそうやね、舞台の上にいる時って、自分の演奏のことしか考えられんから」
苦笑しながら息を吐き出した日向は、わずかに吹いた風にそっと声を乗せた。
「演奏している間、月城の指先をずっと見てたんだよ。もう一度君の演奏を聴きたいってずっと思ってた」
高二で同じクラスになってから、冷たくしようが睨みつけようがめげずに話しかけてきたのには、そういう理由があったのか。
そのお陰で俺は今ここに立っていて、日向が隣にいるのかと思うと、心の底からなにやら込み上げるものがある。
複雑に絡まりあった音色が、俺たちをここまで運んできたんだ。
その時、雲間から太陽の光が差して、道端を歩いていた通行人が歓声を上げながら不忍池を指差した。
つられて背後を振り向くと、薄汚れた茶色だった枯れた蓮の茎が、黄金色に染まっている。
「綺麗だ……」
「うん、綺麗」
思わず呟くと、隣から力強く同調される。日向の茶色の瞳も金の光を浴びて、木漏れ日の色に輝いていた。
しばらくの間、黙って景色を堪能する。
空を飛び交うゆりかもめ、池のわずかな隙間を縫うように泳ぐ大ガモ……冷たく乾いた冬の匂い、光を反射する水面を、静かに日向と共有する。
きっと今日のことを、俺は一生忘れないだろう。
ほんの少し小指を伸ばして日向のそれに絡めると、彼は俺の手の甲に手のひらを重ねた。反射的に逃げを打とうとした手に指を絡められる。
「ねえ、月城……ううん、明人さんって呼んでいい?」
「なんだよそれ、呼び捨てでいいって」
「……明人、好きだよ」
完全に不意打ちだった。グッと手すりを握りしめながら息を詰める。無駄にこもった力を息と一緒に吐き出しながら、気持ちを返した。
「……俺も好きだ、日向」
ああ、くそ。今すぐ二人きりになりたい。どこがいいかと考えはじめたところで、俺の腹が高らかに空腹を訴えた。
「わあ、ごめん、気づかなかった。お腹が空いてるんやね」
今までとは別の理由で頬に熱が昇る。なんて空気が読めないんだと、己の腹の不出来を嘆いていると、彼は懐から財布を取り出した。
「じゃーん、見て見て。月城くんとなんでも好きなもの食べてきなさいって、ねぎらい金をもらったんだ」
「おお、いいな」
肉が食べられるとわかると、ますます腹が減ってきた。日向は俺から手を離し、近くの店を検索しはじめる。
「どこがええかなあ? 僕、東京の店はよくわからんから」
「俺がいい場所を教えてやる。家族でよく通っていた店があるんだ」
まあいいか、ゆっくりで。これから一緒にいられるんだし、いくらでも二人きりになれるチャンスはあるはずだ。
今度こそ日向との初デートを楽しもうじゃないかと、公園の出口に向かって一歩足を踏み出した。
文化会館のエントランス前で日向が来るのを待ち構えていると、俺の姿を見つけた日向が両親に手を振って別れ、トレンチコートを腕にかけながら走り寄ってきた。
「お待たせ月城!」
「おい、家族はいいのか」
父親となかなか会えないのではと日向の背後を確認するが、日向の父と母はお互いだけを見つめて会話をしている。
「ええんよ、僕は邪魔になるし。お父さんとは普段からラインで話してるから」
日向はあっけらかんとしていて、無理している様子は微塵も感じられない。
そういうことならと納得し、コートを着ている日向を連れて文化会館を出て、上野公園を南へと歩いていく。
「月城、お昼はもう食べた? 僕は軽食を摘んだけど……」
「そんなことよりも、やってくれたな日向」
「ええ、なに?」
わあ怖い顔してるなあと日向が離れるが、わざと顔を近づけて凄んでみせる。
すると日向が背を向けて逃げ出すので、ムキになって追いかけた。
裸を晒す木々の間をくぐってお堂の前を通り過ぎ、階段を駆け降りると不忍池の前に出る。
夏場は緑の葉を茂らせ、池中を覆っていたであろう蓮はすっかり枯れ果てて、茶色い茎ばかりが残っていた。
日向は池の前まで着くと、薄曇りの空を見上げながら立ち止まる。
「ああ、ここは……」
彼は辺りを見渡して、なにやら感慨深そうにしていた。俺に注意を向けてほしくて彼の腕を掴む。
「おい日向」
「ねえ、さっきからなんでそんな怒ってるの?」
「違う、怒ってるんじゃない」
回りくどいことをしやがって、してやられたなという感覚があるから、素直に喜べないだけで。
それでも日向のサプライズは嬉しかったから、羞恥心を押し込めて伝えた。
「お前の返事、伝わったぞ」
日向は俺の腕を引き剥がそうとするのをやめて、まじまじと俺の顔を見つめた。
眉間に皺が寄ってしまうが、逸らさずに見つめ返す。あーあ、頬に熱が昇ってしょうがない。
〈献呈〉はシューマンが妻との結婚前夜、彼女のために捧げた愛の歌だ。
俺をわざわざ本選に呼び寄せて愛の歌を贈ったということは、つまりそういう意味で受け取っていいのだろう。
「僕の気持ち、伝わった?」
「ああ」
「じゃあなんでそんな怖い顔してるの」
「強面なのは元からだ、我慢しろ」
「そうやけど、もっとこう……あ、頬が赤いね」
やめろ指摘するな、触るんじゃない。頬に寄ってきた手を跳ねつけても、日向の口角はじわじわと笑みの形に歪んだままだ。彼の頬も紅潮していた。
「僕たち、ついに両思いやね」
「ああ。ったく、散々もったいぶりやがって」
「演奏、どうだった?」
「最高によかったよこの野郎」
手すりにもたれかかってそっぽを向くと、体温が伝わる距離に陣取った日向も、手すりに体重を預けた。
今更だが、チラホラと人がいるな。日向から一歩分離れると、同じだけ距離を詰められた。
「人前でくっつくな」
「くっついてないよ、ちゃんと間は空いてるし」
ほら、と指二本程度の隙間を示されて、苦虫を噛み潰したような表情で頭を掻いた。
せいぜい風よけに利用してやると、内心で悪態をついていないと、側にいられそうにない。
日向は俺の悪巧みに気づく素振りもなく、周囲を見渡している。
「懐かしいなあ。四年前もここに立ち寄ったんだ」
「四年前?」
先程、日向の母も四年前がどうのこうの言っていたな。四年前というと、俺が中学一年生の時か。
「ちょうど四年前……あの日、はじめて東京に来て。はじめて月城の演奏を聴いた」
「俺の演奏?」
「そう。あのホールで」
日向は俺たちがやってきた方向を指差した。それでやっと、全日本中学生ピアノコンクールのことを言われているのかと理解をする。
「従姉妹の演奏を聴きにきたら、とんでもなく情熱的にピアノを弾いてる男の子を見つけて。目が離せなかった」
ああ……その頃はピアノを弾くのに一番熱を入れていた時期だ。
本選で入賞すればそっけない父もさすがに俺のことを認めるだろうと、鍵盤に熱を叩きつけるようにして弾いていた。
結局は入賞することなく敗退したんだった。来年に賭けようと思っていたところで、父が心の調子を崩して夢は潰えた。
「あの時、ピアノではじめて心が動いた。こういう演奏をすればいいんだって、答えをもらえた気がした。その時から、僕はずっと月城のファンなんだ」
思い出を抱きしめるように、日向は自身の胸の前に手を置いた。
「僕のこと、全然覚えてない? 最前列で聴いてたし、最後舞台から去る時に目があったと思ったんやけど」
遠慮がちに日向から聞かれるが、悪いが全然覚えていない。
一種の興奮状態にあったし、舞台の上からは客の顔なんてろくに見えやしない……ああ、でも。
不意に頭の中にサラサラの髪の、キラキラと目を輝かせている少年の姿が蘇る。
演奏を終えて去っていく俺を、シートから乗り出す勢いで見ていたやつがいた。
「ああ、あれがお前か」
「思い出してくれた!?」
「たぶん」
「たぶんかあ。まあそうやね、舞台の上にいる時って、自分の演奏のことしか考えられんから」
苦笑しながら息を吐き出した日向は、わずかに吹いた風にそっと声を乗せた。
「演奏している間、月城の指先をずっと見てたんだよ。もう一度君の演奏を聴きたいってずっと思ってた」
高二で同じクラスになってから、冷たくしようが睨みつけようがめげずに話しかけてきたのには、そういう理由があったのか。
そのお陰で俺は今ここに立っていて、日向が隣にいるのかと思うと、心の底からなにやら込み上げるものがある。
複雑に絡まりあった音色が、俺たちをここまで運んできたんだ。
その時、雲間から太陽の光が差して、道端を歩いていた通行人が歓声を上げながら不忍池を指差した。
つられて背後を振り向くと、薄汚れた茶色だった枯れた蓮の茎が、黄金色に染まっている。
「綺麗だ……」
「うん、綺麗」
思わず呟くと、隣から力強く同調される。日向の茶色の瞳も金の光を浴びて、木漏れ日の色に輝いていた。
しばらくの間、黙って景色を堪能する。
空を飛び交うゆりかもめ、池のわずかな隙間を縫うように泳ぐ大ガモ……冷たく乾いた冬の匂い、光を反射する水面を、静かに日向と共有する。
きっと今日のことを、俺は一生忘れないだろう。
ほんの少し小指を伸ばして日向のそれに絡めると、彼は俺の手の甲に手のひらを重ねた。反射的に逃げを打とうとした手に指を絡められる。
「ねえ、月城……ううん、明人さんって呼んでいい?」
「なんだよそれ、呼び捨てでいいって」
「……明人、好きだよ」
完全に不意打ちだった。グッと手すりを握りしめながら息を詰める。無駄にこもった力を息と一緒に吐き出しながら、気持ちを返した。
「……俺も好きだ、日向」
ああ、くそ。今すぐ二人きりになりたい。どこがいいかと考えはじめたところで、俺の腹が高らかに空腹を訴えた。
「わあ、ごめん、気づかなかった。お腹が空いてるんやね」
今までとは別の理由で頬に熱が昇る。なんて空気が読めないんだと、己の腹の不出来を嘆いていると、彼は懐から財布を取り出した。
「じゃーん、見て見て。月城くんとなんでも好きなもの食べてきなさいって、ねぎらい金をもらったんだ」
「おお、いいな」
肉が食べられるとわかると、ますます腹が減ってきた。日向は俺から手を離し、近くの店を検索しはじめる。
「どこがええかなあ? 僕、東京の店はよくわからんから」
「俺がいい場所を教えてやる。家族でよく通っていた店があるんだ」
まあいいか、ゆっくりで。これから一緒にいられるんだし、いくらでも二人きりになれるチャンスはあるはずだ。
今度こそ日向との初デートを楽しもうじゃないかと、公園の出口に向かって一歩足を踏み出した。