ホームルームが終わると同時に教室から飛び出した。通常徒歩八分かかる駅を五分で歩き、やってきた電車に飛び乗る。

 二十分ほど電車で揺られているうちに、戸建てが多い町並みからビルがいくつも建つ景色へと移行する。

 次は京都駅だ、アナウンスを聞いて席を立つ。大勢の人が闊歩(かっぽ)する地下からエスカレーターを使って地上へ、道なりにどんどん上がって七階へ向かう。

 有名な建築家が作ったという灰色の建造物は、階層を登るにつれ人の姿が少なくなると、ますます無機質さが際立つ。けれど、学校と違って嫌いじゃなかった。

 今日は先客がいるのだろか、いなければいいと願いながら目的地へ急ぐ。

 京都タワーが見渡せる大窓の横に鎮座するグランドピアノは、澄まし顔で俺を待っていた。消毒液を手のひらに吹きつけて、ショルダーバックを足元に置く。

 ピアノの蓋を開けて椅子に腰掛け、ペダルに足を乗せる。今日は何を弾こうかと考えながら、指鳴らしに少し前に流行ったポップスを奏でた。

 何度も弾いた曲だから、目をつぶっていても弾ける。伴奏のコードを一部変えてみた。前回よりしっくりくる気がする。

 この時間帯に通りがかる人はほとんどいないが、もし聞かれても練習していると思われない程度に、新しい挑戦をしながら指を動かす。

 そうして、一つの曲を満足するまでアレンジして、自分なりの完成に近づけていく。それが俺の身につけた練習方法だ。

 一曲目が終わったけれど、順番待ちをしている人はいない。次は時藤が弾いてた〈別れの曲〉を模倣(もほう)してみよう。

 耳でコピーしたメロディを辿り、適当に伴奏をつけてみる。ああ、別物になった。もっとしっとりした音が響いていたはず。

 弾き続けているうちに、少しはまともになってくる。原曲と違う音を響かせながらも指は止めずに、キリのいいところまで弾ききった。

 ……まだ人はいない。もう一回。そうして次に演奏したい人が現れるまで、三十分ほど俺は弾き続けた。

 背後に人の気配を感じたので、キリのいいところで弾き終えバックを手に取る。

「さっきの演奏、〈別れの曲〉をジャズ風にアレンジしたんですか? 素敵でした」
「……どうも」

 順番待ちの女性と目をあわせないまま頭を下げ、席を譲った。にやけていなかっただろうかと、遅ればせながら口元を覆う。

 バイト先に向かう道すがらスマホで〈別れの曲〉を検索する。時藤より情緒的なピアニストの演奏を、ああこんなだったかと聴き込んでいく。

 大通りから一本内側の筋に入ったところにあるラーメン屋の裏口に着いて、イヤホンをポケットにしまった。制服に着替えて頭にタオルを巻きキッチンへ向かうと、店長と目があう。

「今日もよろしくお願いします!」
「おう」

 挨拶は元気よく、動きはテキパキと。学校で蓄えた気力をすべて使って、全力で働いた。



 い草の匂いがこもる和室に電子音が響く。半分眠りながらスマホのアラームを止めて、時間を確認し仕方なく起き上がった。

 制服に着替えてから軋む廊下を渡り台所に向かうと、弁当におかずを詰めていた母が嬉しそうに振り返る。

「明人、おはよう。今日はちゃんと起きれたやん」
「ねむ……」
「バイト、減らしてもいいんよ?」

 緩慢に首を横に振って、皿に用意されているパンを咥えた。

「母さんこそ、目の下の隈がえぐい」
「化粧で誤魔化せるからええの」
「つーか、バイトのせいじゃないし」
「また遅くまで動画見てたん?」

 母さんの問いには答えず、パンを口の中に詰め込む。昨日はバイトの後、日付けが変わるまで〈別れの曲〉の演奏動画を見ていた。

 何度聞いても音がわからない部分があって、スマホで検索した楽譜を拡大しながら凝視していたら、目が冴えてしまい四時間程度しか眠れなかった。

 どうせ原曲通りには弾けないのに、無駄な努力だ。わかっちゃいるが止められなかった。

「私も高校生の時、遅くまで本読んでたなあ。十一時までにしようって決めとっても、止まらなくなるんよね」

 懐かしそうに話しながら弁当箱を手渡され、バックに詰め込んだ。

「お父さんは眠れない夜に、CDを小さい音で聞いてはったらしいわ」

 父の話は聞きたくない。幸せだという自覚がないまま満ち足りていたあの頃を、綺麗な思い出にするためにはまだ時間が必要だ。

 けれどそういう話はやめてほしいと言うと、母が悲しそうな顔をするとわかっているので、低い声で返事をした。

「……今も聞いてるんじゃねえの」
「そうやな、また昔のCDを送ってあげよ」

 ヴンヴン唸る冷蔵庫から、お茶を出して水筒に注ぐ。

「なんや冷蔵庫が最近めっちゃ煩くなってきたけど、まだ保つかなあ」
「さあ」

 困るわあと言いながら、母は新しい冷蔵庫に取り替えようとしない。

 俺は今すぐにでも学校を辞めて働いたって構わないのに、それだけはダメだと母さんが止めるので実現できずにいた。

 昼も夜も働いている母の負担を減らしてやりたいが、年齢と立場が邪魔をする。

 中学二年生の時に父が精神病棟に入院してから、母方の祖父母が住んでいた京都に引っ越してきた。

 東京にあった父親名義のマイホームはローン返済のために売り払い、売上も出なかったが負債にもならなかった。

 今は亡き祖父母の家は古めかしいが、生活に必要なものが一通り揃っている。

 鬱病になった父の治療費のため、金になりそうな家具はすべて売り払ってしまったから、ピアノはもうない。

 電子でいいからピアノが欲しい、早く高校を出てフルタイムで働きたい。そのためには出席日数を稼がなくてはならない。

 母さんはため息を吐いたあと、よしと気合を入れて家を出ていった。俺もさんさんと降り注ぐ日差しに、目をすがめながら家を出る。

 予鈴まで数分の猶予を持って教室に入ると、談笑していたクラスメイトたちから緊張感が放たれた。

 俺は眉一つ動かさずに席につく。すると俺とは違う常識の中に生きている同い年の人間たちは、また自分たちが関心のある話をはじめる。

 面白かったアニメの話、隣のクラスの女子のレベル、合唱祭の課題曲について。

 俺はそのどれにも耳を傾けずに、記憶の中の〈別れの曲〉を頭の中で弾いていた。