十二月に入りテスト期間が過ぎ去った。勉強をした甲斐があり、全教科普段より十点程度は点数が高く、暗記を頑張った日本史は九十点台を取ることができた。
テスト結果を知りたがった日向に答案を見せると、すごいすごいと興奮していた。
「月城って地頭がいいタイプだよね……もともと授業中に寝ていても赤点を取らずにいられた訳だし、もしかすると本当にK大に行けるかもしれないよ」
公立の大学なら学費も安いし、母さんに負担をかけずに済む。
このまま勉強を頑張れば日向と同じ大学に行けるかもしれないと、希望が持てた瞬間だった。
そして来たる十二月の第二土曜日。夜行バスは遅延なく進み、無事早朝に東京駅の八重洲口に降り立った。
早朝の空気は吐く息を白く染める。こんなにも人が少ない時間帯に東京駅を訪れたことはない、新鮮な気分だ。
いつもより視界が狭いと感じて、そういえば京都には東京ほど高い建物が乱立していないと気づく。すっかり俺は京都に馴染んでいるらしい。
日向の順番は昼頃だと聞いている。モーニングカフェで朝食を済ませた後、病院に向かった。
受付前で患者の名前と面会を予約している旨を告げると、さほど待たされることなく面会室へと案内される。
「こちらでお待ちくださいね」
看護師に会釈をして椅子に座ると、ほどなくして目当ての人物がやってきた。
記憶の中の姿よりもやつれているし、くたびれている。眼鏡の奥からのぞく瞳も、昔と変わらず凪いでいた。
なにを考えているか読み取れないが、会ってくれたのだから拒絶されてはいないはずと、自分を奮い立たせる。
「久しぶり、父さん」
「……ああ」
父はゆっくりとした動作で椅子に腰掛けた。ゆったりしすぎているセーターは、ひとまわり細身の物に取り替えてもいいんじゃないかと思ったが、口には出さない。
話したいことは決まっている。父のほうはどうだろうと膝を握って彼の顔を見つめるが、俺が話し出すのを待っていた。
「……元気か? いや、そうじゃなくて」
「……」
「俺も母さんほど話上手じゃないから、いきなりだが本題に入らせてもらうぞ」
一拍の間を置いて父が頷いたのを確認し、唇を舐めてから話を続ける。
「中二の頃、俺は父さんが病気になったことを受け入れられなくて、ずいぶん荒れたよな」
母さんは「変わっちゃった」なんて軽い言葉で表現していたが、あの頃の俺はかなり荒んでいたと思う。
今まで当たり前にあった物が当たり前じゃなくなって。大好きなピアノが家から消えて、楽しみにしていた発表会にも出られなくて。
すべて父さんのせいだと、落ち込む肩に当たり散らしたこともある。
「でもさ、俺はもう父さんがいなくても大丈夫なんだって気づいたんだ。だから……あの時は言い過ぎた。ごめん」
もう俺に責任を感じなくていい。一刻も早く気を楽にして、日々を穏やかに過ごしてくれたらそれで十分だ。やっとそう思えるようになった。
俺の言いたいことはちゃんと伝わっただろうか。父さんは俺の腹あたりを見ながら、長いこと口を閉じていた。
薬で状態がよくなったと聞いているが、もともと話すのが得意じゃない人だし、無理をさせたい訳じゃない。
「じゃあ俺、行くから」
立ち上がろうとすると、父が口を開いた。
「明人の演奏を聴いた」
浮きかけた腰をもう一度下ろし、小さな声に耳を澄ませる。
「母さんからデータが届いたんだな」
父は頷いて、俺の顔を見た。
「……よかったぞ。今までで、一番」
ハッと息を飲んで眼鏡の奥の瞳に目を凝らした。
一番だって? 仕事ばかりで、いつだって母だけが俺のピアノを聴きにきていたのに。
まさか今までも、母さんが録画した映像を見ていたのか。唇がわなないた。
母さんと二人で生きるのは大変だ。父さんがいたあの頃に戻りたい。戻れないならせめて、頑張ったなと認めてほしかった。
そうだ。ずっと頑張ったなって、この人に認めてほしかったんだ。
揺れはじめた視界に気づいて、何度も瞬きをして誤魔化した。一呼吸ついてから、声が震えないように慎重に口を開く。
「ありがとう……土産、置いていくから。ちゃんと食べろよ」
看護師に案内されて病棟を後にする。わずかな時間だったけれど言いたいことは言えたし、みっともなく取り乱さずに話ができた。
贈られた言葉を噛み締めながら電車に乗って、東京文化会館へ向かう。
曲の合間をぬって小ホールの中に滑り込むと、前から三番目の席に見知ったシルエットを見かけた。
時藤の母に会釈をして通り過ぎ、隣にいた男の人……年齢と体格から想像するに、日向の父らしき人にも、若干動揺しながら頭を下げる。最前列に腰掛けた。
いつもお世話になってますとか、挨拶すればよかっただろうか。しかし客席は暗いし、話せるような雰囲気でもない。後にしようと結論づける。
日向からはプログラムの順番だけを聞いていたので、出場者がどんな曲を弾くのか知らない。
さすがに予選を通過した強者たちだ、皆それぞれに聞き応えがあった。立て続けに揺れた心が、演奏を聴いているうちに曲の中に入りこんでいく。
だいたい一人につき十分程度の持ち時間で、舞台の上から去っていった。
……おかしいな、日向が弾く予定の〈英雄ポロネーズ〉は七分程度の曲だ。三分ほど演奏時間が足りない。
まさかあいつ、ここまで来て曲のチョイスをミスっていないだろうな。まんじりともせずに出番を待つ。
そして席に着いてから数十分後、ついに日向の番がやってきた。
「ようやっと出番やね……あら、四年前といる場所が逆やわ」
日向の母がなにやら気になることを言っている。
振り向くと、うるさかったかしらごめんなさい、とでも言いたげに頭を下げられた。大丈夫ですと首を横に振る。
日向が舞台上に姿を現した。スーツが長身を包む様は、どこぞの貴公子のような風格がある。
視線を彼に釘付けにしていると、舞台の上から俺の姿が確認できたらしい。ばっちり日向と目があった。
彼は目を瞬かせた後、華やかに微笑んでピアノの前へと向かう。
堂々としていて、上がってはいないようだ。椅子に腰かけると、間を置かずに曲を奏ではじめた。
〈英雄ポロネーズ〉はショパンの作品の中で、もっとも華やかで力強い曲だと思う。
いくつものトリルを正確に弾きこなし、左手のオクターブを大きな手で難なく押さえる日向の演奏は安定しており、聴き心地がいい。
ああ、俺もこんな演奏ができたらなと今でも思う。
それでも予選の時に自分なりにやりきったお陰で、ドロドロとした羨望は胸の内から湧いてこなかった。
ただ彼の演奏が聞く人の胸を打てばいいと、静かに願うだけだ。
難所を軽やかに、出すべき音を重厚に響かせて演奏を終えた。あっという間の七分間だった。
これで退場するのかと見守っていると、日向はもう一度鍵盤の上に手を乗せる。
日向から流し目で見つめられたのは一瞬で、俺が目を見開く頃には、彼は視線をピアノへと戻していた。
「次は〈献呈〉やね」
後ろから日向の母の声が微かに聞こえたが、意味を理解する前に一音目が柔らかく響く。
先程の勇壮さとはうって変わって、甘やかな音で空間が満たされた。
悩ましげで、それでいて温かく、包みこむような演奏が指先から紡がれる。俺は信じられない思いで彼の指先を見つめた。
なんて細やかで、愛に満ちた音なんだろう。いつの間にこんなにも情緒的に弾けるようになったんだ。
絹で頬を撫でられているような、うっとりとため息をつきたくなるメロディが奏でられていく。
曲がどんどん激しく技巧的になっていき、根底に流れていた感情が一気に放出された。背筋に電流が走ったように感じ、瞬きすら忘れそうになる。
許されている、満たされている。音の粒が細かな光となって、客席に降り注いでいるように錯覚を起こした。
舞台を見上げる俺の上にも、受け取りきれないほどの密度を持って光の音が注がれてくる。
美しい高音が低音まで滑らかに流れて、ピークを越えた曲は徐々に終息へと向かっていく。目が痛くなるくらいに乾燥しているのに、一瞬たりとも集中を切らさずに彼の演奏を見つめていたかった。
日向は赤ん坊の頬を触る時と同じくらい注意深く、最後の和音を弾ききった。曲が終わって日向が舞台上から去っていっても、俺はしばらくの間胸を押さえたまま動けなかった。
次の演奏者が弾き終えるのを待って立ち上がると、小ホールから抜け出す。窓際の椅子に腰掛けてスマホを取り出し〈献呈〉と打ち込んだ。
出てきた情報に目を凝らす。リスト……いや、シューマンの曲なのか。両者とも有名なドイツ・ロマン派の作曲家で、同時期に生きていて交流もあったらしい。
もともとはシューマンが作曲した歌曲だが、それをリストがピアノ曲にアレンジしたのか……いや、そんな情報は今はどうでもいい。
スクロールした画面で曲の由来を見つけて、思わず天を仰いだ。