水曜日、バイトがないので日向の家に向かい、彼の演奏を聞くことにした。
実質デートになるのか、これは……四条烏丸の駅を降りた日向も、心なしかそわそわしている。
「予選受かってたから……本選、一ヶ月後だって」
「そうか、よかったな」
「うん……やっとここまで来れた。月城のおかげだ」
日向は自分の指を見つめて、じわじわと頬に嬉しさを滲ませている。
……彼のそわそわはたぶん、俺のとは違う気がする。
今は本選に集中したいって言ってたし、しょうがないな。サポートしてやるか。
「本選の曲は?」
「もう決めてある。〈英雄ポロネーズ〉」
「へえ、メジャーなの弾くんだな」
「弾いたことあるやつやし、舞台映えするから」
弾きこなすには技巧と力強さの両方が必要だが、正確に音を鳴らせば強く華やかに聞こえる曲だから、繊細な表現力が求められるわけではない。
練習済みらしいし、自信を持って弾ける曲なのだろう。
日向の家に着くと、日向の母が変わらない笑顔で出迎えてくれる。安堵の息を吐きながらショルダーバッグを下ろし、手土産を取り出した。
「この前はすみませんでした。これ、受け取ってください」
近所で有名な羊羹セットを差し出すと、日向の母は頬に左手を当てた。
「あら、そんなんいいのに。日向から訳を聞いたけど、うじうじしてたこの子の目を覚ましてくれはったんやって?」
「そうなんだよ、月城がいなきゃ本選には進めてなかった。それに月城は僕を励ますために、本選に進む可能性を捨ててしまって……本当にありがとう」
「違うって、あれは俺がやりたくてやったことだし。もういいから」
あの時は必死過ぎたというか、勢いで殴ってしまって俺も反省しているんだ。そんなにありがたがらないでくれ。
その場の流れで羊羹をいただくことになってしまい、肩を窄めながら腰掛けた。
「羊羹やったらお抹茶とあわせるのはどう? せっかくいい羊羹をいただいたんやからちゃんとしたいわ。茶筅はどこにしまったかしら」
「あの、本当にお構いなく」
「お母さん、手伝うよ」
日向は長身を活かして上の棚から茶器と茶筅を取り出し、ケトルでお湯を沸かしはじめた。
「ありがとうねえ。ほんまに日向がおらんと生活できひんわ」
「大袈裟だよ」
気負いなく笑う彼は、まったく恩に着せる様子がない。そういうところも好きだなあと、キッチンに立つ後ろ姿を見つめた。
お湯が湧いたので、日向はケトルごとお湯をテーブルに運んでくる。
「日向、気をつけてね。怪我したらピアノが弾けなくなるやろ」
「やっとお母さんを東京の舞台に連れていけるのに、そんなうっかりミスはしないって」
「私のことやのうて、日向が怪我するのが嫌なんよ」
日向は面映そうに微笑む。俺にはその笑顔が、そういう人だから力になりたいんだと言っているように見えた。
「うん、わかってる。気をつけるね」
「ええ、そうして。それじゃ、ここにお粉を入れてくれる?」
抹茶の粉を落とした茶器に、適温に冷ましたお湯が注がれる。日向が器を下から支えて、日向の母が茶筅で泡が立つまでお茶をかき混ぜた。
「こうやって、しっかり混ぜたら真ん中から茶筅を引き上げるのよ」
「次は僕がやるね」
日向は茶器の中に静かに茶筅を下ろし、一定の速度でお茶をかき回している。やったことがあるのだろう、堂に入っている。
抹茶の香りが漂ってきて、ごくりと唾を飲んだ。
「俺もやってみていいですか」
「もちろんよ」
適量のお湯を注いでもらった茶器に、茶筅を入れてかき回す。段々と泡が立ってくるのが面白くて、夢中でかき混ぜた。
「はじめてやりました、こういうの」
「そうか、京都やとお茶を立てられるお店が身近にあるけど、月城は東京育ちやもんね」
「お茶立ては初めてなのね。上手よ」
立てたお茶の飲み方を見よう見真似で習い、お茶を一口飲んだ後で羊羹を食べてみた。抹茶が苦い分、羊羹の上品な甘さが引き立つような気がする。
俺の隣で日向が満足そうなため息をついた。
「こうやって食べると、優雅な気分に浸れるよねえ」
「本当にねえ。普段はお砂糖を混ぜてラテにしてしまうけど、やっぱり茶筅でお茶を立てると美味しいわ」
「また時々こうやってお茶を立てようよ。月城も呼んでさ」
「え」
いいでしょと目で問われて、迷った挙句に頷いた。日常の忙しなさを忘れられる空気感はクセになりそうだ。
「じゃあまた、お茶菓子を買ってきます」
「うふふ、私もいい店をたくさん知ってるのよ。今度月城くんの持ってきてくれたお茶菓子と、食べ比べをしましょうか」
施されてばかりの食事会は肩身が狭いが、お茶菓子を持参するお茶会ならまた来てもいい。いや、来たいと頷く。
和やかな茶会を過ごしピアノ室にひっこんで、肺に貯めた空気を吐き出した。
「あ、もしかしてお茶会の誘いは嫌やった?」
「そうじゃなくて……京都に来てよかったなって思っただけ」
さっきのような穏やかな時間もそうだし、なにより日向に出会えたことが大きい。
きっと父が病気をする前の俺だったら、日向の優しさがどんなに尊いものか気づけなかっただろう。
「僕はずっと東京の舞台に母を連れていきたいって、それだけを思ってきたけど。でも京都に住んでてよかった。月城と会えたから」
ささやくような小声だったので、確かめるように顔を見上げると、日向の頬は赤く染まっていて。それすら手のひらにすぐに隠されてしまった。
「さて、練習しよ!」
「邪魔したい」
「なんで!?」
「しないけどな。勉強でもしながら聞いとく」
彼は意外なことを聞いたように目を瞬かせたが、すぐににこりと微笑んだ。
「ええね、テストも近いし勉強してて。わからないところがあれば教えるよ」
「さっき邪魔しないって言ったろ」
「テスト勉強も大事やし、遠慮しないでガンガン聞いて」
「……じゃあ一つだけ」
「うん、なに?」
ソファに座ってショルダーバッグを隣に置いた。少しためらった後で、思いきって聞いてみる。
「日向は、音大に行くつもりはないんだよな」
「うん」
「K大を狙ってるのか?」
「公立で、医学部があるところがええなって」
医学部だと。頭がいいやつの代表格な学部じゃないか。
「じゃあやっぱK大か」
「そうだね、このまま頑張ればいけるんじゃないかと」
「……俺も今から勉強を頑張れば、いけると思うか?」
医学部を目指したいわけじゃないが、どうせ大学に行くなら日向の側にいたい、なんて乙女のような思考が過ぎる。
ああ、馬鹿なことを聞いてしまった。バッグから教科書を取り出し読むフリをしていると、日向がぶつかるような勢いですっ飛んできた。
「月城、僕と同じ大学に行きたいってこと!?」
「いやいい、全教科赤点スレスレ野郎が行けるわけないよな、忘れろ」
あああ近い、ヤバい、離れろと腕を突っ張るが、テンションが振り切れた日向は腕を回してぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
「行けるよ、行こう! 全力で手伝うから!」
「お前に助けられてばっかりってなんか腹立つから嫌だ」
「なに言ってるの、いつも助けられてるのは僕のほうだよ! あの時だって……」
「予選の話はもう蒸し返すなって言っただろうが」
ムキになって全力で押しのけると、ようやく日向は離れてくれた。上がった息を整えながら、首を横に振っている。
「その話じゃないんだけど……とにかく、本選が終わったら改めて話そうよ。僕も月城と大学が同じだったらめちゃくちゃ嬉しい」
「わかった、わかったからとにかく今は練習しろ」
ようやく日向がピアノを弾きはじめた。華々しく勇壮な音楽に励まされながら、気持ちを切り替えて社会の教科書を読み込んでいく。
わかっていないところがそれなりにあって、ノートにメモを取りながら記憶の穴を埋めていった。
しばらく真面目に勉強をしていたはずなのだが、暖房のせいだろうか、気がつくと意識が落ちていたらしい。
夢うつつに、甘く柔らかなメロディーを耳にする。日向が弾いているのだろうが、眠くて目蓋が開かない。
なんだっけな、この曲……優しくて、包みこむような……考えているうちにまた意識が飛び、無音の中で揺り起こされた。
「月城、気持ちよさそうに寝ているところ悪いんだけど、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな」
「……悪い、寝てた」
「ふふ、授業中もよく寝てるもんね」
「いつの話だ、最近は寝てねえよ」
あくびを噛み殺しながら立ち上がり、バッグを持ってコートを着込む。外に出た瞬間に十二月の風が襲ってきて、一気に眠気が覚めた。
「寒い」
「そうだねえ、そろそろ冬になるから。あ、カイロいる?」
もう一分一秒を惜しむような勢いで練習したりしないが、指先が温かいほうがいいに決まっているので受け取っておいた。
「ところでさ。月城って土曜日は忙しいよね?」
「基本バイトだが」
日向はそわそわしながら、マンションの廊下に落ちた葉を蹴飛ばしている。
「無理やったら全然ええんやけど。もしもよかったら本選、聴きにきてほしいなあ、なんて」
「行く」
そんなの行くに決まってる。
バイトを一週間も休んだし、来月は出費を控えて土日は全部シフトを入れようと思っていたが、日向が来てほしいと言うなら這ってでも行く。
「大丈夫? 無理してない?」
「そのくらいどうとでもなる、なめんな」
マンションのエントランスを通り抜けて、地下鉄までの道を進みはじめると、やはり日向は当然のようについてきた。
「なあ日向、俺には気を使わず、今みたいにちゃんと言いたいことを言えよ」
「うん、そうする。ありがとう、今回はどうしても来てほしくて」
「また殴ってほしいのか」
「それはもういいよ!」
「ふ、冗談だ」
ニヤリと笑うと、日向は気が抜けたように笑った。
「ふふ、月城も冗談を言うんだ」
「言うに決まってるだろ、人をなんだと思ってるんだ」
「すごくかっこいいのに、時々すごく可愛い男の子」
「……っおい」
ふざけんなお前、こんな街中で。
「俺が可愛いわけないだろうが」
すごんで睨むと、わあ怖いと大袈裟にのけ反られる。
「照れたからって手を出すのはやめてね?」
「照れてねえ」
胸ぐらを掴もうとするが避けられた。隙をついて頭を撫でられて、慌てて手を押さえようとした瞬間に離れていく。
「あ、駅についた! また明日ね!」
「待てよ、勝ち逃げすんな」
「勝ち逃げとかじゃなくて、月城の髪を一回撫でてみたかっただけだから」
さっきから俺を惑わせることばっかりしやがって。今度は起きてる時にキスすんぞ。
触られた部分を押さえながら背中を向ける。地下鉄行きの階段の前で振り向いた。
「おい日向、本選が終わったら覚えてろ」
「わかった、楽しみにしてる」
ああもう、完敗だ。手のひらを向けて別れの挨拶をすると、彼も満面の笑みで手を振り返してきた。
実質デートになるのか、これは……四条烏丸の駅を降りた日向も、心なしかそわそわしている。
「予選受かってたから……本選、一ヶ月後だって」
「そうか、よかったな」
「うん……やっとここまで来れた。月城のおかげだ」
日向は自分の指を見つめて、じわじわと頬に嬉しさを滲ませている。
……彼のそわそわはたぶん、俺のとは違う気がする。
今は本選に集中したいって言ってたし、しょうがないな。サポートしてやるか。
「本選の曲は?」
「もう決めてある。〈英雄ポロネーズ〉」
「へえ、メジャーなの弾くんだな」
「弾いたことあるやつやし、舞台映えするから」
弾きこなすには技巧と力強さの両方が必要だが、正確に音を鳴らせば強く華やかに聞こえる曲だから、繊細な表現力が求められるわけではない。
練習済みらしいし、自信を持って弾ける曲なのだろう。
日向の家に着くと、日向の母が変わらない笑顔で出迎えてくれる。安堵の息を吐きながらショルダーバッグを下ろし、手土産を取り出した。
「この前はすみませんでした。これ、受け取ってください」
近所で有名な羊羹セットを差し出すと、日向の母は頬に左手を当てた。
「あら、そんなんいいのに。日向から訳を聞いたけど、うじうじしてたこの子の目を覚ましてくれはったんやって?」
「そうなんだよ、月城がいなきゃ本選には進めてなかった。それに月城は僕を励ますために、本選に進む可能性を捨ててしまって……本当にありがとう」
「違うって、あれは俺がやりたくてやったことだし。もういいから」
あの時は必死過ぎたというか、勢いで殴ってしまって俺も反省しているんだ。そんなにありがたがらないでくれ。
その場の流れで羊羹をいただくことになってしまい、肩を窄めながら腰掛けた。
「羊羹やったらお抹茶とあわせるのはどう? せっかくいい羊羹をいただいたんやからちゃんとしたいわ。茶筅はどこにしまったかしら」
「あの、本当にお構いなく」
「お母さん、手伝うよ」
日向は長身を活かして上の棚から茶器と茶筅を取り出し、ケトルでお湯を沸かしはじめた。
「ありがとうねえ。ほんまに日向がおらんと生活できひんわ」
「大袈裟だよ」
気負いなく笑う彼は、まったく恩に着せる様子がない。そういうところも好きだなあと、キッチンに立つ後ろ姿を見つめた。
お湯が湧いたので、日向はケトルごとお湯をテーブルに運んでくる。
「日向、気をつけてね。怪我したらピアノが弾けなくなるやろ」
「やっとお母さんを東京の舞台に連れていけるのに、そんなうっかりミスはしないって」
「私のことやのうて、日向が怪我するのが嫌なんよ」
日向は面映そうに微笑む。俺にはその笑顔が、そういう人だから力になりたいんだと言っているように見えた。
「うん、わかってる。気をつけるね」
「ええ、そうして。それじゃ、ここにお粉を入れてくれる?」
抹茶の粉を落とした茶器に、適温に冷ましたお湯が注がれる。日向が器を下から支えて、日向の母が茶筅で泡が立つまでお茶をかき混ぜた。
「こうやって、しっかり混ぜたら真ん中から茶筅を引き上げるのよ」
「次は僕がやるね」
日向は茶器の中に静かに茶筅を下ろし、一定の速度でお茶をかき回している。やったことがあるのだろう、堂に入っている。
抹茶の香りが漂ってきて、ごくりと唾を飲んだ。
「俺もやってみていいですか」
「もちろんよ」
適量のお湯を注いでもらった茶器に、茶筅を入れてかき回す。段々と泡が立ってくるのが面白くて、夢中でかき混ぜた。
「はじめてやりました、こういうの」
「そうか、京都やとお茶を立てられるお店が身近にあるけど、月城は東京育ちやもんね」
「お茶立ては初めてなのね。上手よ」
立てたお茶の飲み方を見よう見真似で習い、お茶を一口飲んだ後で羊羹を食べてみた。抹茶が苦い分、羊羹の上品な甘さが引き立つような気がする。
俺の隣で日向が満足そうなため息をついた。
「こうやって食べると、優雅な気分に浸れるよねえ」
「本当にねえ。普段はお砂糖を混ぜてラテにしてしまうけど、やっぱり茶筅でお茶を立てると美味しいわ」
「また時々こうやってお茶を立てようよ。月城も呼んでさ」
「え」
いいでしょと目で問われて、迷った挙句に頷いた。日常の忙しなさを忘れられる空気感はクセになりそうだ。
「じゃあまた、お茶菓子を買ってきます」
「うふふ、私もいい店をたくさん知ってるのよ。今度月城くんの持ってきてくれたお茶菓子と、食べ比べをしましょうか」
施されてばかりの食事会は肩身が狭いが、お茶菓子を持参するお茶会ならまた来てもいい。いや、来たいと頷く。
和やかな茶会を過ごしピアノ室にひっこんで、肺に貯めた空気を吐き出した。
「あ、もしかしてお茶会の誘いは嫌やった?」
「そうじゃなくて……京都に来てよかったなって思っただけ」
さっきのような穏やかな時間もそうだし、なにより日向に出会えたことが大きい。
きっと父が病気をする前の俺だったら、日向の優しさがどんなに尊いものか気づけなかっただろう。
「僕はずっと東京の舞台に母を連れていきたいって、それだけを思ってきたけど。でも京都に住んでてよかった。月城と会えたから」
ささやくような小声だったので、確かめるように顔を見上げると、日向の頬は赤く染まっていて。それすら手のひらにすぐに隠されてしまった。
「さて、練習しよ!」
「邪魔したい」
「なんで!?」
「しないけどな。勉強でもしながら聞いとく」
彼は意外なことを聞いたように目を瞬かせたが、すぐににこりと微笑んだ。
「ええね、テストも近いし勉強してて。わからないところがあれば教えるよ」
「さっき邪魔しないって言ったろ」
「テスト勉強も大事やし、遠慮しないでガンガン聞いて」
「……じゃあ一つだけ」
「うん、なに?」
ソファに座ってショルダーバッグを隣に置いた。少しためらった後で、思いきって聞いてみる。
「日向は、音大に行くつもりはないんだよな」
「うん」
「K大を狙ってるのか?」
「公立で、医学部があるところがええなって」
医学部だと。頭がいいやつの代表格な学部じゃないか。
「じゃあやっぱK大か」
「そうだね、このまま頑張ればいけるんじゃないかと」
「……俺も今から勉強を頑張れば、いけると思うか?」
医学部を目指したいわけじゃないが、どうせ大学に行くなら日向の側にいたい、なんて乙女のような思考が過ぎる。
ああ、馬鹿なことを聞いてしまった。バッグから教科書を取り出し読むフリをしていると、日向がぶつかるような勢いですっ飛んできた。
「月城、僕と同じ大学に行きたいってこと!?」
「いやいい、全教科赤点スレスレ野郎が行けるわけないよな、忘れろ」
あああ近い、ヤバい、離れろと腕を突っ張るが、テンションが振り切れた日向は腕を回してぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
「行けるよ、行こう! 全力で手伝うから!」
「お前に助けられてばっかりってなんか腹立つから嫌だ」
「なに言ってるの、いつも助けられてるのは僕のほうだよ! あの時だって……」
「予選の話はもう蒸し返すなって言っただろうが」
ムキになって全力で押しのけると、ようやく日向は離れてくれた。上がった息を整えながら、首を横に振っている。
「その話じゃないんだけど……とにかく、本選が終わったら改めて話そうよ。僕も月城と大学が同じだったらめちゃくちゃ嬉しい」
「わかった、わかったからとにかく今は練習しろ」
ようやく日向がピアノを弾きはじめた。華々しく勇壮な音楽に励まされながら、気持ちを切り替えて社会の教科書を読み込んでいく。
わかっていないところがそれなりにあって、ノートにメモを取りながら記憶の穴を埋めていった。
しばらく真面目に勉強をしていたはずなのだが、暖房のせいだろうか、気がつくと意識が落ちていたらしい。
夢うつつに、甘く柔らかなメロディーを耳にする。日向が弾いているのだろうが、眠くて目蓋が開かない。
なんだっけな、この曲……優しくて、包みこむような……考えているうちにまた意識が飛び、無音の中で揺り起こされた。
「月城、気持ちよさそうに寝ているところ悪いんだけど、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな」
「……悪い、寝てた」
「ふふ、授業中もよく寝てるもんね」
「いつの話だ、最近は寝てねえよ」
あくびを噛み殺しながら立ち上がり、バッグを持ってコートを着込む。外に出た瞬間に十二月の風が襲ってきて、一気に眠気が覚めた。
「寒い」
「そうだねえ、そろそろ冬になるから。あ、カイロいる?」
もう一分一秒を惜しむような勢いで練習したりしないが、指先が温かいほうがいいに決まっているので受け取っておいた。
「ところでさ。月城って土曜日は忙しいよね?」
「基本バイトだが」
日向はそわそわしながら、マンションの廊下に落ちた葉を蹴飛ばしている。
「無理やったら全然ええんやけど。もしもよかったら本選、聴きにきてほしいなあ、なんて」
「行く」
そんなの行くに決まってる。
バイトを一週間も休んだし、来月は出費を控えて土日は全部シフトを入れようと思っていたが、日向が来てほしいと言うなら這ってでも行く。
「大丈夫? 無理してない?」
「そのくらいどうとでもなる、なめんな」
マンションのエントランスを通り抜けて、地下鉄までの道を進みはじめると、やはり日向は当然のようについてきた。
「なあ日向、俺には気を使わず、今みたいにちゃんと言いたいことを言えよ」
「うん、そうする。ありがとう、今回はどうしても来てほしくて」
「また殴ってほしいのか」
「それはもういいよ!」
「ふ、冗談だ」
ニヤリと笑うと、日向は気が抜けたように笑った。
「ふふ、月城も冗談を言うんだ」
「言うに決まってるだろ、人をなんだと思ってるんだ」
「すごくかっこいいのに、時々すごく可愛い男の子」
「……っおい」
ふざけんなお前、こんな街中で。
「俺が可愛いわけないだろうが」
すごんで睨むと、わあ怖いと大袈裟にのけ反られる。
「照れたからって手を出すのはやめてね?」
「照れてねえ」
胸ぐらを掴もうとするが避けられた。隙をついて頭を撫でられて、慌てて手を押さえようとした瞬間に離れていく。
「あ、駅についた! また明日ね!」
「待てよ、勝ち逃げすんな」
「勝ち逃げとかじゃなくて、月城の髪を一回撫でてみたかっただけだから」
さっきから俺を惑わせることばっかりしやがって。今度は起きてる時にキスすんぞ。
触られた部分を押さえながら背中を向ける。地下鉄行きの階段の前で振り向いた。
「おい日向、本選が終わったら覚えてろ」
「わかった、楽しみにしてる」
ああもう、完敗だ。手のひらを向けて別れの挨拶をすると、彼も満面の笑みで手を振り返してきた。