日向の演奏をすべて聞いてから、言葉を交わすことなく舞台袖を後にする。
客席側に向かうと、待ち構えていた母さんから励ますように背中を叩かれた。
「ほんまにすごかったわ。でも、あれでよかったん?」
「……ああ、いいんだ」
母さんは二、三度背中を叩いた後、ふうと息をついた。
「残りの演奏も聴いてこか。ああでもなんか、いろいろ明人と話したい気分。明人にピアノを貸していただいた方も会場にいはるんかな、ご挨拶したいわ」
「まだホール内で演奏を聴いてるんじゃないか」
小ホール側に目を向けようとすると、ちょうど舞台裏から走ってきた日向と目があう。
「月城!」
「あら、あの子が一緒に練習してたクラスメイト?」
日向を殴ったほうの頬が赤くなっていて、思わず視線を逸らしてしまう。母さんは嬉々として日向の元に向かい、頬を見て顔をしかめた。
「腫れてるわ、痛そう……喧嘩にでも巻き込まれたん?」
「いえ、愛情を注いでもらいました」
「おい日向」
それ以上喋らないでくれ。日向の口を塞ごうとしたところで、今度は日向の母まで駆けつけてきた。
「どうしたんその傷……! ギリギリまで来れなかったのは、なにか事件に巻き込まれていたからなの!?」
「お母さん落ち着いて、違うから」
日向を殴ったのは俺だとその場で白状し、日向の母親に謝った。
「すみませんでした」
「そんなんいいのに、僕はこれのお陰で目が覚めたんやから」
「あらあら、日向が強情やったんかしら」
ふわふわした雰囲気の時藤親子の前で、母さんも平謝りしている。
「ほんとにすみません、うちの息子が」
「このくらいなら跡も残らんように思います、どうかお気になさらないで」
針のむしろにいる気分で謝り倒し、時藤親子と別れた。
日向の姿が見えなくなるまで見送っていると、母からバシッと背中を叩かれる。
「あんなやんちゃはもうやめてね」
「もうしない」
「反省してるならええわ。そんじゃ、大阪観光してから帰りましょ」
母さんに連れられて、通天閣周辺を練り歩いた。行列がすごいラーメン屋を見つめていると、母が話しかけてくる。
「それにしても明人、すごかったわ」
「何度も言わなくてもわかったって」
「いやだってねえ、ほんまにびっくりした。いつの間にあんなにジャズが弾けるようになったん?」
「あんなのジャズとは呼べない、クラシックでもない半端な音楽だ」
目一杯やりたいように楽しく弾いてやったけれど、誰からも評価を得られないタイプの音楽だろう。
「誰かの評価がそんなに大事? 少なくとも私は感動したよ」
「そうか?」
当たり前のように言われて、心の奥が熱を帯びる。
……そうだな、審査員の評価が必要なのは日向であって、俺は頑張ったなって認めてもらえたらそれで十分だ。
「そうよ。きっとお父さんも好きやわ。誰がなんと言おうと明人はよくやった、誇らしいぞって、もしも聴いてたら言ったと思う」
「そんな風に言われたことはないけどな」
「あの人、照れ屋やから。私の前以外ではよう言わんのよ」
父は頑張っている俺の姿を横目に、黙って音楽を聞いているタイプの人間だった。
すごいでしょ、とか声をかけても、ああとかうんとか、気の無い返事しか返ってこないので、ピアノを弾いてばかりいた。
ピアノを弾いている時なら、少なくとも俺の奏でる音を聞いてくれるから。
それだって、ほとんど反応してくれなかったけれど。
母さんをチラリとうかがうと、いつになく晴れ晴れとした表情をしていた。
最近は仕事に出る前のため息が小さくなったし、前ほど辛くなさそうだ。
「最近仕事先の業績が順調でね、ちょっとだけ臨時ボーナス出たんよ。今日は美味しいもんでも食べて帰ろ」
「俺、ラーメンがいい」
「ラーメンはどこでも食べれるやん。串焼きとかお好み焼きとかの、大阪名物にしいひん?」
「じゃあ肉にするか。串焼きで」
「あんたはいつだって肉かラーメンの二択やね」
呆れられながらも、母さんと一緒に串焼きを食べた。
テーブル席に向かい合って座り、たっぷりとタレをつけた串にかじりつくと、じゅわっと旨味が口の中に広がる。
「美味しいわあ……」
しみじみと呟きながら、母は隣の空席に目をやった。
以前はどの店に行っても置物のように座っている父が、母さんの話を静かに聞いていた。
……あいつのことを考えると、今でも鳩尾がむかむかすることがある。
けれどいつまでも過去に囚われているんじゃ、前に進めない。
唇を軽く噛んでから、さりげない調子を装い口を開いた。
「……父さんにも食べさせてやりたいって?」
「あら、なんでわかったの」
「どうせ心の声がだだ漏れなんだから、好きに言えばいい」
「でもまた怒るやろ」
「もうそんな子どもみたいな真似はしない」
なにか言いたげな母さんに重ねて告げた。
「あいつが病気をしたせいで、俺たちの生活はずいぶん変わったよな」
「ちょっと明人、そんな言い方……」
「でもそれまでの生活は、父さんが頑張って働いていたから維持できてたってことだろ」
母さんが手に持っていた串を皿に下ろして、俺の顔をじっと見る。
「それに気づいたから、もう被害者面するのはやめる」
指導者がいなくてもコンクールに出られたし、舞台の上にも立てた。誰とも話があわないと人を拒絶していたけれど、日向がいた。
俺の考え方次第で、やりようはいくらでもあるんじゃないかと今では思える。
自分の考えに納得して頷いていると、母さんは一番大きな牛串を俺の皿に乗せた。
「男の子の成長って急に来るんやね。今日はお祝いや、好きなだけ食べ食べ」
「じゃあ母さんにはこれやるよ。うずら卵、好きだろ」
「だーい好き」
母さんははにかむように笑って、俺の手から串焼きを受け取る。俺もつられて笑顔が零れた。
翌日、妙に早起きをしてしまい、早めに家を出たら学校に向かう途中で日向に呼び止められた。
またしても急に肩を掴まれて、うっと声を上げてしまう。
「お前な、驚かすなって」
「ごめん。月城だ! って体が先に動いちゃった」
その言い方だと、俺に会うのを楽しみにしているように聞こえるが。そう受け取っていいのか?
隣に並んだ日向は、俺の顔を見ては空のほうを向いてみたり、葉の散った木を眺めてみたりと挙動不審だ。
俺のほうもさっき掴まれた肩をもう離されたのが物足りないと感じてしまい、日向の目がまともに見れない。
「ええ天気やね」
「そうだな」
「昨日はありがとう、最高のエールやった」
むずむずと口角を上げる日向の頬は、まだほのかに赤い。
頬は大丈夫なのかと指を伸ばすと、静電気でも走ったのかと思うほど大袈裟に退け反られる。
「あ、痛むか?」
「痛くないよ! びっくりしただけ」
日向が頬をさするとますます赤くなったように見える。
昨日殴った上に、告白まがいのことをしてしまったからな……日向にはどういう風に受け取られたんだろうか。
生理的に無理とか、そういう反応ではなさそうだが。せめて友達のままではいられるだろうか。
横目で彼をうかがうと、日向はごくりと唾を飲み込んだ。
「あのさ、予選の前に月城が言ってたことなんやけど」
「……おう」
なるべく呼吸を潜めて、日向の言葉を聞き逃さないように気を張っていると、彼はうんうん唸った後に頭を抱えた。
「どうしよ、嬉しい、めちゃ嬉しいんやけど」
「……うん」
「あのさ、返事は本選の後でもええかな?」
なんだそれ。目を見張っていると、日向は俺の肩を抱いてきた。ふわりと香る日向の匂いに、指先が強張る。
「その、嬉しすぎて……抑えがきかなくて、本選をすっぽかしたくなるから」
「それって」
もう言ってるも同然じゃねえか。
でもおかしいだろ、日向には好きなやつがいたはずで。
「……日向の好きなやつって、まさか……俺?」
日向は空を仰いで目元を覆った。その頬が見間違えようもないほど真っ赤に染まっていて、俺の鼓動も否応なく走りだす。
「あの、とにかく! 今は練習に集中したくて! 本当にごめん」
「謝るなよ、それじゃ俺が振られたみたいになるだろ」
「振ってない! 振るわけない!」
だったら、そういうことでいいんだよな?
周りに人目がないことを確認してから、日向の肩を抱き返すと、スルリと逃げられて舌打ちをする。
「おい、逃げるなよ」
「だから駄目やって、月城のことで頭がいっぱいになっちゃうから」
仕方ないと大人しく歩きだすと、彼はあからさまにホッとした表情をした。なんだよ、ムカつく。
「ごめんね。待っててくれる?」
「これで本選の舞台で適当な演奏をしたら、前言撤回してやる」
「やめて、捨てないで!」
「おいやめろ、周りが見てるだろ」
学校が近づいてきた。道ゆく生徒が日向と俺の組み合わせを見て注目しているのがわかる。
「そもそもまだ予選の結果も出てないのに、ずいぶん自信があるんだな」
「今回は手ごたえあったからね」
「練習は見にいっていいのか」
「いつでも来て、月城がいるほうが張り合いが出るから」
教室についてもまだ日向が話したそうにしているので、思いきって誘ってみる。
「後で昼、一緒に食べるか?」
「……! うん! また後でね」
輝く笑顔を残して日向が席に戻っていく。受け入れられたという実感がじわじわと湧いてきて、口元を隠すようにしながら頬杖をついた。
「時藤くん、おはよう! 今日もかっこいいね」
「おはよ。そういう風に褒めてくるってことは、どっか褒めてほしいんかな?」
「もう、そんなんやないよー」
女子が日向に媚びるのを見ても、今日は寛大な心で許せそうだ。
知ってるか、そいつ俺のことが好きなんだぞ。
「ノート、ちょっと見せてもらえないかなあって」
「ああ、今日が小テストやっけ」
「もう時藤くんはバッチリなんやろ?」
「そんなことないよ、最近はピアノばっかり弾いてたから。僕もテスト範囲を予習しないと」
日向が慌ててノートを開いている。俺も忘れていた。
今からでもやらないよりはいいだろうと、俺も教科書を開いて読み直しはじめた。