十一月の第三日曜日、ついに高校生ピアノコンクールの予選日がやってきた。大阪行きの電車に母さんと一緒に乗り込む。

 俺は着なれないスーツを着ていて、母さんもいつもよりめかしこんでいる。ソワソワと空席に座った。

「なんや緊張してきたわ」
「なんで母さんが緊張してるんだ」
「ちゃんと録画できるかなって」
「そっちかよ」
「だってこれ、借り物なんよ。前に使ってたやつと操作方法が違うから」

 わざわざ職場の同僚からビデオカメラを借りてきたらしい。スマホのカメラで充分だろうに、張り切りすぎだ。

 代理で機械を弄って、使い方を把握した。録音のやり方を教えている間に、景色はどんどん通り過ぎていく。

 譜読みをする時間が取れなかったが、まあいい。俺は俺のやりたいようにやる。

 予選会場の小ホールをのぞくと、予想以上にしっかりとしたホールだった。

 母さんが客席につくところまでつきそって、ホールから出ると日向の母と出くわした。

「あ、お疲れ様です」
「あら月城くん、日向を見なかった?」
「見てません」
「あの子、お腹の調子が悪いってトイレに行ったきり戻ってこないんよ。大丈夫かしら」

 本番に弱いのだろうか。あり得そうだと眉をしかめる。

「俺が様子を見にいってきます」
「ありがとう、よろしくね」

 連絡を取ろうとスマホを開くが、俺のメッセージは昨日と変わらず既読になっていなかった。

 廊下に出てしらみつぶしにトイレの中をのぞいていくと、ホールから一番遠いトイレの洗面所で、鏡を見ながら青い顔をしている日向を見つけた。

「日向」

 声をかけると日向は振り向いたが、俺の姿を見るなり視線を逸らしてしまった。

「月城、来てたんだ」
「来るって言っただろ」
「そうやけど」

 うつむいたままぼんやりしている様子は、いつもの日向らしくない。せっかくスーツ姿なのに、魅力が霞んでしまっている。

「腹が痛いって?」
「そんなことないよ」
「じゃあなにがあったんだ」

 日向は忙しなく視線を巡らせ、口先だけは明るく告げる。

「もう持ち場に行ったほうがええんやないかな。僕は大丈夫だから」
「いいから言えよ」
「でも、月城には関係ないことやし」
「俺は知りたい、お前のこと」

 日向は黙り込んでいる。どうすればこいつの心を開かせることができるんだろうか……

 あまりにも言葉が出てこないことに愕然として、そういえば俺は日向に対して望みや気持ちを伝えたことが、ほとんどないと気づいた。

 それはいつも日向が先回りして、俺の気持ちに気づいてくれていたからだった。

 自分の希望よりも人の想いを優先して、呼吸をするように叶えてしまう日向。

 本当は誰かが気づいて、こいつの気持ちを引き出してやらなきゃいけなかったんだ。

 けれど今の俺に対しては、日向はなにも話したがらないだろう。心を開いてもらうためにはきっと、自ら歩み寄る姿勢を見せないと駄目だ。

 俺は覚悟を決めて口を開いた。

「この一週間、練習に顔を出せなかったのには理由がある」

 左手を日向の目の前に差し出す。水ぶくれがあった場所は皮膚の色が白っぽく変色していた。

「火傷したんだ。そのせいで手が動かなかった」
「えっ」
「隠しててごめん。みっともないだろ」
「そんな、大変やったね」

 手を握られて引き抜きたくなったが、我慢して触られるがままにした。そっと触れるな、くすぐったい。

「もう手は治ったが、練習できなかったからまともに弾けない」
「うん。でも来たんやね」
「そうだ……未練を、断ち切りたくて」

 俺は父さんの病気のせいでピアノの発表会に出られず、習うことすらできなくなり生活が一変したことを日向に打ち明けた。

「立ちたかった舞台に立てなかったことがどうしても心残りで。だからもう一度、どこでもいいから舞台に立ちたかった」
「そうやったんやね……僕は」

 日向がなにか話そうとした時、館内アナウンスが流れた。

『高校生ピアノコンクール出場者の月城明人様、時藤日向様。小ホール舞台裏の控室にお越しください。繰り返します……』

「うわ、ごめん。また後で」
「いい、今言えよ」
「でも時間ないし」
「吐き出してスッキリしちまえ、そんな青い顔のまま舞台に立っても全力は出せないだろ」

 促しても、日向は首を振るばかり。俺は彼の胸ぐらを掴んで凄んだ。

「言えって」
「ちょっと、皺になる」
「シャツの皺じゃなくて殴られる心配をしろよ」
「月城は僕を殴らんよ、わかってる」
「なんでだよ」

 日向は困ったように口の端を引き上げた。

「どんなに脅してもさ、月城はピアノを愛してるから。だから手が傷つくようなことはしないでしょ」
「ほお、そうか」

 笑いたくもないのに笑うな、いい加減に目を覚ませ。拳を握ってストレートパンチを繰り出した。

 手加減はしたものの、頬に衝撃を受けた日向は呆然と俺を見ている。

 なんて顔してやがる。俺は噴き出した。

「ははっ、今の俺にはピアノ以上に愛してるやつがいるんだよ!」

 鳩が豆鉄砲をくらった顔って、こういうのを言うんだろうな。頬を押さえた日向はみるみるうちに赤くなる。

「え、それって……!」
「ほら、もう一回殴られたくなかったら早く吐け」

 これだけは隠したままでいるつもりだったのに、勢いで気持ちまで伝えてしまった。

 照れ隠しに胸ぐらをもう一度掴むと、最後通達のアナウンスが流れてくる。もうそろそろ行かないとガチでまずい。

 日向の腕を掴んで引っ張ると、彼は大人しくついてきた。クッソ、顔が見られねえ。

 ずんずんと早足で舞台裏へと急ぐ。ギリギリ間に合ったようで、次が俺の番だった。

 舞台袖で日向を開放すると、彼は独り言のように呟く。

「……僕の演奏は温かみがないんやって。ロボットみたいで表現力に欠けてるって、毎年それで落ちてる」

 そうか、それで技巧は拙いが、気持ちだけはこもっている俺の演奏を聞きたがっていたんだな。

「受験のことを考えたら今年が最後のチャンスやから、絶対に失敗したくないんだ」

 前のやつが演奏を終えて、舞台袖に戻ってくる。まだ聞いてやりたいが、もう時間だ。

「俺の演奏を聴いてろよ。失敗なんて言わせないから」
「え? でも……」

 日向の言葉を最後まで聞かずに舞台の上に姿を見せた。忘れずに椅子の高さを調整し、高揚した気分のまま腰を下ろす。

 煌々とライトに照らされた象牙の鍵盤に手を置くと、不思議と心が落ち着いた。肩の力を抜いて、一音目を滑らかに弾きはじめる。

 バッハのフーガは、左手と右手でかけあうようにメロディを弾く曲だ。この曲はもともと弾けていたから問題ない、練習よりも調子がいいくらいだ。ペースを乱さないように指先を動かしていく。

 一曲目が無事に終わった。二曲目はショパンのエチュード〈Winter Wind〉だ。

 穏やかなイントロを終えた次の瞬間に、吹雪のように高音から低音に向けて音の粒を吹きつける。無我夢中で右手を操った。

 極寒の冬……京都に引っ越して初めての冬。凍てつく雪の日に家に帰っても灯りはなく、部屋はしんと冷え切っている。

 東京とそう温度は変わらないのに、指先が凍えるほど寒かった。あの時の気持ちを思い出しながら鍵盤に乗せていく。

 一度は失ったと思っていた舞台で今、俺はライトに照らされてピアノの音を響かせている。出来うる限りの技術を駆使して、左手の和音でメロディを支えながら、右手で流れるように音を吹きつけた。

 指を思いきり伸ばして、鍵盤に思いを叩きつける。
 どれだけ手指を滑らかに動かそうとしたって、理想どおりに弾けやしない。

 それでも、お前がすごいって笑ってくれるから。
 今日も俺は精一杯の音を響かせて、心を込めて曲を奏でるんだ。

 曲が進み、左手と右手を同時に動かす難所に差しかかった。今までに一度も弾きこなせたことがない部分だ。

 俺は原曲の音を捨てて、ジャズの音色を交えつつ弾きやすいように編曲しはじめた。客席がざわついたが、気にせず弾きたいように音を響かせる。

 冷たく美しい原曲の音色が、ジャズの音で妖しく歪んで切なげな曲調に様変わりする。

 日向と出会った頃、俺は凍えながら春を待つ種のように、芽を出す場所を探し求めていた。

 あいつと一緒にピアノを弾くようになってから、なにもかもが変わった。捻くれていた心が解けて、父親のせいで上手くいかないと憎むのはもうやめようと思えた。

 メロディが移ろいで、春の装いに変わっていく。春風がキラキラと空を舞い、太陽の光が木漏れ日のように瞬く。

 まるで日向のようだ。温かくて懐が深くて、側にいると凍えた心が溶けていく。愛おしさを音に乗せるが、同時に開いてしまった距離を思って苦くなる。

 あいつには好きな人がいるから……告白まがいのことをしてしまったし、きっともう以前のようには会えないだろう。再びジャズの音色が混じることで曲が秋色へと変化していく。

 最後に日向からもらったカイロの温度を表現し終えたところで、曲が終焉を迎えた。ああ、好き放題にやってやったぞ。

 満面の笑みを浮かべながら手を膝に置くと、盛大な拍手がホール中に鳴り響いた。客席に目を向けると、母さんが立ち上がってなにか叫んでいる。

「無茶苦茶やん! 無茶苦茶、すごかった!!」

 最後だけは行儀良く、優雅にお辞儀をして舞台袖に引っ込んだ。あんぐりと口を開けて待っていた日向に親指を立てて笑う。

「楽しめ。俺はめちゃくちゃに楽しんでやった!」
「ほ、本当に……めちゃくちゃやった! 大成功だ!」

 つられて微笑んだ日向は、さっきと違って無理のない、自然に綻んだような笑顔だった。彼は俺と拳をあわせて、頬を上気させたまま舞台へと向かう。

 殴られた頬がちょうど客席側から見えて再び場がざわつくが、日向には構えたところがなく、何事もなかったかのように椅子に座った。

 澄んだ音がピアノから零れ落ちる。浮ついたところのない粒の揃った演奏だが、いつもより明るくて清々しい。

 ああ、日向が楽しんでいる。俺は満足気に笑みを浮かべながら、舞台袖から輝くステージを一心に見つめていた。