水曜日になっても左指の水ぶくれは小さいながらも残っていた。
指が治らないせいでバイトは一週間休みになってしまった。コンクールの課題曲を弾きこなすのも、もう無理だろうな。
日向には悪いが、東京の本選には行けそうにない。もしも本選に行けたらついでにやりたいことがあったが、それも叶わなさそうだ。
家でじっとしていると気が滅入るので、ジャズクラブへ向かう。チケットを買って端っこの席で失意を紛らわせていると、日向から連絡が入った。
『今日も練習しにこないの?』
『ああ、やめとく』
『月城、なんかあった? 相談してよ』
相談に乗ってもらったところで火傷はどうにもならない。怪我をした直接の理由は客とのトラブルだが、どうにも罰が当たった気がして日向に怪我のことを打ち明ける気になれなかった。
『電話していい?』
『今はちょっと』
『外なんやね。どこにいる?』
ここは日向も知っている店だ。演奏の途中で店を出て、鉢合わせしないように真っ直ぐ家に戻ろうとする。
四条通りに出てアーケードの人混みをぬって歩いていると、地下鉄から出てきた日向と出くわした。すぐに反対側を向いて彼から遠ざかろうとする。
「待って月城!」
中国人らしき観光客の群れに突っ込み、文句を言われながらも突っ切って離れていく。八坂神社の前まで来て、どうやら巻いたようだと胸を撫で下ろした。
夜の八坂神社はライトアップされておらず、境内では赤黒く染まった紅葉が風に吹かれるままに葉を散らしている。俺は人混みを避けるようにして境内に足を踏み入れた。
ぼんやりと光る灯籠がわずかばかり辺りを照らしていて、美しいというよりは幽霊でも出そうな風情だ。一回りしてから帰ればきっと日向ともかちあわないだろう。
風は冷たく、紅葉はざわざわと揺れている。指先を温めたくてカイロを探したが、そういえば昨日で使い切ってしまったと思い出した。
仕方なくポケットに手を突っ込んだまま歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「うわっ」
「月城!」
「お前、脅かすなよ」
「月城こそ、僕から逃げないでよ」
手を振り払おうとするが、回り込まれて両肩を掴まれてしまった。
顔が近い、こんな時なのに心臓が早鐘を打ち始める。深呼吸して落ち着くために大きく息を吐くと、日向の肩がピクリと震えた。
「コンクールに誘ったこと、迷惑やった?」
「は?」
「僕が無理矢理誘ったから、嫌になったんかな」
「そんなこと……」
きっぱり否定するとではなぜ練習に来ないんだと聞かれそうで、歯切れ悪く言葉を濁す。
日向が力なく腕を下ろした。このままだと誤解されそうだ。
「違う、舞台に立ちたいのは本当だ」
「なんのために? 月城はどうして舞台に立ちたいの?」
母さんと父さんに俺の晴れ姿を見てほしい。幸せだったあの頃の最後の未練に蹴りをつけたい。
そんな思いが捨てきれなくてコンクールに申し込んでみたけれど、どうせ本選に出場したところで父が現れないことはわかっている。
予選に出て、その様子を録音して父に送ってもらえれば、それで満足だった。出たかった発表会の代わりとして、未練が断ち切れるだろう。
けれどそんな願いは子どもっぽい気がして、口に出すのをためらっていると日向は項垂れた。
「僕は予選の舞台に立つだけじゃだめなんよ……本選に出ないと」
「母親のためにか? そんな思い詰めてまで練習してほしいって、あの人は思ってないだろ」
「それは……知ってるけど」
日向はそれ以上答えない。しばらくの間俯いていたが、やがて顔を上げて踵を返した。
「巻き込んで悪かったね。僕一人でも練習する、もう月城には頼らない」
「待てよ……!」
思わず日向の腕を掴んだが、簡単に引き離される。左手が使えればよかったのに。ポケットに入れたままの手を握りしめるとピリリと痛んだ。
去っていく背中に声を張り上げる。
「予選には出る、お前の演奏も聞くから!」
日向は一瞬立ち止まったが、振り返ることなく去っていった。肩に乗った紅葉を払って、俺も家路につく。
地下鉄の中、睨むような目つきでスマホを見据えた。
今からでもわけを話したほうが……いや、日向はいつだって完璧だった。俺がいなくたって、そつなく課題曲の練習をこなすに違いない。
冷えた指先ごと、ポケットの中にスマホをしまいこんだ。
一日中予定が入っていない土曜日が来た。早くに目が覚めてしまい、どうしようかと途方に暮れる。
リビングでぼーっとしていたら、起きてきた母に意外そうな顔をされた。
「どうしたん、明日がピアノコンクールなんやろ? こんなゆっくりしてていいの」
「あ、いや。このあと練習する」
反射的に答えてから、居心地悪く左手で右腕を抱える。
指は元通りになり、動かしても痛まなくなっていた。少々跡は残ったものの、それもじきに消えるだろう。
母が仕事に出かけた後で、さんざん迷ってから日向にラインを送った。
『今日そっちに行ってもいいか』
十分待っても二十分待っても返事がない。いつもならとっくに気づいて返信が来ているはずなのに。
家にいても落ち着かないので、外に出かけることにした。電車に乗り込んでも既読がつかない……もう俺のことは見限ったのだろうか。
今更連絡してくるなんてと、迷惑がられているのかもしれない。
そもそも俺は彼の練習時間を邪魔していた身だ。家まで押しかけて弾かせろなんて、とても言う気になれなかった。
結局、四条烏丸に向かう前に京都駅で足を下ろした。エスカレーターを道なりに昇り、七階へ。
冬の空気の中に佇むピアノは、指先を乗せると凍えるほどに冷えていた。
両手を擦りあわせて課題曲を弾いてみるが、寒さもあって指が全然思った通りに動かない。悲しくなるほど腕前が退化している。
わかっちゃいたが、これじゃ本選には絶対に挑めないだろう。
俺はそれでもいいが、日向は悲しむだろうな……
『音楽って、気持ちが伝わるのが一番やね』
不意に日向の声が脳裏に蘇った。この状態で、俺が彼にしてやれることはなんだ……?
それはきっと、仕上がらないピアノ演奏を必死に取り繕うことではない。
俺は心を決めて鍵盤を押さえた。
指が治らないせいでバイトは一週間休みになってしまった。コンクールの課題曲を弾きこなすのも、もう無理だろうな。
日向には悪いが、東京の本選には行けそうにない。もしも本選に行けたらついでにやりたいことがあったが、それも叶わなさそうだ。
家でじっとしていると気が滅入るので、ジャズクラブへ向かう。チケットを買って端っこの席で失意を紛らわせていると、日向から連絡が入った。
『今日も練習しにこないの?』
『ああ、やめとく』
『月城、なんかあった? 相談してよ』
相談に乗ってもらったところで火傷はどうにもならない。怪我をした直接の理由は客とのトラブルだが、どうにも罰が当たった気がして日向に怪我のことを打ち明ける気になれなかった。
『電話していい?』
『今はちょっと』
『外なんやね。どこにいる?』
ここは日向も知っている店だ。演奏の途中で店を出て、鉢合わせしないように真っ直ぐ家に戻ろうとする。
四条通りに出てアーケードの人混みをぬって歩いていると、地下鉄から出てきた日向と出くわした。すぐに反対側を向いて彼から遠ざかろうとする。
「待って月城!」
中国人らしき観光客の群れに突っ込み、文句を言われながらも突っ切って離れていく。八坂神社の前まで来て、どうやら巻いたようだと胸を撫で下ろした。
夜の八坂神社はライトアップされておらず、境内では赤黒く染まった紅葉が風に吹かれるままに葉を散らしている。俺は人混みを避けるようにして境内に足を踏み入れた。
ぼんやりと光る灯籠がわずかばかり辺りを照らしていて、美しいというよりは幽霊でも出そうな風情だ。一回りしてから帰ればきっと日向ともかちあわないだろう。
風は冷たく、紅葉はざわざわと揺れている。指先を温めたくてカイロを探したが、そういえば昨日で使い切ってしまったと思い出した。
仕方なくポケットに手を突っ込んだまま歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「うわっ」
「月城!」
「お前、脅かすなよ」
「月城こそ、僕から逃げないでよ」
手を振り払おうとするが、回り込まれて両肩を掴まれてしまった。
顔が近い、こんな時なのに心臓が早鐘を打ち始める。深呼吸して落ち着くために大きく息を吐くと、日向の肩がピクリと震えた。
「コンクールに誘ったこと、迷惑やった?」
「は?」
「僕が無理矢理誘ったから、嫌になったんかな」
「そんなこと……」
きっぱり否定するとではなぜ練習に来ないんだと聞かれそうで、歯切れ悪く言葉を濁す。
日向が力なく腕を下ろした。このままだと誤解されそうだ。
「違う、舞台に立ちたいのは本当だ」
「なんのために? 月城はどうして舞台に立ちたいの?」
母さんと父さんに俺の晴れ姿を見てほしい。幸せだったあの頃の最後の未練に蹴りをつけたい。
そんな思いが捨てきれなくてコンクールに申し込んでみたけれど、どうせ本選に出場したところで父が現れないことはわかっている。
予選に出て、その様子を録音して父に送ってもらえれば、それで満足だった。出たかった発表会の代わりとして、未練が断ち切れるだろう。
けれどそんな願いは子どもっぽい気がして、口に出すのをためらっていると日向は項垂れた。
「僕は予選の舞台に立つだけじゃだめなんよ……本選に出ないと」
「母親のためにか? そんな思い詰めてまで練習してほしいって、あの人は思ってないだろ」
「それは……知ってるけど」
日向はそれ以上答えない。しばらくの間俯いていたが、やがて顔を上げて踵を返した。
「巻き込んで悪かったね。僕一人でも練習する、もう月城には頼らない」
「待てよ……!」
思わず日向の腕を掴んだが、簡単に引き離される。左手が使えればよかったのに。ポケットに入れたままの手を握りしめるとピリリと痛んだ。
去っていく背中に声を張り上げる。
「予選には出る、お前の演奏も聞くから!」
日向は一瞬立ち止まったが、振り返ることなく去っていった。肩に乗った紅葉を払って、俺も家路につく。
地下鉄の中、睨むような目つきでスマホを見据えた。
今からでもわけを話したほうが……いや、日向はいつだって完璧だった。俺がいなくたって、そつなく課題曲の練習をこなすに違いない。
冷えた指先ごと、ポケットの中にスマホをしまいこんだ。
一日中予定が入っていない土曜日が来た。早くに目が覚めてしまい、どうしようかと途方に暮れる。
リビングでぼーっとしていたら、起きてきた母に意外そうな顔をされた。
「どうしたん、明日がピアノコンクールなんやろ? こんなゆっくりしてていいの」
「あ、いや。このあと練習する」
反射的に答えてから、居心地悪く左手で右腕を抱える。
指は元通りになり、動かしても痛まなくなっていた。少々跡は残ったものの、それもじきに消えるだろう。
母が仕事に出かけた後で、さんざん迷ってから日向にラインを送った。
『今日そっちに行ってもいいか』
十分待っても二十分待っても返事がない。いつもならとっくに気づいて返信が来ているはずなのに。
家にいても落ち着かないので、外に出かけることにした。電車に乗り込んでも既読がつかない……もう俺のことは見限ったのだろうか。
今更連絡してくるなんてと、迷惑がられているのかもしれない。
そもそも俺は彼の練習時間を邪魔していた身だ。家まで押しかけて弾かせろなんて、とても言う気になれなかった。
結局、四条烏丸に向かう前に京都駅で足を下ろした。エスカレーターを道なりに昇り、七階へ。
冬の空気の中に佇むピアノは、指先を乗せると凍えるほどに冷えていた。
両手を擦りあわせて課題曲を弾いてみるが、寒さもあって指が全然思った通りに動かない。悲しくなるほど腕前が退化している。
わかっちゃいたが、これじゃ本選には絶対に挑めないだろう。
俺はそれでもいいが、日向は悲しむだろうな……
『音楽って、気持ちが伝わるのが一番やね』
不意に日向の声が脳裏に蘇った。この状態で、俺が彼にしてやれることはなんだ……?
それはきっと、仕上がらないピアノ演奏を必死に取り繕うことではない。
俺は心を決めて鍵盤を押さえた。