君の指先をずっと見ていた

 文化祭三日目は合唱祭の日だ。母さんは結局休めなかったと言って、咳をしながら仕事に出かけていった。

 いっそのこと休んでやろうか。

 時藤からは何度かメッセージが送られてきたが、彼の顔が頭に浮かぶだけで挙動不審になるため、読めてすらいない。

 迷っている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。自室に戻り椅子の背もたれに背中を預けて、両手を頭の後ろで組んだ。

 別に俺がいなくたって、合唱祭にはなんの影響もない。もともとクラスに居場所はないし、時藤だって俺なしでも華麗に伴奏をこなすだろう。だから俺がいなくたって……

『ああ、やっぱり上手くいかんわ。全然月城みたいに弾けてないやろ』

 時藤が嘆く声が頭の隅で再生される。間奏の途中で演奏を投げ出し頭を掻いていた。

 それに、前回の合唱練習の時だって、不安そうな目で上手く弾けていたかと問いかけられた。

 俺の演奏が好きで、俺みたいに弾きたいと言っていたよな……俺が休んだら、もしかしたら。

『月城のためなら弾きたい』

「……くそ」

 遅刻確定の時間になってからやっと家を出た。

 合唱を行う予定の体育館ではすでに演奏がはじまっていて、客席は大勢の生徒や保護者がひしめいていた。

 舞台裏に顔を出すと、時藤が俺を見つけて駆け寄ってくる。

「月城、よかった! 来てくれるって信じてたよ」
「うわっ」

 急に抱き締められて突き飛ばしそうになったが、なんとか堪える。

 優しい茶葉の香りが鼻先をかすめて、とくんと胸が鳴った。やめろ俺、違うだろ。

 抱擁を解いた時藤は、俺の腕を引っ張って持ち場へ立たせた。

「次が僕らのクラスだ。合唱、絶対成功させようね」
「……ああ」

 時藤が去って間もなくすると、前のクラスの合唱が終わった。まだドキドキ煩い心臓を宥めながら壇上へと足を運ぶ。

 眩い舞台の上に姿を表すと、客席から視線を感じた。

 人々の期待を注がれ輝く舞台の空気感が、やっぱり好きだと思う。叶うことならピアノを弾きたかった。

 ピアノのほうに視線を向けると、時藤は背筋を真っ直ぐに伸ばして席につき、鍵盤の上に手を下ろして指揮者の指示を待っている。

 指揮棒の動きにあわせて前奏がはじまった。爽やかな風が吹き抜けるような伴奏にあわせて声を出す。

 最近はピアノの練習をしながらバイトもしっかりこなすために、夜は家に帰ってすぐ寝るようにしていた。

 そのおかげで母さんから風邪が移ることもなく、存分に声を出すことができる。

 時藤は主張しすぎることなく、さりげない伴奏で合唱を支えた。

 苦手としていた間奏部分も仕上げてきている。優雅で力強い演奏に、しばし俺は見惚れた。

 歌声がひとつになる。指揮を中心に、伴奏が声を彩り、客席まで遮るものなく響いていく。

 気がつくと、身の底から湧き上がるような震えが肌の産毛を立てていた。

 背中を押されるようにして歌い続けて、歌詞を味わいながらみんなと声をあわせていく。

 合唱が終わる頃には体温が上がっていた。額に滲んだ汗を不快に思いながら目を細めると、時藤と視線が交わる。

 満足のいく演奏ができたらしい、どこか誇らしそうな笑みだった。ああ、来てよかったと笑い返す。

 舞台裏に引き返して客席に向かおうとすると、後ろから近づいてくる足音が聞こえた。肩を叩かれる前に振り向く。

「時藤、お疲れ」

 息を切らして頬を紅潮させた時藤は、肩を叩こうと半分上げた手をそのままに、口を半開きにして驚いていた。

「なまえ……」
「ああ、そういや呼んだことなかったな。別にいいだろ、それとも日向のほうがいいか」

 つい口から出てしまったと早口になり余計なことまで口走るが、時藤は大きく首を横に振って俺よりも動揺しているみたいだ。

「え、いや。どっちでも」

 時藤が翻弄されていると、その分俺には余裕が出てくる。

 さっきまで舞台の上で堂々としていたのに、名前の呼び方一つでうろたえているなんて。フッと笑うと、ますます彼の頬が赤くなった。

「じゃあ日向」
「う、うん」
「なんか話があるのか。ここじゃ邪魔になるから外に行こう」

 実際に時藤……日向と顔をあわせるまではどうすればいいのかわからなかった。けれどいざ目の前にすると、頑なに気持ちを否定する必要もないんじゃないかと感じた。

 ただ俺が好きでいるだけなら、それを表に出さなければ、誰にも迷惑をかけることはない。日向ともこのまま一緒にいられる。

 扉の外には雲一つない秋空が広がっていた。体育館の裏口から抜け出してひと気のない裏庭を歩くと、踏みしめた落ち葉がカサカサと音を立てる。

 すぐ後ろを歩く日向の顔が見たくなって、さりげなく隣に並んだ。

「で、話ってなんだ」

 日向はまだ頬を桃色に染めたまま、鮮やかに晴れた空を見上げた。

「好きな人のことを思い浮かべながら弾いたら、楽しく伸び伸びとした気持ちで弾けたよ」
「……へえ」

 乾いた声が出た。人がせっかく心配して駆けつけたってのに、日向は恋に浮かれていたらしい。

「きっとこのまま練習を重ねたら、情感が滲むような表現力のある演奏ができると思うんだ」

 つまり俺はもう必要ないって話だろうか。心の底がひりついて、息が浅くなった。

「だからありがとう、月城」

 反応を返せずに黙っていると、日向が顔をのぞき込んでくる。とっさに飛びのいた。

「あ、ごめん。驚かせたね」
「別に」
「あのさ。今の話、伝わった?」
「なにがだよ」

 わけわかんねえ、遠回しに喧嘩を売ってるのか。腹の底から湧き上がる感情そのままに日向の胸ぐらを掴むが、彼は苦笑をするだけだ。

「ああ、そうだよね……遠回しにもほどがある、我ながら意気地がなさすぎ」
「なんの話だ、はっきり言えよ。俺が邪魔になったのか」
「とんでもない! 月城には一緒にいてもらわなきゃ困る!」

 胸ぐらを掴んでいた拳を手のひらで包まれて、勢いよく振り払いながら取り返した。

 まだ俺は必要とされているらしい。

 そうか、ピアノコンクールで上手く弾けないかもしれないって悩んでたもんな。保険があったほうが安心だってことだろう。

「ピアノコンクールが終わったら、伝えたいことがあるんだ。もしも本選に出場できたら、本選の後で時間をとってくれないかな」
「改めて礼でもしてくれんのか。だったら肉がいい」

 やけっぱちで呟くと、日向は「肉やね、わかった」と真面目な表情で頷いていた。

「話はそれだけか」
「うん」
「じゃあな、どっかで昼寝してくる」

 昼寝用のベンチを目指して歩きはじめるが数歩前進したところで、苦笑する日向を振り返って睨め付ける。

「明日からはガチで遠慮なくピアノを弾きにいくから。覚悟しとけよ」
「うん、一緒に頑張ろう」

 満面の笑みで手を振る日向に背を向けて、体育館の角を曲がる。

 枯葉を蹴飛ばしながら乱暴に歩いたが、次第に足取りが遅くなりしゃがみ込んで目を覆ってしまう。

「あーあ……」

 好きでいるだけでいいなんて、ついさっき考えておいてこの様だ。自分が心底情けなかった。

 こうなったら日向を追い抜くくらい練習をして、めちゃくちゃ高い肉を奢らせよう。

 ベンチに寝転がると同時に、冷たい風が髪を揺らして吹き抜けていった。
 十一月に入った。学校が終わるとすぐに日向の家に向かう。バイトがない日は夕飯を持ち込み、夜遅くまで練習に明け暮れていた。

「今日も悪いな」
「僕は月城がバイトの間に弾いてるから、なんも気にすることないよ」

 優しい日向に甘えて、俺がいる間はほとんどずっとピアノを占領させてもらっている。

 日向は飽きもせずに俺が弾くところを見たり、楽譜や本を読んだりして同じ部屋で時間を潰していた。

 コンクールの予選まであと二週間もない。一曲目であるバッハのフーガはだいぶ仕上がってきたが、二曲目は苦戦していた。

 課題曲であるショパンのエチュード〈Winter Wind〉は、右手の細かい音の羅列が一曲の間ほぼずっと繰り返される。

 右手だけならまだいいが左手も同じように弾く場面があって、そこが完全にお手上げ状態だった。

「ああ、くそ……上手くいかない」
「大丈夫?」

 ため息をつきながら左手を見つめていると、日向が俺の肩に手を置いてきた。

 背中の筋肉が硬直するが、彼はなんとそのまま半分覆い被さるようにして、左手を鍵盤に置き動かしはじめる。

「まずは片手だけ、こういう風にゆっくり弾いて……」
「わかった、わかったから離れろ」

 肘で腹を突くと、思ったより力が入ってしまったらしく日向はうっと呻いた。

「……すまん」
「いや、暑苦しかったやんね。こっちこそごめん」

 日向は苦笑しながら壁際のソファに戻っていった。過剰に意識してしまい情けない。

 好きな人と長時間一緒にいるだけでも意識するというのに、近づかれたら反応せずにはいられなかった。

 気まずさを誤魔化すために左手の練習をしはじめるが、元々苦手な部分だからなかなかスラスラと弾けるようにならない。

 日向の気配を意識しつつ苦戦しているうちに、日向の母が彼を夕飯に呼びにきた。

「今日も一緒に練習してるん、いいわねえ。時藤くん、お夕飯を食べていく?」
「いえ、お構いなく。晩飯を持って来てるんで」

 ピアノ室に顔をのぞかせた日向の母に首を振ってみせるが、彼女は顔を曇らせた。

「でも、コンビニのおにぎりとかパンとかばっかりでしょう? 栄養あるもの食べんと風邪を引いてしまうわ」

 なぜそれを。日向のほうを振り向くと、彼は罰が悪そうに頬を掻いた後、わざとらしく笑みを浮かべる。

「みんなで食べようよ、そのほうが楽しいし」

 二人にまあまあと背を押されて、ふたたび時藤家の食卓にお邪魔することになった。

 ピアノを長時間独占するだけでなく、食事までまたご馳走になってしまうなんて。

 なるべく体を小さくしていると、日向の母はふんわり笑った。

「月城くんが来るようになってから、日向がほんまに楽しそうなんよ」
「お母さん、箸これでいい?」
「なんでもええよ」

 頬を軽く染めた日向が隣の席に腰掛け、箸を渡してくる。なんだその反応、こっちまで照れてしまいそうだ。

「はい、月城の分」
「ああ、ありがとう」

 受け取る時に指先が触れそうになり、素早く箸を手元に引き寄せた。

「いたっ」
「あ、悪い」
「ううん、大丈夫」

 勢いよく箸を持ったら角度が変わり、手のひらに箸の先が食い込んだらしい。

 日向は手のひらを開いてなんともないと見せつけてきたが、とても顔を向けられない。さっきからなんてザマだ。

 今日の食卓も豪華だった。秋刀魚の塩焼き、豚汁、漬物が三種類と炊き立てのご飯。

 大皿に盛られたサラダの横には、店でしか見たことのないようなガラス製のドレッシング容器があって、刻んだ青じそが浮かんでいた。

「あら、やってしもたわ」

 新型の冷蔵庫をのぞきこんでいた時藤の母が目を丸くする。

「お魚用の醤油を切らしてたみたい」
「買ってくるよ」
「ええよそんな、今日は抹茶塩でもかけましょ」

 日向の母が止めるのも聞かず、彼は玄関に向かっていきコートを羽織る。

「近くのスーパーで手に入るし、すぐ戻るから。月城も先食べてて」

 待て、置いていくなと声をかける暇もなく行ってしまった。

「行ってしもたね。待ってましょうか」
「……はい」

 なにを話せばいいんだ、気まずい。

 緊張する俺を慮ってか、日向の母は気負わずに話しかけてきた。

「月城くん、ピアノはいつから習ってはるの?」
「四歳からです」
「そう、日向より早いんやね。あの子は六歳の時からはじめたんよ。私が昔ピアノを弾いてた動画を見せたら、やってみたくなったそうなの」
「へえ……」

 よほど素敵な演奏だったんだろうか。目の前の彼女が若い頃にドレスを着て演奏したのだとしたら、かなり絵になりそうだ。

「お母さんの夢、一緒に叶えようねって言ってくれたんよ。お母さんの出たかった舞台に立つって張り切っちゃって」

 日向の母は遠くを見ながら微笑ましそうに笑う。
 
「そんなん、別にいいのにね。もちろん出てくれたら嬉しいけど、日向がやりたいようにしてくれるのが一番嬉しいんよ」

 そう言いながらも右腕をさする時藤の母は、今でもピアノが弾きたいのだろうなと俺にもわかった。

 あの豪華すぎるピアノ室は、日向のためだけに誂えたわけではないのかもしれない。

「よかったら、日向の学校での様子を聞かせてくれはる?」
「えっと……クラスメイトから慕われてるみたいです。みんな彼を頼りにしています」
「そう。月城くんにもあんな感じかしら」
「あんな?」

 意図がわからず聞き返すと、日向の母は顔を曇らせる。

「優しすぎるというか、人のために無理してしまうところがあるんよねえ」
「いや、俺は……」

 かなり強引に振り回されている気がするんだが。何度も「後ろから肩を掴むな」と言っているのに、繰り返してくる困ったところもあるし。

 気を許されているってことだろうか。だとしたら嬉しい。指先が熱を帯びて、手汗をかいてきた。

「ただいま。あれ、食べてなかったの」

 戻ってきた日向が魚用の醤油とやらを机の上に置く。くそ、まともに顔が見れない。

「そりゃそうよ、みんなで揃って食べたいでしょう」
「そっか、待たせてごめん」

 改めて席について食べはじめた。時藤の母は買ってきた醤油をたっぷり秋刀魚にかけて食べている。

「うん、美味しいわあ。ありがとう日向」
「どういたしまして。月城もかけてみる? 普通の醤油より魚にあう調合がされてるから、試してみてよ」

 醤油を受けとり秋刀魚にかけて口に運ぶ。ほんのり甘味があって後味を残さない、さっぱりとした醤油だった。

「美味い」
「でしょ?」
「日向は?」
「僕は薄味が好きだから、このままで」

 母親のためだけに醤油を買いにいったのか。俺だって母さんのことは助けてやりたいと思っているが、ここまで親切にはできていない。ちょっとやりすぎなくらいだ。

 自分とはまったく思考回路の違う日向の考えが、気になってしょうがなかった。
 練習の後、やはり一緒に家を出て送ろうとする日向を今夜は止めずに、秋風が吹き抜けるビルの間を隣あって歩く。

「寒いな」
「本当、手が冷たくなっちゃう。指が動かんくなるからやめてほしいね」

 去年はこんな時期になってもストリートピアノの前に陣取って、かじかむ手を懸命に動かしていた。あの頃の俺と比べたら、ずいぶん恵まれた立場にいる。

 それもこれも、日向が強引に俺を引き込んだからだ。だからこそ今こんなにも必死で、こんなにも毎日が充実している。

 だとしたら、俺が日向にやってやれることはなんだ。ピアノを聴かせてやる意外にもなにかできるはずだ。

「なあ。お前がピアノコンクールで東京に行こうとしてるのは、母親のためか」
「ああ、わかっちゃった? そう。お母さんが夢だった舞台に僕が立ったら、嬉しいかなって」
「それで、日向はどうなんだよ」
「どうって?」

 首を傾げる日向を見て眉間に皺を寄せるが、彼は俺がどういう意図で問いかけているのか本気でわからないみたいだ。ため息を吐きながら説明する。

「お前は自分が弾きたくもないピアノを人のために弾いて、何年もそんなことを続けてきたんだろ。本当にそれでいいのか」
「弾きたくないわけやないよ」
「嘘つけ。だから弾いてて楽しくないんだろ」

 黙り込んだ日向と俺の間に、ひときわ強い北風がびゅうっと吹いて髪を揺らした。

 違う、喧嘩を売りたいわけじゃないと頭を掻いて思考を整理する。

「だからその……もっとお前が楽しいと思うことに時間を使ったらどうだ」
「僕は今楽しいよ。だって月城と一緒にいるから」
「は?」
「あ、だから月城のピアノを聴くのが楽しいんやって」

 なぜか焦ったように言い訳をされたが、俺とのピアノの時間を楽しんでくれているのは本当らしい。じわりと頬が熱くなり、マフラーを引き上げて顔を隠した。

「……だったら、俺が予選通過できるようにこのまま協力を続けること。わかったな?」
「うん、もちろん協力させて。あ、そうだ」

 ポケットに手を入れた日向は、十枚セットのミニカイロを取り出し俺へと差し出した。

「家に来た時、すぐに指が動かないって困ってたやろ。学校が終わったらこれ使って」
「そんなところまで気を使わなくてもいいのに」
「気を使ってるんやなくて、僕が月城のためにしたいことをやってるだけ」

 だから気にせんといてと言われても、気になる。勘違いして、都合の良いように捉えたくなってしまう。俺は友達よりも大事な存在じゃないのかと、問い詰めてしまいたくなる。

 そんなことをしても、望む答えはかえってこないだろうに。

 カイロを持ったまま足を止めると、日向はミニカイロを二つ取り出しその場で使いはじめた。

「はい、あったかくして帰ってな。風邪を引いたらコンクールに出られないよ」
「……わかってる」

 差し出されたカイロを受け取る時、わざと日向の手を掴んでやった。日向の指先がカイロよりよほど熱く感じたのはきっと気のせいだろう。

 驚く日向を置いて背を向ける。地下鉄の階段を降りながら、カイロごとポケットの中に手を突っ込んだ。




 家に帰ったら居間に明かりがついていて、母さんが起きて待っていた。今日は仕事のはずで、まさか家にいるとは思わなかったのでギョッとしていると、母さんは俺の額を指で小突いてくる。

「こんな時間まで連絡もせんと、どこ行ってたん?」

 とっさに言葉に詰まる。日向と一緒にピアノコンクールに出ることを母さんには伝えていなかった。

「別になんでもいいだろ」
「この前の保護者面談の時、月城くんは夜中に出歩いたりしていませんかって先生から心配されてたの覚えてるやろ? あんた顔も態度もそっけないんやから、不良やって誤解されるようなことすんのやめとき」
「遊んでる訳じゃねえよ。母さんこそ仕事は?」
「急にシフトが変わってん」

 温めたお茶を出されて、仕方なく椅子に腰かける。テーブル越しの母さんは俺が話すのを静かに待っていた。

 友達の家に入り浸ってまでピアノを弾いているだなんて、みっともない気がして俯いてしまう。

 そもそも学校でピアノが弾けることを明かさなかったのは、今でもピアノを弾いていることが母に伝わったら、家で弾かせてやれないことを気にすると思ったからだ。

 プロになりたい訳じゃない。あの頃、幸せの象徴だった舞台にもう一度立って、頑張ったねって受け入れてもらいたいだけだ。母さんに……それから、父さんにも。

 我ながら子どもじみた願いだ。でもまだ子どもなのだから、このくらいは甘えてもいいのだろうか。

 張りついた唇を温かいお茶でふやかしてから、重い口を開いた。

「……今度、ピアノコンクールに出るんだよ」
「へえ? いつ」
「予選が再来週、大阪で」
「行くわ。次こそ絶対お休みとる」

 力強く言い切られて、ホッと唇から吐息が漏れた。

「それでこの時間まで練習に行ってたんやね」

 頷くと、母が表情を緩めて笑顔を見せる。

「そういうことかあ。でもスタジオ代とか、高いんやないの」
「友達の家でピアノ使わせてもらってる」
「えっ、お礼せな」
「いいよ俺がやっとく」

 せめて手土産でも持っていきなさい、用意するからと押し切られて話はお開きになった。立ち上がって冷たい廊下に足をつけ、思い出したようにつけ加える。

「……録音して親父に送りたいなら、自由にやってくれていいから」
「明人……」

 やっと言えた。肩が軽くなった気がする。

「じゃ、おやすみ」

 母さんの顔が見れないまま、四畳半の自室に戻った。コートのポケットに入ったままのカイロを取り出して、両手で包んでみる。体も心もほっこりと温かく感じた。



 放課後や土日は日向の家に入り浸っているが、学校で日向に接触することはほとんどなかった。彼はいつもクラスメイトから囲まれているし、俺が彼に話しかけると日向の友達はどうも困惑している感じがする。

 別に誰にどう思われようが知ったこっちゃないが、あからさまに日向を狙っている女子から睨まれるのは面倒臭い。

 それに、万が一同じ者を想う者同士、気持ちが見破られてしまったらと想像すると、クラスメイトの前では日向と口をきかないほうがいい気がした。

 そんな訳で学校では日向とほとんど話さないのだが、彼のほうはなんら気にすることなく俺に話しかけてくる。

 でも俺のほうが意識してしまい駄目だった。ついつっけんどんな態度をとってしまい、自己嫌悪に苦しむ無限ループを繰り返している。

 ピアノコンクールが来週に迫った金曜日、配られた進路調査票を白けた気分で眺めていた時だった。日向の席付近から女子のかしましい声が上がる。

「すごーい、時藤くんK大に行くん?」
「行けたらええなってだけで、まだ候補だよ」
「うちは全然狙えへんし、候補に置けるってだけすごいことやん」

 日向にまとわりついて頬を染める女子どもを、内心鼻で嗤ってやった。

 そいつ、自分を嫌っている相手が好きらしいぞ。そうやって意地の悪いことを考えて苛立ちを抑えている俺も、なかなかの道化だが。

 じっとりと怨嗟を送っていると女子がくしゃみをした。そろそろ勘弁してやろうと視線を外し、窓の外を見上げる。

 うちにはとてもK大は無理と嘆いている女子も、当たり前のように大学や短大に進学するのだろう。俺はどうだろうな。

 母さんは大学に進学してほしいからと学費を貯めているが、正直俺に金を使うくらいだったら自分のために使ってほしい。反対されるだろうな……

 結局その場ではプリントを埋められず、白紙のまま教室を出た。ゆっくりと駅までの道を歩いていると、日向が追いついてくる。

「お疲れ様、月城。今日もこのまま家に来る?」
「ああ」

 黄金に染まる銀杏並木が美しい道のりを、日向と連れ立って歩く。ずっとこんな日々が続けばいいのにと、柄にもなく感傷的な思いが湧いてきた。

「あのさ、答えにくかったら全然ええんやけど。月城は進路ってどんな感じで考えてる?」
「俺は高校出たら働こうと思ってるけど」
「……どういう仕事?」
「まだ具体的には考えてないが、土方とか工場の工員とか?」

 高卒でできる仕事なんて、そう多く選択肢があるとは思えない。自分で稼げて、電子でもいいからピアノが毎日弾ける生活ができたらそれで満足だ。

「念の為聞くけど、肉体労働がやりたいって訳やないんよね」
「やりたい仕事か。考えたこともなかったな」

 ラーメン屋のバイトは賄いでラーメンが食べれて時給がいいから続けているだけで、料理が好きな訳でもなんでもない。

 強いていうならピアノに関わる仕事がいいだろうか。家で弾けりゃ十分だと思っていたが、日中もピアノが近くにあるのはテンションが上がりそうだ。それとも仕事中に目の前にあるのに弾けなくて逆にイライラするだろうか。

 日向はしばらくの間、空に舞う銀杏の葉を目で追いながら口を閉じていたが、やがて遠慮がちに話しかけてきた。

「怪我をする可能性が高い仕事は、避けたほうがいいんやないかな……」
「俺がそんなヘマするかよ」
「でも毎日危険な物と間近で接してると、万が一も起きやすいと思うし。月城、あんないい顔でピアノ弾くのに、弾けなくなったらって想像すると……」

 日向は右腕を抱えて背筋を震わせている。そうか、身近に弾けなくなったやつがいると、気にしてしまうのも無理はない。

「ピアノなら当分僕の家で弾けばいいよ。そんな無理してお金稼がなくても、大学に行ったほうが後々……って、ごめん。お節介やね」
「いや、日向の言いたいこともわかる」

 他の誰かに言われたら反発するが、日向が本気で俺のために考えてくれていることが伝わってくる。母さん以外の人間からこんなに親身になって心配されるなんて、くすぐったい気分だ。

「考えてみる。まだ時間はあるしな」
「そやね。僕も今は勉強のこととか考えられないし。ピアノに集中しよ」
「そう言いながらお前、ちゃっかりいい成績とってるけどな」
「コツコツやってたらそう苦でもないよ。月城、勉強苦手なんやったら僕と一緒に勉強会でもする? なんてね」
「ピアノコンクールが終わったらな」
「へ、いいの? うわあ、楽しみ」

 勉強会が楽しみだなんて変なやつだ。それとも複数人で勉強すると楽しいものなんだろうか。

 ピアノコンクールが終わった後も日向と繋がりが持てると信じられて、俺は浮かれた気分のまま日向の家に向かった。
 バイトがあるので一度別れて、夜十時まで働いたあと日向の家に向かう。ラインで日向と連絡をとり、日向の母にバレないようにこっそりピアノ室に向かった。

 ピアノ室に入り、電気をつけてコートを脱ぐ。中は暖房のおかげでちょうどいい室温になっていた。

「明日は学校ないし、遅くまでいてもらって大丈夫だから」
「いや、一時間くらいで帰る。明日も来るし」

 声が小さいなと顔を確認すると、日向はマスクをつけていた。

「風邪か?」
「いや、喉がちょっとね。一晩寝れば治るよ」
「体調が悪いなら……」
「本当になんでもないんやって。月城に移したら嫌やからつけてるだけで、たいしたことないから」

 やっぱり風邪なんじゃねえか。帰ろうかと思ったが、日向が扉をガードするみたいに立っているので、三十分だけ弾いていくことにした。

 苦手だった右手と左手が両方素早く動く部分は、ここ数日の猛練習のおかげで完成に近づいていた。この調子であと一週間頑張ればものになりそうだ。

 日向と一緒に東京の舞台に立てるかもしれない。あいつの夢をサポートしてやれる、そう思うだけで練習する意欲がいつも以上に湧いてくる。

 気がつくと四十五分も経っていて、当初帰ろうと思った時間を過ぎていた。

「日向、悪い。そろそろ帰る」

 コートを着込んでショルダーバッグを肩にかけるが、返事がない。日向はソファに斜めにもたれて寝落ちしていた。

 こいつの寝顔、はじめて見た。引き寄せられるように近づき表情を確認する。

 体調が悪いせいか、眉間に皺が寄っていた。やっぱり帰ればよかったと思いながらも、指先が日向のほうに伸びていく。眉間の皺を指の腹でつつくと、顔の前で手を振るような動作をした。

 マスクを外すと眉間の皺が緩んだ。息苦しかったらしい。はやく起こして布団で寝かせてやらないといけないのに、顔から視線を引き剥がせない。

 優しげな印象が先立つ柔和な顔立ちだと思っていたが、目を閉じていると大人っぽくて男性的な美しさが際立つようだった。輪郭を手のひらで包むと、ピクリと目蓋が震えたが起きる気配はない。

 吐息を感じる距離まで顔を近づけても、無防備に寝こけている様子を見て、ゴクリと唾を飲んだ。

「日向、起きろよ」

 耳元にささやいてみる。

「起きないと悪戯するぞ」

 規則正しく上下する胸元を凝視しているうちに、魔がさした。普段は前髪で隠れている額を露わにし、滑らかな丘に口づける。

 身体中をものすごい勢いで血液が巡っている。心臓が口から飛び出しそうだ。

「ううん……」

 日向が身じろいだとたんに素早く身を起こす。そのまま目頭を擦りはじめた彼に背を向けて、一目散に扉へ向かった。

「おい、俺はもう帰る。ちゃんと部屋で寝ろよ」

 言い捨てて扉を閉めると、夜の廊下を抜けてマンションのエントランスを飛び出した。鍵はオートロックだと聞いていたから施錠しなくても大丈夫だろうか、気になるが確かめに戻る勇気はない。

 あの時起きたのか、そのまま眠りについたのかわからない、わからないが今はそんなことはまともに考えられなかった。

「……俺の馬鹿」

 体調が悪くて寝てるやつの隙をつくなんて最低だ。

 気づかれただろうか、気持ち悪がられるだろうか……夜の闇が勢いを増し、鋭い風となって頬に吹きつける。たまらずに俺は駆け出した。



 次の日、今日は体調が悪いからおやすみさせてほしいと、日向からラインが来た。

『こんな大事な時期にごめん』
『いいから寝てろ、無理するな』

 狼が倒れて青い顔をしているスタンプが返ってくる。この調子なら俺がやらかしたことに気づかれていないのだろう……布団に拳を叩きつけた。

「くそっ」

 俺のせいだ。おそらく日向はあの後ピアノ室で寝落ちして、風邪を悪化させたに違いない。

 俺がちゃんと起こしていれば。あんな悪戯をして動揺していなければ。俺のほうこそごめんと謝りたいが、彼には意味のわからない自己満足にしかならない。

 悶々とした気分を切り替えられないまま、バイト先に赴いた。京都駅付近のラーメン屋の中でも目立たない路地にあるこの店は、観光客が増えてもそこまで客足に影響がない。

 しかし紅葉シーズン真っ只中の土日はやはり混む。観光客の多さに辟易とした地元客が、ラーメン屋に押し寄せてきているらしい。

 捌いても捌いても、次から次へと客がやってくる。行列に並んでいた客はピリピリしていることが多く、普段より当たりが強い。

「これ二番テーブル、こっちは四番!」
「はいっ」

 二番テーブルにラーメンを運び、四番テーブルに向かおうとしたら三番テーブルの客に詰め寄られた。

「おい、こっちはもう三十分も待ってるんや!」
「すみません、順番通りに運んでおりますので少々お待ちください」
「隣の客より俺らが座るほうが早かったやろうが、目ん玉ついてんのかワレ!」
「確認いたしますので、少々お待ちください」
「もう待てへん言うとるやろ、お前じゃ話にならへん店長呼んでこい!」

 ああ、うざったい。気持ちが顔に出ていたのか、胸ぐらを掴まれそうになる。腕は避けられたが、その拍子にラーメンの中身が溢れて思いきり左手にかかった。

「あっつ……!」

 急いで厨房に引き返し、張りついた麺を引き剥がした。先輩が俺の指を見て声をあげる。

「うわ、真っ赤。そのラーメンどこの?」
「四番です」
「わかった、三番も対応するから冷やしとき」

 指先全体と手のひらがピリピリと痛んでいたのが、流水で冷やしているうちにだんだん和らいできた。

 厨房もホールも慌ただしい雰囲気の中、一人だけ水道を独占しているのは気が引ける。

 もう大丈夫だろうと自己判断して、冷凍庫から氷を出して袋に入れ、適当にテープで固定してからすぐに仕事に戻った。

 氷が溶けた後も取り替える暇もなく懸命に働いていたら、客足が引く頃には指先に水ぶくれが出来上がっていた。

「月城、そんなんなる前に報告せえや。今すぐ病院に行ってこい」

 店長に気づかれて早上がりになった。やらかしたな、今月のバイト料が減ってしまう。

 土曜の夜でも開いている診療所を検索しているうちに、通常診療が終了する時間になってしまった。仕方がない、家に帰って冷やそう。

 流水に手をかざして冷やしてみるが、もう水ぶくれになってるから効果は薄いだろうな……ざあざあとシンクに落ち続ける水の流れをぼんやり見つめた。

 指先を動かそうとすると、赤くなった指関節が痛む。完治まで何日かかるだろうか。

 罰が当たったのかもしれない。好きな人がいる相手にこっそりキスなんてしたから。

 指先に氷袋を当てながら、部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。

 一人きりの家は静かだ。なにもしていないとジクジクとした痛みが指先から湧いて出て、身体中を巡り胸の中に膿のように溜まっていく。

 痛みを紛らわすために音楽をかけた。こんな時こそ課題曲を聴いて、せめてイメージトレーニングを行うべきなんだろう。

 わかっているのに、俺が再生したのはジャズだった。軽快なスイングに耳を傾けると、日向の顔が遠ざかっていく。

 目蓋が落ちて眠りにつくまで、耳元をジャズが撫でていた。





 日曜日、日向からはまだ本調子じゃないと連絡が来て、俺は後ろめたさにジクジクと胸を痛めながら『気にするな』と返信し家で過ごした。

 左手の指先には二箇所、水ぶくれが残っていて、とてもピアノが弾ける状態ではなかった。

 月曜日、母さんに見咎められないように手を隠しながら家を出る。病院に向かい診察を受けたが、全治一週間と診断された。

「水ぶくれは自然に小さくなるまで放っておいてくださいね。無理に指を動かさないように」

 特殊素材の絆創膏を貼ってもらった。左手だし、机の下に隠しておけば日向に見られる心配もないだろう。

 昼休みの時間に学校に着いた。教室に顔を見せると同時に、日向は顔の前で手をあわせる。

「ごめん! もうすっかりよくなったし、今日から練習再開してもらってええから」
「ああ。せっかくだが今日は無理だ」

 左手を背中に隠しながら自席へ向かうと、日向は怪訝な顔でついてくる。

「どうして? もしかして月城も体調悪い?」
「まあ、うん。そんな感じ」
「それで午前中休んだんやね。ごめん……! 僕の風邪が移ったんかな」
「気にするなよ」
「気にするって! こんな大事な時期に……」

 たいしたことないと説き伏せて席に戻らせる。

 そうだ。こんなのたいしたことじゃない。たいしたことじゃ……

 無意識に握りこもうとした左指に痛みが走り、顔をしかめた。しばらくは風邪を引いたことにして誤魔化すしかない。

 クラス内でも風邪が流行っているようで、空席がいくつかある。そういや、数日前からくしゃみや咳をしているやつらが多かったなと思い出した。

 文化祭が終わった後の教室は、学期末試験に向けて空気が引き締まっていた。いつも通りに寝ようとしたが、最近夜更かしをしていないせいか眠気が湧いてこない。

 古文の先生が訳のわからない文章を解読している。少し迷ってから、ノートを真面目にとってみた。日向の背中を見ると、彼もしっかりとノートをとっているようだった。

 その日は日向と黒板を交互に見ながら授業を終えた。

 水曜日になっても左指の水ぶくれは小さいながらも残っていた。

 指が治らないせいでバイトは一週間休みになってしまった。コンクールの課題曲を弾きこなすのも、もう無理だろうな。

 日向には悪いが、東京の本選には行けそうにない。もしも本選に行けたらついでにやりたいことがあったが、それも叶わなさそうだ。

 家でじっとしていると気が滅入るので、ジャズクラブへ向かう。チケットを買って端っこの席で失意を紛らわせていると、日向から連絡が入った。

『今日も練習しにこないの?』
『ああ、やめとく』
『月城、なんかあった? 相談してよ』

 相談に乗ってもらったところで火傷はどうにもならない。怪我をした直接の理由は客とのトラブルだが、どうにも罰が当たった気がして日向に怪我のことを打ち明ける気になれなかった。

『電話していい?』
『今はちょっと』
『外なんやね。どこにいる?』

 ここは日向も知っている店だ。演奏の途中で店を出て、鉢合わせしないように真っ直ぐ家に戻ろうとする。

 四条通りに出てアーケードの人混みをぬって歩いていると、地下鉄から出てきた日向と出くわした。すぐに反対側を向いて彼から遠ざかろうとする。

「待って月城!」

 中国人らしき観光客の群れに突っ込み、文句を言われながらも突っ切って離れていく。八坂神社の前まで来て、どうやら巻いたようだと胸を撫で下ろした。

 夜の八坂神社はライトアップされておらず、境内では赤黒く染まった紅葉が風に吹かれるままに葉を散らしている。俺は人混みを避けるようにして境内に足を踏み入れた。

 ぼんやりと光る灯籠がわずかばかり辺りを照らしていて、美しいというよりは幽霊でも出そうな風情だ。一回りしてから帰ればきっと日向ともかちあわないだろう。

 風は冷たく、紅葉はざわざわと揺れている。指先を温めたくてカイロを探したが、そういえば昨日で使い切ってしまったと思い出した。

 仕方なくポケットに手を突っ込んだまま歩いていると、後ろから肩を叩かれた。

「うわっ」
「月城!」
「お前、脅かすなよ」
「月城こそ、僕から逃げないでよ」

 手を振り払おうとするが、回り込まれて両肩を掴まれてしまった。

 顔が近い、こんな時なのに心臓が早鐘を打ち始める。深呼吸して落ち着くために大きく息を吐くと、日向の肩がピクリと震えた。

「コンクールに誘ったこと、迷惑やった?」
「は?」
「僕が無理矢理誘ったから、嫌になったんかな」
「そんなこと……」

 きっぱり否定するとではなぜ練習に来ないんだと聞かれそうで、歯切れ悪く言葉を濁す。

 日向が力なく腕を下ろした。このままだと誤解されそうだ。

「違う、舞台に立ちたいのは本当だ」
「なんのために? 月城はどうして舞台に立ちたいの?」

 母さんと父さんに俺の晴れ姿を見てほしい。幸せだったあの頃の最後の未練に蹴りをつけたい。

 そんな思いが捨てきれなくてコンクールに申し込んでみたけれど、どうせ本選に出場したところで父が現れないことはわかっている。

 予選に出て、その様子を録音して父に送ってもらえれば、それで満足だった。出たかった発表会の代わりとして、未練が断ち切れるだろう。

 けれどそんな願いは子どもっぽい気がして、口に出すのをためらっていると日向は項垂れた。

「僕は予選の舞台に立つだけじゃだめなんよ……本選に出ないと」
「母親のためにか? そんな思い詰めてまで練習してほしいって、あの人は思ってないだろ」
「それは……知ってるけど」

 日向はそれ以上答えない。しばらくの間俯いていたが、やがて顔を上げて踵を返した。

「巻き込んで悪かったね。僕一人でも練習する、もう月城には頼らない」
「待てよ……!」

 思わず日向の腕を掴んだが、簡単に引き離される。左手が使えればよかったのに。ポケットに入れたままの手を握りしめるとピリリと痛んだ。

 去っていく背中に声を張り上げる。

「予選には出る、お前の演奏も聞くから!」

 日向は一瞬立ち止まったが、振り返ることなく去っていった。肩に乗った紅葉を払って、俺も家路につく。

 地下鉄の中、睨むような目つきでスマホを見据えた。

 今からでもわけを話したほうが……いや、日向はいつだって完璧だった。俺がいなくたって、そつなく課題曲の練習をこなすに違いない。

 冷えた指先ごと、ポケットの中にスマホをしまいこんだ。





 一日中予定が入っていない土曜日が来た。早くに目が覚めてしまい、どうしようかと途方に暮れる。

 リビングでぼーっとしていたら、起きてきた母に意外そうな顔をされた。

「どうしたん、明日がピアノコンクールなんやろ? こんなゆっくりしてていいの」
「あ、いや。このあと練習する」

 反射的に答えてから、居心地悪く左手で右腕を抱える。

 指は元通りになり、動かしても痛まなくなっていた。少々跡は残ったものの、それもじきに消えるだろう。

 母が仕事に出かけた後で、さんざん迷ってから日向にラインを送った。

『今日そっちに行ってもいいか』

 十分待っても二十分待っても返事がない。いつもならとっくに気づいて返信が来ているはずなのに。

 家にいても落ち着かないので、外に出かけることにした。電車に乗り込んでも既読がつかない……もう俺のことは見限ったのだろうか。

 今更連絡してくるなんてと、迷惑がられているのかもしれない。

 そもそも俺は彼の練習時間を邪魔していた身だ。家まで押しかけて弾かせろなんて、とても言う気になれなかった。

 結局、四条烏丸に向かう前に京都駅で足を下ろした。エスカレーターを道なりに昇り、七階へ。

 冬の空気の中に佇むピアノは、指先を乗せると凍えるほどに冷えていた。

 両手を擦りあわせて課題曲を弾いてみるが、寒さもあって指が全然思った通りに動かない。悲しくなるほど腕前が退化している。

 わかっちゃいたが、これじゃ本選には絶対に挑めないだろう。

 俺はそれでもいいが、日向は悲しむだろうな……

『音楽って、気持ちが伝わるのが一番やね』

 不意に日向の声が脳裏に蘇った。この状態で、俺が彼にしてやれることはなんだ……?

 それはきっと、仕上がらないピアノ演奏を必死に取り繕うことではない。

 俺は心を決めて鍵盤を押さえた。
 十一月の第三日曜日、ついに高校生ピアノコンクールの予選日がやってきた。大阪行きの電車に母さんと一緒に乗り込む。

 俺は着なれないスーツを着ていて、母さんもいつもよりめかしこんでいる。ソワソワと空席に座った。

「なんや緊張してきたわ」
「なんで母さんが緊張してるんだ」
「ちゃんと録画できるかなって」
「そっちかよ」
「だってこれ、借り物なんよ。前に使ってたやつと操作方法が違うから」

 わざわざ職場の同僚からビデオカメラを借りてきたらしい。スマホのカメラで充分だろうに、張り切りすぎだ。

 代理で機械を弄って、使い方を把握した。録音のやり方を教えている間に、景色はどんどん通り過ぎていく。

 譜読みをする時間が取れなかったが、まあいい。俺は俺のやりたいようにやる。

 予選会場の小ホールをのぞくと、予想以上にしっかりとしたホールだった。

 母さんが客席につくところまでつきそって、ホールから出ると日向の母と出くわした。

「あ、お疲れ様です」
「あら月城くん、日向を見なかった?」
「見てません」
「あの子、お腹の調子が悪いってトイレに行ったきり戻ってこないんよ。大丈夫かしら」

 本番に弱いのだろうか。あり得そうだと眉をしかめる。

「俺が様子を見にいってきます」
「ありがとう、よろしくね」

 連絡を取ろうとスマホを開くが、俺のメッセージは昨日と変わらず既読になっていなかった。

 廊下に出てしらみつぶしにトイレの中をのぞいていくと、ホールから一番遠いトイレの洗面所で、鏡を見ながら青い顔をしている日向を見つけた。

「日向」

 声をかけると日向は振り向いたが、俺の姿を見るなり視線を逸らしてしまった。

「月城、来てたんだ」
「来るって言っただろ」
「そうやけど」

 うつむいたままぼんやりしている様子は、いつもの日向らしくない。せっかくスーツ姿なのに、魅力が霞んでしまっている。

「腹が痛いって?」
「そんなことないよ」
「じゃあなにがあったんだ」

 日向は忙しなく視線を巡らせ、口先だけは明るく告げる。

「もう持ち場に行ったほうがええんやないかな。僕は大丈夫だから」
「いいから言えよ」
「でも、月城には関係ないことやし」
「俺は知りたい、お前のこと」

 日向は黙り込んでいる。どうすればこいつの心を開かせることができるんだろうか……

 あまりにも言葉が出てこないことに愕然として、そういえば俺は日向に対して望みや気持ちを伝えたことが、ほとんどないと気づいた。

 それはいつも日向が先回りして、俺の気持ちに気づいてくれていたからだった。

 自分の希望よりも人の想いを優先して、呼吸をするように叶えてしまう日向。

 本当は誰かが気づいて、こいつの気持ちを引き出してやらなきゃいけなかったんだ。

 けれど今の俺に対しては、日向はなにも話したがらないだろう。心を開いてもらうためにはきっと、自ら歩み寄る姿勢を見せないと駄目だ。

 俺は覚悟を決めて口を開いた。

「この一週間、練習に顔を出せなかったのには理由がある」

 左手を日向の目の前に差し出す。水ぶくれがあった場所は皮膚の色が白っぽく変色していた。

「火傷したんだ。そのせいで手が動かなかった」
「えっ」
「隠しててごめん。みっともないだろ」
「そんな、大変やったね」

 手を握られて引き抜きたくなったが、我慢して触られるがままにした。そっと触れるな、くすぐったい。

「もう手は治ったが、練習できなかったからまともに弾けない」
「うん。でも来たんやね」
「そうだ……未練を、断ち切りたくて」

 俺は父さんの病気のせいでピアノの発表会に出られず、習うことすらできなくなり生活が一変したことを日向に打ち明けた。

「立ちたかった舞台に立てなかったことがどうしても心残りで。だからもう一度、どこでもいいから舞台に立ちたかった」
「そうやったんやね……僕は」

 日向がなにか話そうとした時、館内アナウンスが流れた。

『高校生ピアノコンクール出場者の月城明人様、時藤日向様。小ホール舞台裏の控室にお越しください。繰り返します……』

「うわ、ごめん。また後で」
「いい、今言えよ」
「でも時間ないし」
「吐き出してスッキリしちまえ、そんな青い顔のまま舞台に立っても全力は出せないだろ」

 促しても、日向は首を振るばかり。俺は彼の胸ぐらを掴んで凄んだ。

「言えって」
「ちょっと、皺になる」
「シャツの皺じゃなくて殴られる心配をしろよ」
「月城は僕を殴らんよ、わかってる」
「なんでだよ」

 日向は困ったように口の端を引き上げた。

「どんなに脅してもさ、月城はピアノを愛してるから。だから手が傷つくようなことはしないでしょ」
「ほお、そうか」

 笑いたくもないのに笑うな、いい加減に目を覚ませ。拳を握ってストレートパンチを繰り出した。

 手加減はしたものの、頬に衝撃を受けた日向は呆然と俺を見ている。

 なんて顔してやがる。俺は噴き出した。

「ははっ、今の俺にはピアノ以上に愛してるやつがいるんだよ!」

 鳩が豆鉄砲をくらった顔って、こういうのを言うんだろうな。頬を押さえた日向はみるみるうちに赤くなる。

「え、それって……!」
「ほら、もう一回殴られたくなかったら早く吐け」

 これだけは隠したままでいるつもりだったのに、勢いで気持ちまで伝えてしまった。

 照れ隠しに胸ぐらをもう一度掴むと、最後通達のアナウンスが流れてくる。もうそろそろ行かないとガチでまずい。

 日向の腕を掴んで引っ張ると、彼は大人しくついてきた。クッソ、顔が見られねえ。

 ずんずんと早足で舞台裏へと急ぐ。ギリギリ間に合ったようで、次が俺の番だった。

 舞台袖で日向を開放すると、彼は独り言のように呟く。

「……僕の演奏は温かみがないんやって。ロボットみたいで表現力に欠けてるって、毎年それで落ちてる」

 そうか、それで技巧は拙いが、気持ちだけはこもっている俺の演奏を聞きたがっていたんだな。

「受験のことを考えたら今年が最後のチャンスやから、絶対に失敗したくないんだ」

 前のやつが演奏を終えて、舞台袖に戻ってくる。まだ聞いてやりたいが、もう時間だ。

「俺の演奏を聴いてろよ。失敗なんて言わせないから」
「え? でも……」

 日向の言葉を最後まで聞かずに舞台の上に姿を見せた。忘れずに椅子の高さを調整し、高揚した気分のまま腰を下ろす。

 煌々とライトに照らされた象牙の鍵盤に手を置くと、不思議と心が落ち着いた。肩の力を抜いて、一音目を滑らかに弾きはじめる。

 バッハのフーガは、左手と右手でかけあうようにメロディを弾く曲だ。この曲はもともと弾けていたから問題ない、練習よりも調子がいいくらいだ。ペースを乱さないように指先を動かしていく。

 一曲目が無事に終わった。二曲目はショパンのエチュード〈Winter Wind〉だ。

 穏やかなイントロを終えた次の瞬間に、吹雪のように高音から低音に向けて音の粒を吹きつける。無我夢中で右手を操った。

 極寒の冬……京都に引っ越して初めての冬。凍てつく雪の日に家に帰っても灯りはなく、部屋はしんと冷え切っている。

 東京とそう温度は変わらないのに、指先が凍えるほど寒かった。あの時の気持ちを思い出しながら鍵盤に乗せていく。

 一度は失ったと思っていた舞台で今、俺はライトに照らされてピアノの音を響かせている。出来うる限りの技術を駆使して、左手の和音でメロディを支えながら、右手で流れるように音を吹きつけた。

 指を思いきり伸ばして、鍵盤に思いを叩きつける。
 どれだけ手指を滑らかに動かそうとしたって、理想どおりに弾けやしない。

 それでも、お前がすごいって笑ってくれるから。
 今日も俺は精一杯の音を響かせて、心を込めて曲を奏でるんだ。

 曲が進み、左手と右手を同時に動かす難所に差しかかった。今までに一度も弾きこなせたことがない部分だ。

 俺は原曲の音を捨てて、ジャズの音色を交えつつ弾きやすいように編曲しはじめた。客席がざわついたが、気にせず弾きたいように音を響かせる。

 冷たく美しい原曲の音色が、ジャズの音で妖しく歪んで切なげな曲調に様変わりする。

 日向と出会った頃、俺は凍えながら春を待つ種のように、芽を出す場所を探し求めていた。

 あいつと一緒にピアノを弾くようになってから、なにもかもが変わった。捻くれていた心が解けて、父親のせいで上手くいかないと憎むのはもうやめようと思えた。

 メロディが移ろいで、春の装いに変わっていく。春風がキラキラと空を舞い、太陽の光が木漏れ日のように瞬く。

 まるで日向のようだ。温かくて懐が深くて、側にいると凍えた心が溶けていく。愛おしさを音に乗せるが、同時に開いてしまった距離を思って苦くなる。

 あいつには好きな人がいるから……告白まがいのことをしてしまったし、きっともう以前のようには会えないだろう。再びジャズの音色が混じることで曲が秋色へと変化していく。

 最後に日向からもらったカイロの温度を表現し終えたところで、曲が終焉を迎えた。ああ、好き放題にやってやったぞ。

 満面の笑みを浮かべながら手を膝に置くと、盛大な拍手がホール中に鳴り響いた。客席に目を向けると、母さんが立ち上がってなにか叫んでいる。

「無茶苦茶やん! 無茶苦茶、すごかった!!」

 最後だけは行儀良く、優雅にお辞儀をして舞台袖に引っ込んだ。あんぐりと口を開けて待っていた日向に親指を立てて笑う。

「楽しめ。俺はめちゃくちゃに楽しんでやった!」
「ほ、本当に……めちゃくちゃやった! 大成功だ!」

 つられて微笑んだ日向は、さっきと違って無理のない、自然に綻んだような笑顔だった。彼は俺と拳をあわせて、頬を上気させたまま舞台へと向かう。

 殴られた頬がちょうど客席側から見えて再び場がざわつくが、日向には構えたところがなく、何事もなかったかのように椅子に座った。

 澄んだ音がピアノから零れ落ちる。浮ついたところのない粒の揃った演奏だが、いつもより明るくて清々しい。

 ああ、日向が楽しんでいる。俺は満足気に笑みを浮かべながら、舞台袖から輝くステージを一心に見つめていた。

 日向の演奏をすべて聞いてから、言葉を交わすことなく舞台袖を後にする。

 客席側に向かうと、待ち構えていた母さんから励ますように背中を叩かれた。

「ほんまにすごかったわ。でも、あれでよかったん?」
「……ああ、いいんだ」

 母さんは二、三度背中を叩いた後、ふうと息をついた。

「残りの演奏も聴いてこか。ああでもなんか、いろいろ明人と話したい気分。明人にピアノを貸していただいた方も会場にいはるんかな、ご挨拶したいわ」
「まだホール内で演奏を聴いてるんじゃないか」

 小ホール側に目を向けようとすると、ちょうど舞台裏から走ってきた日向と目があう。

「月城!」
「あら、あの子が一緒に練習してたクラスメイト?」

 日向を殴ったほうの頬が赤くなっていて、思わず視線を逸らしてしまう。母さんは嬉々として日向の元に向かい、頬を見て顔をしかめた。

「腫れてるわ、痛そう……喧嘩にでも巻き込まれたん?」
「いえ、愛情を注いでもらいました」
「おい日向」

 それ以上喋らないでくれ。日向の口を塞ごうとしたところで、今度は日向の母まで駆けつけてきた。

「どうしたんその傷……! ギリギリまで来れなかったのは、なにか事件に巻き込まれていたからなの!?」
「お母さん落ち着いて、違うから」

 日向を殴ったのは俺だとその場で白状し、日向の母親に謝った。

「すみませんでした」
「そんなんいいのに、僕はこれのお陰で目が覚めたんやから」
「あらあら、日向が強情やったんかしら」

 ふわふわした雰囲気の時藤親子の前で、母さんも平謝りしている。

「ほんとにすみません、うちの息子が」
「このくらいなら跡も残らんように思います、どうかお気になさらないで」

 針のむしろにいる気分で謝り倒し、時藤親子と別れた。

 日向の姿が見えなくなるまで見送っていると、母からバシッと背中を叩かれる。

「あんなやんちゃはもうやめてね」
「もうしない」
「反省してるならええわ。そんじゃ、大阪観光してから帰りましょ」

 母さんに連れられて、通天閣周辺を練り歩いた。行列がすごいラーメン屋を見つめていると、母が話しかけてくる。

「それにしても明人、すごかったわ」
「何度も言わなくてもわかったって」
「いやだってねえ、ほんまにびっくりした。いつの間にあんなにジャズが弾けるようになったん?」
「あんなのジャズとは呼べない、クラシックでもない半端な音楽だ」

 目一杯やりたいように楽しく弾いてやったけれど、誰からも評価を得られないタイプの音楽だろう。

「誰かの評価がそんなに大事? 少なくとも私は感動したよ」
「そうか?」

 当たり前のように言われて、心の奥が熱を帯びる。

 ……そうだな、審査員の評価が必要なのは日向であって、俺は頑張ったなって認めてもらえたらそれで十分だ。

「そうよ。きっとお父さんも好きやわ。誰がなんと言おうと明人はよくやった、誇らしいぞって、もしも聴いてたら言ったと思う」
「そんな風に言われたことはないけどな」
「あの人、照れ屋やから。私の前以外ではよう言わんのよ」

 父は頑張っている俺の姿を横目に、黙って音楽を聞いているタイプの人間だった。

 すごいでしょ、とか声をかけても、ああとかうんとか、気の無い返事しか返ってこないので、ピアノを弾いてばかりいた。

 ピアノを弾いている時なら、少なくとも俺の奏でる音を聞いてくれるから。

 それだって、ほとんど反応してくれなかったけれど。

 母さんをチラリとうかがうと、いつになく晴れ晴れとした表情をしていた。

 最近は仕事に出る前のため息が小さくなったし、前ほど辛くなさそうだ。

「最近仕事先の業績が順調でね、ちょっとだけ臨時ボーナス出たんよ。今日は美味しいもんでも食べて帰ろ」
「俺、ラーメンがいい」
「ラーメンはどこでも食べれるやん。串焼きとかお好み焼きとかの、大阪名物にしいひん?」
「じゃあ肉にするか。串焼きで」
「あんたはいつだって肉かラーメンの二択やね」

 呆れられながらも、母さんと一緒に串焼きを食べた。

 テーブル席に向かい合って座り、たっぷりとタレをつけた串にかじりつくと、じゅわっと旨味が口の中に広がる。

「美味しいわあ……」

 しみじみと呟きながら、母は隣の空席に目をやった。

 以前はどの店に行っても置物のように座っている父が、母さんの話を静かに聞いていた。

 ……あいつのことを考えると、今でも鳩尾がむかむかすることがある。

 けれどいつまでも過去に囚われているんじゃ、前に進めない。

 唇を軽く噛んでから、さりげない調子を装い口を開いた。

「……父さんにも食べさせてやりたいって?」
「あら、なんでわかったの」
「どうせ心の声がだだ漏れなんだから、好きに言えばいい」
「でもまた怒るやろ」
「もうそんな子どもみたいな真似はしない」

 なにか言いたげな母さんに重ねて告げた。

「あいつが病気をしたせいで、俺たちの生活はずいぶん変わったよな」
「ちょっと明人、そんな言い方……」
「でもそれまでの生活は、父さんが頑張って働いていたから維持できてたってことだろ」

 母さんが手に持っていた串を皿に下ろして、俺の顔をじっと見る。

「それに気づいたから、もう被害者面するのはやめる」

 指導者がいなくてもコンクールに出られたし、舞台の上にも立てた。誰とも話があわないと人を拒絶していたけれど、日向がいた。

 俺の考え方次第で、やりようはいくらでもあるんじゃないかと今では思える。

 自分の考えに納得して頷いていると、母さんは一番大きな牛串を俺の皿に乗せた。

「男の子の成長って急に来るんやね。今日はお祝いや、好きなだけ食べ食べ」
「じゃあ母さんにはこれやるよ。うずら卵、好きだろ」
「だーい好き」

 母さんははにかむように笑って、俺の手から串焼きを受け取る。俺もつられて笑顔が零れた。



 
 翌日、妙に早起きをしてしまい、早めに家を出たら学校に向かう途中で日向に呼び止められた。

 またしても急に肩を掴まれて、うっと声を上げてしまう。

「お前な、驚かすなって」
「ごめん。月城だ! って体が先に動いちゃった」

 その言い方だと、俺に会うのを楽しみにしているように聞こえるが。そう受け取っていいのか?

 隣に並んだ日向は、俺の顔を見ては空のほうを向いてみたり、葉の散った木を眺めてみたりと挙動不審だ。

 俺のほうもさっき掴まれた肩をもう離されたのが物足りないと感じてしまい、日向の目がまともに見れない。

「ええ天気やね」
「そうだな」
「昨日はありがとう、最高のエールやった」

 むずむずと口角を上げる日向の頬は、まだほのかに赤い。

 頬は大丈夫なのかと指を伸ばすと、静電気でも走ったのかと思うほど大袈裟に退け反られる。

「あ、痛むか?」
「痛くないよ! びっくりしただけ」

 日向が頬をさするとますます赤くなったように見える。

 昨日殴った上に、告白まがいのことをしてしまったからな……日向にはどういう風に受け取られたんだろうか。

 生理的に無理とか、そういう反応ではなさそうだが。せめて友達のままではいられるだろうか。

 横目で彼をうかがうと、日向はごくりと唾を飲み込んだ。

「あのさ、予選の前に月城が言ってたことなんやけど」
「……おう」

 なるべく呼吸を潜めて、日向の言葉を聞き逃さないように気を張っていると、彼はうんうん唸った後に頭を抱えた。

「どうしよ、嬉しい、めちゃ嬉しいんやけど」
「……うん」
「あのさ、返事は本選の後でもええかな?」

 なんだそれ。目を見張っていると、日向は俺の肩を抱いてきた。ふわりと香る日向の匂いに、指先が強張る。

「その、嬉しすぎて……抑えがきかなくて、本選をすっぽかしたくなるから」
「それって」

 もう言ってるも同然じゃねえか。

 でもおかしいだろ、日向には好きなやつがいたはずで。

「……日向の好きなやつって、まさか……俺?」

 日向は空を仰いで目元を覆った。その頬が見間違えようもないほど真っ赤に染まっていて、俺の鼓動も否応なく走りだす。

「あの、とにかく! 今は練習に集中したくて! 本当にごめん」
「謝るなよ、それじゃ俺が振られたみたいになるだろ」
「振ってない! 振るわけない!」

 だったら、そういうことでいいんだよな? 

 周りに人目がないことを確認してから、日向の肩を抱き返すと、スルリと逃げられて舌打ちをする。

「おい、逃げるなよ」
「だから駄目やって、月城のことで頭がいっぱいになっちゃうから」

 仕方ないと大人しく歩きだすと、彼はあからさまにホッとした表情をした。なんだよ、ムカつく。

「ごめんね。待っててくれる?」
「これで本選の舞台で適当な演奏をしたら、前言撤回してやる」
「やめて、捨てないで!」
「おいやめろ、周りが見てるだろ」

 学校が近づいてきた。道ゆく生徒が日向と俺の組み合わせを見て注目しているのがわかる。

「そもそもまだ予選の結果も出てないのに、ずいぶん自信があるんだな」
「今回は手ごたえあったからね」
「練習は見にいっていいのか」
「いつでも来て、月城がいるほうが張り合いが出るから」

 教室についてもまだ日向が話したそうにしているので、思いきって誘ってみる。

「後で昼、一緒に食べるか?」
「……! うん! また後でね」

 輝く笑顔を残して日向が席に戻っていく。受け入れられたという実感がじわじわと湧いてきて、口元を隠すようにしながら頬杖をついた。

「時藤くん、おはよう! 今日もかっこいいね」
「おはよ。そういう風に褒めてくるってことは、どっか褒めてほしいんかな?」
「もう、そんなんやないよー」

 女子が日向に媚びるのを見ても、今日は寛大な心で許せそうだ。

 知ってるか、そいつ俺のことが好きなんだぞ。

「ノート、ちょっと見せてもらえないかなあって」
「ああ、今日が小テストやっけ」
「もう時藤くんはバッチリなんやろ?」
「そんなことないよ、最近はピアノばっかり弾いてたから。僕もテスト範囲を予習しないと」

 日向が慌ててノートを開いている。俺も忘れていた。

 今からでもやらないよりはいいだろうと、俺も教科書を開いて読み直しはじめた。
 水曜日、バイトがないので日向の家に向かい、彼の演奏を聞くことにした。

 実質デートになるのか、これは……四条烏丸の駅を降りた日向も、心なしかそわそわしている。

「予選受かってたから……本選、一ヶ月後だって」
「そうか、よかったな」
「うん……やっとここまで来れた。月城のおかげだ」

 日向は自分の指を見つめて、じわじわと頬に嬉しさを滲ませている。

 ……彼のそわそわはたぶん、俺のとは違う気がする。

 今は本選に集中したいって言ってたし、しょうがないな。サポートしてやるか。

「本選の曲は?」
「もう決めてある。〈英雄ポロネーズ〉」
「へえ、メジャーなの弾くんだな」
「弾いたことあるやつやし、舞台映えするから」

 弾きこなすには技巧と力強さの両方が必要だが、正確に音を鳴らせば強く華やかに聞こえる曲だから、繊細な表現力が求められるわけではない。

 練習済みらしいし、自信を持って弾ける曲なのだろう。

 日向の家に着くと、日向の母が変わらない笑顔で出迎えてくれる。安堵の息を吐きながらショルダーバッグを下ろし、手土産を取り出した。

「この前はすみませんでした。これ、受け取ってください」

 近所で有名な羊羹セットを差し出すと、日向の母は頬に左手を当てた。

「あら、そんなんいいのに。日向から訳を聞いたけど、うじうじしてたこの子の目を覚ましてくれはったんやって?」
「そうなんだよ、月城がいなきゃ本選には進めてなかった。それに月城は僕を励ますために、本選に進む可能性を捨ててしまって……本当にありがとう」
「違うって、あれは俺がやりたくてやったことだし。もういいから」

 あの時は必死過ぎたというか、勢いで殴ってしまって俺も反省しているんだ。そんなにありがたがらないでくれ。

 その場の流れで羊羹をいただくことになってしまい、肩を窄めながら腰掛けた。

「羊羹やったらお抹茶とあわせるのはどう? せっかくいい羊羹をいただいたんやからちゃんとしたいわ。茶筅はどこにしまったかしら」
「あの、本当にお構いなく」
「お母さん、手伝うよ」

 日向は長身を活かして上の棚から茶器と茶筅を取り出し、ケトルでお湯を沸かしはじめた。

「ありがとうねえ。ほんまに日向がおらんと生活できひんわ」
「大袈裟だよ」

 気負いなく笑う彼は、まったく恩に着せる様子がない。そういうところも好きだなあと、キッチンに立つ後ろ姿を見つめた。

 お湯が湧いたので、日向はケトルごとお湯をテーブルに運んでくる。

「日向、気をつけてね。怪我したらピアノが弾けなくなるやろ」
「やっとお母さんを東京の舞台に連れていけるのに、そんなうっかりミスはしないって」
「私のことやのうて、日向が怪我するのが嫌なんよ」

 日向は面映そうに微笑む。俺にはその笑顔が、そういう人だから力になりたいんだと言っているように見えた。

「うん、わかってる。気をつけるね」
「ええ、そうして。それじゃ、ここにお粉を入れてくれる?」

 抹茶の粉を落とした茶器に、適温に冷ましたお湯が注がれる。日向が器を下から支えて、日向の母が茶筅で泡が立つまでお茶をかき混ぜた。

「こうやって、しっかり混ぜたら真ん中から茶筅を引き上げるのよ」
「次は僕がやるね」

 日向は茶器の中に静かに茶筅を下ろし、一定の速度でお茶をかき回している。やったことがあるのだろう、堂に入っている。

 抹茶の香りが漂ってきて、ごくりと唾を飲んだ。

「俺もやってみていいですか」
「もちろんよ」

 適量のお湯を注いでもらった茶器に、茶筅を入れてかき回す。段々と泡が立ってくるのが面白くて、夢中でかき混ぜた。

「はじめてやりました、こういうの」
「そうか、京都やとお茶を立てられるお店が身近にあるけど、月城は東京育ちやもんね」
「お茶立ては初めてなのね。上手よ」

 立てたお茶の飲み方を見よう見真似で習い、お茶を一口飲んだ後で羊羹を食べてみた。抹茶が苦い分、羊羹の上品な甘さが引き立つような気がする。

 俺の隣で日向が満足そうなため息をついた。

「こうやって食べると、優雅な気分に浸れるよねえ」
「本当にねえ。普段はお砂糖を混ぜてラテにしてしまうけど、やっぱり茶筅でお茶を立てると美味しいわ」
「また時々こうやってお茶を立てようよ。月城も呼んでさ」
「え」

 いいでしょと目で問われて、迷った挙句に頷いた。日常の忙しなさを忘れられる空気感はクセになりそうだ。

「じゃあまた、お茶菓子を買ってきます」
「うふふ、私もいい店をたくさん知ってるのよ。今度月城くんの持ってきてくれたお茶菓子と、食べ比べをしましょうか」

 施されてばかりの食事会は肩身が狭いが、お茶菓子を持参するお茶会ならまた来てもいい。いや、来たいと頷く。

 和やかな茶会を過ごしピアノ室にひっこんで、肺に貯めた空気を吐き出した。

「あ、もしかしてお茶会の誘いは嫌やった?」
「そうじゃなくて……京都に来てよかったなって思っただけ」

 さっきのような穏やかな時間もそうだし、なにより日向に出会えたことが大きい。

 きっと父が病気をする前の俺だったら、日向の優しさがどんなに尊いものか気づけなかっただろう。

「僕はずっと東京の舞台に母を連れていきたいって、それだけを思ってきたけど。でも京都に住んでてよかった。月城と会えたから」

 ささやくような小声だったので、確かめるように顔を見上げると、日向の頬は赤く染まっていて。それすら手のひらにすぐに隠されてしまった。

「さて、練習しよ!」
「邪魔したい」
「なんで!?」
「しないけどな。勉強でもしながら聞いとく」

 彼は意外なことを聞いたように目を瞬かせたが、すぐににこりと微笑んだ。

「ええね、テストも近いし勉強してて。わからないところがあれば教えるよ」
「さっき邪魔しないって言ったろ」
「テスト勉強も大事やし、遠慮しないでガンガン聞いて」
「……じゃあ一つだけ」
「うん、なに?」

 ソファに座ってショルダーバッグを隣に置いた。少しためらった後で、思いきって聞いてみる。

「日向は、音大に行くつもりはないんだよな」
「うん」
「K大を狙ってるのか?」
「公立で、医学部があるところがええなって」

 医学部だと。頭がいいやつの代表格な学部じゃないか。

「じゃあやっぱK大か」
「そうだね、このまま頑張ればいけるんじゃないかと」
「……俺も今から勉強を頑張れば、いけると思うか?」

 医学部を目指したいわけじゃないが、どうせ大学に行くなら日向の側にいたい、なんて乙女のような思考が過ぎる。

 ああ、馬鹿なことを聞いてしまった。バッグから教科書を取り出し読むフリをしていると、日向がぶつかるような勢いですっ飛んできた。

「月城、僕と同じ大学に行きたいってこと!?」
「いやいい、全教科赤点スレスレ野郎が行けるわけないよな、忘れろ」

 あああ近い、ヤバい、離れろと腕を突っ張るが、テンションが振り切れた日向は腕を回してぎゅうぎゅう抱きしめてくる。

「行けるよ、行こう! 全力で手伝うから!」
「お前に助けられてばっかりってなんか腹立つから嫌だ」
「なに言ってるの、いつも助けられてるのは僕のほうだよ! あの時だって……」
「予選の話はもう蒸し返すなって言っただろうが」

 ムキになって全力で押しのけると、ようやく日向は離れてくれた。上がった息を整えながら、首を横に振っている。

「その話じゃないんだけど……とにかく、本選が終わったら改めて話そうよ。僕も月城と大学が同じだったらめちゃくちゃ嬉しい」
「わかった、わかったからとにかく今は練習しろ」

 ようやく日向がピアノを弾きはじめた。華々しく勇壮な音楽に励まされながら、気持ちを切り替えて社会の教科書を読み込んでいく。

 わかっていないところがそれなりにあって、ノートにメモを取りながら記憶の穴を埋めていった。

 しばらく真面目に勉強をしていたはずなのだが、暖房のせいだろうか、気がつくと意識が落ちていたらしい。

 夢うつつに、甘く柔らかなメロディーを耳にする。日向が弾いているのだろうが、眠くて目蓋が開かない。

 なんだっけな、この曲……優しくて、包みこむような……考えているうちにまた意識が飛び、無音の中で揺り起こされた。

「月城、気持ちよさそうに寝ているところ悪いんだけど、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな」
「……悪い、寝てた」
「ふふ、授業中もよく寝てるもんね」
「いつの話だ、最近は寝てねえよ」

 あくびを噛み殺しながら立ち上がり、バッグを持ってコートを着込む。外に出た瞬間に十二月の風が襲ってきて、一気に眠気が覚めた。

「寒い」
「そうだねえ、そろそろ冬になるから。あ、カイロいる?」

 もう一分一秒を惜しむような勢いで練習したりしないが、指先が温かいほうがいいに決まっているので受け取っておいた。

「ところでさ。月城って土曜日は忙しいよね?」
「基本バイトだが」

 日向はそわそわしながら、マンションの廊下に落ちた葉を蹴飛ばしている。

「無理やったら全然ええんやけど。もしもよかったら本選、聴きにきてほしいなあ、なんて」
「行く」

 そんなの行くに決まってる。

 バイトを一週間も休んだし、来月は出費を控えて土日は全部シフトを入れようと思っていたが、日向が来てほしいと言うなら這ってでも行く。

「大丈夫? 無理してない?」
「そのくらいどうとでもなる、なめんな」

 マンションのエントランスを通り抜けて、地下鉄までの道を進みはじめると、やはり日向は当然のようについてきた。

「なあ日向、俺には気を使わず、今みたいにちゃんと言いたいことを言えよ」
「うん、そうする。ありがとう、今回はどうしても来てほしくて」
「また殴ってほしいのか」
「それはもういいよ!」
「ふ、冗談だ」

 ニヤリと笑うと、日向は気が抜けたように笑った。

「ふふ、月城も冗談を言うんだ」
「言うに決まってるだろ、人をなんだと思ってるんだ」
「すごくかっこいいのに、時々すごく可愛い男の子」
「……っおい」

 ふざけんなお前、こんな街中で。

「俺が可愛いわけないだろうが」

 すごんで睨むと、わあ怖いと大袈裟にのけ反られる。

「照れたからって手を出すのはやめてね?」
「照れてねえ」

 胸ぐらを掴もうとするが避けられた。隙をついて頭を撫でられて、慌てて手を押さえようとした瞬間に離れていく。

「あ、駅についた! また明日ね!」
「待てよ、勝ち逃げすんな」
「勝ち逃げとかじゃなくて、月城の髪を一回撫でてみたかっただけだから」

 さっきから俺を惑わせることばっかりしやがって。今度は起きてる時にキスすんぞ。

 触られた部分を押さえながら背中を向ける。地下鉄行きの階段の前で振り向いた。

「おい日向、本選が終わったら覚えてろ」
「わかった、楽しみにしてる」

 ああもう、完敗だ。手のひらを向けて別れの挨拶をすると、彼も満面の笑みで手を振り返してきた。

 十二月に入りテスト期間が過ぎ去った。勉強をした甲斐があり、全教科普段より十点程度は点数が高く、暗記を頑張った日本史は九十点台を取ることができた。

 テスト結果を知りたがった日向に答案を見せると、すごいすごいと興奮していた。

「月城って地頭がいいタイプだよね……もともと授業中に寝ていても赤点を取らずにいられた訳だし、もしかすると本当にK大に行けるかもしれないよ」

 公立の大学なら学費も安いし、母さんに負担をかけずに済む。

 このまま勉強を頑張れば日向と同じ大学に行けるかもしれないと、希望が持てた瞬間だった。



 そして来たる十二月の第二土曜日。夜行バスは遅延なく進み、無事早朝に東京駅の八重洲口に降り立った。

 早朝の空気は吐く息を白く染める。こんなにも人が少ない時間帯に東京駅を訪れたことはない、新鮮な気分だ。

 いつもより視界が狭いと感じて、そういえば京都には東京ほど高い建物が乱立していないと気づく。すっかり俺は京都に馴染んでいるらしい。

 日向の順番は昼頃だと聞いている。モーニングカフェで朝食を済ませた後、病院に向かった。

 受付前で患者の名前と面会を予約している旨を告げると、さほど待たされることなく面会室へと案内される。

「こちらでお待ちくださいね」

 看護師に会釈をして椅子に座ると、ほどなくして目当ての人物がやってきた。

 記憶の中の姿よりもやつれているし、くたびれている。眼鏡の奥からのぞく瞳も、昔と変わらず凪いでいた。

 なにを考えているか読み取れないが、会ってくれたのだから拒絶されてはいないはずと、自分を奮い立たせる。

「久しぶり、父さん」
「……ああ」

 父はゆっくりとした動作で椅子に腰掛けた。ゆったりしすぎているセーターは、ひとまわり細身の物に取り替えてもいいんじゃないかと思ったが、口には出さない。

 話したいことは決まっている。父のほうはどうだろうと膝を握って彼の顔を見つめるが、俺が話し出すのを待っていた。

「……元気か? いや、そうじゃなくて」
「……」
「俺も母さんほど話上手じゃないから、いきなりだが本題に入らせてもらうぞ」

 一拍の間を置いて父が頷いたのを確認し、唇を舐めてから話を続ける。

「中二の頃、俺は父さんが病気になったことを受け入れられなくて、ずいぶん荒れたよな」

 母さんは「変わっちゃった」なんて軽い言葉で表現していたが、あの頃の俺はかなり荒んでいたと思う。

 今まで当たり前にあった物が当たり前じゃなくなって。大好きなピアノが家から消えて、楽しみにしていた発表会にも出られなくて。

 すべて父さんのせいだと、落ち込む肩に当たり散らしたこともある。

「でもさ、俺はもう父さんがいなくても大丈夫なんだって気づいたんだ。だから……あの時は言い過ぎた。ごめん」

 もう俺に責任を感じなくていい。一刻も早く気を楽にして、日々を穏やかに過ごしてくれたらそれで十分だ。やっとそう思えるようになった。

 俺の言いたいことはちゃんと伝わっただろうか。父さんは俺の腹あたりを見ながら、長いこと口を閉じていた。

 薬で状態がよくなったと聞いているが、もともと話すのが得意じゃない人だし、無理をさせたい訳じゃない。

「じゃあ俺、行くから」

 立ち上がろうとすると、父が口を開いた。

「明人の演奏を聴いた」

 浮きかけた腰をもう一度下ろし、小さな声に耳を澄ませる。

「母さんからデータが届いたんだな」

 父は頷いて、俺の顔を見た。

「……よかったぞ。今までで、一番」

 ハッと息を飲んで眼鏡の奥の瞳に目を凝らした。

 一番だって? 仕事ばかりで、いつだって母だけが俺のピアノを聴きにきていたのに。

 まさか今までも、母さんが録画した映像を見ていたのか。唇がわなないた。

 母さんと二人で生きるのは大変だ。父さんがいたあの頃に戻りたい。戻れないならせめて、頑張ったなと認めてほしかった。

 そうだ。ずっと頑張ったなって、この人に認めてほしかったんだ。

 揺れはじめた視界に気づいて、何度も瞬きをして誤魔化した。一呼吸ついてから、声が震えないように慎重に口を開く。

「ありがとう……土産、置いていくから。ちゃんと食べろよ」

 看護師に案内されて病棟を後にする。わずかな時間だったけれど言いたいことは言えたし、みっともなく取り乱さずに話ができた。

 贈られた言葉を噛み締めながら電車に乗って、東京文化会館へ向かう。

 曲の合間をぬって小ホールの中に滑り込むと、前から三番目の席に見知ったシルエットを見かけた。

 時藤の母に会釈をして通り過ぎ、隣にいた男の人……年齢と体格から想像するに、日向の父らしき人にも、若干動揺しながら頭を下げる。最前列に腰掛けた。

 いつもお世話になってますとか、挨拶すればよかっただろうか。しかし客席は暗いし、話せるような雰囲気でもない。後にしようと結論づける。

 日向からはプログラムの順番だけを聞いていたので、出場者がどんな曲を弾くのか知らない。

 さすがに予選を通過した強者たちだ、皆それぞれに聞き応えがあった。立て続けに揺れた心が、演奏を聴いているうちに曲の中に入りこんでいく。

 だいたい一人につき十分程度の持ち時間で、舞台の上から去っていった。

 ……おかしいな、日向が弾く予定の〈英雄ポロネーズ〉は七分程度の曲だ。三分ほど演奏時間が足りない。

 まさかあいつ、ここまで来て曲のチョイスをミスっていないだろうな。まんじりともせずに出番を待つ。

 そして席に着いてから数十分後、ついに日向の番がやってきた。

「ようやっと出番やね……あら、四年前といる場所が逆やわ」

 日向の母がなにやら気になることを言っている。

 振り向くと、うるさかったかしらごめんなさい、とでも言いたげに頭を下げられた。大丈夫ですと首を横に振る。

 日向が舞台上に姿を現した。スーツが長身を包む様は、どこぞの貴公子のような風格がある。

 視線を彼に釘付けにしていると、舞台の上から俺の姿が確認できたらしい。ばっちり日向と目があった。

 彼は目を瞬かせた後、華やかに微笑んでピアノの前へと向かう。

 堂々としていて、上がってはいないようだ。椅子に腰かけると、間を置かずに曲を奏ではじめた。

 〈英雄ポロネーズ〉はショパンの作品の中で、もっとも華やかで力強い曲だと思う。

 いくつものトリルを正確に弾きこなし、左手のオクターブを大きな手で難なく押さえる日向の演奏は安定しており、聴き心地がいい。

 ああ、俺もこんな演奏ができたらなと今でも思う。

 それでも予選の時に自分なりにやりきったお陰で、ドロドロとした羨望は胸の内から湧いてこなかった。

 ただ彼の演奏が聞く人の胸を打てばいいと、静かに願うだけだ。

 難所を軽やかに、出すべき音を重厚に響かせて演奏を終えた。あっという間の七分間だった。

 これで退場するのかと見守っていると、日向はもう一度鍵盤の上に手を乗せる。

 日向から流し目で見つめられたのは一瞬で、俺が目を見開く頃には、彼は視線をピアノへと戻していた。

「次は〈献呈〉やね」

 後ろから日向の母の声が微かに聞こえたが、意味を理解する前に一音目が柔らかく響く。

 先程の勇壮さとはうって変わって、甘やかな音で空間が満たされた。

 悩ましげで、それでいて温かく、包みこむような演奏が指先から紡がれる。俺は信じられない思いで彼の指先を見つめた。

 なんて細やかで、愛に満ちた音なんだろう。いつの間にこんなにも情緒的に弾けるようになったんだ。

 絹で頬を撫でられているような、うっとりとため息をつきたくなるメロディが奏でられていく。

 曲がどんどん激しく技巧的になっていき、根底に流れていた感情が一気に放出された。背筋に電流が走ったように感じ、瞬きすら忘れそうになる。

 許されている、満たされている。音の粒が細かな光となって、客席に降り注いでいるように錯覚を起こした。

 舞台を見上げる俺の上にも、受け取りきれないほどの密度を持って光の音が注がれてくる。

 美しい高音が低音まで滑らかに流れて、ピークを越えた曲は徐々に終息へと向かっていく。目が痛くなるくらいに乾燥しているのに、一瞬たりとも集中を切らさずに彼の演奏を見つめていたかった。

 日向は赤ん坊の頬を触る時と同じくらい注意深く、最後の和音を弾ききった。曲が終わって日向が舞台上から去っていっても、俺はしばらくの間胸を押さえたまま動けなかった。

 次の演奏者が弾き終えるのを待って立ち上がると、小ホールから抜け出す。窓際の椅子に腰掛けてスマホを取り出し〈献呈〉と打ち込んだ。

 出てきた情報に目を凝らす。リスト……いや、シューマンの曲なのか。両者とも有名なドイツ・ロマン派の作曲家で、同時期に生きていて交流もあったらしい。

 もともとはシューマンが作曲した歌曲だが、それをリストがピアノ曲にアレンジしたのか……いや、そんな情報は今はどうでもいい。

 スクロールした画面で曲の由来を見つけて、思わず天を仰いだ。