バイトがあるので一度別れて、夜十時まで働いたあと日向の家に向かう。ラインで日向と連絡をとり、日向の母にバレないようにこっそりピアノ室に向かった。

 ピアノ室に入り、電気をつけてコートを脱ぐ。中は暖房のおかげでちょうどいい室温になっていた。

「明日は学校ないし、遅くまでいてもらって大丈夫だから」
「いや、一時間くらいで帰る。明日も来るし」

 声が小さいなと顔を確認すると、日向はマスクをつけていた。

「風邪か?」
「いや、喉がちょっとね。一晩寝れば治るよ」
「体調が悪いなら……」
「本当になんでもないんやって。月城に移したら嫌やからつけてるだけで、たいしたことないから」

 やっぱり風邪なんじゃねえか。帰ろうかと思ったが、日向が扉をガードするみたいに立っているので、三十分だけ弾いていくことにした。

 苦手だった右手と左手が両方素早く動く部分は、ここ数日の猛練習のおかげで完成に近づいていた。この調子であと一週間頑張ればものになりそうだ。

 日向と一緒に東京の舞台に立てるかもしれない。あいつの夢をサポートしてやれる、そう思うだけで練習する意欲がいつも以上に湧いてくる。

 気がつくと四十五分も経っていて、当初帰ろうと思った時間を過ぎていた。

「日向、悪い。そろそろ帰る」

 コートを着込んでショルダーバッグを肩にかけるが、返事がない。日向はソファに斜めにもたれて寝落ちしていた。

 こいつの寝顔、はじめて見た。引き寄せられるように近づき表情を確認する。

 体調が悪いせいか、眉間に皺が寄っていた。やっぱり帰ればよかったと思いながらも、指先が日向のほうに伸びていく。眉間の皺を指の腹でつつくと、顔の前で手を振るような動作をした。

 マスクを外すと眉間の皺が緩んだ。息苦しかったらしい。はやく起こして布団で寝かせてやらないといけないのに、顔から視線を引き剥がせない。

 優しげな印象が先立つ柔和な顔立ちだと思っていたが、目を閉じていると大人っぽくて男性的な美しさが際立つようだった。輪郭を手のひらで包むと、ピクリと目蓋が震えたが起きる気配はない。

 吐息を感じる距離まで顔を近づけても、無防備に寝こけている様子を見て、ゴクリと唾を飲んだ。

「日向、起きろよ」

 耳元にささやいてみる。

「起きないと悪戯するぞ」

 規則正しく上下する胸元を凝視しているうちに、魔がさした。普段は前髪で隠れている額を露わにし、滑らかな丘に口づける。

 身体中をものすごい勢いで血液が巡っている。心臓が口から飛び出しそうだ。

「ううん……」

 日向が身じろいだとたんに素早く身を起こす。そのまま目頭を擦りはじめた彼に背を向けて、一目散に扉へ向かった。

「おい、俺はもう帰る。ちゃんと部屋で寝ろよ」

 言い捨てて扉を閉めると、夜の廊下を抜けてマンションのエントランスを飛び出した。鍵はオートロックだと聞いていたから施錠しなくても大丈夫だろうか、気になるが確かめに戻る勇気はない。

 あの時起きたのか、そのまま眠りについたのかわからない、わからないが今はそんなことはまともに考えられなかった。

「……俺の馬鹿」

 体調が悪くて寝てるやつの隙をつくなんて最低だ。

 気づかれただろうか、気持ち悪がられるだろうか……夜の闇が勢いを増し、鋭い風となって頬に吹きつける。たまらずに俺は駆け出した。



 次の日、今日は体調が悪いからおやすみさせてほしいと、日向からラインが来た。

『こんな大事な時期にごめん』
『いいから寝てろ、無理するな』

 狼が倒れて青い顔をしているスタンプが返ってくる。この調子なら俺がやらかしたことに気づかれていないのだろう……布団に拳を叩きつけた。

「くそっ」

 俺のせいだ。おそらく日向はあの後ピアノ室で寝落ちして、風邪を悪化させたに違いない。

 俺がちゃんと起こしていれば。あんな悪戯をして動揺していなければ。俺のほうこそごめんと謝りたいが、彼には意味のわからない自己満足にしかならない。

 悶々とした気分を切り替えられないまま、バイト先に赴いた。京都駅付近のラーメン屋の中でも目立たない路地にあるこの店は、観光客が増えてもそこまで客足に影響がない。

 しかし紅葉シーズン真っ只中の土日はやはり混む。観光客の多さに辟易とした地元客が、ラーメン屋に押し寄せてきているらしい。

 捌いても捌いても、次から次へと客がやってくる。行列に並んでいた客はピリピリしていることが多く、普段より当たりが強い。

「これ二番テーブル、こっちは四番!」
「はいっ」

 二番テーブルにラーメンを運び、四番テーブルに向かおうとしたら三番テーブルの客に詰め寄られた。

「おい、こっちはもう三十分も待ってるんや!」
「すみません、順番通りに運んでおりますので少々お待ちください」
「隣の客より俺らが座るほうが早かったやろうが、目ん玉ついてんのかワレ!」
「確認いたしますので、少々お待ちください」
「もう待てへん言うとるやろ、お前じゃ話にならへん店長呼んでこい!」

 ああ、うざったい。気持ちが顔に出ていたのか、胸ぐらを掴まれそうになる。腕は避けられたが、その拍子にラーメンの中身が溢れて思いきり左手にかかった。

「あっつ……!」

 急いで厨房に引き返し、張りついた麺を引き剥がした。先輩が俺の指を見て声をあげる。

「うわ、真っ赤。そのラーメンどこの?」
「四番です」
「わかった、三番も対応するから冷やしとき」

 指先全体と手のひらがピリピリと痛んでいたのが、流水で冷やしているうちにだんだん和らいできた。

 厨房もホールも慌ただしい雰囲気の中、一人だけ水道を独占しているのは気が引ける。

 もう大丈夫だろうと自己判断して、冷凍庫から氷を出して袋に入れ、適当にテープで固定してからすぐに仕事に戻った。

 氷が溶けた後も取り替える暇もなく懸命に働いていたら、客足が引く頃には指先に水ぶくれが出来上がっていた。

「月城、そんなんなる前に報告せえや。今すぐ病院に行ってこい」

 店長に気づかれて早上がりになった。やらかしたな、今月のバイト料が減ってしまう。

 土曜の夜でも開いている診療所を検索しているうちに、通常診療が終了する時間になってしまった。仕方がない、家に帰って冷やそう。

 流水に手をかざして冷やしてみるが、もう水ぶくれになってるから効果は薄いだろうな……ざあざあとシンクに落ち続ける水の流れをぼんやり見つめた。

 指先を動かそうとすると、赤くなった指関節が痛む。完治まで何日かかるだろうか。

 罰が当たったのかもしれない。好きな人がいる相手にこっそりキスなんてしたから。

 指先に氷袋を当てながら、部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。

 一人きりの家は静かだ。なにもしていないとジクジクとした痛みが指先から湧いて出て、身体中を巡り胸の中に膿のように溜まっていく。

 痛みを紛らわすために音楽をかけた。こんな時こそ課題曲を聴いて、せめてイメージトレーニングを行うべきなんだろう。

 わかっているのに、俺が再生したのはジャズだった。軽快なスイングに耳を傾けると、日向の顔が遠ざかっていく。

 目蓋が落ちて眠りにつくまで、耳元をジャズが撫でていた。





 日曜日、日向からはまだ本調子じゃないと連絡が来て、俺は後ろめたさにジクジクと胸を痛めながら『気にするな』と返信し家で過ごした。

 左手の指先には二箇所、水ぶくれが残っていて、とてもピアノが弾ける状態ではなかった。

 月曜日、母さんに見咎められないように手を隠しながら家を出る。病院に向かい診察を受けたが、全治一週間と診断された。

「水ぶくれは自然に小さくなるまで放っておいてくださいね。無理に指を動かさないように」

 特殊素材の絆創膏を貼ってもらった。左手だし、机の下に隠しておけば日向に見られる心配もないだろう。

 昼休みの時間に学校に着いた。教室に顔を見せると同時に、日向は顔の前で手をあわせる。

「ごめん! もうすっかりよくなったし、今日から練習再開してもらってええから」
「ああ。せっかくだが今日は無理だ」

 左手を背中に隠しながら自席へ向かうと、日向は怪訝な顔でついてくる。

「どうして? もしかして月城も体調悪い?」
「まあ、うん。そんな感じ」
「それで午前中休んだんやね。ごめん……! 僕の風邪が移ったんかな」
「気にするなよ」
「気にするって! こんな大事な時期に……」

 たいしたことないと説き伏せて席に戻らせる。

 そうだ。こんなのたいしたことじゃない。たいしたことじゃ……

 無意識に握りこもうとした左指に痛みが走り、顔をしかめた。しばらくは風邪を引いたことにして誤魔化すしかない。

 クラス内でも風邪が流行っているようで、空席がいくつかある。そういや、数日前からくしゃみや咳をしているやつらが多かったなと思い出した。

 文化祭が終わった後の教室は、学期末試験に向けて空気が引き締まっていた。いつも通りに寝ようとしたが、最近夜更かしをしていないせいか眠気が湧いてこない。

 古文の先生が訳のわからない文章を解読している。少し迷ってから、ノートを真面目にとってみた。日向の背中を見ると、彼もしっかりとノートをとっているようだった。

 その日は日向と黒板を交互に見ながら授業を終えた。