練習の後、やはり一緒に家を出て送ろうとする日向を今夜は止めずに、秋風が吹き抜けるビルの間を隣あって歩く。

「寒いな」
「本当、手が冷たくなっちゃう。指が動かんくなるからやめてほしいね」

 去年はこんな時期になってもストリートピアノの前に陣取って、かじかむ手を懸命に動かしていた。あの頃の俺と比べたら、ずいぶん恵まれた立場にいる。

 それもこれも、日向が強引に俺を引き込んだからだ。だからこそ今こんなにも必死で、こんなにも毎日が充実している。

 だとしたら、俺が日向にやってやれることはなんだ。ピアノを聴かせてやる意外にもなにかできるはずだ。

「なあ。お前がピアノコンクールで東京に行こうとしてるのは、母親のためか」
「ああ、わかっちゃった? そう。お母さんが夢だった舞台に僕が立ったら、嬉しいかなって」
「それで、日向はどうなんだよ」
「どうって?」

 首を傾げる日向を見て眉間に皺を寄せるが、彼は俺がどういう意図で問いかけているのか本気でわからないみたいだ。ため息を吐きながら説明する。

「お前は自分が弾きたくもないピアノを人のために弾いて、何年もそんなことを続けてきたんだろ。本当にそれでいいのか」
「弾きたくないわけやないよ」
「嘘つけ。だから弾いてて楽しくないんだろ」

 黙り込んだ日向と俺の間に、ひときわ強い北風がびゅうっと吹いて髪を揺らした。

 違う、喧嘩を売りたいわけじゃないと頭を掻いて思考を整理する。

「だからその……もっとお前が楽しいと思うことに時間を使ったらどうだ」
「僕は今楽しいよ。だって月城と一緒にいるから」
「は?」
「あ、だから月城のピアノを聴くのが楽しいんやって」

 なぜか焦ったように言い訳をされたが、俺とのピアノの時間を楽しんでくれているのは本当らしい。じわりと頬が熱くなり、マフラーを引き上げて顔を隠した。

「……だったら、俺が予選通過できるようにこのまま協力を続けること。わかったな?」
「うん、もちろん協力させて。あ、そうだ」

 ポケットに手を入れた日向は、十枚セットのミニカイロを取り出し俺へと差し出した。

「家に来た時、すぐに指が動かないって困ってたやろ。学校が終わったらこれ使って」
「そんなところまで気を使わなくてもいいのに」
「気を使ってるんやなくて、僕が月城のためにしたいことをやってるだけ」

 だから気にせんといてと言われても、気になる。勘違いして、都合の良いように捉えたくなってしまう。俺は友達よりも大事な存在じゃないのかと、問い詰めてしまいたくなる。

 そんなことをしても、望む答えはかえってこないだろうに。

 カイロを持ったまま足を止めると、日向はミニカイロを二つ取り出しその場で使いはじめた。

「はい、あったかくして帰ってな。風邪を引いたらコンクールに出られないよ」
「……わかってる」

 差し出されたカイロを受け取る時、わざと日向の手を掴んでやった。日向の指先がカイロよりよほど熱く感じたのはきっと気のせいだろう。

 驚く日向を置いて背を向ける。地下鉄の階段を降りながら、カイロごとポケットの中に手を突っ込んだ。




 家に帰ったら居間に明かりがついていて、母さんが起きて待っていた。今日は仕事のはずで、まさか家にいるとは思わなかったのでギョッとしていると、母さんは俺の額を指で小突いてくる。

「こんな時間まで連絡もせんと、どこ行ってたん?」

 とっさに言葉に詰まる。日向と一緒にピアノコンクールに出ることを母さんには伝えていなかった。

「別になんでもいいだろ」
「この前の保護者面談の時、月城くんは夜中に出歩いたりしていませんかって先生から心配されてたの覚えてるやろ? あんた顔も態度もそっけないんやから、不良やって誤解されるようなことすんのやめとき」
「遊んでる訳じゃねえよ。母さんこそ仕事は?」
「急にシフトが変わってん」

 温めたお茶を出されて、仕方なく椅子に腰かける。テーブル越しの母さんは俺が話すのを静かに待っていた。

 友達の家に入り浸ってまでピアノを弾いているだなんて、みっともない気がして俯いてしまう。

 そもそも学校でピアノが弾けることを明かさなかったのは、今でもピアノを弾いていることが母に伝わったら、家で弾かせてやれないことを気にすると思ったからだ。

 プロになりたい訳じゃない。あの頃、幸せの象徴だった舞台にもう一度立って、頑張ったねって受け入れてもらいたいだけだ。母さんに……それから、父さんにも。

 我ながら子どもじみた願いだ。でもまだ子どもなのだから、このくらいは甘えてもいいのだろうか。

 張りついた唇を温かいお茶でふやかしてから、重い口を開いた。

「……今度、ピアノコンクールに出るんだよ」
「へえ? いつ」
「予選が再来週、大阪で」
「行くわ。次こそ絶対お休みとる」

 力強く言い切られて、ホッと唇から吐息が漏れた。

「それでこの時間まで練習に行ってたんやね」

 頷くと、母が表情を緩めて笑顔を見せる。

「そういうことかあ。でもスタジオ代とか、高いんやないの」
「友達の家でピアノ使わせてもらってる」
「えっ、お礼せな」
「いいよ俺がやっとく」

 せめて手土産でも持っていきなさい、用意するからと押し切られて話はお開きになった。立ち上がって冷たい廊下に足をつけ、思い出したようにつけ加える。

「……録音して親父に送りたいなら、自由にやってくれていいから」
「明人……」

 やっと言えた。肩が軽くなった気がする。

「じゃ、おやすみ」

 母さんの顔が見れないまま、四畳半の自室に戻った。コートのポケットに入ったままのカイロを取り出して、両手で包んでみる。体も心もほっこりと温かく感じた。



 放課後や土日は日向の家に入り浸っているが、学校で日向に接触することはほとんどなかった。彼はいつもクラスメイトから囲まれているし、俺が彼に話しかけると日向の友達はどうも困惑している感じがする。

 別に誰にどう思われようが知ったこっちゃないが、あからさまに日向を狙っている女子から睨まれるのは面倒臭い。

 それに、万が一同じ者を想う者同士、気持ちが見破られてしまったらと想像すると、クラスメイトの前では日向と口をきかないほうがいい気がした。

 そんな訳で学校では日向とほとんど話さないのだが、彼のほうはなんら気にすることなく俺に話しかけてくる。

 でも俺のほうが意識してしまい駄目だった。ついつっけんどんな態度をとってしまい、自己嫌悪に苦しむ無限ループを繰り返している。

 ピアノコンクールが来週に迫った金曜日、配られた進路調査票を白けた気分で眺めていた時だった。日向の席付近から女子のかしましい声が上がる。

「すごーい、時藤くんK大に行くん?」
「行けたらええなってだけで、まだ候補だよ」
「うちは全然狙えへんし、候補に置けるってだけすごいことやん」

 日向にまとわりついて頬を染める女子どもを、内心鼻で嗤ってやった。

 そいつ、自分を嫌っている相手が好きらしいぞ。そうやって意地の悪いことを考えて苛立ちを抑えている俺も、なかなかの道化だが。

 じっとりと怨嗟を送っていると女子がくしゃみをした。そろそろ勘弁してやろうと視線を外し、窓の外を見上げる。

 うちにはとてもK大は無理と嘆いている女子も、当たり前のように大学や短大に進学するのだろう。俺はどうだろうな。

 母さんは大学に進学してほしいからと学費を貯めているが、正直俺に金を使うくらいだったら自分のために使ってほしい。反対されるだろうな……

 結局その場ではプリントを埋められず、白紙のまま教室を出た。ゆっくりと駅までの道を歩いていると、日向が追いついてくる。

「お疲れ様、月城。今日もこのまま家に来る?」
「ああ」

 黄金に染まる銀杏並木が美しい道のりを、日向と連れ立って歩く。ずっとこんな日々が続けばいいのにと、柄にもなく感傷的な思いが湧いてきた。

「あのさ、答えにくかったら全然ええんやけど。月城は進路ってどんな感じで考えてる?」
「俺は高校出たら働こうと思ってるけど」
「……どういう仕事?」
「まだ具体的には考えてないが、土方とか工場の工員とか?」

 高卒でできる仕事なんて、そう多く選択肢があるとは思えない。自分で稼げて、電子でもいいからピアノが毎日弾ける生活ができたらそれで満足だ。

「念の為聞くけど、肉体労働がやりたいって訳やないんよね」
「やりたい仕事か。考えたこともなかったな」

 ラーメン屋のバイトは賄いでラーメンが食べれて時給がいいから続けているだけで、料理が好きな訳でもなんでもない。

 強いていうならピアノに関わる仕事がいいだろうか。家で弾けりゃ十分だと思っていたが、日中もピアノが近くにあるのはテンションが上がりそうだ。それとも仕事中に目の前にあるのに弾けなくて逆にイライラするだろうか。

 日向はしばらくの間、空に舞う銀杏の葉を目で追いながら口を閉じていたが、やがて遠慮がちに話しかけてきた。

「怪我をする可能性が高い仕事は、避けたほうがいいんやないかな……」
「俺がそんなヘマするかよ」
「でも毎日危険な物と間近で接してると、万が一も起きやすいと思うし。月城、あんないい顔でピアノ弾くのに、弾けなくなったらって想像すると……」

 日向は右腕を抱えて背筋を震わせている。そうか、身近に弾けなくなったやつがいると、気にしてしまうのも無理はない。

「ピアノなら当分僕の家で弾けばいいよ。そんな無理してお金稼がなくても、大学に行ったほうが後々……って、ごめん。お節介やね」
「いや、日向の言いたいこともわかる」

 他の誰かに言われたら反発するが、日向が本気で俺のために考えてくれていることが伝わってくる。母さん以外の人間からこんなに親身になって心配されるなんて、くすぐったい気分だ。

「考えてみる。まだ時間はあるしな」
「そやね。僕も今は勉強のこととか考えられないし。ピアノに集中しよ」
「そう言いながらお前、ちゃっかりいい成績とってるけどな」
「コツコツやってたらそう苦でもないよ。月城、勉強苦手なんやったら僕と一緒に勉強会でもする? なんてね」
「ピアノコンクールが終わったらな」
「へ、いいの? うわあ、楽しみ」

 勉強会が楽しみだなんて変なやつだ。それとも複数人で勉強すると楽しいものなんだろうか。

 ピアノコンクールが終わった後も日向と繋がりが持てると信じられて、俺は浮かれた気分のまま日向の家に向かった。