十一月に入った。学校が終わるとすぐに日向の家に向かう。バイトがない日は夕飯を持ち込み、夜遅くまで練習に明け暮れていた。

「今日も悪いな」
「僕は月城がバイトの間に弾いてるから、なんも気にすることないよ」

 優しい日向に甘えて、俺がいる間はほとんどずっとピアノを占領させてもらっている。

 日向は飽きもせずに俺が弾くところを見たり、楽譜や本を読んだりして同じ部屋で時間を潰していた。

 コンクールの予選まであと一週間。一曲目であるバッハのフーガはだいぶ仕上がってきたが、二曲目は苦戦していた。

 課題曲であるショパンのエチュード〈Winter Wind〉は、右手の細かい音の羅列が一曲の間ほぼずっと繰り返される。

 右手だけならまだいいが左手も同じように弾く場面があって、そこが完全にお手上げ状態だった。

「ああ、くそ……上手くいかない」
「大丈夫?」

 ため息をつきながら左手を見つめていると、日向が背中に手を置いてきた。

 背中の筋肉が硬直するが、彼はなんとそのまま半分覆い被さるようにして、左手を鍵盤に置き動かしはじめる。

「まずは片手だけ、こういう風にゆっくり弾いて……」
「わかった、わかったから離れろ」

 肘で腹を突くと、思ったより力が入ってしまったらしく日向はうっと呻いた。

「……すまん」
「いや、暑苦しかったやんね。こっちこそごめん」

 日向は苦笑しながら壁際のソファに戻っていった。過剰に反応してしまい情けない。

 好きな人と長時間一緒にいるだけでも意識するというのに、近づかれたら反応せずにはいられなかった。

 気まずさを誤魔化すために左手の練習をしはじめるが、元々苦手な部分だからなかなかスラスラと弾けるようにならない。

 日向の気配を意識しつつ苦戦しているうちに、日向の母が彼を夕飯に呼びにきた。

「今日も一緒に練習してるん、いいわねえ。時藤くん、お夕飯食べていく?」
「いえ、お構いなく。晩飯持って来てるんで」

 ピアノ室に顔をのぞかせた日向の母に首を振ってみせるが、彼女は顔を曇らせた。

「でも、コンビニのおにぎりとかパンとかばっかりでしょう? 栄養あるもの食べんと風邪を引いてしまうわ」

 なぜそれを。日向のほうを振り向くと、彼は罰が悪そうに頬を掻いた後、わざとらしく笑みを浮かべる。

「みんなで食べようよ、そのほうが楽しいし」

 二人にまあまあと背を押されて、時藤家の食卓に再びお邪魔することになった。

 ピアノを長時間独占するだけでなく、食事までまたご馳走になってしまうなんて。

 なるべく体を小さくしていると、日向の母はふんわり笑った。

「月城くんが来るようになってから、日向がほんまに楽しそうなんよ」
「お母さん、箸これでいい?」
「なんでもええよ」

 頬を軽く染めた日向が隣の席に腰掛け、箸を渡してくる。なんだその反応、こっちまで照れてしまいそうだ。

「はい、月城の分」
「ああ、ありがとう」

 受け取る時に指先が触れそうになり、素早く箸を手元に引き寄せた。

「いたっ」
「あ、悪い」
「ううん、大丈夫」

 受け取る時に箸の角度が変わり、手のひらに食い込んだらしい。

 日向は手のひらを開いてなんともないと見せつけてきたが、とても顔を向けられない。さっきからなんてザマだ。

 今日の食卓も豪華だった。秋刀魚の塩焼き、豚汁、漬物が三種類と炊き立てのご飯。

 大皿に盛られたサラダの横には、店でしか見たことのないようなガラス製のドレッシング容器があって、刻んだ青じそが浮かんでいた。

「あら、やってしもたわ」

 新型の冷蔵庫をのぞきこんでいた時藤の母が目を丸くする。

「お魚用の醤油を切らしてたみたい」
「買ってくるよ」
「ええよそんな、今日は抹茶塩でもかけましょ」

 日向の母が止めるのも聞かず、彼は玄関に向かっていきコートを羽織る。

「近くのスーパーで手に入るし、すぐ戻るから。月城も先食べてて」

 待て、置いていくなと声をかける暇もなく行ってしまった。

「行ってしもたね。待ってましょうか」
「……はい」

 なにを話せばいいんだ、気まずすぎる。

 緊張する俺を慮ってか、日向の母は気負わずに話しかけてきた。

「月城くん、ピアノはいつから習ってはるの?」
「四歳からです」
「そう、日向より早いんやね。あの子は六歳の時からはじめたんよ。私が昔ピアノを弾いてた動画を見せたら、やってみたくなったそうなの」
「へえ……」

 よほど素敵な演奏だったんだろうか。目の前の彼女が若い頃にドレスを着て演奏したのだとしたら、かなり絵になりそうだ。

「お母さんの夢、一緒に叶えようねって言ってくれたんよ。お母さんの出たかった舞台に立つって張り切っちゃって」

 日向の母は遠くを見ながら微笑ましそうに笑う。
 
「そんなん、別にいいのにね。もちろん出てくれたら嬉しいけど、日向がやりたいようにしてくれるのが一番嬉しいんよ」

 そう言いながらも右腕をさする時藤の母は、今でもピアノが弾きたいのだろうなと俺にもわかった。

「よかったら、日向の学校での様子を聞かせてくれはる?」
「えっと……クラスメイトから慕われてるみたいです。みんな彼を頼りにしています」
「そう。月城くんにもあんな感じかしら」
「あんな?」

 意図がわからず聞き返すと、日向の母は顔を曇らせる。

「優しすぎるというか、人のために無理してしまうところがあるんよなあ」
「いや、俺は……」

 かなり強引に振り回されている気がするんだが。何度も「後ろから肩を掴むな」と言っているのに、繰り返してくる困ったところもあるし。

 気を許されているってことだろうか。だとしたら嬉しい。指先が熱を帯びて、手汗をかいてきた。

「ただいま。あれ、食べてなかったの」

 戻ってきた日向が魚用の醤油とやらを机の上に置く。くそ、まともに顔が見れない。

「そりゃそうよ、みんなで揃って食べたいでしょう」
「そっか、待たせてごめん」

 改めて席について食べはじめた。時藤の母は買ってきた醤油をたっぷり秋刀魚にかけて食べている。

「うん、美味しいわあ。ありがとう日向」
「どういたしまして。月城もかけてみる? 普通の醤油より魚にあう調合がされてるから、試してみてよ」

 醤油を受けとり秋刀魚にかけて口に運ぶ。ほんのり甘味があって後味を残さない、さっぱりとした醤油だった。

「美味い」
「でしょ?」
「日向は?」
「僕は薄味が好きだから、このままで」

 母親のためだけに醤油を買いにいったのか。俺だって母さんのことは助けてやりたいと思っているが、ここまで親切にはできていない。ちょっとやりすぎなくらいだ。

 自分とはまったく思考回路の違う日向の考えが、気になってしょうがなかった。