文化祭三日目は合唱祭の日だ。母は結局休めなかったと言って、咳をしながら仕事に出かけていった。

 いっそのこと休んでやろうか。

 時藤からは何度かメッセージが送られてきたが、彼の顔が頭に浮かぶだけで挙動不審になるため、読めてすらいない。

 迷っている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。自室に戻り椅子の背もたれに背中を預けて、両手を頭の後ろで組んだ。

 別に俺がいなくたって、合唱祭にはなんの影響もない。もともとクラスに居場所はないし、時藤だって俺なしでも華麗に伴奏をこなすだろう。だから俺がいなくたって……

『ああ、やっぱり上手くいかんわ。全然月城みたいに弾けてないやろ』

 時藤が嘆く声が頭の隅で再生される。間奏の途中で演奏を投げ出し頭を掻いていた。

 それに、前回の合唱練習の時だって、不安そうな目で上手く弾けていたかと問いかけられた。

 俺の演奏が好きで、俺みたいに弾きたいと言っていたよな……俺が休んだら、もしかしたら。

『月城のためなら弾きたい』

「……くそ」

 遅刻確定の時間になってからやっと家を出た。

 合唱を行う予定の体育館ではすでに演奏がはじまっていて、客席は大勢の生徒や保護者がひしめいていた。

 舞台裏に顔を出すと、時藤が俺を見つけて駆け寄ってくる。

「月城、よかった! 来てくれるって信じてたよ」
「うわっ」

 急に抱き締められて突き飛ばしそうになったが、なんとか堪える。

 優しい茶葉の香りが鼻先に香って、とくんと胸が鳴った。やめろ俺、違うだろ。

 抱擁を解いた時藤は、俺の腕を引っ張って持ち場へ立たせた。

「次が僕らのクラスだ。合唱、絶対成功させようね」
「……ああ」

 時藤が去って間もなくすると、前のクラスの曲が終わった。まだドキドキ煩い心臓を宥めながら壇上へと足を運ぶ。

 眩い舞台の上に足を運ぶと、客席から視線を感じた。

 人々の期待を注がれ輝く舞台の空気感が、やっぱり好きだと思う。叶うことならピアノを弾きたかった。

 ピアノのほうに視線を向けると、時藤は背筋を真っ直ぐに伸ばして席につき、鍵盤の上に手を下ろして指揮者の指示を待っている。

 指揮棒の動きにあわせて前奏がはじまった。爽やかな風が吹き抜けるような伴奏にあわせて声を出す。

 最近はピアノの練習をしながらバイトもしっかりこなすために、夜は家に帰ってすぐ寝るようにしていた。

 そのおかげで母さんの風邪も移ることなく、存分に声を出すことができる。

 時藤は主張しすぎることなく、さりげない伴奏で合唱を支えた。

 苦手としていた間奏部分も仕上げてきている。優雅で力強い演奏に、しばし俺は見惚れた。

 歌声がひとつになる。指揮を中心に、伴奏が声を彩り支えて、客席まで遮るものなく響いていく。

 気がつくと、身の底から湧き上がるような震えが肌の産毛を立てていた。

 背中を押されるようにして歌い続けて、歌詞を味わいながらみんなと声をあわせていく。

 合唱が終わる頃には体温が上がっていた。額に滲んだ汗を不快に思いながら目を細めると、時藤と視線があう。

 満足のいく演奏ができたらしい、どこか誇らしそうな笑みだった。ああ、来てよかったと笑い返す。

 舞台裏に引き返して客席に向かおうとすると、後ろから近づいてくる足音が聞こえた。肩を叩かれる前に振り向く。

「時藤、お疲れ」

 息を切らして頬を紅潮させた時藤は、肩を叩こうと半分上げた手をそのままに、口を半開きにして驚いていた。

「なまえ……」
「ああ、そういや呼んだことなかったな。別にいいだろ、それとも日向のほうがいいか」

 つい口から出てしまったと早口になり余計なことまで口走るが、時藤は大きく首を横に振って俺よりも驚いているみたいだ。

「え、いや。どっちでも」

 時藤が動揺していると、その分俺には余裕が出てくる。

 さっきまで舞台の上で堂々としていたのに、名前の呼び方一つでうろたえているなんて。フッと笑うと、ますます彼の頬が赤くなった。

「じゃあ日向」
「う、うん」
「なんか話があるのか。ここじゃ邪魔になるから外行こう」

 実際に顔をあわせるまではどうすればいいのかわからなかった。

 けれどいざ目の前にすると、頑なに気持ちを否定する必要もないんじゃないかと感じた。

 ただ俺が好きでいるだけなら、それを表に出さなければ、誰にも迷惑をかけることはない。時藤ともこのまま一緒にいられる。

 扉の外には雲一つない秋空が広がっていた。体育館の裏口から抜け出してひと気のない裏庭を歩くと、踏みしめた落ち葉がカサカサと音を立てる。

 すぐ後ろを歩く時藤の顔が見たくなって、さりげなく隣に並んだ。

「で、話ってなんだ」

 時藤……日向はまだ頬を桃色に染めたまま、鮮やかに晴れた空を見上げた。

「好きな人のことを思い浮かべながら弾いたら、楽しく伸び伸びとした気持ちで弾けたよ」
「……へえ」

 乾いた声が出た。人がせっかく心配して駆けつけたってのに、日向は恋に浮かれていたらしい。

「きっとこのまま練習を重ねたら、情感が滲むような表現力のある演奏ができると思うんだ」

 つまり俺はもう必要ないって話だろうか。心の底がひりついて、息が浅くなった。

「だからありがとう、月城」

 反応を返せずに黙っていると、日向が顔をのぞき込んでくる。とっさに飛びのいた。

「あ、ごめん。驚かせたね」
「別に」
「あのさ。今の話、伝わった?」
「なにがだよ」

 わけわかんねえ、遠回しに喧嘩を売ってるのか。腹の底から湧き上がる感情そのままに日向の胸ぐらを掴むが、彼は苦笑をするだけだ。

「ああ、そうだよね……遠回しにもほどがある、我ながら意気地がなさすぎ」
「なんの話だ、はっきり言えよ。俺が邪魔になったのか」
「とんでもない! 月城には一緒にいてもらわなきゃ困る!」

 胸ぐらを掴んでいた手を手のひらで包まれて、勢いよく振り払いながら取り返した。

 まだ俺は必要とされているらしい。

 そうか、ピアノコンクールで上手く弾けないかもしれないって悩んでたもんな。保険があったほうが安心だってことだろう。

「ピアノコンクールが終わったら、伝えたいことがあるんだ。もしも本選に出場できたら、本選の後で時間をとってくれないかな」
「改めて礼でもしてくれんのか。だったら肉がいい」

 やけっぱちで呟くと、日向は「肉だね、わかった」と真面目な表情で頷いていた。

「用事はそれだけか」
「うん」
「じゃあな、どっかで昼寝してくる」

 昼寝用のベンチを目指して歩きはじめるが数歩前進したところで、苦笑する日向を振り返って睨め付ける。

「明日からはガチで遠慮なくピアノを弾きに行くから。覚悟しとけよ」
「うん、一緒に頑張ろう」

 満面の笑みで手を振る日向に背を向けて、体育館の角を曲がる。

 枯葉を蹴飛ばしながら乱暴に歩いたけれど、次第に足取りが遅くなりしゃがみ込んで目を覆ってしまう。

「あーあ……」

 好きでいるだけでいいなんて、ついさっき考えておいてこの様だ。自分が心底情けなかった。

 こうなったら日向を追い抜くくらい練習をして、めちゃくちゃ高い肉を奢らせよう。

 ベンチに寝転がると同時に、冷たい風が髪を揺らして吹き抜けていった。