指を思いきり伸ばして、鍵盤に思いを叩きつける。
どれだけ手指を滑らかに動かそうとしたって、理想どおりに弾けやしない。
それでも、お前がすごいって笑ってくれるから。
今日も俺は精一杯の音を響かせて、心を込めて曲を奏でるんだ。
二学期初日の朝は寝坊をした。悪目立ちしたくなかったのにと早足で歩きながら、今更かとため息をつく。
ショルダーバッグの重みが肩に食い込んで、家に引き返したくなった。俺が勉強したってなんの役にも立たない。
けれどサボると母さんが涙まじりに責めてくるから、行かないとは言えなかった。
白シャツに汗が染み込み、生地が張りついて気持ち悪い。まだ夏と変わらない気温の中、日差しがキツい道を真っ直ぐに歩くと、四角い校舎が見えてきた。
無機質な牢獄のような建物に閉じ込められて、気のあわないやつらに囲まれて半日を耐えるんだと思うと、自然と足が遅くなる。
本鈴が鳴りおわり、今にも閉じられそうな鉄門に駆け寄った。体育教師に詰め寄られる。
「月城、初日から遅刻とはどういうことや」
「すみません」
別に悪いと思っちゃいないがその場をやり過ごすために、京都弁なまりが強い教師に頭を下げながら高校の敷地内へ逃げた。
始業式のために体育館に向かうと、担任からも小言をもらう。
「遅いぞ月城明人、早く席につけ」
二年C組の辺りを見回し、ぽっかり空いた自席に腰かけると、周囲の生徒から視線を感じた。見てんじゃねえよと順に睨み返すと、サッと顔ごと目を逸らされる。
ビビるくらいなら最初から見なきゃいいのに。ガタイがよくて強面だからか無駄に警戒されているが、ちょっかいをかけられなければ喧嘩を買うつもりはない。
眉間に皺を寄せながら首を巡らせると、隣の生徒と目があった。
彼が挨拶するように胸の前で片手を上げると、サラサラの前髪が揺れる。小さく微笑まれたけれど、無視して腕を組んだ。
優等生が、八方美人面してんじゃねえよ。クラス内であからさまに腫れ物扱いされている俺に笑いかけてくるのは、こいつしかいない。
時藤日向。出席番号が前後だという理由で声をかけられて以来、友達になりたそうなオーラを向けられているが、まともに応えたことはない。
始業式が終わって教室へ向かうとすぐに机に突っ伏して、人との関わりを遮断した。昨晩も夜遅くまで起きていたから、視界を暗くすればすぐに眠気がやってくる。
学校のために費やす時間が一刻でも早く過ぎ去ることを願って、俺はきつく目を閉じた。
五限目は音楽の授業だった。ばっくれてしまいたいが、親に連絡がいくのは避けたい。仕方なく音楽室の隅に腰掛けた。
「時藤くん、ピアノ弾いてや」
「もう先生が来るよ」
甘えるような女子の声が耳障りだ。時藤の席に群がっているのは、クラスの中心的な男女混成グループのやつら。ノリがいいことが正義だと思っている彼らは、再度時藤に催促をする。
「いいじゃん、弾いてやれよ」
「私も時藤くんのピアノ聴きたいわ、夏休みぶりやん」
時藤は苦笑しながらもピアノの前に座った。自然と生徒の視線が真っ直ぐに伸びた背中に集まる。
やつの演奏は何度か聞いたことがある。正確で狂いがなくて、まるでお手本のようなクラシックを演奏する。この日もそうだった。
時藤はショパンの〈別れの曲〉を奏ではじめた。一見穏やかだが、右手で和音を押さえつつメロディも弾く必要のある難易度の高い曲を、彼はこともなげに弾きこなす。
「やっぱすごいなあ、プロみたい」
「合唱祭の伴奏はあいつで決まりやな」
小声でささやくクラスメイトには目もくれず、俺はひたすらに時藤の手の動きを目で追いかける。
先生が音楽準備室から出てきて時藤が演奏をやめてしまうまで、彼の指先をずっと見つめていた。
音楽の先生は、演奏を終えた時藤に拍手をする。
「時藤さん、また腕を上げたんじゃない?」
「ありがとうございます。勝手に演奏してすみません」
「いいのよ。生徒みんなが使っていいピアノなんだから」
時藤が席に戻ると、先生は声を張り上げた。
「いよいよ二学期になったわね。明日から合唱祭に向けて練習がはじまるわ。放課後も練習会を開くので、みなさんできるだけ参加してね」
うちの学校の合唱祭はクラスごとに合唱曲を選び、十月の最終金曜日にクラス全員で合唱をする。去年、高一だった俺は練習にほとんど参加せずに本番に挑んだ。今年もそうなるだろう。
候補の曲を渡されて、クラスメイトたちはどれがいいかと好き勝手に話しはじめる。
音符を眺めているうちに、指先でリズムをとりはじめているのを自覚し、見るのをやめた。どうせクラスのやつらが決めることだ、俺が考えても仕方ない。
プリントに落書きをしているうちに、誰とも会話をしないまま授業時間が終わった。教室に戻りホームルームをイライラしながら待っていると、時藤に声をかけられる。
「月城、どの合唱曲がいいと思った?」
俺に聞くな、あっちへ行けと睨みつけるが、彼はにこにこしながら俺を見つめるばかりだ。俺は百七十七センチありクラス内でも背が高いほうだが、こいつは更に二センチほど背が高いので睨みつけても効果が薄いらしい。
これみよがしにため息をついて、机の上に視線を落とした。先程もらった課題曲のプリントには、曲名にちなんでチェスの駒が落書きされている。
「あ、この曲。難しそうやけど、いいメロディやったよね」
落書きを腕で隠しながら、プリントをバッグの中にしまう。俺も同意見だが時藤に伝える義理はない。
「別にどれでもいい」
だから話しかけるなと窓の外に目をやった。時藤はクラスメイトに呼ばれて去っていく。
「時藤、あいつとなに話してたんや」
「月城はどの曲が好きか聞いてきた」
「お前雰囲気はふわふわしてんのに、度胸あるよな」
「だって気になったから」
時藤のように人から好かれて裕福で、ピアノの才能にまで恵まれている人間は、俺のような人間が考えていることがわからないのだろう。
わからないままでいい。俺がお前を羨んでいることは、墓まで持っていきたい秘密だ。
どれだけ手指を滑らかに動かそうとしたって、理想どおりに弾けやしない。
それでも、お前がすごいって笑ってくれるから。
今日も俺は精一杯の音を響かせて、心を込めて曲を奏でるんだ。
二学期初日の朝は寝坊をした。悪目立ちしたくなかったのにと早足で歩きながら、今更かとため息をつく。
ショルダーバッグの重みが肩に食い込んで、家に引き返したくなった。俺が勉強したってなんの役にも立たない。
けれどサボると母さんが涙まじりに責めてくるから、行かないとは言えなかった。
白シャツに汗が染み込み、生地が張りついて気持ち悪い。まだ夏と変わらない気温の中、日差しがキツい道を真っ直ぐに歩くと、四角い校舎が見えてきた。
無機質な牢獄のような建物に閉じ込められて、気のあわないやつらに囲まれて半日を耐えるんだと思うと、自然と足が遅くなる。
本鈴が鳴りおわり、今にも閉じられそうな鉄門に駆け寄った。体育教師に詰め寄られる。
「月城、初日から遅刻とはどういうことや」
「すみません」
別に悪いと思っちゃいないがその場をやり過ごすために、京都弁なまりが強い教師に頭を下げながら高校の敷地内へ逃げた。
始業式のために体育館に向かうと、担任からも小言をもらう。
「遅いぞ月城明人、早く席につけ」
二年C組の辺りを見回し、ぽっかり空いた自席に腰かけると、周囲の生徒から視線を感じた。見てんじゃねえよと順に睨み返すと、サッと顔ごと目を逸らされる。
ビビるくらいなら最初から見なきゃいいのに。ガタイがよくて強面だからか無駄に警戒されているが、ちょっかいをかけられなければ喧嘩を買うつもりはない。
眉間に皺を寄せながら首を巡らせると、隣の生徒と目があった。
彼が挨拶するように胸の前で片手を上げると、サラサラの前髪が揺れる。小さく微笑まれたけれど、無視して腕を組んだ。
優等生が、八方美人面してんじゃねえよ。クラス内であからさまに腫れ物扱いされている俺に笑いかけてくるのは、こいつしかいない。
時藤日向。出席番号が前後だという理由で声をかけられて以来、友達になりたそうなオーラを向けられているが、まともに応えたことはない。
始業式が終わって教室へ向かうとすぐに机に突っ伏して、人との関わりを遮断した。昨晩も夜遅くまで起きていたから、視界を暗くすればすぐに眠気がやってくる。
学校のために費やす時間が一刻でも早く過ぎ去ることを願って、俺はきつく目を閉じた。
五限目は音楽の授業だった。ばっくれてしまいたいが、親に連絡がいくのは避けたい。仕方なく音楽室の隅に腰掛けた。
「時藤くん、ピアノ弾いてや」
「もう先生が来るよ」
甘えるような女子の声が耳障りだ。時藤の席に群がっているのは、クラスの中心的な男女混成グループのやつら。ノリがいいことが正義だと思っている彼らは、再度時藤に催促をする。
「いいじゃん、弾いてやれよ」
「私も時藤くんのピアノ聴きたいわ、夏休みぶりやん」
時藤は苦笑しながらもピアノの前に座った。自然と生徒の視線が真っ直ぐに伸びた背中に集まる。
やつの演奏は何度か聞いたことがある。正確で狂いがなくて、まるでお手本のようなクラシックを演奏する。この日もそうだった。
時藤はショパンの〈別れの曲〉を奏ではじめた。一見穏やかだが、右手で和音を押さえつつメロディも弾く必要のある難易度の高い曲を、彼はこともなげに弾きこなす。
「やっぱすごいなあ、プロみたい」
「合唱祭の伴奏はあいつで決まりやな」
小声でささやくクラスメイトには目もくれず、俺はひたすらに時藤の手の動きを目で追いかける。
先生が音楽準備室から出てきて時藤が演奏をやめてしまうまで、彼の指先をずっと見つめていた。
音楽の先生は、演奏を終えた時藤に拍手をする。
「時藤さん、また腕を上げたんじゃない?」
「ありがとうございます。勝手に演奏してすみません」
「いいのよ。生徒みんなが使っていいピアノなんだから」
時藤が席に戻ると、先生は声を張り上げた。
「いよいよ二学期になったわね。明日から合唱祭に向けて練習がはじまるわ。放課後も練習会を開くので、みなさんできるだけ参加してね」
うちの学校の合唱祭はクラスごとに合唱曲を選び、十月の最終金曜日にクラス全員で合唱をする。去年、高一だった俺は練習にほとんど参加せずに本番に挑んだ。今年もそうなるだろう。
候補の曲を渡されて、クラスメイトたちはどれがいいかと好き勝手に話しはじめる。
音符を眺めているうちに、指先でリズムをとりはじめているのを自覚し、見るのをやめた。どうせクラスのやつらが決めることだ、俺が考えても仕方ない。
プリントに落書きをしているうちに、誰とも会話をしないまま授業時間が終わった。教室に戻りホームルームをイライラしながら待っていると、時藤に声をかけられる。
「月城、どの合唱曲がいいと思った?」
俺に聞くな、あっちへ行けと睨みつけるが、彼はにこにこしながら俺を見つめるばかりだ。俺は百七十七センチありクラス内でも背が高いほうだが、こいつは更に二センチほど背が高いので睨みつけても効果が薄いらしい。
これみよがしにため息をついて、机の上に視線を落とした。先程もらった課題曲のプリントには、曲名にちなんでチェスの駒が落書きされている。
「あ、この曲。難しそうやけど、いいメロディやったよね」
落書きを腕で隠しながら、プリントをバッグの中にしまう。俺も同意見だが時藤に伝える義理はない。
「別にどれでもいい」
だから話しかけるなと窓の外に目をやった。時藤はクラスメイトに呼ばれて去っていく。
「時藤、あいつとなに話してたんや」
「月城はどの曲が好きか聞いてきた」
「お前雰囲気はふわふわしてんのに、度胸あるよな」
「だって気になったから」
時藤のように人から好かれて裕福で、ピアノの才能にまで恵まれている人間は、俺のような人間が考えていることがわからないのだろう。
わからないままでいい。俺がお前を羨んでいることは、墓まで持っていきたい秘密だ。