袖を掴むと体が触れ合うほどに距離が近くなる。那沙の着物からは白檀の香りがした。優しい那沙の香り。掴んだ裾を通して、自分の心臓の音が那沙に聞こえたりはしないかと、優李は少しだけ不安になる。
「あらぁ、夢屋の那沙様じゃない。そんな子供なんか連れてどうしたの?」
 大通りを歩いていると、女性に声を掛けられた。振り返ると、煌びやかな着物を着た美しいあやかしが妖艶な笑みを浮かべている。流れるような銀髪をさらりと払う腕は真っ黒だ。那沙と同じ獏のようだ。
蓮華(れんげ)、おまえには関係ない」
 獏は優李に顔を近づけてじっと見つめる。強い香りがした。那沙から香る白檀の香りがかき消される。
「ふぅん、那沙様の子かと思ったけど違いそうね。よかった。でもなんだか人間臭いわ。那沙様ったら人間嫌いではなかったの? 嗜好が変わったのかしら。でもこの子――」
「おまえと話している時間はない。俺たちは急いでいる」
 那沙は獏の女を振り払うと、優李の手を引いて歩みを進める。すれ違い様、獏は優李の耳にささやいた。
「異種の子なんて可哀想。しかも人間と交わるなんて気味が悪いわ。半妖なんかが那沙様に近づかないでちょうだい。とっても目障り」
「――っ」
「那沙様は獏。しかも伯爵様なのよ。あなたなんかが話しかけられるようなひとではないのよ」
 獏は美しい形の唇をニヤリと持ち上げる。
「それに、獏には獏が似つかわしいの、よそ者は消えてちょうだい」
 優李は驚いて顔を上げた。目の前の獏の顔が媛子のような笑みを浮かべて見える。優李を蔑む笑みから悪意がにじみ出ている。
那沙がいうように、半妖というものはあやかしたちに嫌われているらしい。動機がする。人の世界にも、あやかしの世界にも、自分の居場所はないなおかもしれないと思うとめまいがした。
「どうした優李?」
「い、いえ、なんでもありません」
 そう答えつつもぐらりと体が揺れる。倒れかかったところで那沙に抱きかかえられた。
「出かけるのは後日にして店に戻って少し休むか、遙を呼ぶ」
「だ、大丈夫です。少しめまいがしただけなんです、あの、たぶん珍しい景色に興奮してしまって……だから、大丈夫です」
嘘を吐いた。那沙にこれ以上心配をかけたくない。無理に笑顔を作ると那沙は再び眉をひそめた。
「あの獏に何かいわれたのか」
 那沙に心の中を読まれたような気がして優李は首を横に振る。
「あ、あの……いえ……。あの方もとても綺麗な(ひと)でしたね。獏というのは美しいあやかしですね」
 優李の言葉に、那沙は眉を顰めた。
「俺はあの女が苦手だ。以前あの獏の職場から仕事を受けたことがある。以来あのようになれなれしく声をかけてくる。友人でもなんでもないというのに」
「そう、ですか――」
「あの(ひと)は人間が……いえ、半妖がお嫌いなようでした」
「はやり何かいわれたのだろう。蓮華はつまらないことをいってすぐに諍いを起こすのだ、気にするな」
「い、いえ――!」
「優李、おまえはおまえだ。人間だろうか、あやかしであろうが、半妖であろうが関係ない。今は俺のそばにいたらいい」
「ありがとう那沙……」
 優李は目頭が熱くなるのを感じた。涙が浮かんでいるのを那沙に悟られないようこっそりと着物の袖で拭く。那沙は本心からそういってくれているのだろう。だが、あの獏の反応を見ても半妖である自分は厄介な存在にすぎないのだろう。
 那沙は露店が立ち並ぶ賑やかな通りを抜けていく、歩みを進めるたびに景色は変化し、大きな建物が整然と立ち並ぶ通りに出た。大通りにあった露店や入り口が開きっぱなしの店とは違い、重厚な扉に阻まれた敷居の高そうな店々が立ち並んでいる。どの店も暁通りにある店構えに似ていた。
「那沙は伯爵様なのですか?」
「どうして知っている」
「それは……」
 蓮華から聞いたとはいえない雰囲気だった。話題を変えようと思って口をついた内容が、那沙にとって好ましくないものであることが声音からわかる。
「父が亡くなってすぐに爵位を継いだ」
「そう、なんですね」
 夢を売る仕事をしていると聞いて、商人なのだと思っていた。自分のような平民が那沙のことを気軽に呼び捨てにしてしまっても良いのだろうかと悩む。
「夢屋は祖父が爵位を父に譲ってから道楽で始めた店だ。俺は幼いころから祖父のもとで育ったからそのまま店も継ぐことにした」
 優李の疑問を汲み取ったのか、那沙が丁寧に説明してくれる。
 伯爵が自分で店を経営していることに驚いた。それにしても、伯爵家という割に那沙の屋敷には使用人の類が少ない。遙と腕のほかに屋敷で働くひとを見たことがなかった。優李が知らないだけで、ほかにもたくさんのひとが働いているのだろうか。
 不思議に思いつつも、那沙は家の話題を避けたがっているように感じた優李はそれ以上那沙の家柄のことについては口にしなかった。
「ここは高級商店街のようですね」
 優李の問いかけに、那沙はゆっくりと頷く。
「そうだな、どこの店も敷居が高い」
 那沙の店の敷居も高そうだと思う。店構えは那沙の店の方が立派かもしれない。
「那沙のお店も高級商店ですものね」
「高く評価されたものだ、扱っているのは菓子だがな」
 藍宵(あいよい)通り呼ばれる高級商店街の立ち並ぶ通を少し歩くと、一軒の店の前で那沙は立ち止った。
「ここだ」
 こじんまりとした上品な店である。壁は漆喰で真っ白に塗られ、重そうな看板には【香堂】と彫ってあった。文字が金色に塗られている。
 品のある白塗りの壁の内側から、花のようななんともいえない香りが漂ってくる。香りを扱っているだけあり、店の外にまで花のような良い香りがした。
「あ、あの、こんな場所で香を買ったりしたらとんでもなく高価なのでは……」
「案ずるな」
「いえ、そんな高価なものを買っていただくわけにはいきません。私、お店でしっかり働かせてもらいたいと思ってるのですが、それだけでは返せないかと……」
「いい、それなら返せるまでうちにいたらいい」
 そういってから那沙はハッとしたようにうつむいた。そのしぐさに優李は不安を覚える。那沙は一緒にいていいと言ってくれたが、やはり自分に早く出て行ってもらいたいのかもしれない。半妖というものは、それほど面倒な存在なのだろう。
「そう、不安な顔をするな、店主の六花(りっか)は曲者だが気のいい狐だ」
 那沙は優李の心配事を勘違いしたようで、店主のことを教えてくれる。狐のあやかしで、名は六花というらしい。
 店の中に入ることをためらっている優李の横で、那沙はためらうことなく磨り硝子張りの扉を開けて中に入った。扉を開けると、ちろんと鈴蘭の花を模した鈴が鳴った。優李は慌てて那沙の背中を追いかける。
「いらっしゃいませ」
 店の奥から落ち着いた女性の声がする。この店に似つかわしい品のある声だ。那沙の背中にピタリとついて店内に歩みを進めた優李は、声の主を見て息のむ。姿を見せたのは陶器のように白い肌に絹糸のように滑らかな金色の髪をたたえたあやかしだった。 この世のものとは思えぬあまりの美しさに、優李は思わず言葉を失う。さっきの獏も美しかったが、この狐は殊更に美しい。
 金色の髪の毛から獣の耳が二つぴょこんと生えている。臀部からはふさふさの大きな尻尾──その形は狐そのものだ。
「ようこそ、那沙。珍しいですね、あなたが来るなんて……あら、そちらは」
 美女は那沙に向かってにっこりと微笑むと、その笑みのまま優李を見る。琥珀色の宝石のような瞳に見つめられた優李は小さく「は、はじめまして、時任優李と申します」と答える。美しい狐は少し鼻をひくつかせてから金色の瞳を丸くした。
「まぁ、この子、希沙良の香りがするわ」
 六花は花のように顔をほころばせた。
「優李は希沙良の子だ。わけあってうちで預かることになったが、人間の香りを消すための良い香はないか?」
 店主の六花のことを信用しているのか、あっさりと優李の素性を明かす那沙。その言い分を聞くと、六花は大きな瞳を更に見開いて、「希沙良は人間贔屓だったから、きっとご主人はあの喫茶店のご主人ね」などと、嬉しそうな声を出す。
 どうやら玉藻前は那沙同様、優李の母と旧知の仲であり、両親のことを知っているらしい。
「優李、彼女は六花という。六花は希沙良の親しい友人だ、希沙良のことは俺よりもずっと詳しい。機会があれば聞くといい」
 六花は優李に向かって懐かしそうな表情を見せる。じっと優李を見つめていた六花は、那沙の言葉を聞くなり長い睫毛を伏せた。ばさりと音がしそうなほど長い睫毛だ。
「そう、希沙良は……もういないのね」
 長い睫毛を持ち上げると、優李を物憂げな瞳で見つめながら、六花は呟いた。
 優李も那沙も、母が亡くなっていることなど言ってはいない。それなのに、なぜ六花はそんなことをまで知っているのか。困惑した顔で那沙を見上げると、那沙は理由を教えてくれる。
「六花は『時詠(ときよ)み』だ」
「ときよみ?」
「見る者の過去と未来が見える」
 那沙の言葉に、六花は優雅に頷いた。
「祖母が力の強い『時詠み』だったのです。私の力はあまり強くありませんが、過去や未来はぼんやりと見ることができますよ」
「そんな力が……」
 六花がいっそう神々しく見えた。あやかしというのは神と紙一重なのかもしれない。
「いいでしょう、優李。あなたの持つ人間の(かおり)を隠す(こう)を調合してあげましょう。ただし、少々厄介事を引き受けていただけたらのお話です」
 六花がふんわりとした口調でそんなことをいうと、那沙は眉をひそめた。優李が判断するに、これは表情の動きの少ない那沙の最大限に嫌そうな顔である。
「易々は売らぬか。しかたない、聞いてやろう」
 那沙の言葉に、六花は美しく微笑んだ。
「では、さっそくお話させていただきましょう。私は香の原料を仕入れるために、朱雀南区にある吾妻泉(あずません)へ行くのですが、最近その泉に不思議な霧が出ているのです。明らかにあやかしの力で作り出したもの。あの泉にはもともと一人の天降女子(あもろうなぐ)が住み着いていましたが、住処を変えたのか、しばらく見かけておりません。最近は何もいなかったはずなのです。その霧を作り出しているものの正体を確かめてきてはくれませんか?」
 六花はひどく困ったような顔をしてそう語った。話を聞いた那沙は難しそうな顔をして、眉間にしわを寄せている。
「その霧を作り出しているあやかしが悪いものではないかを調べて来いということか?」
「はい、私の見立てではあやかしは複数いるようです。私もその……恐ろしいものですから」
 六花は、それはそれは困っている――という表情をして見せる。優李はその表情に心を動かされて那沙の着物の裾を引いた。
「那沙、行ってみましょう」
 そう声をかけるのだが、那沙は相変わらず難しい顔をしている。
「六花、そのあやかしとなにかやり合ったか?」
 那沙の言葉に六花はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、相対はしていないのです。ですが、霧は泉に近づこうとする者を拒みます。あやかしの気配は感じましたが、私は泉に近づくことすら出来ませんでした」
「ならば仕方ない」
 那沙は相変わらず顔をしかめたままだったが承諾の意を示した。優李はほっと胸をなでおろす。
「ありがとう那沙、優李、感謝します」
 六花は狐のように目を細めて微笑んだ。
「では、私も香を作るための準備をしておきましょう。優李、まずはあなたの香りを採取させてください」
 六花はそういって優李の前に立つと、両手を掲げて優李の胸の前で水をすくうような形を作る。ふうっと六花が息を吐くと、それに連動するように手の中にもやもやと白い霧がたまり、霧は次第に密度を上げて液状になった。
 六花はその液体を小瓶に詰める。青みがかった白い液体が小瓶の中でゆらりと揺れた。
「はい、ありがとうございます。これが、あなたの持っている香りですよ」
 ゆらゆらと揺れる瓶を見せながら、六花にっこりと笑ってそういった。
「この液体がですか?」
 正直、自分の匂いというものがこうやって目の前に物質として現れるのはなんだか恥ずかしいような気がする。
「とても綺麗な香りですね」
 だが、六花が微笑むので優李は悪い気はしなかった。ゆらゆらと揺れる液面を少し恥ずかしい気持ち見つめてから「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「承りました、では、そちらもお願いしますね。香りを作るのに二日はかかりますから、泉の調査もゆっくりと」
 大きな琥珀色の瞳をにぃっと狐らしく細めた六花に送り出されて、優李と那沙は重たい扉を開き、香堂を後にした。