視界いっぱいに大きな双眼が映る。
「お目覚めになりましたか? はじめまして優李様。私は猫又の遙ともします、那沙様から優李様のお世話を仰せつかりました。さあ、しっかりお世話させていただきますよ」
 深い眠りから目覚めた優の視界に飛び込んできたのは大きな二足歩行の猫だった。驚いて一気に眠気が吹き飛ぶ。遙の姿に驚いたわけではない。調月の町には少なからずあやかしが生活している。目の前に遙がいたことに驚いたのだ。優李は目を見開く。
 だが、遙のような姿のあやかしは調月でもなかなか見かけることがない。遙は那沙や神楽のようにひとの姿に近くはない。二足歩行だが、その容貌は完全に三毛猫だった。あやかしのなかにもいろいろな姿のものがいるのだろう。那沙は人間に近い。那沙と道端で出会っても美青年だとに惚れることはあってもあやかしだと思うことは絶対にない。そう、あの黒い手さえ見なければ。
「よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると遙は丸い目をさらに丸くした。
「なんて可愛らしい。それにお母様にそっくりの美貌」
「遙さんも母のことを知っているのですか?」
尋ねると遙は大きなネコ目を丸くした。
「えぇもちろん! 希沙良様は金華猫の中でも特別な金華猫だったのでございます。あぁ……那沙様にはいろいろいうなといわれましたが遙はおしゃべりですからね。優李様も知っておいたほうが良いことでしょうからいろいろお話しますよ」
 遙は「にゃっ」と目を細める。
「優李様はあやかしの国、ここ西都の有力貴族のひとつである金華猫の血を引いておられます。お母様があやかしの金華猫、お父様は人間であられますね」
「母が……貴族?」
「えぇえぇ。金華猫の希沙良様は金華猫の中でも優れたあやかしでいらっしゃったので、希沙良様が人間に嫁がれたことは私たち猫又の間でも大きな事件になりました。希沙良様は妖力のお強い方でしたからそれはもう大変な騒ぎに……金華猫の一族では希沙良様を本家の跡継ぎ様に嫁がせるおつもりでしたから。ですが金華猫の大旦那様は寛大な方で、希沙良の好きにさせよとおっしゃったようで騒ぎは収まったのですよ。希沙良様のご息女が戻られたとわかればさぞ喜ばれることでしょう」
 自分の存在を喜んでくれるひとがいるのだろうか、にわかには信じられない。
「私は半妖だと那沙がいっていました」
「えぇえぇその通りにございます。金華猫と人間の間にお生まれになった稀なるお子です」
「半妖はあやかしの国では好まれないと那沙が……」
「そうですねぇ。どういうわけか半妖はあやかしの世では好まれませんが、希沙良様のお子となれば別でしょう。私も優李様を迫害したりは致しません」
 自分が半分あやかしであるという実感が少しもわかない。わくわけがなかった。今まで母のことも人間だと思っていたし、優李自身もひととして生きてきたのだ。
「あの、那沙にとって、半妖の私は厄介者ではありませんか……」
 気になっていたことを尋ねると遙は大きく首を横に振る。
「そんなことはありえません。なんとってもご友人である希沙良様のお子ですから。あぁ、でも勘違いをなさらないでください、那沙様が希沙良様に特別な好意を抱いていたというわけではありませんよ。希沙良様はいわば那沙様の姉のような存在なのです。那沙様は早くにご両親を亡くしましたから」
「では、那沙にとって、私は姪のような存在ということでしょうか……」
 優李は親戚というものにあまりいい印象がない。両親が亡くなったとき、優李の引き取り手はなかった。押し付け合うような形で結局叔父が引き取ったのである。優李は誰からも歓迎されない存在だった。
「そういった側面もお持ちかもしれませんが、遙にはそれだけではないようにも感じます。那沙様は長く人の世に生きるものと深くかかわり合いになることを避けておられました。那沙様にも複雑な事情があるものですから。ここをはじめとした人の世のお屋敷を長く使っていなかったのもそんな理由からだと思います」
「そうですか……」
 遙はあのようにいってくれたが、那沙にとって、人の世で生きていた自分はやはり厄介な存在なのだろう。
 本当は優李になど関わり合いになりたくなかったのだ。だが優李の境遇を見て見ぬ振りが出来なかった。不安が零れ落ちる。あの家には戻る勇気は出ないがここに自分がいることで那沙の迷惑になるならば出ていくべきだ。
「そんな顔をなさらないでください。きっと優李様は、那沙様によい影響をお与えになってくれると遙は思います。これは猫又の直感ですよ。どうか、那沙様をよろしくお願いしますね」
「私が役に立てることがあればいいのですが……」
 遙の言葉に優李は不安そうに瞳を伏せた。
 夜が明け、朝になるまで那沙は屋敷に戻らなかった。浅い眠りを漂っていた優李は明け方になって那沙の帰ってくる音がするとそっとベッドから這い出る。
「おかえりなさい」
 階段を下りながら声をかけると那沙は銀色の髪を揺らして顔を上げた。
「起きて大丈夫なのか」
「はい、すっかりよくなりました。丈夫さだけが取り柄なので」
 那沙は優李の顔を見つめてくる。気を抜くと顔が赤くなりそうだ。
「顔色がだいぶよくなっているな。だが無理は禁物だ、まだ朝早い、もう少し休むといい。俺も少し眠る」
「で、では、那沙が起きるまでの間にごはんの用意をしておきます。食べたいものがありますか?」
「いや……とくにはないが。ゆっくりしていれば良いものを」
「ゆっくりとできない性質なのです。では、適当に作ります。後でお台所を貸してください」
「おまえも休んでいればいい」
「そうはいきません」
 引かない優李に那沙は小さく笑みをこぼしてから頭を撫でた。なんとなく、子ども扱いをされているのがわかる。
「強情なところは希沙良に似ている。わかった、好きにしていい」
「ありがとうございます」
「屋敷に中のものは好きにしていい。俺は少し休む」
「はい、お仕事お疲れさまでした」
 那沙はわずかに笑みを見せると自室に入っていった。遙と鬼火の老爺――名を腕という――の二人は通いで来ているそうだ。屋敷の中にはほかに誰の気配もない。優李は昨日までの生活を思い出しため息を吐いた。叔父も叔母も自分がいないことに気が付き腹を立てているかもしれない、いや、本当に誰も気が付いていないかもしれない。このまま自分が消えたところで、あの町では誰も気にも留めないのだろう。
「私は、どこに行けばいいんだろう……」
 大きく膨らむ不安を必死で押し込めるように、優李は台所に入り食事の下ごしらえを始めた。体を動かしている方が余計なことを考えないで済む。
 昼前になってから遙が屋敷を訪れた。すっかり食事の準備が終わっていることに目を丸くしている。優李は遙の姿を見てほっとした。那沙の起きてくる時間が分からずに困っていたのだ。
「これは、優李様がお一人で?」
「そうなのですが、ちょっと早く作りすぎてしまって……那沙が目覚める時間はいつでしょうか?」
「そろそろお目覚めになりますから、料理を温めてしまいましょう。あぁ、美味しそうですねぇ。おや、優李様、お食事は摂られましたか?」
「いえ、まだ……」
「遙は昨日優李様用の食事を用意していったのにお伝えしておくのを忘れておりました……食卓にある親子丼、召し上がりになりませんか?」
「いいんですか?」
「あたりまえですよ、優李様のために作ったんです」
 遙の言葉に優李は目頭が熱くなるのを感じた、誰かに食事を用意してもらうなど、何年振りのことだろうか。そうこう話していると那沙が起きた気配がした。
「おやおやようやくお寝坊の旦那様が起きましたよ、優李様も一緒にご飯にしてください」
「いいんですか?」
「あたりまえですよ、何を遠慮しているんですか」
 優李は遙に促されるまま食卓に着く。遙が手際よく食卓の上に温めた料理を並べてくれた。
「遅くなった」
「おはようございます那沙」
「これは……随分と豪勢なものを作ったな」
「旅館で働いているのでつい……食材をたくさん使ってしまってごめんなさい」
「かまわない、なんでも好きに使うといい」
 那沙は優李の向かいに腰かけ、箸を取った。小言の一つもいわず、那沙は箸を動かす。あの家では何を作っても文句をいわれた。自分の舌がおかしいのではないかと思うほどにまずいといわれ続け、何度も作り直させられてきた。那沙に助けられた後の食事は那沙と一緒に作ったからあまり気にならなかったが、今日はすべて自分でやってしまった。今更になって仕上がりが気になってくる。
「あの、お口に合わなくはないですか?」
 目の前の那沙に尋ねると那沙は切れ長の淡い瞳をこちらに向けてくる。
「とても美味い。遙の味も良いが優李の作るものの方が好みだと思う」
 優李は頬が熱くなるのを感じた。慌てて自分も食事を摂る。出汁のきいた温かな卵が口の中でほどけた。美味しい。目の前に誰かがいて、温かな食事を食べる。こんな幸せはいつぶりだろう。優李は母が亡くなった日以来、そんな日は一度もなかった。
 幸せを噛みしめていると那沙が声をかけてくる。
「優李、屋敷でゆっくりと過ごすと良い。俺はこちらでもやらねばならないことがあるから西都と行き来することになると思う」
「那沙は夢屋のお仕事があるんですよね? 何か手伝えることはありませんか、那沙のお役に立ちたいのですが……」
 ただ飯をいただくわけにはいかない。そもそもじっとしてはいられない性分なのだ。出来ることがあるなら働きたい。優李の言葉を聞いた那沙は箸をおき、少し思案するような表情になる。
「そうだな……確かにこの屋敷にひとり残してくのも心配だ。おまえさえよければむこうで俺の仕事を手伝ってもいいが……」
「いいんですか?」
「おまえさえよければ俺はかまわない。もちろんただとはいわない。食事と住居の面倒を見るし必要なものがあったら用意する」
「ご迷惑にならなければぜひお手伝いさせてください」
「だが条件がある」
「なんでしょうか」
「決してひとりで出歩いてはいけない。店や家の外に出るときは俺が付いていく」
「それだけ、でしょうか」
 優李は拍子抜けした。もっといろいろな条件が出されるのではないかと身構えていたのだ。那沙の条件は、優李の安全を考慮した上でのものだろう。那沙は過保護だと優李は小さく笑みをこぼす。
「よし、そうと決まれば食事が終わったらさっそく向こうに戻るぞ」
「はい」
「そのまえに着替えを済ませてこい、遙に任せてある」
「いえ私は……」
「俺と一緒にいるのに襤褸を着せておくわけにはいかない」
「わかりました」
 那沙はうなずくと静かに食事をつづけた。優李もそれに倣って箸を運ぶ。ゆったりと穏やかない時間だった。
「さあ優李様、まずはお風呂に入って、着替えましょうね」
遙に背中を押される形で浴室に向かうと広いお風呂が姿を現した。家庭の風呂にしてはかなり大きい。
「ゆっくりお支度なさってください。お着替えは何着か置いてありますから、着替えに手間取るようでしたらお手伝いに参ります」
「ありがとうございます」
 遙の気配が消える。優李は体を洗って湯船につかった。昨日、媛子に蔵に閉じ込められたときは、さすがにもうダメかと思った。暑さで朦朧とした意識の中、現れた那沙の姿にどれほど安心したことか。那沙のそばにいると安心すると同時に会って間もない那沙に強い信頼を置いてしまっていることに危機感も感じていた。那沙があまりに親切だからだ。これも、母が残してくれた縁だろう、那沙と母に感謝するとともに、あまり那沙を頼りにしてもいけない気持ちになる。早くひとり立ちできるようにしなければ。パンと頬を叩いて気合を入れると、優李は湯船から上がった。