夜空に浮かぶ月がすっかり細くなっている。あれから二週間余りしか経っていないのかと思うと不思議だ。あの気丈な少女のことを思い出さない日はなかった。
 あの娘に会った時の、強い衝撃を今でも忘れることが出来ない。まるで魂を掴まれたかのようだった。
 おかしなこともあるものだと那沙は不思議に思った。人間の女はいけ好かない。すぐにでも忘れたいというのに、思い出してしまう。思えばあの娘は人間ではなく半妖であったなと思い至った。半妖とはいえ、人の世で育った娘はひとの子に相違ない。これもすべてあの奔放な希沙良のせいだとひとりごちるしかなかった。
「よう、旦那、今日も仕事で?」
 門番の神楽が声をかけてくる。
「あぁ、依頼を受けて調査に行くところだ」
「あぁ、伊邪那美(いざなみ)様の依頼だろう? あれだ、無気力病の調査。(ぬえ)が伊邪那美様にも相談するって話していたからなぁ。鵺の妹さん、人の世に使いに行ってから寝込んでるんだって?」
 客の個人情報を易々話すような性質ではない。那沙は神楽の話を適当に受け流す。
「はいはい、黙秘ね。わかってますよ、これは俺の独り言だから気にしなさんな。あぁ夢玉かぁ、一度食してみたいもんだなぁ。俺の安月給じゃ到底手に入らないけど」
 神楽の言葉を横に那沙は鳥居を潜り抜ける。
「那沙の旦那、最近元気ないんじゃねえか。やっぱ後悔してるんだろう?」
「何の話だ、なにも後悔などしていない」
「それならいいけど、いってらっしゃいませ」
 保守の森を抜け、竜王山を抜けて人の世に出る。ふっと姿を消して、闇に溶ける。西都の王妃である伊邪那美は、西都で静かに流行っている無気力病になにかしらのあやかしが関わっているのではないかと思っているようだ。それで人の世に夢を採取しにいく那沙に調査を依頼してきた。
 危険なあやかしの気配は感じない。調月の町は穏やかだ。夢の気配を探して町を散策していると、美しい夢の気配がした。美しいが弱弱しい。今にも消えそうな儚い夢だ。気配をたどっていくと、立派な造りの旅館が現れる。那沙はその奥に進み、漆喰で塗り固められた古い蔵の前に立つ。
「この中に、誰かいるのか?」
 那沙は閂を抜いて蔵の中に入る。足元で倒れている人影を見つけて、慌てて抱き起した。優李であった。ぐったりとして意識を失っている。長いまつげの上にうっすらと涙が載っていた。
泣いていたのか……。
「優李」
 那沙は優李の名を呼んだ。自分でも驚くほどに緊迫した声が出る。優李の瞼がかすかに動き、ゆっくりと目が開く。
「……な、しゃ……?」
「そうだ、俺だ」
「な、しゃ……」
 優李は目を覚まし、よわよわしく手を伸ばして那沙にしがみつこうとしてきた。震える体を抱きしめる。軽い脱水症状に陥っているようだ、意識が朦朧としている。いつからここに閉じ込められていたのだろう。蔵の中は夜になっても暑く、湿気が多くて不快だった。優李の夢を探ると、彼女が置かれている境遇のすべてが分かった。
 那沙は優李を抱き上げると蔵に閂を差し戻してその場を後にする。
「判断を間違えた」
 神楽の言う通り、優李を帰すべきではなかったと心底後悔しながら、竜王山へ向かう。
竜王山の中腹には那沙の別邸があった。父と後妻に収まった女はよく利用していたようだが、那沙は長らく使っていない。以前優李を見つけた際、わざわざ黄泉平坂まで連れて行ったのは屋敷が使い物になるかどうかわからなかったからだ。こんなことなら使用人のひとりでも残しておくのだった。
 二階建ての洋館は、思ったよりも綺麗だった。定期的に掃除をされている跡がある。ふっとひとつ、ゆらゆらと揺らめく青い炎が姿を見せた。鬼火だ、使用人の老爺である。
「おや那沙様、ここを訪れるなんて珍しい」
(かいな)、ずっと管理していてくれたのか」
「もちろんでございます。掃除は私の趣味ですから。勝手にお掃除させていただいておりました。伊邪那美様からご依頼があったのでしょう? こちらを使うかもしれないと少し前から色々と使えるようにしておりましたよ。他にある三つの別荘も同様に綺麗にしておりますから、お仕事の際など今後安心してお使いください。おや、そのお嬢様は」
 鬼火の老爺は那沙の腕の中でぐったりとしている優李を見て険しい顔になる。
「軽い脱水を起こしている。体を冷やして、水分を摂らせてほしい」
「すぐに休ませてあげましょう。すぐに(よう)を呼んで看病させますから。那沙様はお戻りください、伊邪那美様に頼まれたお仕事があるのでしょう」
「仕事は急がない、優李が回復してからいく」
「左様でございますか、では、二階の客室をすぐに整えます」
 老爺はそういうと台所から塩と砂糖を溶かした水と保冷剤を取ってきて那沙に手渡した。優李の口元に水を当てるが上手く呑み込めない。那沙はためらうことなく自ら水を口に含んだ。
 ゆっくりと優李の口に流し込むと小さく喉が鳴る。幾度か繰り返すうちに優李の目が開いた。那沙はほっと胸をなでおろす。
「な、しゃ……」
「よかった、目が覚めたな」
「ここは……」
「俺の家だ、正確には別荘だが。安心して寛ぐといい」
「でも私、帰らないと……」
 優李はまだうつろなまま力なくつぶやいた。その声を聞いて、那沙の中に激しい怒りがこみあげてくる。それは、優李に向けたものではない。あの日優李をひとりで人の世に帰した自分にと、家のものの優李に対する所業の数々にである。
「帰る必要はない」
「でも私……」
「俺は、おまえをあの家に帰したくない」
 那沙は優李の置かれた環境を甘く見ていた。あの日保護せずに家に帰したことを悔やんでも悔やみきれない。希沙良に優李のことを頼まれていたというのに。今までろくに見守りもしなかったことを悔やんだ。
「私……帰りたくない」
 優李の頬を一筋の涙が伝う。那沙はその涙をぬぐった。それから優李を抱えようとして体に触れた。今にも折れてしまいそうなほど細い体だった。
「帰らなくていい。おまえに何かあったら面倒を見てほしいと希沙良に頼まれていた」
「母に……」
「詳しいことはまた話してやる。もうあの家には帰らなくていい。だからもう何も悩まず、安心して休め」
 那沙が優李を抱きかかえて階段を上ろうとすると、腕の中で優李が身もだえ始めた。
「じ、自分で歩けます!」
「駄目だ、俺が運ぶ」
「でも……重いですよ」
「俺はそんなに非力ではない。おまえは羽のように軽い。もっと食べなければいけないな」
 那沙には優李を歩かせる気などなかった。それを悟ったのか諦めておとなしくなった優李を抱えて二階に上がり、老爺が支度を整えた客間のベッドに優李を寝かせるとその頭を優しくなでる。
「生前の父もこうやって頭を撫でてくれました」
 そういって嬉しそうな顔をするが、父か……と複雑な気持ちになった。
「そうか。俺は少し仕事をしなければいけない。後でまた来る。あやかしをひとりよこすからなんでもいいつけろ」
 部屋の外に遙の気配を感じた那沙はそう告げた。
「那沙、なにからなにまでありがとうございます」
「この程度なんでもない」
 もう少し優李のそばにいてやりたいがこなさなければいけない仕事がある。那沙は後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。外で嬉しそうな顔をした猫又の遙が立っている。遙は気の利く媼だ。甲斐甲斐しく優李の世話を焼いてくれるだろう。
「可愛いらしい娘さんですねぇ。金華猫の希沙良様のご息女でしょう? お母様に似て本当にお美しい。お世話ができて光栄です」
「あとで俺から色々話すからいらぬことは話すなよ」
「はいはいわかっておりますから、那沙様はさっさとお仕事に行ってくださいませ」
 遙になかば追い出されるような形で那沙は屋敷を後にした。西都の王妃である伊邪那美からの依頼は簡単に解決できるものではなさそうだった。主の使いで人の世に行った鵺の娘が生気を失って病んでいるという。兄である鵺が治療に夢を使いたいといのでいくつか売ってやったが対処療法にしかならないだろう。鵺の娘の他にも同じような症状のあやかしが幾人もいるという。みな人の世に行ったあとで生気を失ったようになっているというのだ。問題は人の世の方にあるのだろう。おそらく、なにかしらのあやかしが関係していると那沙は見ていた。那沙自身がなんともないところを見ると、力の強いあやかしは狙わず、弱いものばかりを狙っているのだろう。しばらく人の世にとどまる必要があるかもしれない。そうなるとあの屋敷を使うのは悪くない。優李が生活するならなおのことこちらで暮らす方がいいだろう。腕が手入れをしていてくれて助かった。那沙はそんなことを考えながら、夜の闇へ溶けて行った。