「優李とは違う金華の匂いがするな……」
 深夜、那沙は嗅いだことのないあやかしの匂いを嗅ぎつけた。嫌な予感がして二階に上がると案の定、優李の姿はなかった。窓が開いている。
「優李……窓から出て行ったというのか、いったいどこへ!」
 那沙は慌てて匂いを辿り、南へ南へと下った。この先には、墨染川があるはずである。川沿いに規則正しく植えられた千本桜――川を下れば、黄泉の国がある。
 かつて、母が渡っていった川だ。
 墨染川に辿り着いた那沙は、橋のたもとに優李が倒れているのを見つけて駆け寄る。辺りに猫の気配がしたが姿が見えない。その体を抱き上げて、自分が辿り着くのが遅すぎたことに気づいた。
「優李、優李! 目を開けろ優李!」
 優李から金華猫の匂いがする。匂いがふたつ、優李の香りとは別の香りだ。優李の体の中にあやかしがいる。
 優李の従妹がいっていた災とはこのことか。災など、この手で払ってやる。優李を得られるならば、微かな未来でも掴み取ってやる。
「優李の体を奪うつもりか、そうはさせない」
 那沙は、優李の額に自分の額を当てた。優李の心のなかに入るために。だが、それを止める声がかかる。子供の声だ。
『待って、優李は僕と一緒に黄泉へ行くんだ。だから器は弟にあげてよ。魂は僕がちゃんと連れていく』
「駄目だ。優李の体も魂も優李のものだ」
『優李は幸せになるべきだ。そのためには黄泉に行く必要がある。あのとき、ほんの少し早く馬車が走ってきたらもう優李は黄泉へ行けたのに』
 子供のつぶやきを聞いた瞬間、優李が馬車の前に飛び出した場面が見える。猫の記憶か、優李の記憶か。
 猫はわざと飛び出したように見えた。あれは、優李を黄泉へ向かわせるためだったのか。
「なぜ優李を殺そうとする」
『だって優李は可哀想だ、僕がやっと優李を見つけた時、優李は親戚にいじめられていた。僕は優李を救いたい、でも弟は優李の器が欲しい。僕たちの間で諍いがあって結局あのとき優李を殺すことはできなかった。僕たちは優李の魂だけを黄泉へ送ることで協力することにしたんだ』
「優李黄泉へは送らせない」
『なぜ、それが優李のためなのに』 
「優李は死にたがってなどいない」
『どうかな、今ごろ弟と優李が相談しているところだよ。ここまで来るのに本当に大変だった。だって僕たちには力がない。不安定な魂で人の世にとどまるために、たくさんにあやかしを見つけなければいけなかった。ときに力を奪い、ときに多すぎる力を受け渡すことで微妙な均衡を保ちながら』
「まさか……」
 話が読めた。無気力病の原因となっていたのはこのあやかしだ。あまりに不安定なので人の世に巡回に出た検非違使も見逃していたのだろう。ふたりは魂をつなぎとめるために人の世を訪れるあやかしから生気を奪い取っていた。鵺の妹はそうして無気力病になった。そして、取りすぎた分を捨てていたのだ。今度はリクのような未練を残した生きもの中に。
『優李はじきに僕と一緒に旅に出る。ことほぎの力で西都を滅ぼして、だからこちらに残る弟を頼むよ。この国ではないどこかで幸せに暮らせるように』
「そうはさせない。優李の力は、おまえたちの願いを叶えるためにあるのではない。優李の力は、優李のものだ」
 優李は腕の中でぐったりとしている優李を抱きしめ意識を集中させた。優李の夢の中に入り込むために。