食事の片づけを終え、風呂に入ると優李はほっと息を吐きだした。琥蓮が那沙と何を話すつもりなのか興味がないわけではないが、自分がいては話しにくいこともあるだろう。
「今後の私のこととか……昔のこととかも話しているかもしれないし。ああ、気にしちゃだめだ、早く出て寝てしまおう」
風呂から上がると自室で横になった。窓の外に浮かぶ月は細い。六花からもらった香水の瓶が机の上で細い月を映している。
 この橙色の香を毎日食べることで、優李の体から人間の香りが消えるのだそうだ。香は蜂蜜のようで、甘く、柑橘の味がする。
いつの間にか月は厚い雲に隠れ、辺りが暗くなった。雪がちらちらと降ってくるのを見ながら優李はゆっくりと目を閉じた。
『ユウリ……』
 眠りに就いたはずなのに、気が付くと優李は森の中にいた。突然名前を呼ばれたような気がして顔を上げる。だが、辺りは真っ暗な上に霧がかかり何も見えない。手探りに少し歩くと、鬱蒼と茂った草がはびこっているようでガザガザと音を立てた。
 ここは、どこだろう――
『こっちにおいで……』
 耳を澄ましてみると、やはり声がする。どこかで聞き覚えのあるその声に優李は強い悲しみを感じた。耳から入ってくるのではなく、直接頭の中に語りかけてくるようなその声に優李の魂が寂しさを感じている。
『返せ、その……よこせ……』
 声はひとつではなかった。今度は優李を強く非難するような声がする。この感覚はなんだろう。悲しくて、寂しくい。けれどもたまらなく優しい声。そして、計り知れない憎しみを帯びた声。そのふたつが今、間違いなく優李に向けられている。
 足が、ガタガタと震えだした。大きな憎しみを向けられることが、とてつもなく恐ろしい。
『こっちにおいで』
 森の暗がりになにかいるのが見えた。ギラリとした金色の瞳が、じっとこちらを見ている。
『あなたは、あの時の黒猫ね、待って――』
 優李は震える体をなんとか奮い立たせて、感覚だけを頼りに黒猫の方へ足を進めようとしたが、足が鉛のように重たい。追いかけないと――そう思うのに足はびくともしなかった。
『こっちにおいで、優李』
その間に猫は身をひるがえし、暗闇に消える。
『待って――』
 そう手を伸ばした瞬間、はっと目を覚ました。夢を見ていたようだ。まだ夜は明けていない。西都の町は眠りに就いている。
「夢……だよね」
 やけに生々しい夢だったと、優李は安堵のため息を吐いた。目が覚めてよかった。もしかしたら、黒猫がそばにいるのかもしれないと窓の外を見る。すると、月明かりの下に一匹の猫がいた。
「あ!」
 いた、間違いない、あの猫だ!
 そう認識すると、優李は魂を抜かれたように虚ろなった。そのまま、窓から抜け出すと夜の闇の中に消えていく。
「やっと捕まえたよお姫様。ここまで来るのが大変だった。さあ行こう」
 知らないひとの声がする。知らないはずなのに、なぜか懐かしい声……。
 優李は猫に導かれ、ゆらりゆらりと漂うように歩く。たどり着いた先は川だ。白虎西区と朱雀南部との境にある川で、墨染(すみぞめ)川という。この川を越えると、黄泉へと行ってしまう。二度とここへは戻ってこられない。
 川の上には半月型の真っ黒な橋が架かっており、川沿いには年中花を咲かせ続ける白い桜が何千本も連なって立っていた。
 はらはら、はらはらと白い桜が雪のように闇に散る。黒猫は橋のたもとにちょこんと座っていた。
『ずっと探していたよ優李』
 後ろから声がした。優しい声なのに、気配に背筋が凍りつく。どこか懐かしいその声。振り返ると、黒い闇の中にふたつ、子供のような影が見えた。
「あなたは……」
 優李はふたりの姿に驚いた。あまりにも自分にそっくりなのである。影のひとつは目を見開いてから優李を睨んだ。
『おまえのせいだ』
 ひとつの影がそういうと、もうひとつの影がなだめる。
『優李のせいじゃないよ』
「あなたたち、子供の頃の私に、そっくり……。でも、あなたたちは男の子かしら。どうして、私に似ているの? 私のせいって……いったい何?」
 ふたつの影は幼い優李に似た姿をしていた。ひとつの影は優李を睨みつけたまま口を開いた。
『おまえのせいで希沙良は人の世から戻れなくなった。おまえが生まれてきたから俺は希沙良の中にいることが出来なくなり、おまえとともに人の世に吐き出された。おまえが俺から希沙良を奪った』
「それは……」
 どういうこと――優李は必死に考えを巡らせていると、もうひとつの影が首を横に振る。
『違う、優李のせいじゃない。間引きのせいだ、ひいては西都そのもののせいだ。僕はあやかしの国が憎い』
「私が生まれてきたからって……あなたたちは、誰? どうして憎んでいるの」
 黒い闇が、足に絡み付いてくる。どんなに逃げようともがいても、闇は優李を掴んで離してはくれない。優李の体はどんどん底のない沼のような闇に飲まれていく。
『教えてやろう、俺は希沙良の中にいた金華猫。実体を持つことが出来ずにいた俺たちを、希沙良はその身に宿してくれていた。だが、おまえが産まれるときに俺たちは希沙良の中から弾き飛ばされてしまった、おまえと一緒に――』
「私と一緒に、お母さんの体から出てしまった、猫のあやかし……」
状況を必死に理解しようとするが、なかなか呑み込めない。わかっていることは、目の前にいるひとりの影が、自分を恨んでいるということだけ。
『だからって僕は優李を恨んでなんかいない。僕が恨んでいるのはこの国の在り方だ。僕は君を助けに来たんだよ、優李』
もうひとりの影はそういった。
「私を、助けに来てくれた……?」
『そうだよ、僕と一緒に川の向こうへ行こう優李』
『そしてその器を俺にくれたらいい』
 もうひとつの影がゆらめく。
「器って……?」
『俺たちには器となる体がない。だから希沙良が受け入れてくれていたのに。希沙良からはじき出された俺たちは、遠くへと飛ばされてしまった。人の世でずっと猫に寄生しながら生きて来た。朧気な記憶のまま何匹もの猫に寄生しておまえを探して渡り歩いた』
『僕は君をずっと見てきた。希沙良に残された君をずっと救いたかった』
 ふたつの影は競うように言葉をつづる。ひとりは優李を救うといい、ひとりは優李の器をよこせといってくる。
『さまよい続けてやっと見つけた。優李、おまえの体をよこせ、そしておまえはこいつと一緒に大人しく黄泉へ下るんだ』
『そうさ、僕と一緒に黄泉へ行こう。そして向こうで家族みんなで暮らそう。向こうで希沙良が待っているよ』
『おまえのことほぎの力を使って願え。俺達のために』
 黒い影の手が伸び、優李の額に触れる。優李の体はあっという間に黒い影に飲まれた。
『優李、願え。おまえが願えば、俺たちは救われる。器をよこせ』
『そして西都に災いをもたらすんだ』
 黒い感情が流れ込んでくると同時に優李はそのあやかしの嘆きを感じ取った。
 悲しい、寂しい――誰かに、抱きしめてもらいたい。でも俺たちには体がないから叶わない――悲しい――誰にも見てはもらえない――誰にも、愛してはもらえない。僕たちは、いらない子供だから――間引かれた子供だから──僕にも家族が欲しい。
「間引かれた……?」
聞きなれない言葉だった。優李が理解できていないことを知ったひとつの影は、優李に語りかけてくる。
『間引きというのは、あやかしの国の医療行為の一つだ。あやかしの世でも、猫は多産である。ほかに兎や犬のあやかしも同様に多産だ。かつて、医療の整わない時代には、多産は種を残すための強力な手段だった。多く産めば、種の残せる可能性が高くなる。だが、今の世とでは多産は弊害でしかなかったようだ。貧しければそれだけ食い扶持が増え、富める家では財産分与の問題が浮上する。そこで、合法的な医療行為の一つとして、胎児の間引きが行われるようになった。母親の胎内にいる間に、強い遺伝子を残すために毒を盛る。そうして残った数少ない子を生み落とす』
「そんな……つまりあなたは……」
『僕たちは希沙良とともに母親の胎内に生じ、生まれる前に間引かれた。死にきれずに魂が残った僕たちを赤子であった希沙良の体が受け入れた。三人分の魂と力を宿した希沙良は、あやかしとして強力な力を持ち合わせた』
『それこそ、眷属のたちの均衡を揺るがすほどに。だから希沙良は俺たちとともにあやかしの世を捨て人の世に下った。自分のせいで起こりうる眷属間の争いを予期して。愚かなことだ、俺はあやかしの世に戻り長の座についてやる。そのためにおまえの器を俺によこせ、優李』
『そして優李、君は西都を滅ぼし、僕と一緒に黄泉に行くんだ』

 願え、優李。

 黒い影のひとつが、優李の体の中に流れ込む。優李は意識を失い、その場に倒れ込んだ。残された黒猫は「にゃぁ」と一声鳴き、闇の中に紛れて消えていった。