夢屋ではようやく店じまいを終えた那沙が六花の店へと向けて出かけるところだった。しんしんと雪が降り注いでいる。優李は暖かくして出かけただろうかと心配になる。優李は自分のことを後回しにしがちだ。今までの生きざまがそうさせるのだろうと思うと心苦しくなる。
「よう那沙、なんだこんな時間にどこに行く?」
 見ると水虎の琥蓮が店の前まで来ている。珍しいこともあるものだと、那沙は驚いた。
「どうしたこんなところまで」
「おまえに会いに来たに決まっているだろう。それと優李にも礼をしないと」
「優李は外出中だ、俺もこれから後を追う」
「優李はどこへ?」
「六花の店だ」
 答えを聞いた琥蓮は呆れたような顔になった。
「おい、六花の店は藍宵通りだろう? そんなに近くに行っただけでなんだその顔は。置いていかれた子供みたいに焦った顔しやがって……えらい大きなガキだな」
「優李になにかあってからでは遅い」
 慌てる那沙にかまわず琥蓮は家の方へ向かう。
「おまえな……ちょっと家の方に上がるぞ、鍵を開けろ」
「聞こえなかったのか、俺は優李の後を追わなければならない」
「那沙、いい加減にしろ! 優李は大丈夫だろ!」
 琥蓮が腕をつかんで那沙を止めようとするが振り払う。
「駄目だ。先に優李を迎えに行く」
「那沙、おまえ……」
 琥蓮が那沙の異常な様子に驚いていると、寒い冬空に明るい声が響いた。
「ただいま帰りました! あ、琥蓮さん、お久しぶりです」
「優李! 大丈夫だったか、なにかに襲われなかったか」
「大丈夫ですよ、六花さんが使い魔の小雪ちゃんをお供につけてくれましたから」
 優李の羽織の中からぴょこりとリスが顔を出した。そのまま雪の上に飛び降りて通りをかけていく。
「気の利く狐だ。おまえが無事でよかった」
「はい。お使い、ちゃんと行けましたよ。琥蓮さんがいらっしゃったのならお茶を入れましょう。あぁ、夕ご飯もまだでしたね、琥蓮さん一緒に召し上がりますか?」
「それは助かる。腹が減っていたところだ」
「お任せください」
「だそうだ、邪魔するぞ那沙」
「……勝手に上がれ」
 二人のやり取りにふっと笑顔になってから、優李は家の台所へ入っていった。

 優李は手際よく食事の用意終え、瞬く間に食卓に夕飯が並んだ。優李は料理もよくできる。那沙の好みを把握し、何もいわないのに美味しいものを作ってくれる。味気なったひとりでの食事は、優李と暮らすようになって楽しい時間に代わっていた。
「それでは、私は先にお風呂をいただいて寝ます。那沙と琥蓮さんはゆっくりされてください」
食事の片づけが終わると優李はそういって自分の部屋に戻った。琥蓮が那沙とふたりで話したがっているのを察したようだった。気の利きすぎる娘だ。
「本当にいい娘だ」
「こんな時間に何の用だ琥蓮」
「だからいったろう、おまえと優李に会いに来たからわざわざ店が閉まる時間に来たんだ」
「なんの話だ」
「決まっているだろう、優李の話だ。優李が気を利かせてくれてよかった。よくできた娘だな。おまえには勿体ない」
「別に優李は俺のものじゃない」
「ふうん。おまえ、いつまであの女……ほら、父親の後妻だよ、名を何といったかな」
 琥蓮が首を傾げたので那沙はしぶしぶ補足する。
「藤乃のことか」
「あぁ、そうだそうだ藤乃だ。いつまで藤乃に囚われるつもりだ」
「琥蓮、何がいいたい。いい加減にしないと俺も怒る。俺は藤乃のことは何とも思っていない」
那沙が答えると琥蓮は切れ長の目を丸くした。
「なんだ違うのか、おまえ、藤乃があやかしに襲われたのは自分が悪かったとでも思っているのだと思ってな」
 那沙を見てから、藤乃はあやかしの国のことを知りたがったそうだ。父は藤乃を西都に連れてくることに反対した。藤乃はあやかしの国で暮らせるような性質ではないと。
「あの女のことはもうどうでもいい。あれは俺のせいではない、あの女が勝手にこちらへ来ようとしたのが悪い」
「そうか、いや、それならいい。おまえが優李を娶らない理由は藤乃なんじゃないかと勘違いしていた。人の世になじんだものは、こちらせは暮らせないと思い込んでいたようだったからな。そこのところはどうなんだ」
 琥蓮はカラカラと笑ってから表情を戻す。
「そうは思っていない」
「ではなぜ優李を妻にしない。惹かれているのだろう?」
「優李を妻にするつもりはない。そもそも、優李にその気がないだろう」
「優李を大事に思ってるくせにか。誰にも渡したくないと思ってるくせに。おまえ、もしも優李がほかの男と結婚したらどうするつもりだ、そうだな、例えばあの送り犬とか?」
 琥蓮がリクのことを話題に出すと那沙は首を横に振る。
「リクは駄目だ。あいつが住んでいる場所は治安が悪い、花街も近い。リクが働いている間に優李に何かあっては困る。そもそもリクはまだ西都に来て日が浅い。生活が心配だ」
「なら夜斗がいい。あいつは職業もしっかりしているし家柄も悪くない。妹とも仲良くやれるだろう。幸い夜斗は優李を気に入っている」
「そうなのか!」
「それは、まあ今は友人という範囲でだろうがな」
 琥蓮の言葉にほっと胸をなでおろす。夜斗は信頼できる友人だ。仕事も家柄もきちんとしている。性格も悪くない。はっきりいうと非の打ちどころが見つからない。
「夜斗は夜勤が多い。警備で何日も家を空けることにもなる、駄目だ」
「では神楽がいい。あれはなかなか出来る男だ。門番の仕事は安定しているし、事情を話せば夜勤を免れることも出来るだろう」
「神楽……駄目だ、あんな軽薄な男。優李を娶ったあと他の女を作りそうだ。無闇に家を空けられると困る。それに、優李を悲しませるようなことになってはいけない」
「そんなことないと思うけどなぁ。あの白虎は案外真面目だ。きっと優李を大事にする」
「だが……」
「それでも駄目というなら、いっそのこと人の世に帰すつもりか」
「……もとの場所ではない、新しいところでなら、きっと優李はうまくやる」
「そこでどんな男と出会うかもわからないのに」
「優李は悪い男に捕まるような女じゃない」
 そう思いつつ、確信が持てない。優李は素直だ、悪い男に騙されても気が付かないかもしれない。
「ほらその顔、たまらなく心配なんじゃないか。手元に置いておけ、それが一番いい。おまえより優李を大事にできる男はこの世にいない」
 琥蓮の言葉に那沙は視線を落とす。
「優李は人の世に帰るべきだ」
「なぜそう思う」
「伊邪那美様が、可能なら優李を人の世に帰せといっていた。彼女がいうならそのほうが優李にとって良いのだろう」
「それは、優李の能力が原因か?」
「そうだろう、ことほぎの力は悪用されるかもしれない。かつて、あやかしの国で神子と呼ばれていた存在だ」
 琥蓮は大きなため息をついた。
「極端なやつだな。おまえには向こうの世界にいくつでも屋敷があるだろう。優李を向こうに帰すっていうんなら別にひとりで帰さなくてもいいだろ。選択肢を勝手に狭めているのは、おまえのつまらない思い込みだ。おまえは関係ないっていうだろうがな、藤乃を怖がらせたっていう後悔がおまえのなかに染みついてる。あれはおまえのせいじゃない、強いていうなら親父のせいだ。そろそろ過去と決別しろ」
「俺にそんなつもりはない」
「優李は強い。おまえが守ればあやかしの世でも生きていける」
「何を根拠に」
「俺の霧でおまえが倒れたとき、俺と対峙した優李は逃げずにおまえを守ろうとした。なんの力もない弱い女のくせに」
「優李が?」
 琥蓮の家で目が覚めるまでの何があったのか、那沙の記憶にはない。
「優李は六花のこともいわなかった。俺がどんなあやかしかわからないから、まわりに被害が及ばないよう計らったのだろう。力のない女にとって、俺というあやかしは見るだけで恐ろしかったことだろう。だが優李は気丈に振舞った。俺に対等に話しかけ、俺がおまえを見つけそうになると、おまえの上に覆いかぶさって守ろうとする始末だ」
「……」
「藤乃と優李は違う」
「そんなことはとうに、いや、初めからわかっている」
「わかってないから俺が親切に教えてやっているんだろう。優李はおまえから逃げたりしない、絶対に。だからおまえに守る覚悟さえあれば大丈夫だろ。おまえは十四眷属に引けを取らないあやかしだ。十分な財力も家柄もある、優李を幸せにできるのはおまえだけだ」
 俺は、いまだに藤乃の影におびえているのか。
『穢らわしいあやかし! あなたが伯爵でなければ結婚なんかするものですか』
 森の中であやかしの襲われた藤乃は錯乱し、父は悲嘆にくれた。このまま人の世に帰すわけにはいかないと、伊邪那美様は佐保姫に依頼して藤乃との結婚に関わったものの記憶をすべて消させた。
 那沙のことも、父のこともすっかり忘れた藤乃は、藤乃の父親が新しく選んだ相手と結婚して幸せな家庭を築いたらしい。
「藤乃は、おまえの父に惚れていたわけではない」
 琥蓮の声がして那沙は急激に思考の海から戻ってくる。暗い視界が開け、いつも通りの今の景色が戻ってきた。
「痛いところをつく。父が不憫だ、それ以上に母が不憫だ」
「俺には愛する妻と子がいるからわかる。優李のことですらおまえよりもよほど理解している、たぶんな」
 那沙には返す言葉がなかった。
「那沙、少しは素直になれ。優李を嫁にもらえばいい。優李は、間違いなくおまえのことを好いている。傍に置いてやれ」
 優李のことを愛しいと思う。傍におきたいと思う。琥蓮のいうように、優李を自分の手元に置けるなら、どれほど幸せだろうか。
「おまえは頭が固い。何を悩む必要がある。おまえが優李を守ればいいだけのことだろう。命を懸ける覚悟があれば、守ることができる。人の世にただ帰せばいいと思っているのかもしれないがな、むこうの世界の方が無防備だ。検非違使の守りも一人ひとりには行き届かない。あやかしの世でおまえのそばにいる方がよほど安心というものだ。こちらには俺や六花もいるしな」
「そういうものか……」
 伊邪那美の「悪用されないようにしろ」とは、傍に置いておけと捉えても良いのだろうか。
「それがわからないからおまえは馬鹿だというんだ。爵位を相続しても尚のらりくらりと夢を売っていたおまえがなぜ伊邪那美様の仕事に抜擢されたかわかるか、おまえが有能だからだ。強いあやかしだからだ。王都を守るにふさわしいあやかしだと判断されたからだ。その力を、今度は愛しい女を守るために使え」
 琥蓮の言葉は、那沙の中にすとんと落ちてくる。
「優李に懇願しようと思う」
「なんだ、嫁に来いとでもいうのか」
「そんな上からものはいわない。来てほしいと頼む」
 那沙が不機嫌そうに答えると琥蓮は破顔した。
「それは名案だ。祝言の時には俺が仲人を務めてやろう。楽しみだ」
「祝言はあまり開きたくないな。優李の花嫁姿を見ていらぬ気を起こす輩がいたら困る」
「おいおい、そうやって優李を自分だけのものにするつもりか?」
「できることならそうしたい」
「優李は苦労しそうだな」
 それから話に花を咲かせた後琥蓮は帰っていく。泊って行けばよいとも思うが、芙蓉と子どもが琥蓮の帰りを待っているのだろうと思うと引き留めることはできない。はぐれものであった琥蓮も随分と変わったものだ。愛する存在というのは、それだけひとを変えるのだろうか。
俺も、変わったのかもしれない。
那沙は冬の空を見上げた。今夜も積もるのだろう。はらはらと落ちてくる白い雪は夜の闇に染って見えた。
細い月に厚い雲がかかり、月は姿を消して辺りは闇に包まれた。