蓮華と会ったおかげで思った以上に時間がかかってしまったが、『香堂』に着くと明かりはまだ灯っていた。良かった、と優李は胸をなでおろす。
 何度見ても緊張する上品で豪奢な店だ。優李はドキドキしながら店の硝子扉を開ける。
「ごめんください」
 おどおどしながら声をかけると、店の中で美しい笑顔を浮かべる六花と目が合った。
「いらっしゃい優李。今日あたり香を求めに来るだろうと、用意をしておきましたよ」
「ありがとうございます! 遅い時間にすみません」
「いいえ、問題ありません。さぁ、お掛けなさい。優李とはゆっくりと話がしたいと思っていました」
「ごめんなさい、私も六花さんとお話がしたいのだけど、那沙にすぐ戻るって約束してしまって」
「そうですか、大丈夫、あまり時間はとらせません。まったく、那沙は優李のこととなると急に過保護になりますね」
 六花は優李を勘定台の前の椅子に座らせると、一度店の奥に戻り、冷たいお茶を持って戻ってきた。
「芙蓉が調合したお茶です。とても美味しいですよ」
 硝子の器に入れられお茶からは、バラの花のような良い香りがした。勧められる口に含むと、ほのかな甘みは舌の上に広がる。とても美味しい。
「美味しいです!」
「でしょう? 私の好物です。優李、先日は私のわがままを聞いてくださりありがとうございました」
「え……わがままですか?」
 優李がなんのことかわからずキョトンとすると、六花は口元を着物の裾で押さえて上品なしぐさでくすくすと笑う。
「優李は実に可愛らしい。あなたの香を調合すると約束したときの話です。吾妻泉に行ってほしいと頼んだでしょう? 私は那沙と琥蓮のつまらぬ仲違いを解消しようと思いつきまして。あなたが一緒なら大丈夫だと――」
「私、ですか? どうして……」
「私は『時詠み』ですから、そういう未来が見えたとしかいいようがありませんが……仮に私が時詠みでなくてもあなたなら大丈夫だと思ったと思います」
 六花の言葉の意味がよくわからず、優李は首を傾げた。
「優李、那沙は頑固なところがありますし、口下手ですから、なにか困ったことがあったら私にいいに来てください。今も優李には悩んでいることがあるのでしょう? よければ少し聞きましょう」
「いいんですか……?」
「もちろんです。吾妻泉の一件のお礼に」
 そういう六花に優李は重たい口を開いた。
「那沙は私が家にいることが迷惑なのだと思うのです」
 硝子の器に視線を落としながらそうつぶやく優李に、六花は目を丸くした。
「なぜです、那沙はそんなことをいいましたか?」
「いえ、でも、那沙は私のことを保護しなければいけない存在だと思ってくれているはずです。ですが、いずれ那沙が誰かを好きになって、そのひとと暮らすようになったら、私は邪魔でしかありません。それまでにひとり立ちしたいと考えています」
 それを聞いた六花はますます目を丸くして、肩をすくめた。
「なるほど、事情はなんとなくわかりました。那沙のもとを去るとしても優李はこちらで生活したいと思っているのですね?」
 六花の問いかけに、優李は頷いた。
「はい、こちらでひとり暮らしがきでたらと思っています」
「そうですね、でも優李ひとりでは私も心配ですし。よかったらうちに住みませんか?」
「本当ですか!?」
「もちろん大歓迎です」
 六花はそういって、大きな目を狐のように細めて笑った。
「私も一人暮らしは寂しいと思っていたところです。それなりに広い家に住んでいますから部屋はありますし」
「ありがとうございます! 私、きちんと働きます!」
「一緒に家事をやっていただけると助かります。私は家事の方があまり得意ではないので。そのうちなどということはいわず、那沙にいじめられたらすぐにでもいらっしゃい」
「嬉しいです。でも那沙が私のことをいじめるなんてありえません。那沙はとても優しいのです。優しすぎて……」
 優李は視線を落とした。辛いのです。とはいえない。その優しさに甘えてはいけないと、わかっている。那沙の心の中にいる大切なひとに嫉妬しているなど口が裂けても言えない。自分の浅ましさに苦しくなる。
 那沙の悲しい瞳を思い出す。彼の中には恐らく失った誰かがいる。
 どうか、那沙が幸せになりますように。優李は両の手を組んで祈った。すると、キラキラと輝く砂があふれ、夜空に飛んでいく。那沙のもとへ。
 その様子を見ていた六花は、心配そうな顔をした。
「優李、あなたには『ことぼぎ』の力があるのですね――」
「は、はい。以前那沙のお友達の琥蓮さんにそういわれました。他者の幸せを願い、叶える力だと――。正直にいうと私は嬉しかったのです。私の父には神様から授かった強い力がありました。でも、私にその力は受け継がれなくて……。ことほぎの力があれば、那沙のお役に立てるのではないかと思ったのです。ですが那沙はあまりいい顔をしませんでした。容易に使うなと」
「そうですね。『ことほぎ』という能力は、かわりにあなたの精神力を奪います。力を使い過ぎてはいけません。心がすり減ってあなた自身に影響が出ます」
「影響……ですか?」
 六花は深く、ゆっくりと頷いた。
「かつて、『ことほぎ』の力を持つものは神子としてあがめられていました。神子はそれぞれの村や町に帰属し、多くのあやかしを救うために使われていました。やがて西都の政府は神子の力に目をつけ、国のために多くの願いを叶えさせました。神子のおかげで、黄泉平坂は大陸にあるどの国にも負けないほどに豊かな国になりました」
 優李はじっと六花の言葉を聞いていた。自分にそんな大層な力があるとはとてもではないが思えない。六花の話は続く。
「ですが、もちろん代償がありました。多くの願いを叶え続けた神子たちは、心を病んで死んでいきました。それだけではありません、願いを叶えるためには神子が心から願うことが必要なのです。心から願えぬものを、叶えることはできません。そうして、私腹を肥やそうとした者たちによって、多くの神子が殺されました――悲しいことです。伊邪那岐様が王位につかれてから神子は解放されましたが、以降も神子の数はどんどん減り、今となっては『ことほぎ』の力を持つ者はほとんどいません。『ことほぎ』の能力は遺伝で伝わるものではありませんから、神様からの賜りものだといわれています。今の世に、『ことほぎ』の力を賜ったものはほとんどおりません。ですから、力の使い方に気をつけなさい。悪用などされないように――」
「わかりました、色々と教えてくださってありがとうございます」
「もう一つ、『ことほぎ』の力は自分のためには使うことができません。他者を思うことが大切なのです。自らの心を犠牲にして、他者の願いを叶えるのです」
「人のために役立つ能力なんて、素敵です。母が、いつもいっていましたから――」
 忘れていた、幼い日に両親が神社に連れて行ってくれた時のことだ。正月から数日過ぎたころ、夜に人気がなくなってから遅い初詣でをした。
『優李、こうやってね、両手を合わせて神様にお願いをするでしょう? 願い事をするのなら、人のために願うのよ。大切な人のために――』
『どうして?』
『だって、大切な人が幸せになったら、嬉しいでしょう? 願い事は、いつだって人のためにするのよ。私はお父さんと優李のために願うのよ』
『じゃあ私はお父さんとお母さんのためにお願いするね』
 幼い人の出来事だ、親子三人で、神社に出かけたときのこと。思えば、お母さんはいつも私とお父さんの幸せを願ってくれていた。幼い私も、両親のために幸せを願った。両親がいたころの優李は幸せだった。優李の願いは、ふたりを幸せにしただろうか。
「母は、幸せでしたでしょうか……」
 優李の言葉に、六花は目を細めた。
「もちろんです。希沙良は人の世であなたのお父様と出会い、あなたと出会い、幸せを手に入れたのです」
「でも母は……」
「優李、希沙良が亡くなったのはあなたのせいではないの。だから悔やんではなりません。あなたの心はとても綺麗です。どうか、その多くをすり減らさぬようにしてください」
六花は優しく微笑んでから、心配そうな視線を向けてくる。優李は六花を安心させようとにっこりと笑顔になった。
「はい、願いは私が幸せを願う人のためにします、それなら、私の心は少しも傷つきません」
 優李の瞳に、強い決意を読み取った六花もにっこりと微笑んだ。
「優李、このあやかしの世にはあなたの味方がたくさんいます。ひとりでどうこうできないときは躊躇わずに頼ってください。私も、ほら送り犬のリクも親しいでしょう? 那沙ひとりがあなたの心配をしているわけではありませんよ」
「はい、ありがとうございます」
 優李は頷がうなずくと、六花は満足そうに微笑む。
「さあ、那沙が心配しますから、そろそろお帰りなさい。香をお渡ししましょう。道中気を付けて。あぁそうだ、過保護な那沙のために使い魔を共につけましょう。小雪、おいで」
 六花が呼ぶと店の奥から真っ白なリスが姿を見せた。リスはぴょんぴょんとかけてきて優李の肩に乗る。優李は目を輝かせた。
「可愛い! 小雪ちゃんっていうんですか?」
「雪リスです。あなたに何かあったら私に連絡が来るようにしますから、安心してお帰りなさい」
「はい、ありがとう六花さん!」
 優李は小雪を肩にのせ、受け取った香を大事に抱えると、元気よく藍宵通りをかけて行った。