優李があやかしの国へ移り住んで早くも三か月ばかりが過ぎていた。辺りはちらちらと雪がちらつくようになってきている。表の掃き掃除をしていた優李は灰色がかった冬の空を見上げて白い息を吐いた。西都にもしっかりとした四季がある。夏は暑く秋になると木々が色づき冬になれば雪が舞う。移り変わる景色の美しさに感動した。
「優李、寒いから外はいいといっただろう。早く中に入れ」
「ですが、落ち葉が溜まってしまいますから」
「そういうのは俺がやる。おまえは中に入っていてくれ」
 那沙は最近ますます過保護になった。六花の調合してくれた香もあるし、優李のひととなりを知るあやかしたちは半妖である優李のことを温かく受け入れてくれている。少しの買い物くらいならひとりでなんてことないと思うのに、絶対にひとりでは出してくれない。
「いらっしゃいませ夜斗(やと)さん。妹さん、よくなりましたか?」
 店を訪れたのは鵺だ。妹が無気力病に罹り、治療のために夢を食していた。
「やあ優李。そうだな、那沙の夢玉はよく効いているよ。少しずつ会話もできるようになってきたし笑顔も見せてくれる。仕事に復帰できる日も近いと思う」
「よかった」
 すっかり那沙との生活が馴染んだ優李は、夢屋の客にも受け入れられている。
結局人の世の学校は辞め、もう少し生活に慣れたらこちらで学校に通うことにした。
「優李さん、お仕事ご苦労様」
「ありがとうございました、良い夢を」
 那沙と長い時間話し合っていた客が帰ると、優李は『商い中』の札を外す。戻ってくると那沙は金色の美しい夢玉を一つ手に持っていた。他にも青、桃色、雛色などいくつか手元にある。
「綺麗な夢玉ですね」
「あぁ、これは売らないのだがな」
「どうしてですか?」
「これは、俺の御符のようなものだ」
「お守り……ですか」
 那沙はその夢玉を丁寧に包んでしまい込んだ。よほど大切な夢なのだろう、いったいどんな夢なのか気になるけれど、尋ねるのが怖いような気もする。
 好きなひとの夢だったら――そう思うと心が苦しくなる。
「那沙、夕食の買い出しに行ってきましょうか」
 話題を変えようと、食糧庫の中が空っぽになっていたことを思い出した優李は那沙に提案する。六花に人間の匂いを消す香を作ってもらったというのに、那沙は未だに優李をひとりで出歩かせてはくれなかった。頼めばどこへでも連れていってくれるので不便はないが、優李としては那沙の時間を奪ってしまうのが申し訳ない。
 人伝に那沙は昔大切なひとを亡くしたのだと聞いた。そのひとが人間であったこと、あやかしに襲われたことを知った。優李は諦めつつも苦しい気持ちを抱える。ひとりで出歩けないことは少々不便だが我慢できる。だが、那沙のことを思うと苦しい。恋心は持たないと心に決めていた優李だったが、それでもどうしようもなく膨れ上がる感情があった。この想いに名前を付けてはいけないと強く自分を𠮟りつける。
「今夜は外食をしてみるか」
「え! 本当ですか?」
 西都に来てから三か月、外食をするなど初めてのことだと優李は胸を弾ませる。大通りに連なる商店には小料理屋や大衆食堂のようなものもあった。のれの隙間から漂ってくる香りは堪らなく食欲を誘ってくる。
 店じまいを終えて鍵をかけると、「よう」と声がした。振り返ると、仕事を終えた様子のリクが片手をあげている。送り犬のリクはあの夢から出た後どういうわけか西都にとどまった。今では優李の良き友人である。リクの年齢は優李と近いそうだ。見た目も高校生くらいの年齢に見える。優李にとって初めてできた同年代のあやかしの友達である。
「こんばんはリク! お仕事お疲れ様!」
「どこいくんだ? 夕飯一緒に食おうと思って来たのに」
「再々たかりに来るな」
「しかたねぇだろ、優李の作る飯は旨いんだから」
 西都に来てからというもの、リクはこの時間なるとたびたび夢屋を訪れていた。三人で食事をとることも珍しくない。優李は賑やかな食事を喜んでいるが、那沙はひどく迷惑そうだった。
「残念だな、今日は外食だ」
 那沙がそういうと、リクは目を輝かせる。
「じゃぁ俺の行きつけの店に連れて行ってやる!」
「なんでそうなる」
「なんだよ、一緒に飯食おうぜ」
「嫌だ」
 那沙はそういって不機嫌な顔をしたが、強引なリクに押しきられ、結局三人で出かけることになった。暮れ六つを過ぎた空はすっかり暗くなり、淡い藍色の空で星が静かに瞬いている。優李が無数に散らばる星に見惚れていると、那沙が肩に羽織をかけてくれた。
「ちゃんと暖かくして出かけないと風邪をひく」
「本当ですね、うっかりしていました」
 うっかりなどしていない。優李は防寒具の類を身に着けたことがなかった。気候の暖かい地方であったのが唯一の救いだったが、それでもマフラーも手袋もない冬は相応に寒かったがもう慣れた。冬になるとあかぎれだらけの指で水仕事をするのが辛かったが、こちらに来てからというもの、那沙からもらった塗り薬を使ううちにすっかり手が綺麗になった。芙蓉が作ったものらしい。お礼の手紙を書くととても喜んでくれた。
 町には煌々と明かりがついている。どの店先にも赤い吊り提灯がぶら下がっていた。まるでお祭りの夜みたいだと優李は目を輝かせる。そういえばこんな時間に出かけるのは初めてだ。子供の時両親と一緒に出掛けたお祭りを思い出して優李は暖かな気持ちになった。リクの案内で三人は暁通りにある『兎鷺(うさぎ)庵』という飯屋に入ることにした。
 黒く塗られた木造の壁には格子のはめられた大きな窓が取り付けられている。店の外まで活気が伝わってくる。中を覗くと案の定混んでいた。人気店のようだ。
 リクが乱暴に店の扉を開けるとカランカランと大きな金の音が響いた。その音がかき消されるくらい店内はガヤガヤと賑わっている。
「いらっしゃいませー! あぁ、リク!」
 着物姿の女給がリクに気がついて声をかけた。そのまま窓際の空いた席に案内される。
「今日はいつもの仕事仲間と一緒じゃないんだね」
「あぁ、今日はダチと。こっちが那沙で、こっちが優李」
 リクが二人を紹介すると、女給はにっこりと微笑んだ。長い栗色の髪を、邪魔にならないよう一つにまとめている。頭からひょこりと伸びた長い耳は、片方が垂れ下がっていた。真っ直ぐに立っているのに左側に僅かに傾いている。見れば足の長さが左右で異なっていた。両腕の長さも同様に違う。ダユ、というウサギのあやかしである。ダユは那沙を見るなり黄色い声を上げた。
「わぁ、夢屋の伯爵様じゃぁありませんか! リクと知り合いだなんて、どういうこと? こんな下町のお店に来てくださるなんて嬉しいですね!」
「まぁ那沙は俺の恩人ってところだな」
「ふぅん、不思議な縁があるものね、まぁいいわ、可愛い娘さんも一緒だし、しっかりおもてなしするからじゃんじゃん頼んでくださいね、お勧めは定食ですから!」
 そういうとダユは食卓の上に湯呑を置き、品書きを置いて行った。
「那沙は有名人なんですね」
「そんなことはない」
「とにかく飯にしようぜ。俺、肉定食」
「私はなににしようかな、中華料理屋さんみたいですね」
 リクが渡してくる品書きを見ると、料理の名前はどれも漢字で書かれていた。残念なことに文字の読めない優李にはなんと書いてあるのかわからない。
 西都の口語は人の世と同じであるのに、書き言葉は漢文のようだ。その理由は以前那沙が教えてくれていた。町のいたるところには、漢字があふれていたから。
『千三百年ほど昔、人界が大陸への使者を廃止し、国風文化というのが発達した。その時代に生まれたかな文字はあやかしの世界には浸透しなかったというのだ。かな文字は人間特有の文化だ』
『そうなんですね。人間に歴史があるように、あやかしにも長い歴史があるんですよね、素敵ですね』
『そういうものか』
興奮する優李の様子に那沙は不思議そうに首をかしげていた。いちいち過剰に反応する自分のことをおかしな娘だと思っているかもしれない。
気をつけなくちゃ…。そんなことを思いながら品書きを睨んでいると、リクが声をかけてくる。
「おい、決まったか?」
「え、あ、は、はい! いえ、あの、私は文字が読めなくて……」
「なんだ、俺と一緒だな! ここは海鮮定食が抜群に旨いぞ、最初に頼むならそれだ!」
「ありがとうリク、じゃあ海鮮定食で」
「了解! おい姐さん、注文頼む!」
 那沙は何を食べるのかな……。自分の料理を選ぶことばっかり考えて全然聞いてなかった。
 優李はちらりと円卓の横に座る那沙の顔を盗み見る。本当にはっとするくらい綺麗な顔だ。こんなひとと一緒に生活しているなんて、考えたら顔が熱くなる。
 居候っていう肩書は一緒なのに、叔父の旅館で暮らしていた時と全然違う。那沙は、私をすごく大切にしてくれる。
「どうした、俺の顔に何かついているのか」
「いえいえ、なんでもないんです」
 那沙の顔に見惚れていたとはいえない。ほどなくして女給が注文を取りに来た。
「肉定食一つ、大盛りな。それから海鮮定食一つと、生碼麺(サンマーメン)肉抜き」
「了解! ちょっと待っててね」
 にこりと笑ってそう言うと、ダユは大きな声で注文を読み上げた。厨房の方から了解の返事が返ってくる。
「こっちにも生碼麺があるんですね」
「あやかしたちは人間の食文化にも興味津々なのだ、人の世から輸入してきた料理も多い。俺の好物だ」
「肉抜きだけどな」
 那沙の好みを知ることが出来て嬉しい。今度家でも作ってみようかな、なんて考えが浮かぶ。
 円卓を囲んで話していると、「おまちどうさま」とダユが戻ってきた。両手にお盆いっぱいに乗った料理を運んでくる。
「これが、リクの大盛り、こっちが伯爵様の、それからこっちがあなたのね。女の子だから甘味をおまけしちゃう」
「わぁ、ありがとうございます!」
 ダユは手際よく円卓に料理の皿を並べ、優李の前に小さな杏仁豆腐の器を置き終えると、「ごゆっくり!」といって厨房の方へ戻っていく。
「美味しい!」
「だろう? ここは安くて旨くて量が多い!」
「幸せだなぁ……」
心の中が温かくなる。
「なんだよ大げさだな」
「大げさじゃないよ。私、こうやってお店でご飯を食べるのって、実は初めてでから」
答えるとリクは目を丸くした。
「まじかよ!」
「うん。私の家族ってちょっと周りと上手くやれてなくて、お店に行っても邪険にされちゃうというか迷惑をかけちゃうというか……それでもっぱらおうちごはんだったんだよね。それが嫌なわけじゃなくて、もちろん幸せだったんだけど、こうやって友達と一緒にご飯とか憧れがあったっていうか……」
あのまま人の世にいたら、こんな気持ちにはなれなかったかもしれない。
「だから幸せだなぁって」
「おうおう、いっぱい食えよ! また連れてきてやるから」
「ありがとうリク」
優李がほほ笑むと、リクもにっと笑顔になる。
 お腹いっぱい食べて店を出るとリクと別れて夢屋へ戻る。町は少しずつ夜を迎える準備を始め、空には大きな月が浮かんでいた。
 暁通りから細い路地を通ると、那沙の店がある高級住宅街に入る。遠くに洋装のあやかしが立っているのが見えた。どうやら那沙の店に用があるらしい。閉まっているので中に入れず、途方に暮れている様子だった。そのあやかしは、暗闇の中でもはっきりとわかるほど、燃えるような赤い髪をしている。
その姿に、優李ははっとする。この辺りでは見かけないあやかしだった。
「イプピアーラというあやかしだ。おまえの世界では半魚人とでも表現するのが妥当なのだろう」
 優李の様子に気がついた那沙が手短に説明してくれる。あごの近くにエラがあり、肌は鱗で覆われ、手足の指の間には水かきが付いているようだった。海藻のようにくしゃくしゃとした印象的な赤い髪をどうにか紐で結わっている。彫りが深く美しいあやかしだ。
「普段は水の中で生活している彼らだが、短時間であれば地上でも呼吸ができる。西都に住むものは少なく、多くは東の海を渡った異国の地に住んでいるのだ。あのイプピアーラもわざわざ異国から夢を求めてやってきたのだろう。店を開けてやろうと思う」
「それがいいです! 那沙はお優しいですね」
「商売だからだ」
 照れくさそうに不機嫌になる那沙のことを可愛いなと思いつつ、優李は嬉しくなってはにかむ。
「夢をお求めですか?」
 那沙が声をかけると半魚人の男は頷いた。
「赤イ夢ヲ売ッテクダサイ」
「少々お待ちください、中へどうぞ」
 那沙は男を店の中に招き入れた。那沙は店の中に灯りを一つだけ灯すと、勘定台の横にある椅子を半魚人に勧めた。優李は勘定台の中で待つ。棚から赤い夢玉を取り出して何かを話しているが、優李には言葉がわからない。イプピアーラの国の言葉のようだ。那沙の博識ぶりに驚く。
 時間をかけて色々と相談をしたようだが結局イプピアーラは何も買わずに出ていく。
「売らなかったのですね」
 優李の問いかけに那沙は首を縦に振った。
「俺も闇雲に売りつけているわけではない、客の求める夢がなかったのだ。特殊な夢ではないが、在庫がなかった。幸せな過去を見る夢が手に入ったら連絡することになっている」
「どんな夢を?」
「亡き恋人の夢が見たいといっていた」
 那沙は澄ました顔をしながらそういった。その言葉は、優李の心を不安にする。
「あ、あの、那沙は自分で食べることはないのですか?」
「夢玉をか?」
「はい、あの……那沙も、その……大切なひととの夢を見たいのではないかと……」
 言葉にしてから後悔する。那沙の答えを聞くのが怖い――なんて愚かなのだろうかと、優李は自分自身を罵った。
「いや、それは……」
 那沙は切なそうな表情をした。ぽとりと鉛のようなものが優李の心に落ちる。小さな粒には鋭いとげがいくつもついていて、優李の心の中で転がりながら痛みを放つ。
「踏み込んだことを聞いてごめんなさい、忘れてください」
 それ以上会話を続けることが出来ずに、優李はあいまいにごまかして自室として使わせてもらっている部屋に戻った。
 ひとりになると涙があふれてくる。こんな思いをするのは初めてだった。
 私、那沙のことが好きなんだ。誰かに取られたくないと思うほどに好きだ。
 自覚してしまうと止められないとわかっていた。那沙のことを好きなってしまうのは仕方のないことだと。那沙はたまらなく優しい、惹かれない方がおかしい。だけど、どんなに那沙に惹かれても、優李の想いは那沙にとって面倒なものになる。
 だから、忘れるようとした。違うと思い込もうとした。好きな気持ちは憧れだと自分自身に嘘を吐いた。でも、無理だ。無理だよ。私はどうしようもなく那沙のことが好きだ。この想いは止められない。
 手早く風呂に入ると身支度を整えて眠りに就く。早く眠ってしまいたい。夢の世界へと逃げてしまいたい。苦しいことを、忘れられるように。