眩しさからかくしゃりと顔を歪め、優李はゆっくりと目を開いた。優しい夢を見ていた気がする。幼い頃、父が頭を撫でてくれたときのように暖かな気持ちだった。
「目が覚めたのか」
心地よい低音が鼓膜を振るわせる。西向きの格子窓から月の光が差し込んでいる。今夜は満月らしい。窓の外では煌々と月が輝いている。
「ここは……」
そう呟いてよくやく焦点が定まった目をきょろりと一周させると端正な男の顔が視界に入る。思わず「きゃぁ!」と悲鳴のような声をあげた。
「安心しろ、取って食ったりはしない」
優李の怯えが伝わったようで男は呆れた様子で声をかけてきた。いつもの狭い自室ではない。横になっている布団も厚みのある上質なものだ。確か猫を追いかけて山の中にはいったはず。ここにいるのはどういうことだろう不思議に思いつつ、少し冷静さを取り戻した優李は男に話しかけた。
「あの、叫んだりしてごめんなさい。ここは、どこですか? 私、竜王山に入ったんです。それから何があったのか覚えていなくて……もしかして、夢でも見ていたのでしょうか」
月明かりに照らされた男の顔は息をのむほどに美しい。輝く銀髪の下で、冬空のような淡い水色の瞳が優李をとらえている。灰白色の着物がよく似合っていると優李は思った。直視すると思わず顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしくなってわずかに視線を外した。不思議と恐ろしさは感じなかったが、なんとなく目の前の男は不機嫌そうに見える。
「夢ではない、おまえは森の中で倒れていた。俺が見つけて仕方なく連れ帰ったが……安心しろ、なにもしない」
「あ、あの、助けてくださってありがとうございました。私、時任優李といいます。あなたは……」
優李はそう尋ねてから小さく息を飲んだ。落とした視線の先にあった男の手は、その白皙な顔とは異なり闇のように真っ黒だった。優李の視線に気が付いたのか、男はその黒い手を差し出してみる。男は優李の名を聞いて切れ長の目をわずかに見開いたように見えた。
「俺は獏というあやかし、名を那沙という」
「あやかし……様。も、もしかして、調月様ですか!」
「人の世ではそう呼ばれているな」
「ご、ご無礼をお許しください!」
慌てて姿勢を正し、三つ指をつく。調月といえば、優李の住む町を治める伯爵ではないか。
姿を見せることのない伯爵がこんなに若い男だとは思っていなかった。
「身分にこだわりはない。それにおまえは、俺に礼儀を払わずともよい。顔を上げろ」
いわれて遠慮がちに面を上げた優李は男の姿を確認する。月明かりを反射して美しく輝く銀色の髪に、白縹の瞳。透き通るような白い肌に黒い両腕。自分とは異なる男の姿を優李は美しいと思った。
「あまり驚かないのだな」
「え……」
「異形に見えるだろう」
「異形……あなたがですか」
優李は那沙という男の姿をもう一度検める。男の顔はやはり見惚れるほどに美しい。
「えぇと、失礼にならないといいのですか……その、とても美しいと思います」
そう答えると男は一瞬面食らったような顔になる。男の人なのに美しいといわれるのは嫌だったかもしれない。いわなければよかった。恩人の男が気を悪くしたら申し訳ないと思い、もう一度その顔を見ると、男には少しも気にした様子はなかった。
「ここはおまえの住んでいた場所とは違う、狭間の地、黄泉平坂。あやかしの国だ」
「私は、死んだということでしょうか……」
調月の町は神の国とひとの世の狭間にある。あやかしの国へ行って帰ってきたというのはおとぎ話の中でよく語られていたが、実際にはあまり聞いたことがない。
「そうではない。おまえは迷い込んだだけだ、ちゃんと戻ることができる」
「そう、ですか」
黄泉平坂といえば、子供のころ絵本で読んだことがある。あの世とこの世の狭間、黄泉へと続く場所だ。自分は死んだのかと思えばそうではないらしい。優李の心境は複雑だった。戻れるといわれてもあまり嬉しいとは思えない。死んだのだといわれれば、その方が気が楽だった。黄泉に行った両親に会えるかもしれないという希望も出てくる。
「ここは黄泉につながっているのですか?」
「黄泉へつながってはいる。だが、一度向こうへ行けばこちらへ戻ってくることはできない」
「本当ですか」
希望が見えてくる。ここから、死の国へ行けるのだ。辛い日々を投げ出して、両親のもとへ行けるかもしれない。優李がそんなことを考えていると、那沙が声をかけてきた。白縹の瞳が月のように澄んだ光を宿している。
「優李、窓の外を見ろ」
「外ですか?」
優李は那沙にいわれるまま窓の外を見た。そこで初めてここが二階にあたることを知る。周りに二階建ての建物はほとんどなく、木造の平屋が連なるように並んでいた。遠くには細い通りの両脇に長屋が並んでいる。京の都でも見ているかのような景色に優李は目を見開いた。眠りについた静かな町に、美しい月が浮かんでいる。
「綺麗な町……」
優李は思わず身を乗り出した。
「優李、死に急ぐことはない。黄泉へ行けばこちらへは帰ってはこられない。だが、こちらと人の世は行き来できる」
淡い色をしたふたつの瞳が優李を見つめてくる。ドクドクと体が脈を打つのを感じた。まだ自分は生きている。那沙は死へ逃げるなといっているのだろうか。
「おまえを拾ったのは俺に対する試練かもしれない」
那沙はひとり呟く。わずかに首をかしげると、銀色の髪がさらりと揺れる。
「優李、おまえは希沙良の子だろう?」
「え……」
那沙が母の名を口にしたので驚いた。那沙は優李をじっと見つめると、静かに息を吐く。
「俺は、希沙良の友人だった。希沙良が人の世で人間と結婚し、子を成したことも知っていた」
「それは、どういう……」
那沙はまるで母が人間ではないかのような言い方をする。
「そして、希沙良が死んだことも知っていた。優李、希沙良はひとではない。金華猫というあやかしの女だ」
「きんか、びょう……」
「猫のあやかしだ」
優李は驚きのあまり言葉を失った。調月にも幾人かもあやかしが住んではいるが、母があやかしだったなんて知らなかった。
「猫……では、猫の子という名は、あながち間違っていなかったんですね」
もしかしたら、母が猫であったことを知っている人がいたのかもしれない。優李は苦いものを吐き出すようにつぶやく。
「おまえはひととあやかしの間に生まれた半妖。この世界で半妖は生きづらい。人の世になじんだおまえならば、人の世で生きる方が幸せだろう」
「幸せ……ですか」
優李は苦い笑いを漏らした。あの生活は、幸せと呼べるのだろうか。一瞬でも、こちらの世界に逃げられるのではないかと思った自分は間違っていた。
自分の居場所はここではないのだ、やはりもとの世界に帰らなければいけない。体に鉛が付いたように重くなる。
「私、帰らないと。朝から仕事があるんです」
「仕事? おまえは見たところまだ子供のようだが……働いているのか。希沙良の嫁ぎ先は裕福だったと話に聞いたが……いや、なんでもない。忘れてくれ、父の代から深く関わることを避けていたからな、人間というものは俺にはよくわからん」
那沙がバツの悪そうな顔になったので優李は慌てて説明を加えた。
「私、両親とも亡くなっているので親戚の家に面倒を見てもらっているんです。居候の身なのできちんと仕事をしないと、ご迷惑をかけているので……」
「ならば、早朝に出れば問題ないだろう」
「朝の手伝いに間に合えば大丈夫ですが……」
「それなら問題ないな。俺がいれば道に迷うこともない、すぐに戻ることができる。今夜は泊めてやる、食事も提供する。ただし、宿代として明日の朝、少しだけ店の用意を手伝え。俺は下の自室にいるから何かあったら呼びに来い、おまえのことは日が昇れば起こしてやる。疲れているようだ、顔色が悪い、もう少し休め」
那沙の瞳に静かな怒りの色が浮かんでいるように見える。本当は優李を家に泊めたくなどないのかもしれない。
「でも、やはり泊めていただくわけにはいきません」
「遠慮をする必要はない」
「いえ……あの、朝の仕事がとても早くから始まるのです。日が昇る前に送っていただかなくてはならなくなりますから。あの、お手は煩わせません、私はひとりで帰れますから、これから戻ってもいいでしょうか」
日が昇る前には旅館に戻る必要がある。優李が必死に訴えると、那沙は少し間をおいてからわかった、と頷いた。
「降りて来い、すぐに食事の用意をする。腹がすいているだろう?」
「あ、あの、私大丈夫です。お腹は空いていませんから……」
夕食を抜くことは珍しくない。あの家ではろくに食事にありつけないのだから一食抜くくらいは慣れている。
「随分と痩せているな。少しは食べた方がいい、これから働くならなおさらだ。食事をとっていけ」
那沙はそういって優李の意見を受け入れず階段を降りていく。優李は空腹を感じてはいなかったが、那沙の好意に水を差すのもよくないだろうと従うことにした。
「あ、あの、ではなにかお手伝いをさせてください」
優李は慌てて那沙の後を追いかけた。二階にはいくつか部屋があったが一階は一室が広い。扉が付いているのが那沙の自室だろう。優李が借りていた部屋は畳だったが一階は板張りである。
台所は古い作りだが綺麗に整頓されていた。那沙は几帳面なあやかしなのだろう。自分を助けてくれたのにもうなずけた。倒れていた自分のことを、きっと放っておけなかったのだろう。
「おまえはゆっくりしていたらいい」
「なんだか、じっとしていられない性分なんです。手伝わせていただけると嬉しいのですが……」
食事ができるのをただただ待たせてもらう訳にはいかない。
「そうか、では好きなものを作ってくれ。といっても食材はこれしかないが」
那沙が取り出した食材はどれも新鮮で美味しそうだ。葉野菜はみずみずしく、つやがある。
「すごく美味しそうな野菜ですね!」
「そうか」
あやかしの世といっても野菜や米の類は優李の世界と同じようである。調理の仕方には悩まずに済みそうだ。
好きなものを作れといわれたところで食べたいものが特に思い浮かばない。味噌があることに気がつき、汁物を作ることにした。
「お味噌汁を作ってもいいですか?」
「その予定だった」
「よかった、任せてください。ご飯も炊きますね。あ、ですが、味見をお願いします」
おいてある包丁を手に取ってトントンと野菜を切って鍋に入れる、お米を研ぐと土鍋に入れての両方を火にかけようとしたが、火のつけ方がわからない。
「火は俺がつけよう」
那沙が片手をかざすと、鍋の下にゆらゆらとした炎が生まれた。優李が食い入るように那沙の手元を見つめていると、那沙が口を開く。
「妖術だ。あやかしの国では、みな当たり前のように使える」
「すごいです」
優李は目を輝かせた。那沙とならんで台所に立ち、穏やかに食事を作る。ただそれだけのことを優李は楽しいと感じた。家では常に小言や罵声が飛んでくる、心の休まる暇などないのだ。こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
一階にある居間は小上がりになっていて四畳ほどの畳の上に小さな丸いちゃぶ台が置いてある。那沙はその上に二人分の朝食を並べていった。野菜の汁物、白いご飯、――それからウサギの形に切ったリンゴも並べる。
「美味しそう。那沙様は料理が上手なのですね」
「一人暮らしだからそれなりにできる」
「私、台所にはいつも立っているので少しは料理が出来るのですが、味音痴で美味しいものは作れないのです。今日の料理がおいしいのは那沙さんのおかげですね」
優李が作ったものを、礼子も姫子も不味いといって食べない。自分では悪くないと思っても何度も何度も作り直させられるから、自分の舌がおかしいのだろうと優李は思っている。
「質素な食事で悪いな。伯爵家の食事がこれでがっかりしたか?」
「いいえ、とんでもない! 十分すぎるほど贅沢な食事です」
いつも冷えた食事を食べていたのだ。温かな食事にありつけるだけでありがたかった。那沙と向かい合って座り、いただきますと両手を合わせる。誰かとこうやって食事をするのはいつぶりだろう。
温かな気持ちがあふれて思わず視界がにじむ。那沙に気がつかれないよう慌てて碗を取り、味噌汁を飲む。
「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「食事が済んだら店を開ける準備を手伝え、その後おまえを帰してやろう」
食事を終えると、那沙は優李を自宅と繋がっている店の方に案内する。一階にある自宅の玄関とは反対方向に付けられた扉の向こうに店があるらしい。
「店の中に蝶がいるんですね、綺麗……」
優李は店に入るなり歓声のような声を上げた。見上げた天井には靄が漂い、一匹の蝶が靄の中をふよふよと宛てもなく飛んでいる。勘定台の奥に、天井まで届くほど高くまで備え付けられた棚には、びっしりと瓶が並び、その中に色とりどりの丸い物が収められていた。香ってくる甘い香りから、飴玉なのだろうと優李は推測する。
だが、どれもこれもおかしい。優李が知っている飴玉とは様子が違う。飴玉の中には、きらきらと砂のようなものが漂っていたり、水のようなものが入っていたり、花の入っているものや、美味しそうな食べ物が浮かんでいるものもある。中には翼の生えた馬が飛び回っている物まであった。どの飴も宝石のように美しい。置かれた調度品の品の良さや手入れの行き届いた店内はまるで宝石商のような雰囲気だった。
「これが売り物ですか? 飴というよりも宝石みたいです……」
目を輝かせる優李に、獏は口の端を持ち上げて笑う。
「俺は夢売り、これは夢玉という。中に入っているのは夢だ。夢玉は人間の夢を飴にしたものなんだ」
「人間の……? 那沙様はどうしてそんなものを売っているんですか? 伯爵様がお店を構えていらっしゃるなんて……そもそも夢を形にできるのですか?」
「那沙でいい。あやかしというものは夢を見ることがない。だが、夢の世界でしか得られないものもある。現とは異なる世界を見るために、あやかしたちはここで一夜の夢を買う。娯楽の一つだ。俺は獏、夢を取り出すことができるあやかし。古くから夢を飴の中に込めて売っている」
那沙の説明を優李は真剣に聞いていた。世の中には知らないことがまだまだたくさんあるものだと目を輝かせる。
「俺は表を片付けてくる。おまえはあそこに置いてある箒で床を掃いてくれ」
いわれてうなずくと、優李は勘定台の内側にある箒を取り出して床を掃き始めた。掃除機の類はない。そういえば、電気を使うようなものが店の中には一切ない。家の方にも見当たらなかった。
掃きはじめた板の床は、濡れてもいないのに湿ったような色をしており、箒でなでるとぼうっと白い光を放った。掃除をしろといったわりには、まったく汚れているように見えない、埃一つない清潔な床だ。そういえば、と、優李は天井を見上げる。ふよふよと漂う靄の中で、蝶が一羽遊ぶように飛んでいる。
その上はぼんやりと明りが灯っているように見えるが、どうやら普通の炎ではない。光そのものがまるで生きているように見えた。ゆらゆらと燃える炎のように淡い光が動いて見える。
店内を一通り掃き終わると、今度は棚に目をやった。色ごとに分けられて瓶に詰められているが、ひとつひとつ色が異なる。ふたつとして同じものはないように思えた。どの瓶の飴玉も本当に綺麗だ。これが人間の夢などとは、俄かには信じられない。
「よし、これでいい。おまえを送っていこう。どうした、夢玉が気に入ったのか?」
「あ、はい。すごく綺麗だなと思いました」
「すべての夢が綺麗なわけではない。綺麗な夢をよって集めているのだ。濁ったものは売り物にはならない」
「そうなんですね、夢が宝石みたいになるなんてすごいです。素敵なお仕事ですね」
「どうだろうな、考えたこともない」
優李は他にも気になっていたことを尋ねてみた。あの揺らめく光のことだ。
「あ、あの、あの炎はどうなっているのですか? 燃えるような蝋燭もありませんし、ガスでも燃やしているのでしょうか?」
「人間というものは、その寿命の短さのせいだろうか、短い時間で様々な技術を生み出した。一方、あやかしの国では妖力と精霊の力で成り立っている。あの天井で輝いている灯りも、精霊の力によるものだ」
「精霊……」
優李はもう一度天井を見つめる。なんて、優しく、美しい明りだろうか――
「那沙も精霊の力を使うことができるんですね」
「もちろんだ。あやかしたちは精霊について学び、経験を積むことで使えるようになる。だが、扱える力の幅は大きく異なる。俺は精々五大精霊の下位精霊と契約ができる程度だ」
「十分すごいと思うのですが……」
「確かに生活には困らない。火や水、灯り……その程度で十分だ」
「その、私もきちんと訓練すれば使えるようになるのでしょうか?」
優李は微かな望みを抱き、恐る恐る尋ねてみる。もしも精霊の力を使えるようになれば、優李にもできることが増えるかもしれない。
礼子たちにも、母の不義を疑われなくなるかもしれないと、希望が生まれる。
その問いかけに那沙は首を縦に振った。
「もちろん、使える。だが、人の世で使うことはできない。あちらは精霊との繋がりがとても弱くなってしまった。俺も向こうでは精霊の力を使うことはできない」
人の世で精霊を頼ることができないとわかり、優李は落胆した。
「あやかしの国には、私の町とは色々な違いがあることが少しわかりました」
「似ていることもあれば、違うこともある。さぁ、おまえをもとの世界に帰そう」
「よろしくお願いします」
那沙の店がある高級住宅地――通称暁通りから碁盤の目の道を歩くと、賑やかな大通りに出た。商店の立ち並ぶ中央寄りの大きな通りは買い物客で賑わっている。那沙は人混みを避け、商店街を迂回すると、落ち着きのある閑静な住宅街の通りを通抜けていった。
優李はあたりをキョロキョロとしながらも、はぐれないよう那沙のあとについていく。立ち並ぶ家々は、どれも立派な瓦屋根を持つ屋敷造りの平屋で、しっかりとした塀に囲まれた豪邸ばかりだ。
「なんだかどの家も立派ですね。あやかしというのは皆さん裕福なものなのでしょうか?」
建ち並ぶ家がすべて屋敷造りともなれば、あやかしの国は余程豊かなのだろうと優李は思った。だが、そんな優李の考えを那沙は一蹴する。
「そうではない。このあたりは比較的高級な住宅街だ。西都の南に位置する朱雀南区の一部には大きな貧困街もある。治安が悪いので警備にあたる朱雀たちも手を焼いている」
「すざくなんく?」
「このあやかしの世界には、いくつかの国がある。ここはその中の一つ、黄泉平坂という国の西都という都だ。朱雀南区というのは、この西都の南側にある区域の名前だ。西都はおまえたちの知る京の町のように碁盤目に作られている。東西南北、大きく四つの区域に分けられ、それぞれ四神にまつわる一族が治め、警備に当たっているのだ。俺の店があるのは西都の西側、白虎西区。ここら一帯も同じだ。これから向かうのは西の端に位置する保守の森。白虎一族が管理している」
流れるように説明してくれる那沙の話しは、優李にとってどれも初めて聞くことばかりだ。聞いているだけで楽しい気持ちになってくる。沈んでいた気持ちがわずかに持ち上がってきた。
白虎西区を通り抜けると、西都の町の端が見えてきた。京の都に似ているというこの町を抜けると、今度は開けた場所に出る。優李はその景色を眺めて、なんだか牧草地の景色に似ているな、などと思った。
西都の町は優李の住む人の町に似た街並みだったが、この野原はなんだか幼いころに見た西洋の絵画のように見える。風に揺れる草木がさわさわと音を立てている。
草原の向こうに見える巨大な森が保守の森なのだろう。すぐそばに朱塗の鳥居が見えた。
「よう那沙の旦那、おや、お嬢さんは目が覚めたのかい?」
鳥居の前に白髪の男が立っている。口元から立派な二本の牙が生えていた。なんのあやかしだろうかと優李が首をかしげていると、それに気が付いた那沙が「白虎だ」と教えてくれる。那沙と顔見知りのようだ、どうやら自分のことも知っているらしい。
「今からむこうの世界に帰してくる」
「ふうん、帰しちまっていいのかい? そんな別嬪、もったいないなぁ。せっかく連れてきたのに。まぁ、旦那はむこう育ちはこりごりだよなぁ」
「優李には優李の生活がある。だから帰すのだ、他意はない」
「ふうん、なんなら俺が嫁にもらってやるのに。お嬢さん、優李っていうのかい? 俺は白虎の神楽。ここで門番なんてしけた仕事をやってるんだ。しけちゃいるが、お役所仕事だから安泰さ。また会う機会があったらよろしくなぁ」
「はい、よろしくお願いします」
優李がぺこりと頭を下げると、神楽は人懐っこい笑顔を見せた。怖そうな顔をしているが優しいあやかしなのだろうと優李は思う。人の世では誰かに好意的に話しかけられることがほとんどないので、神楽の態度に戸惑ってしまった。
「行くぞ優李」
「はい」
森の中は靄がかかっていて辺りの景色が全く分からなかった。右も左もわからなくなる。だが、那沙は迷うことなく進んでいく。優李がはぐれないよう那沙はゆっくりと歩いてくれているようだ。那沙の後についていくと、辺りはあっという間に見慣れた竜王山の景色にかわる。
「ここまで来ればもう大丈夫です。那沙様、本当にありがとうございました。なんとお礼をいったらいいか」
「那沙でいい」
「伯爵様を呼び捨てにするわけにはいきません」
「様などとつけられると俺が落ち着かないのだ。それに、礼などいらない。大したことはしていない。さぁ、行け、急いでいるのだろう?」
優李は後ろ髪をひかれる思いに必死に抵抗してうなずく。
「はい、な……那沙、ありがとうございました」
「優李、おまえの作る朝餉は美味かった」
「え?」
「なんでもない」
那沙の言葉に優李は少しだけ笑顔になる。それから大きく手を振って駆けだした。あまり立ち止まっているときっと離れがたくなってしまう。誰かに親切にされたのは久しぶりだった。会ったばかりの那沙と過ごしたわずかな時間が優李の中で光を放っている。両親と過ごしたころのような、懐かしい光だ。
「さようなら」
「あぁ、気を付けて帰れ」
那沙の姿はあっという間に見えなくなってしまった。家に帰りたくない。だけど、自分の家はあそこしかないのだ、帰るしかない。重い足取りで宿舎に帰ると、急いで着替えて仕事に向かった。
「おはようございます」
那沙のおかげで仕事の時間には間に合った。だが、優李の姿を見つけた礼子は眉を吊り上げる。珍しく礼子が早くから旅館の方に来ているので驚いた。いつもはお客さんの帰る時間にならないと姿を見せないというのに。
「優李! 夜中にいったいどこに行っていたんだい!」
「それは……」
「夜中に目を覚ました媛子がおまえが出ていく姿を見たっていうんだよ。媛子が心配だっていうから部屋をのぞいてみたらもぬけの殻だ。夜中に部屋から出ることなんか許した覚えはないからね!」
「すみません……」
「逃げ出そうとでも思ったんだろうけれど、おまえを泊めてくれる家なんかどこにもありゃしないよ。泥棒猫の子供なんかおっかない。何を盗まれるかわかったもんじゃないからね。まったく、あの母親にしてこの子ありだ。本当は遼一さんの子供じゃないんだろう、あの女、遼一さんの子供を身籠ったって嘘をついたのさ。おまえに遼一さんの力が受け継がれていないのが何よりの証拠だろう!」
優李はぐっと奥歯をかみしめる。自分のことはいわれなれている。だが母親のことを悪くいわれるのはいつまで経っても慣れない。
「私は父の子です」
「生意気に口答えするっていうのかい! どこの馬の骨とも知れない女の子であるおまえをこの家においてやってるだけでも恵まれてるっていうのにおまえは!」
礼子は優李のほほを叩き怒鳴りつけた。
「今日の風呂掃除はひとりでやりな! 朝の七時までに全部終わらせるんだよ、それから部屋の掃除にうつりな、いいね!」
「はい」
「わかったらさっさと行きな! 一秒でも遅れたら昼食はなしだ!」
優李が急いで大浴場に向かうと女湯から媛子が顔を出した。
「あら、これからお掃除? 私、これから使おうと思っていたの。男湯の方からやってちょうだい」
「わかりました」
男湯の方から掃除を始めるが、ひとりでやるにはあまりに広すぎる。ひとつひとつお湯を抜いてどうにか掃除し終えるともう一度女湯を覗いた。まだ媛子が入っている。仕方なく声をかけることにした。
「媛子さん、そろそろお掃除を始めてもいいでしょうか?」
「あら、そんなに急がなくてもいいでしょう?」
「七時までに終えなければいけないんです」
「そう、仕方がないわね。少し遅れたって大丈夫よ、お母さんには私がお風呂を使ってたって話してあげるから」
媛子が出ていくと急いで掃除を始める。手際よく終え、無事に七時までに掃除が終わると優李はほっと胸をなでおろす。続いて部屋の清掃をしていると、礼子が大きな声で優李を呼んだ。
「優李! 男湯のお湯が全然入ってないじゃないか!」
「そんなはずはありません、ちゃんと栓をして入れました」
「また口答えするつもりかい、そういうなら見ておいで! 湯なんか一滴もありゃしないよ。もう一度ちゃんと湯を張って、お客さんにはしばらくは入れないと謝るんだよ、全部おまえ一人で! 栓をし忘れたっていうんならその分の水代も支払ってもらうからね!」
礼子の指示にうなずきつつ、やはりおかしいと首をかしげる。
「お母さん、そんなに優李ちゃんを怒らないで上げて。慌てていたのよ」
「だからって栓をし忘れるなんて間抜けにもほどがあるだろう、本当に使えない娘だ」
「お母さん、優李ちゃんだって一生懸命なのよ。少しドジなだけで」
実際に男湯に行ってみると、入れていたはずの湯は一つも入っていない。栓が綺麗にはずれている。
「どうして、ちゃんと栓をしてから入れたはずなのに」
慌てて湯を張る用意をしてから、受付に立ち宿泊客一組一組に丁寧に説明し、謝っていく。目の端で媛子がにやにやと楽しそうに笑っているのが見えた。
まさか。
いや、証拠など何もない。仮に媛子の仕業であったとして、媛子を糾弾できるわけもない。優李は小さくため息を吐くときっと口を引き結ぶ。心は平静に保たなければいけない、泣いてはダメだ、泣けば媛子の思うつぼだ。
媛子は他の従業員には愛想がいいだけに余計に始末が悪かった。みんな温和で優しい媛子が陰で優李をいじめているなどと考えもしない。媛子は表むき優李の擁護をしてくるのだからなおさら質が悪い。
女学校が長期休暇に入り、また朝から晩まで媛子のおもちゃにされなければいけないと思うと気が重かった。例年通り、媛子は優李の仕事の邪魔をしては礼子に叱られる姿を楽しそうに眺めるつもりだったのだろう。
辛くはない、泣いたりしない。何も感じないほうが生きていくのは楽だ。優李はその日も夜通し働くことになった。
「優李ちゃん、ちょっと探し物を手伝ってほしいのだけれど」
八月も半ばに差し掛かり、お盆の忙しさが過ぎたある日のこと、媛子は優李を呼び止めた。礼子に仕事をいいつけられたところである、本当ならば媛子の話など聞いている場合ではないが無視するわけにはいかない。
「何をお探しですか?」
「あのね、母屋の奥に蔵があるでしょう? あの中からお茶碗を取ってきてほしいの」
「蔵……ですか?」
「ええ、今度のお茶会でどうしても使いたいものがあって、探してきてほしいの。本当は自分で行かなくちゃいけないんだけど、これからお琴のお稽古があって探しに行く時間がないの」
媛子の言葉に優李はうなずくしかなかった。内心行きたくない、蔵には子供のころに何度も閉じ込められたことがあって苦手なのだ。
「ごめんね優李ちゃん、じゃあ私は行くから、あとはよろしくね」
ひらひらと手を振って笑顔で去っていく媛子の背から視線を外して、優李は蔵へと向かう。宿の敷地内にある本家の母屋の奥には立派な蔵があった。両親とここに来た時に閉じ込められたことがある。思い起こせばあれも媛子が関わっていたのかもしれない。昼間でも真っ暗な蔵の中で誰にも気がつかれず、泣きつかれて眠っていると母が見つけ出してくれた。母は優李を見つける名人だった。隠れんぼをしてもすぐに見つけられてしまう。あれも母があやかしであることが関係しているのだろうか。
「どこだろう、急いで見つけなきゃ」
ランタンを持って広い蔵の中を探していると、バタンと扉が閉まる音がした。
「閉まった? どうして!」
慌てて入口に戻ると扉がピタリと閉まっている。おかしい、ちゃんと閉まらないよう、錘で扉を開けていたはずなのに。しかも外から閂をかけられたようだ、厚い鉄製の扉はびくともしない。悪いことは重なるものだ、その上ランタンの油も切れ、辺りは真っ暗になる。恐怖が膨れ上がった。
「誰かいませんか! 開けてください!」
「優李ちゃん」
扉の向こうから、媛子の声がした。
「開けてください媛子さん……」
「嫌よ。大丈夫、あなた一人いなくったって旅館はちゃんと回るわよ。なんの役にも立たない厄介者の分際で、役に立ってると思わないでちょうだい。お父さんやお母さんだって、優李ちゃんが可哀想だから仕方なく置いてあげているんだから」
媛子の言葉に優李はいい返す言葉を持たなかった。
「じゃあ、少しそこで反省していてね優李ちゃん」
「待って! 待ってください、ここを開けて……!」
「優李ちゃん、あなたなんかいなくなったって誰も気にかけないの。そのことをよくわからせてあげる」
くそういって媛子はくすくすと笑った。
「お願いです、開けてください!」
媛子の気配が遠のく。声を出したところで誰もいないことは子供のころに実証済みだ。蔵がある場所にはめったに人など来はしない。
「どうしよう……」
奇跡的にここを誰かが通りかかるのを待つしかない。優李はこぼれそうになる涙をぐっと飲みこんだ。蔵の中は暑くて湿度が高くじめじめとしている。居心地が悪い。
「泣いたらダメ、絶対に泣かない」
広い蔵の中に優李のかすかなつぶやきが響いた。自分の声があまりに弱弱しくて余計に悲しくなってくる。広く暗い蔵の中は優李をひどく不安にさせた。
「那沙……」
あれから考えないように努めていた名前を思わず口にする。誰かに頼れると思わない方がいい、それはひとりこの町で暮らしていくうちに優李が学んだ処世術だった。頼って裏切られたことは数知れない。みんな、優李が父を奪い取った母の子であることを知れば手のひらを返したように冷たくなった。
那沙を呼ぶ声が闇に溶ける。余計に物悲しくなり、優李はついに一筋の涙を流した。
「目が覚めたのか」
心地よい低音が鼓膜を振るわせる。西向きの格子窓から月の光が差し込んでいる。今夜は満月らしい。窓の外では煌々と月が輝いている。
「ここは……」
そう呟いてよくやく焦点が定まった目をきょろりと一周させると端正な男の顔が視界に入る。思わず「きゃぁ!」と悲鳴のような声をあげた。
「安心しろ、取って食ったりはしない」
優李の怯えが伝わったようで男は呆れた様子で声をかけてきた。いつもの狭い自室ではない。横になっている布団も厚みのある上質なものだ。確か猫を追いかけて山の中にはいったはず。ここにいるのはどういうことだろう不思議に思いつつ、少し冷静さを取り戻した優李は男に話しかけた。
「あの、叫んだりしてごめんなさい。ここは、どこですか? 私、竜王山に入ったんです。それから何があったのか覚えていなくて……もしかして、夢でも見ていたのでしょうか」
月明かりに照らされた男の顔は息をのむほどに美しい。輝く銀髪の下で、冬空のような淡い水色の瞳が優李をとらえている。灰白色の着物がよく似合っていると優李は思った。直視すると思わず顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしくなってわずかに視線を外した。不思議と恐ろしさは感じなかったが、なんとなく目の前の男は不機嫌そうに見える。
「夢ではない、おまえは森の中で倒れていた。俺が見つけて仕方なく連れ帰ったが……安心しろ、なにもしない」
「あ、あの、助けてくださってありがとうございました。私、時任優李といいます。あなたは……」
優李はそう尋ねてから小さく息を飲んだ。落とした視線の先にあった男の手は、その白皙な顔とは異なり闇のように真っ黒だった。優李の視線に気が付いたのか、男はその黒い手を差し出してみる。男は優李の名を聞いて切れ長の目をわずかに見開いたように見えた。
「俺は獏というあやかし、名を那沙という」
「あやかし……様。も、もしかして、調月様ですか!」
「人の世ではそう呼ばれているな」
「ご、ご無礼をお許しください!」
慌てて姿勢を正し、三つ指をつく。調月といえば、優李の住む町を治める伯爵ではないか。
姿を見せることのない伯爵がこんなに若い男だとは思っていなかった。
「身分にこだわりはない。それにおまえは、俺に礼儀を払わずともよい。顔を上げろ」
いわれて遠慮がちに面を上げた優李は男の姿を確認する。月明かりを反射して美しく輝く銀色の髪に、白縹の瞳。透き通るような白い肌に黒い両腕。自分とは異なる男の姿を優李は美しいと思った。
「あまり驚かないのだな」
「え……」
「異形に見えるだろう」
「異形……あなたがですか」
優李は那沙という男の姿をもう一度検める。男の顔はやはり見惚れるほどに美しい。
「えぇと、失礼にならないといいのですか……その、とても美しいと思います」
そう答えると男は一瞬面食らったような顔になる。男の人なのに美しいといわれるのは嫌だったかもしれない。いわなければよかった。恩人の男が気を悪くしたら申し訳ないと思い、もう一度その顔を見ると、男には少しも気にした様子はなかった。
「ここはおまえの住んでいた場所とは違う、狭間の地、黄泉平坂。あやかしの国だ」
「私は、死んだということでしょうか……」
調月の町は神の国とひとの世の狭間にある。あやかしの国へ行って帰ってきたというのはおとぎ話の中でよく語られていたが、実際にはあまり聞いたことがない。
「そうではない。おまえは迷い込んだだけだ、ちゃんと戻ることができる」
「そう、ですか」
黄泉平坂といえば、子供のころ絵本で読んだことがある。あの世とこの世の狭間、黄泉へと続く場所だ。自分は死んだのかと思えばそうではないらしい。優李の心境は複雑だった。戻れるといわれてもあまり嬉しいとは思えない。死んだのだといわれれば、その方が気が楽だった。黄泉に行った両親に会えるかもしれないという希望も出てくる。
「ここは黄泉につながっているのですか?」
「黄泉へつながってはいる。だが、一度向こうへ行けばこちらへ戻ってくることはできない」
「本当ですか」
希望が見えてくる。ここから、死の国へ行けるのだ。辛い日々を投げ出して、両親のもとへ行けるかもしれない。優李がそんなことを考えていると、那沙が声をかけてきた。白縹の瞳が月のように澄んだ光を宿している。
「優李、窓の外を見ろ」
「外ですか?」
優李は那沙にいわれるまま窓の外を見た。そこで初めてここが二階にあたることを知る。周りに二階建ての建物はほとんどなく、木造の平屋が連なるように並んでいた。遠くには細い通りの両脇に長屋が並んでいる。京の都でも見ているかのような景色に優李は目を見開いた。眠りについた静かな町に、美しい月が浮かんでいる。
「綺麗な町……」
優李は思わず身を乗り出した。
「優李、死に急ぐことはない。黄泉へ行けばこちらへは帰ってはこられない。だが、こちらと人の世は行き来できる」
淡い色をしたふたつの瞳が優李を見つめてくる。ドクドクと体が脈を打つのを感じた。まだ自分は生きている。那沙は死へ逃げるなといっているのだろうか。
「おまえを拾ったのは俺に対する試練かもしれない」
那沙はひとり呟く。わずかに首をかしげると、銀色の髪がさらりと揺れる。
「優李、おまえは希沙良の子だろう?」
「え……」
那沙が母の名を口にしたので驚いた。那沙は優李をじっと見つめると、静かに息を吐く。
「俺は、希沙良の友人だった。希沙良が人の世で人間と結婚し、子を成したことも知っていた」
「それは、どういう……」
那沙はまるで母が人間ではないかのような言い方をする。
「そして、希沙良が死んだことも知っていた。優李、希沙良はひとではない。金華猫というあやかしの女だ」
「きんか、びょう……」
「猫のあやかしだ」
優李は驚きのあまり言葉を失った。調月にも幾人かもあやかしが住んではいるが、母があやかしだったなんて知らなかった。
「猫……では、猫の子という名は、あながち間違っていなかったんですね」
もしかしたら、母が猫であったことを知っている人がいたのかもしれない。優李は苦いものを吐き出すようにつぶやく。
「おまえはひととあやかしの間に生まれた半妖。この世界で半妖は生きづらい。人の世になじんだおまえならば、人の世で生きる方が幸せだろう」
「幸せ……ですか」
優李は苦い笑いを漏らした。あの生活は、幸せと呼べるのだろうか。一瞬でも、こちらの世界に逃げられるのではないかと思った自分は間違っていた。
自分の居場所はここではないのだ、やはりもとの世界に帰らなければいけない。体に鉛が付いたように重くなる。
「私、帰らないと。朝から仕事があるんです」
「仕事? おまえは見たところまだ子供のようだが……働いているのか。希沙良の嫁ぎ先は裕福だったと話に聞いたが……いや、なんでもない。忘れてくれ、父の代から深く関わることを避けていたからな、人間というものは俺にはよくわからん」
那沙がバツの悪そうな顔になったので優李は慌てて説明を加えた。
「私、両親とも亡くなっているので親戚の家に面倒を見てもらっているんです。居候の身なのできちんと仕事をしないと、ご迷惑をかけているので……」
「ならば、早朝に出れば問題ないだろう」
「朝の手伝いに間に合えば大丈夫ですが……」
「それなら問題ないな。俺がいれば道に迷うこともない、すぐに戻ることができる。今夜は泊めてやる、食事も提供する。ただし、宿代として明日の朝、少しだけ店の用意を手伝え。俺は下の自室にいるから何かあったら呼びに来い、おまえのことは日が昇れば起こしてやる。疲れているようだ、顔色が悪い、もう少し休め」
那沙の瞳に静かな怒りの色が浮かんでいるように見える。本当は優李を家に泊めたくなどないのかもしれない。
「でも、やはり泊めていただくわけにはいきません」
「遠慮をする必要はない」
「いえ……あの、朝の仕事がとても早くから始まるのです。日が昇る前に送っていただかなくてはならなくなりますから。あの、お手は煩わせません、私はひとりで帰れますから、これから戻ってもいいでしょうか」
日が昇る前には旅館に戻る必要がある。優李が必死に訴えると、那沙は少し間をおいてからわかった、と頷いた。
「降りて来い、すぐに食事の用意をする。腹がすいているだろう?」
「あ、あの、私大丈夫です。お腹は空いていませんから……」
夕食を抜くことは珍しくない。あの家ではろくに食事にありつけないのだから一食抜くくらいは慣れている。
「随分と痩せているな。少しは食べた方がいい、これから働くならなおさらだ。食事をとっていけ」
那沙はそういって優李の意見を受け入れず階段を降りていく。優李は空腹を感じてはいなかったが、那沙の好意に水を差すのもよくないだろうと従うことにした。
「あ、あの、ではなにかお手伝いをさせてください」
優李は慌てて那沙の後を追いかけた。二階にはいくつか部屋があったが一階は一室が広い。扉が付いているのが那沙の自室だろう。優李が借りていた部屋は畳だったが一階は板張りである。
台所は古い作りだが綺麗に整頓されていた。那沙は几帳面なあやかしなのだろう。自分を助けてくれたのにもうなずけた。倒れていた自分のことを、きっと放っておけなかったのだろう。
「おまえはゆっくりしていたらいい」
「なんだか、じっとしていられない性分なんです。手伝わせていただけると嬉しいのですが……」
食事ができるのをただただ待たせてもらう訳にはいかない。
「そうか、では好きなものを作ってくれ。といっても食材はこれしかないが」
那沙が取り出した食材はどれも新鮮で美味しそうだ。葉野菜はみずみずしく、つやがある。
「すごく美味しそうな野菜ですね!」
「そうか」
あやかしの世といっても野菜や米の類は優李の世界と同じようである。調理の仕方には悩まずに済みそうだ。
好きなものを作れといわれたところで食べたいものが特に思い浮かばない。味噌があることに気がつき、汁物を作ることにした。
「お味噌汁を作ってもいいですか?」
「その予定だった」
「よかった、任せてください。ご飯も炊きますね。あ、ですが、味見をお願いします」
おいてある包丁を手に取ってトントンと野菜を切って鍋に入れる、お米を研ぐと土鍋に入れての両方を火にかけようとしたが、火のつけ方がわからない。
「火は俺がつけよう」
那沙が片手をかざすと、鍋の下にゆらゆらとした炎が生まれた。優李が食い入るように那沙の手元を見つめていると、那沙が口を開く。
「妖術だ。あやかしの国では、みな当たり前のように使える」
「すごいです」
優李は目を輝かせた。那沙とならんで台所に立ち、穏やかに食事を作る。ただそれだけのことを優李は楽しいと感じた。家では常に小言や罵声が飛んでくる、心の休まる暇などないのだ。こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
一階にある居間は小上がりになっていて四畳ほどの畳の上に小さな丸いちゃぶ台が置いてある。那沙はその上に二人分の朝食を並べていった。野菜の汁物、白いご飯、――それからウサギの形に切ったリンゴも並べる。
「美味しそう。那沙様は料理が上手なのですね」
「一人暮らしだからそれなりにできる」
「私、台所にはいつも立っているので少しは料理が出来るのですが、味音痴で美味しいものは作れないのです。今日の料理がおいしいのは那沙さんのおかげですね」
優李が作ったものを、礼子も姫子も不味いといって食べない。自分では悪くないと思っても何度も何度も作り直させられるから、自分の舌がおかしいのだろうと優李は思っている。
「質素な食事で悪いな。伯爵家の食事がこれでがっかりしたか?」
「いいえ、とんでもない! 十分すぎるほど贅沢な食事です」
いつも冷えた食事を食べていたのだ。温かな食事にありつけるだけでありがたかった。那沙と向かい合って座り、いただきますと両手を合わせる。誰かとこうやって食事をするのはいつぶりだろう。
温かな気持ちがあふれて思わず視界がにじむ。那沙に気がつかれないよう慌てて碗を取り、味噌汁を飲む。
「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「食事が済んだら店を開ける準備を手伝え、その後おまえを帰してやろう」
食事を終えると、那沙は優李を自宅と繋がっている店の方に案内する。一階にある自宅の玄関とは反対方向に付けられた扉の向こうに店があるらしい。
「店の中に蝶がいるんですね、綺麗……」
優李は店に入るなり歓声のような声を上げた。見上げた天井には靄が漂い、一匹の蝶が靄の中をふよふよと宛てもなく飛んでいる。勘定台の奥に、天井まで届くほど高くまで備え付けられた棚には、びっしりと瓶が並び、その中に色とりどりの丸い物が収められていた。香ってくる甘い香りから、飴玉なのだろうと優李は推測する。
だが、どれもこれもおかしい。優李が知っている飴玉とは様子が違う。飴玉の中には、きらきらと砂のようなものが漂っていたり、水のようなものが入っていたり、花の入っているものや、美味しそうな食べ物が浮かんでいるものもある。中には翼の生えた馬が飛び回っている物まであった。どの飴も宝石のように美しい。置かれた調度品の品の良さや手入れの行き届いた店内はまるで宝石商のような雰囲気だった。
「これが売り物ですか? 飴というよりも宝石みたいです……」
目を輝かせる優李に、獏は口の端を持ち上げて笑う。
「俺は夢売り、これは夢玉という。中に入っているのは夢だ。夢玉は人間の夢を飴にしたものなんだ」
「人間の……? 那沙様はどうしてそんなものを売っているんですか? 伯爵様がお店を構えていらっしゃるなんて……そもそも夢を形にできるのですか?」
「那沙でいい。あやかしというものは夢を見ることがない。だが、夢の世界でしか得られないものもある。現とは異なる世界を見るために、あやかしたちはここで一夜の夢を買う。娯楽の一つだ。俺は獏、夢を取り出すことができるあやかし。古くから夢を飴の中に込めて売っている」
那沙の説明を優李は真剣に聞いていた。世の中には知らないことがまだまだたくさんあるものだと目を輝かせる。
「俺は表を片付けてくる。おまえはあそこに置いてある箒で床を掃いてくれ」
いわれてうなずくと、優李は勘定台の内側にある箒を取り出して床を掃き始めた。掃除機の類はない。そういえば、電気を使うようなものが店の中には一切ない。家の方にも見当たらなかった。
掃きはじめた板の床は、濡れてもいないのに湿ったような色をしており、箒でなでるとぼうっと白い光を放った。掃除をしろといったわりには、まったく汚れているように見えない、埃一つない清潔な床だ。そういえば、と、優李は天井を見上げる。ふよふよと漂う靄の中で、蝶が一羽遊ぶように飛んでいる。
その上はぼんやりと明りが灯っているように見えるが、どうやら普通の炎ではない。光そのものがまるで生きているように見えた。ゆらゆらと燃える炎のように淡い光が動いて見える。
店内を一通り掃き終わると、今度は棚に目をやった。色ごとに分けられて瓶に詰められているが、ひとつひとつ色が異なる。ふたつとして同じものはないように思えた。どの瓶の飴玉も本当に綺麗だ。これが人間の夢などとは、俄かには信じられない。
「よし、これでいい。おまえを送っていこう。どうした、夢玉が気に入ったのか?」
「あ、はい。すごく綺麗だなと思いました」
「すべての夢が綺麗なわけではない。綺麗な夢をよって集めているのだ。濁ったものは売り物にはならない」
「そうなんですね、夢が宝石みたいになるなんてすごいです。素敵なお仕事ですね」
「どうだろうな、考えたこともない」
優李は他にも気になっていたことを尋ねてみた。あの揺らめく光のことだ。
「あ、あの、あの炎はどうなっているのですか? 燃えるような蝋燭もありませんし、ガスでも燃やしているのでしょうか?」
「人間というものは、その寿命の短さのせいだろうか、短い時間で様々な技術を生み出した。一方、あやかしの国では妖力と精霊の力で成り立っている。あの天井で輝いている灯りも、精霊の力によるものだ」
「精霊……」
優李はもう一度天井を見つめる。なんて、優しく、美しい明りだろうか――
「那沙も精霊の力を使うことができるんですね」
「もちろんだ。あやかしたちは精霊について学び、経験を積むことで使えるようになる。だが、扱える力の幅は大きく異なる。俺は精々五大精霊の下位精霊と契約ができる程度だ」
「十分すごいと思うのですが……」
「確かに生活には困らない。火や水、灯り……その程度で十分だ」
「その、私もきちんと訓練すれば使えるようになるのでしょうか?」
優李は微かな望みを抱き、恐る恐る尋ねてみる。もしも精霊の力を使えるようになれば、優李にもできることが増えるかもしれない。
礼子たちにも、母の不義を疑われなくなるかもしれないと、希望が生まれる。
その問いかけに那沙は首を縦に振った。
「もちろん、使える。だが、人の世で使うことはできない。あちらは精霊との繋がりがとても弱くなってしまった。俺も向こうでは精霊の力を使うことはできない」
人の世で精霊を頼ることができないとわかり、優李は落胆した。
「あやかしの国には、私の町とは色々な違いがあることが少しわかりました」
「似ていることもあれば、違うこともある。さぁ、おまえをもとの世界に帰そう」
「よろしくお願いします」
那沙の店がある高級住宅地――通称暁通りから碁盤の目の道を歩くと、賑やかな大通りに出た。商店の立ち並ぶ中央寄りの大きな通りは買い物客で賑わっている。那沙は人混みを避け、商店街を迂回すると、落ち着きのある閑静な住宅街の通りを通抜けていった。
優李はあたりをキョロキョロとしながらも、はぐれないよう那沙のあとについていく。立ち並ぶ家々は、どれも立派な瓦屋根を持つ屋敷造りの平屋で、しっかりとした塀に囲まれた豪邸ばかりだ。
「なんだかどの家も立派ですね。あやかしというのは皆さん裕福なものなのでしょうか?」
建ち並ぶ家がすべて屋敷造りともなれば、あやかしの国は余程豊かなのだろうと優李は思った。だが、そんな優李の考えを那沙は一蹴する。
「そうではない。このあたりは比較的高級な住宅街だ。西都の南に位置する朱雀南区の一部には大きな貧困街もある。治安が悪いので警備にあたる朱雀たちも手を焼いている」
「すざくなんく?」
「このあやかしの世界には、いくつかの国がある。ここはその中の一つ、黄泉平坂という国の西都という都だ。朱雀南区というのは、この西都の南側にある区域の名前だ。西都はおまえたちの知る京の町のように碁盤目に作られている。東西南北、大きく四つの区域に分けられ、それぞれ四神にまつわる一族が治め、警備に当たっているのだ。俺の店があるのは西都の西側、白虎西区。ここら一帯も同じだ。これから向かうのは西の端に位置する保守の森。白虎一族が管理している」
流れるように説明してくれる那沙の話しは、優李にとってどれも初めて聞くことばかりだ。聞いているだけで楽しい気持ちになってくる。沈んでいた気持ちがわずかに持ち上がってきた。
白虎西区を通り抜けると、西都の町の端が見えてきた。京の都に似ているというこの町を抜けると、今度は開けた場所に出る。優李はその景色を眺めて、なんだか牧草地の景色に似ているな、などと思った。
西都の町は優李の住む人の町に似た街並みだったが、この野原はなんだか幼いころに見た西洋の絵画のように見える。風に揺れる草木がさわさわと音を立てている。
草原の向こうに見える巨大な森が保守の森なのだろう。すぐそばに朱塗の鳥居が見えた。
「よう那沙の旦那、おや、お嬢さんは目が覚めたのかい?」
鳥居の前に白髪の男が立っている。口元から立派な二本の牙が生えていた。なんのあやかしだろうかと優李が首をかしげていると、それに気が付いた那沙が「白虎だ」と教えてくれる。那沙と顔見知りのようだ、どうやら自分のことも知っているらしい。
「今からむこうの世界に帰してくる」
「ふうん、帰しちまっていいのかい? そんな別嬪、もったいないなぁ。せっかく連れてきたのに。まぁ、旦那はむこう育ちはこりごりだよなぁ」
「優李には優李の生活がある。だから帰すのだ、他意はない」
「ふうん、なんなら俺が嫁にもらってやるのに。お嬢さん、優李っていうのかい? 俺は白虎の神楽。ここで門番なんてしけた仕事をやってるんだ。しけちゃいるが、お役所仕事だから安泰さ。また会う機会があったらよろしくなぁ」
「はい、よろしくお願いします」
優李がぺこりと頭を下げると、神楽は人懐っこい笑顔を見せた。怖そうな顔をしているが優しいあやかしなのだろうと優李は思う。人の世では誰かに好意的に話しかけられることがほとんどないので、神楽の態度に戸惑ってしまった。
「行くぞ優李」
「はい」
森の中は靄がかかっていて辺りの景色が全く分からなかった。右も左もわからなくなる。だが、那沙は迷うことなく進んでいく。優李がはぐれないよう那沙はゆっくりと歩いてくれているようだ。那沙の後についていくと、辺りはあっという間に見慣れた竜王山の景色にかわる。
「ここまで来ればもう大丈夫です。那沙様、本当にありがとうございました。なんとお礼をいったらいいか」
「那沙でいい」
「伯爵様を呼び捨てにするわけにはいきません」
「様などとつけられると俺が落ち着かないのだ。それに、礼などいらない。大したことはしていない。さぁ、行け、急いでいるのだろう?」
優李は後ろ髪をひかれる思いに必死に抵抗してうなずく。
「はい、な……那沙、ありがとうございました」
「優李、おまえの作る朝餉は美味かった」
「え?」
「なんでもない」
那沙の言葉に優李は少しだけ笑顔になる。それから大きく手を振って駆けだした。あまり立ち止まっているときっと離れがたくなってしまう。誰かに親切にされたのは久しぶりだった。会ったばかりの那沙と過ごしたわずかな時間が優李の中で光を放っている。両親と過ごしたころのような、懐かしい光だ。
「さようなら」
「あぁ、気を付けて帰れ」
那沙の姿はあっという間に見えなくなってしまった。家に帰りたくない。だけど、自分の家はあそこしかないのだ、帰るしかない。重い足取りで宿舎に帰ると、急いで着替えて仕事に向かった。
「おはようございます」
那沙のおかげで仕事の時間には間に合った。だが、優李の姿を見つけた礼子は眉を吊り上げる。珍しく礼子が早くから旅館の方に来ているので驚いた。いつもはお客さんの帰る時間にならないと姿を見せないというのに。
「優李! 夜中にいったいどこに行っていたんだい!」
「それは……」
「夜中に目を覚ました媛子がおまえが出ていく姿を見たっていうんだよ。媛子が心配だっていうから部屋をのぞいてみたらもぬけの殻だ。夜中に部屋から出ることなんか許した覚えはないからね!」
「すみません……」
「逃げ出そうとでも思ったんだろうけれど、おまえを泊めてくれる家なんかどこにもありゃしないよ。泥棒猫の子供なんかおっかない。何を盗まれるかわかったもんじゃないからね。まったく、あの母親にしてこの子ありだ。本当は遼一さんの子供じゃないんだろう、あの女、遼一さんの子供を身籠ったって嘘をついたのさ。おまえに遼一さんの力が受け継がれていないのが何よりの証拠だろう!」
優李はぐっと奥歯をかみしめる。自分のことはいわれなれている。だが母親のことを悪くいわれるのはいつまで経っても慣れない。
「私は父の子です」
「生意気に口答えするっていうのかい! どこの馬の骨とも知れない女の子であるおまえをこの家においてやってるだけでも恵まれてるっていうのにおまえは!」
礼子は優李のほほを叩き怒鳴りつけた。
「今日の風呂掃除はひとりでやりな! 朝の七時までに全部終わらせるんだよ、それから部屋の掃除にうつりな、いいね!」
「はい」
「わかったらさっさと行きな! 一秒でも遅れたら昼食はなしだ!」
優李が急いで大浴場に向かうと女湯から媛子が顔を出した。
「あら、これからお掃除? 私、これから使おうと思っていたの。男湯の方からやってちょうだい」
「わかりました」
男湯の方から掃除を始めるが、ひとりでやるにはあまりに広すぎる。ひとつひとつお湯を抜いてどうにか掃除し終えるともう一度女湯を覗いた。まだ媛子が入っている。仕方なく声をかけることにした。
「媛子さん、そろそろお掃除を始めてもいいでしょうか?」
「あら、そんなに急がなくてもいいでしょう?」
「七時までに終えなければいけないんです」
「そう、仕方がないわね。少し遅れたって大丈夫よ、お母さんには私がお風呂を使ってたって話してあげるから」
媛子が出ていくと急いで掃除を始める。手際よく終え、無事に七時までに掃除が終わると優李はほっと胸をなでおろす。続いて部屋の清掃をしていると、礼子が大きな声で優李を呼んだ。
「優李! 男湯のお湯が全然入ってないじゃないか!」
「そんなはずはありません、ちゃんと栓をして入れました」
「また口答えするつもりかい、そういうなら見ておいで! 湯なんか一滴もありゃしないよ。もう一度ちゃんと湯を張って、お客さんにはしばらくは入れないと謝るんだよ、全部おまえ一人で! 栓をし忘れたっていうんならその分の水代も支払ってもらうからね!」
礼子の指示にうなずきつつ、やはりおかしいと首をかしげる。
「お母さん、そんなに優李ちゃんを怒らないで上げて。慌てていたのよ」
「だからって栓をし忘れるなんて間抜けにもほどがあるだろう、本当に使えない娘だ」
「お母さん、優李ちゃんだって一生懸命なのよ。少しドジなだけで」
実際に男湯に行ってみると、入れていたはずの湯は一つも入っていない。栓が綺麗にはずれている。
「どうして、ちゃんと栓をしてから入れたはずなのに」
慌てて湯を張る用意をしてから、受付に立ち宿泊客一組一組に丁寧に説明し、謝っていく。目の端で媛子がにやにやと楽しそうに笑っているのが見えた。
まさか。
いや、証拠など何もない。仮に媛子の仕業であったとして、媛子を糾弾できるわけもない。優李は小さくため息を吐くときっと口を引き結ぶ。心は平静に保たなければいけない、泣いてはダメだ、泣けば媛子の思うつぼだ。
媛子は他の従業員には愛想がいいだけに余計に始末が悪かった。みんな温和で優しい媛子が陰で優李をいじめているなどと考えもしない。媛子は表むき優李の擁護をしてくるのだからなおさら質が悪い。
女学校が長期休暇に入り、また朝から晩まで媛子のおもちゃにされなければいけないと思うと気が重かった。例年通り、媛子は優李の仕事の邪魔をしては礼子に叱られる姿を楽しそうに眺めるつもりだったのだろう。
辛くはない、泣いたりしない。何も感じないほうが生きていくのは楽だ。優李はその日も夜通し働くことになった。
「優李ちゃん、ちょっと探し物を手伝ってほしいのだけれど」
八月も半ばに差し掛かり、お盆の忙しさが過ぎたある日のこと、媛子は優李を呼び止めた。礼子に仕事をいいつけられたところである、本当ならば媛子の話など聞いている場合ではないが無視するわけにはいかない。
「何をお探しですか?」
「あのね、母屋の奥に蔵があるでしょう? あの中からお茶碗を取ってきてほしいの」
「蔵……ですか?」
「ええ、今度のお茶会でどうしても使いたいものがあって、探してきてほしいの。本当は自分で行かなくちゃいけないんだけど、これからお琴のお稽古があって探しに行く時間がないの」
媛子の言葉に優李はうなずくしかなかった。内心行きたくない、蔵には子供のころに何度も閉じ込められたことがあって苦手なのだ。
「ごめんね優李ちゃん、じゃあ私は行くから、あとはよろしくね」
ひらひらと手を振って笑顔で去っていく媛子の背から視線を外して、優李は蔵へと向かう。宿の敷地内にある本家の母屋の奥には立派な蔵があった。両親とここに来た時に閉じ込められたことがある。思い起こせばあれも媛子が関わっていたのかもしれない。昼間でも真っ暗な蔵の中で誰にも気がつかれず、泣きつかれて眠っていると母が見つけ出してくれた。母は優李を見つける名人だった。隠れんぼをしてもすぐに見つけられてしまう。あれも母があやかしであることが関係しているのだろうか。
「どこだろう、急いで見つけなきゃ」
ランタンを持って広い蔵の中を探していると、バタンと扉が閉まる音がした。
「閉まった? どうして!」
慌てて入口に戻ると扉がピタリと閉まっている。おかしい、ちゃんと閉まらないよう、錘で扉を開けていたはずなのに。しかも外から閂をかけられたようだ、厚い鉄製の扉はびくともしない。悪いことは重なるものだ、その上ランタンの油も切れ、辺りは真っ暗になる。恐怖が膨れ上がった。
「誰かいませんか! 開けてください!」
「優李ちゃん」
扉の向こうから、媛子の声がした。
「開けてください媛子さん……」
「嫌よ。大丈夫、あなた一人いなくったって旅館はちゃんと回るわよ。なんの役にも立たない厄介者の分際で、役に立ってると思わないでちょうだい。お父さんやお母さんだって、優李ちゃんが可哀想だから仕方なく置いてあげているんだから」
媛子の言葉に優李はいい返す言葉を持たなかった。
「じゃあ、少しそこで反省していてね優李ちゃん」
「待って! 待ってください、ここを開けて……!」
「優李ちゃん、あなたなんかいなくなったって誰も気にかけないの。そのことをよくわからせてあげる」
くそういって媛子はくすくすと笑った。
「お願いです、開けてください!」
媛子の気配が遠のく。声を出したところで誰もいないことは子供のころに実証済みだ。蔵がある場所にはめったに人など来はしない。
「どうしよう……」
奇跡的にここを誰かが通りかかるのを待つしかない。優李はこぼれそうになる涙をぐっと飲みこんだ。蔵の中は暑くて湿度が高くじめじめとしている。居心地が悪い。
「泣いたらダメ、絶対に泣かない」
広い蔵の中に優李のかすかなつぶやきが響いた。自分の声があまりに弱弱しくて余計に悲しくなってくる。広く暗い蔵の中は優李をひどく不安にさせた。
「那沙……」
あれから考えないように努めていた名前を思わず口にする。誰かに頼れると思わない方がいい、それはひとりこの町で暮らしていくうちに優李が学んだ処世術だった。頼って裏切られたことは数知れない。みんな、優李が父を奪い取った母の子であることを知れば手のひらを返したように冷たくなった。
那沙を呼ぶ声が闇に溶ける。余計に物悲しくなり、優李はついに一筋の涙を流した。