危ないところだった。 
 送り犬の爪が那沙の着物を切り裂いたときハラハラと金色の砂が落ちてきたのだ。驚いた送り犬は慌てて那沙から飛びのき、自分の周りにまとわりつく金色の砂に目を白黒させていたのだ。その隙に逃げてきた。
 あれは、何だったのだろうか。とにかく助かった。あのまま掴みかかられていたらいくつか傷を負ったかもしれない。
 那沙は旅館を離れ帰路についていた。今夜の一件で、送り犬は那沙に反感を抱いたことだろう。みすみす自分に夢ごと取られるくらいなら、能動的に動いてやろうと思うことを那沙は期待していた。一種の賭けに近い。だが、ひとつ気になることがある。罠にかかりこの世に未練が残ったとして、たかが子犬、人に憑りつくほどの力を持っているとは考え難い。おそらく裏に何かある。あの子犬、生前何かしらのあやかしに接触していた可能性がある。
「あの人間、獣医といったな」
これまでも多くの動物の命を救ってきたのだろう。その中に、獣の姿をしたあやかしがいた可能性もある。
 優李に接触していたあの猫……。これ以上優李に危害を加えなければいいが。とにかく、できる限りの布石は打った、六花の依頼は問題なく遂行できるだろう。
明け方那沙は竜王山の中腹にある屋敷に戻った。腕が出迎えてくれる。
「優李様はお眠りになられました。那沙様のお帰りを待って遅くまで起きていらっしゃったのですよ」
「そうか、早く眠ればいいものを」
 ほんのわずかな時間であっても優李に会いたかったと思う。優李との過ごす時間は那沙にとって何ものにも代えがたいものになってきている。
 優李に執着し始めている、おかしなことだ。優李には半分も人間の血が流れているというのに。
 俺は優李を金華猫のもとに帰せるのか。優李がそれを望むなら手放さなければいけない。だが、もしも俺と一緒にいたいと少しでも考えていてくれたら……。
 期待してはダメだ、と那沙はそんな思いを退ける。 
「けなげなお方です。那沙様にお世話になっているからといろいろと返したい気持ちが強いのでしょう。一生懸命にあなたの無事を祈っておりましたよ。仕事がうまくいくようにと。那沙様、あまり恩を売るものではありませんよ。お父様のことをお忘れになられたわけではないでしょう」
 腕が険しい表情で諭してくる。恩を売っているわけではないのだか……。
「恩を売っているつもりはない。それに、優李はあやかしの世にも適応している。どちらでも生きていける」
「でしたら、本当に優李様を伴侶にお迎えになるおつもりですか。金華猫のご息女をお迎えになるなら、それなりに段取りを踏みませんと。それには時間がかかりますから」
「それは優李次第だ」
「那沙様はどうお思いです。私が見たところ、優李様は那沙様に大変懐いていらっしゃる。それはまだ恋心と呼ぶには早い気持ちかもしれません。ですが、このまま傍に置き続ければ、いずれ優李様は那沙様を今以上に慕うようになるでしょう」
「それはわからない」
「那沙様、はっきりなさいませ」
 腕が𠮟りつけるような静かな声を出した。幼い頃、両親に代わって那沙を育ててくれたのは腕だった。養父のようなこの鬼火のいうことを無下にはできない。
 腕は優李が以前妻に迎えることになった娘の二の前になりはしないかと心配しているのだろう。以前の那沙は仕事を優先し、私生活のことはいつもあとまわしにしてきた。前回の結婚ではそれがいけなかった。あの時は断るべきだったのだ。
「優李のことはちゃんと考える。母のようにはしない、絶対に。時が来れば関係は解消する」
 人の世で形式上婚姻を結ぶことにしたとはいえ優李はあの娘と違う。優李はすでにあやかしの世を知り受け入れている、大丈夫だ。そう思っているが、目の前の老爺は難しい顔をしていた。
「那沙様、もっと自分の感情を大事になさいませ」
 苦い顔をしてつぶやいた老爺の言葉の意味を、那沙は解せなかった。